苗木城
岐阜県中津川市にあった城
苗木城(なえぎじょう)は、岐阜県中津川市にあった日本の城。別名は霞ケ城。苗木藩の藩庁が置かれた。国の史跡に指定されている。
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![]() 大門跡より本丸を望む | |
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別名 |
霞ヶ城 赤壁城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 遠山正廉 |
主な城主 |
遠山氏 森氏 川尻氏 |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
遺構 | 石垣、堀、井戸、門部材 |
指定文化財 | 国の史跡 |
再建造物 | 天守建物(柱組) |
位置 | 北緯35度30分47.52秒 東経137度29分6.94秒 / 北緯35.5132000度 東経137.4852611度 |
歴史背景
築城背景
- 元弘年間(1331~1334年)遠山一雲入道、遠山景長親子が、高森山(現在の中津川市苗木町)に砦を築く[1]。
- 元弘~建武年間(1334~1336)の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築き宗良親王を迎える[2]。
- 文明5年(1473年)10月、小笠原家長と木曾家豊が伊那谷と木曽谷から東濃に侵攻する[3]。
- 大永4年(1524年)3月、小笠原定基の家臣高柴景長が神明神社(苗木字日比野)の造営を行なう[4]。
- 大永6年(1526年)に遠山一雲入道昌利が植苗木から高森山に館を移す[5]。
- 天文3年(1534年)、松尾小笠原氏の本拠松尾城が陥落、小笠原定基が甲斐の武田氏のもとに逃れる。
- 天文11年(1542年)11月、遠山景安が笠木社に梵鐘を寄進する[6]。
武田氏、織田氏、森氏の苗木城攻め
- 天文年間(1532年~1555年)に遠山正廉が高森に苗木城を築く[7]。
- 天文24年(1555年)、木曾氏が甲斐の武田氏に降る。
- 永禄3年(1560年)5月、苗木勘太郎(直廉同一人物説有り)が桶狭間の戦いに出陣する[8]。
- 永禄8年(1565年)苗木勘太郎の娘(織田信長の養女)が武田勝頼(武田信玄二男)に嫁ぐ[9]。
- 永禄12年(1569年)6月18日雲岳宗興大禅定門(遠山正廉)死去(高野山過去帳)[10]。
- 同年6月遠山直廉、広恵寺に禁制を下す[11]。
- 元亀3年(1572年)5月18日雲嶽宗高大禅定門(遠山直廉)死去(雲林寺過去帳)。武田氏からの指示により飛騨国益田郡竹原へ侵攻し三木氏と戦い大威徳寺を焼くが、その時の矢傷が元で後に死去したとされる[12]。信長の命令で遠山左近の死去により飯羽間遠山氏の遠山友勝が苗木遠山氏を相続する[13]。
- 同年12月、武田家臣秋山虎繁が上村合戦にて遠山景行、苗木勘太郎、串原右馬介経景、小里内記を破る[14]。
- 天正年間前半(1573年~1582年)、遠山友勝死去[15]。
- 天正元年(1573年)8月、木曾義昌が河折籠屋を攻め落とし、苗木を攻める[16]。
- 天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東美に侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、更に支城16箇所を全て落とす[17]。
- 天正3年(1575年)、織田信忠が岩村城を落とし、東濃諸城を奪還する[18]。
- 天正10年(1582年)可児郡の兼山城主であった森長可が苗木を攻める。
- 天正11年(1583年)兼山城主の森長可再び苗木地方を攻め苗木城が落城。遠山友忠・遠山友政父子は徳川家康を頼り浜松に走る。
苗木遠山氏の帰還
- 慶長4年(1599年)森氏 信濃川中島に移封される。川尻直次が苗木城主となり、城代・関治兵衛が城を守る。
- 慶長5年(1600年)遠山友政は徳川家康の命を受け苗木城を攻略奪回し、徳川家康から苗木領を安堵され、後に苗木藩が成立する。
明治以降
- 明治2年(1869年)苗木藩主の遠山友詳(友禄)が版籍奉還により藩知事となる。
- 明治4年(1871年)廃藩置県により苗木藩は廃藩となり、苗木県となる。
- 明治17年(1884年)7月7日華族授爵ノ詔勅により、遠山友詳(友禄)は子爵となる。
- 1981年(昭和56年)、国の史跡に指定された。
遺構
伝説
「赤壁城」の別名があり、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたと伝えられる。その理由については、木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまったという話が残されている。
また、中部日本新聞(後の中日新聞)夕刊に1960年代前半に掲載されていた「ふるさとの童話」という記事にも同じような物語が紹介された。苗木城は美しい白壁の城として完成したが、一夜明けると漆喰が全部落ちて赤土が露出している。何度塗りなおしても、朝になると同じことであった。殿様は、犯人を見届けてやろうと、一人で夜の天守閣で見張っていた。すると、夜空が掻き曇って雨風が出て来たかと思うと、恐ろしい大きな竜が現われ、熱い息を城に吐きかけると、たちまち壁が落ちてしまったという。
実際には、苗木藩が経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかったと思われる(幕末期に1万石で城持ちの藩は苗木藩のみである)。
脚注
参考文献
- 中津川市編『中津川市史(上巻)』中津川市、1968年。
- 高坂弾正「国立国会図書館デジタルコレクション 利仁流遠山2」『甲陽軍鑑』温故堂、明25,26 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明) 。
- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 巻第786、利仁流遠山」『寛政重修諸家譜』 1520巻、古典籍資料 。