全学共闘会議
全学共闘会議(ぜんがくきょうとうかいぎ)とは、1968年(昭和43年)ころの大学闘争・大学紛争の時期において、日本の各大学に作られた自由形態の学生運動組織である。全学連運動に結実する日共=民青が主張する学生自治会民主主義理念を「ポツダム民主主義」として否定し、戦う部隊=闘争委員会が結合していく全学共闘会議形式を提唱した結果であった。全学共闘会議は、既存の学生自治会とは別に、学部や政治思想の党派などを越えて作られ、精力的な学生運動を展開した。通常は略して全共闘(ぜんきょうとう)と呼ばれるが、全学闘(ぜんがくとう)という言い方もあった。また、個別の組織ごとに独自の呼称があることもあり、中央大学のものは「全中闘」と称した。
日比谷野音で結成された全国全共闘は、東大の山本義隆を議長とし、日大の秋田明大を副議長とした。山本は、運動収束後、駿台予備校講師として生計を立てていたが最近『磁力と重力の発見』の著書でその頭脳明晰ぶりを開示してみせた。
韓国の民主化・学生運動においては「チョンゴントゥ(全共闘の朝鮮語読み)のように闘おう」が合言葉になったと言われている。
戦後最大の学生運動
全共闘運動の特徴は、それまでの自治会運動である全学連を軸とした学生運動とはまったく異なり、単に政治的なものにとどまらず、精神的であり、また文化的でもあり感性的なものでもあった。ベトナム反戦と各大学の管理体制への反発の高まりの中で、運動は、セクトの予想を超えて、外部から見ればあたかも自然発生的に生まれたもののように見えた。非革マル系新左翼5流13派が流れ込んだ結果として、それまでのような核心的な党派を中心とした組織体が指導したものではなかった。この5流13派の周りに、組織や党派に属さない俗にノンセクト・ラジカルと呼ばれた学生たちも結集し、イデオロギーに制約されないアナキズム的な反逆、あるいは一揆的爆発と言ってもよい雰囲気がかもし出された。ブントを軸に、反スターリン主義派の革共同中核派や革マル派からソ連派の民学同、中国派の日本民族解放戦線や日共左派、構造改革派のプロ学同やフロント、反マルクス主義のアナキスト革命連合や無政府共産主義者同盟のアナーキストの各グループ、さらにベ平連なども参加して(東大においては創価学会系の新学生同盟も)一元的な指導もイデオロギーも存在しようもなかったのであった。しかし、すべてではないとはいえ各党派による組織化と指導争いが内部で激しく展開したことも否定出来ない。確かに、今までには参加しなかった一般学生もノンセクト・ラジカルとして参加させており、その点で、その運動の広がりや高まりも、それまでの学生運動とは比較にはないほど広範囲なものであったといいうる。 1969年(昭和44年)ごろには、東京大学や京都大学をはじめ、大阪市立大学、広島大学、九州大学、早稲田大学、慶応大学、法政大学、明治大学、日本大学、東洋大学、中央大学、同志社大学、立命館大学、関西大学、関西学院大学、など、日本の主要な国公立大学や私立大学8割に該当する165校が全共闘による闘争状態にあるか全学バリケード封鎖をしており、その規模は戦後最大のものだった。
展開
全共闘運動の中で代表的に語られるのは東京大学の全共闘と日本大学の全共闘だろう。東大全共闘は、日本の大学の頂点とされる東京大学の全共闘であり、全共闘運動の象徴的存在ともされたことは安田講堂攻防戦が示していよう。それに対して日大全共闘は、政治的には無風である日本一のマンモス大衆大学とされていた日本大学だったことが、例えば日大初めてのデモである「二百メートル・デモ」や、35000人の学生が集まった両国講堂での大衆団交など話題を呼んだといえよう。
関西では学生運動の長い歴史を持つ京都大学の全共闘などが百万遍解放区闘争を行い、龍谷大学では本願寺解体闘争が、立命館大学の全共闘は「わだつみの像」を破壊し、戦後左翼(旧左翼)の護符ともされた反戦平和主義に対する批判の意志を示したとされる。
影響と終息
皇室所縁の学習院大学においても全共闘があり(赤線ゼットの革マルが学習院では多かった)、キャンパスでの集会の後、散らかったビラなどをきれいに片付けたことから、「さすがは学習院の全共闘は育ちが良い」と冗談に言われた。また俗に体育会系右翼の牙城とされた国士舘大学でも有志学生による運動が形成され、元憲兵下士官の教官に指導された学校側の体育会系の学生と対峙する全共闘側に陸軍士官学校出身の元将校の退職させられた教員が組するという光景が見られた。
さらに運動の広がりは危機意識を抱く一部の民族派右翼の学生たちにも影響を及ぼし、駒沢大学の全共闘には元日学同国際部長で、北方領土に日の丸を立てに行った者が合流し、 早稲田大学の全共闘には、全共闘" 昭和維新派 "と称する早大尚史会関係の者が極一部だが参加していた。早大全共闘は、解放派=反帝学評、ブント、黒ヘルが主流であり、それに中核派、アナキストが続き、さらにはべ平連から社青同協会派=反独占(赤松広隆)などが参加し取り巻くというのが実態であった。民族派右翼は、早大ではせいぜい数十人のごく少数派であったが、斉藤、森田必勝などの日学同、日本学生会議などを中心として生息しており、運動の高揚を受けて、正門前で右翼同士が日本刀と木銃で渡り合うというという小事件などを展開している。少数とはいえ早大の民族派右翼は反体制派の右翼の中では人員が多いほうであった。
一方、学校側が全共闘阻止のために所謂「白色バリケード」をしたのが、保守派の牙城を自負していた京都産業大学だった。
1970年代に入ると全共闘運動は全国的に終息しはじめ、1980年の時点において全共闘が存在し、学生会館を自主管理していた法政大学の場合などは、当時、しばしば「学生運動のガラパコス」「全共闘の生きた化石」と世間の間では言われていた。
その後
全共闘運動を担った者たちは、1970年代において大学院や大学を卒業するか、あるいは中退や除籍により大学を去り、それぞれ市民社会へ入っていった。しばしばそれはかつての転向と重ねられ、全共闘の転向というような批判的な言われ方をしたが、一部にはそうしたこともあり、その後、保守政治家や企業家、大学教授として成功した者もいるが、大半はそれぞれに紆余曲折があったようであり、簡単なレッテルでは語りえないだろう。
全共闘内部の世代格差
千坂恭二の全共闘論(『月刊VIEUS』講談社1993年)によれば、全学共闘会議の構成者には、大学院生から学部の下級生までがみられ、学生運動に対する意識や視点には、大学院生や学部の3、4年生と入学間もない教養部の1年生との間にかなり差違がみられた。大学院生や学部の上級生は、ある程度自我を確立した年齢で学生運動を行い、運動もまた反戦平和志向の最盛期だったが、教養部の下級生は、それより若い年齢で学生運動を行い、運動は革命戦争の軍事的志向となり、その中で自我の形成をしていったともいえた。このことから、大学院生や学部の上級生を「理想主義的でヘーゲル主義的、反戦青年的」とすれば、1年生などの学部下級生は「ニヒリズム的でニーチェ主義的、軍国少年的」であったとも考えることができると千坂は言う。
院生や学部上級生は運動が終わると古巣へ戻り、たとえば大学教員へと処世していったが、学部下級生は学籍抹消(除籍)などで路頭に迷い、各種の半ヤクザ稼業に従事するしかなかったと聞く。そこに院生・学部上級生の「昨日の世界の住人」性と、学部下級・高校生の「今日のフライコール」性の深淵があるとも言われる。
現在、マスメディアや出版物などで諸般の「全共闘論」などを展開しているのは、主に大学院生や学部の上級生の世代であり、そこには学部の1年生など下級生の世代のニヒリズムはあまり盛り込まれていない。前記の千坂によれば、俗に「全共闘世代」といわれるものに該当するのは主に前者、つまり当時の大学院生や学部の上級生であり、それに対して当時の学部の下級生や浪人、高校生は、全共闘の中でも運動の最前線におり、全共闘の上級世代とは内部的に区別され「バリケード世代」(突撃隊世代、前線世代とも)と表せるとのことである。
関連
外部リンク
- 時の過ぎ去るがごとく。全共闘&新左翼へのErinnerungen - 1968年(昭和43年)から1970年(昭和45年)の学生運動の映像がある。