八戸市中心市街地
八戸市中心市街地(はちのへしちゅうしんしがいち)は、青森県八戸市の中心市街地である。略称は中心街。八戸駅から東部に5キロ、本八戸駅から南部に500メートルの環境にあり、八戸市庁、商工会議所、銀行、小売業店舗、歓楽街がこの地域に集積している[1]。

(廿三日町から三日町方向を撮影)
概要
中心市街地は八戸市のほぼ中央のやや高台に立地し[2]、東北新幹線八戸駅から八戸線で二駅目、直線距離にして5キロの位置にあり、青森県南および岩手県北の約70万人を持つ商圏の中心となって発展してきた。
八戸市中心市街地のメーンストリートである三日町、十三日町、二十八日町(廿八日町)等の一帯は、行政、金融、商業等の機能が集積している。長横町周辺は、北東北随一の歓楽街として「秘密のケンミンSHOW」に登場している。また、八戸市の祭りである八戸三社大祭やえんぶりといった、北東北を代表する神事が行われている。このほかにも、南部道楽千年祭や、七夕祭り、市民と花のカーニバルなどのイベントが開催されている。
歴史
江戸時代 - 戦前
1630年(寛永7年)、西側の根城周辺の根城町から三日町・十三日町・廿三日町へ、東側の新井田城周辺の新井田町から八日町・十八日町・廿八日町へと八戸城(柏崎城の説もある)の下に移り、新しい城下町の町人町が東西に長く設けられた。1664年(寛文4年)、八戸藩初代藩の主南部直房が八戸城を正式に築城、八戸藩が始まり城下町として整備がされた。なお、この時整備された城や溜池は現在では三八城公園・八戸市庁・八戸市公会堂・八戸市美術館(旧八戸税務署)・八戸市立図書館(旧八戸市立長者小学校)・旧八戸市立柏崎小学校・長者まつりんぐ広場(旧八戸市立市民病院)・長根運動公園・本八戸駅といった施設の用地として利用されている。
明治・大正時代に大火で甚大な被害を受け(八戸大火を参照)、大火前の建築物はほとんど残らない状況にまでなった。一方、第二次世界大戦中の空襲は終戦によりかろうじて回避されたため、都市基盤は維持された。
戦後
第二次世界大戦後、アメリカ進駐軍の影響で1950年代前後に映画館やキャバレーが進出し、長横町や鷹匠小路(牢丁)の歓楽街が誕生した。また旧国道45号のうち、表通りと長横町通りを上り方向、裏通りと寺横町通りを下り方向として一方通行化が実施され、渋滞著しかった中心市街地内の交通円滑化が図られた[3]。
中心市街地の近隣に存在する長根地区では、旧八戸公園の施設であった八戸タワー[4]と八戸市児童遊園地[5]の跡地に、八戸市体育館と八戸市武道館が建設された。これにより、八戸市としては初めての総合運動公園の整備が図られていった(長根運動公園を参照)。
1964年(昭和39年)の新産業都市指定を契機に都市化が進展してからは、三日町、十三日町を中心に、県外資本の大型店が相次いで進出し、商業集積と商店街の街区拡大をもたらした。本八戸周辺の内丸から、番町、三日町、十三日町、六日町、中央通り、八日町、十八日町、朔日町、廿三日町、十六日町、荒町、寺横町、大工町、鍛冶町の各商店街からなる、県南地域を代表する商店街が形成されてきた。昭和50年代には、八戸市公会堂や八戸市立図書館、昭和60年代には八戸市美術館などの文化施設の集積も進んだ。
平成になると、中心市街地からの大型店の移転や、閉店が相次ぎ集客力が次第に低下する。1994年(平成6年)の三陸はるか沖地震により、中心市街地の商業ビル、八戸市役所、当時中心市街地近辺にあった八戸市立市民病院などが大きく被害を受ける。現在は表通り(国道340号、十三日町から八日町)の電線地中化が進められている。
商業施設立地の推移
ここでは、終戦から現在までの中心市街地の商業立地変遷について年表形式で記述する[6]。
- 1945年(昭和20年) - 1955年(昭和30年) 商店街の復興
- 1951年(昭和26年) 丸美屋デパートが十三日町で創業。八戸専門店会(11店)が結成。百貨店法に基づく商業活動調整協議会が結成
- 1958年(昭和33年) 丸美屋デパート増床計画発足、それに伴う増改築反対期成同盟が結成
- 1960年(昭和35年) 三萬商店の百貨店申請(2,300m2、商調協審議)
- 1964年(昭和39年) カネ長武田百貨店八戸店(青森市)が廿三日町に開店
- 1965年(昭和40年) - 1975年(昭和50年) 食品スーパー乱立による老舗の激減(中央スーパーは閉店、三萬商店はユニバースに業態転換)
- 1968年(昭和43年) 丸光八戸店(ビブレ、さくら野百貨店、9,759m2)が三日町に開店。緑屋八戸店(WALK、Rec.、3,200m2)が三日町に開店、大規模店舗商調協外
- 1969年(昭和44年) 丸美屋デパートが閉店、三春屋が買収
- 1970年(昭和45年) 長崎屋八戸店(9,337m2)が八日町に開店
- 1971年(昭和46年) カネ長武田百貨店八戸店が閉店(実質的に東北ニチイ八戸店、7,407m2として六日町に移転)
- 1978年(昭和53年) 丸光、三春屋の大幅増床
- 1980年(昭和55年) 花亀再開発事業(青森県第1号)のキーテナント、イトーヨーカ堂八戸店(14,215m2)が十三日町に開店
- 1985年(昭和60年) ヴィアノヴァ(12,645m2)が十三日町に開店[7]
- 1990年(平成2年) 長崎屋八戸店がラピアとして江陽地区に移転、ビルを県外資本の不動産が所有の後、田名部組が取得し再開発、閉鎖中
- 1996年(平成8年) 東北ニチイが撤退(実質的にイオンモール下田としておいらせ町に移転)、跡地には後にパチンココンサートホール八戸店が六日町に開店
- 1997年(平成9年) 八戸市立市民病院が田向地区に移転、跡地には後に長者まつりんぐ広場が立地
- 2003年(平成15年) イトーヨーカ堂八戸店が撤退(実質的にピアドゥとして沼館地区に移転)、ビルにチーノはちのへが開店
- 2007年(平成19年) Rec.が閉店、テナントはチーノはちのへに移転、互助センター江陽閣が取得し再開発、閉鎖中
今後も長根運動公園内の施設の移転が予定されており、中心市街地の見通しは依然不透明である。また、江陽閣による再開発において市主導で専門書を扱う店舗整備が検討されているが、専門書は文明の利器であり文化にそぐわないという観点から批判が上がっている[8]。
中心市街地活性化への取組み
バブル崩壊以後、中心市街地は大型店の郊外移転・進出・撤退、公共・公益施設の移転、モータリゼーションへの対応の遅れなどの要因により、空洞化が進行している。最近10年の人口を比較すると、市全体および中心市街地とも減少しており、また高齢化率の増加等もあり、中心市街地の商店数、従業員数、商品販売額、売り場面積ともに減少している。
その一方で、地場資本百貨店2店(三春屋とさくら野)がそれぞれ中合グループとさくら野グループという東北資本百貨店へ再編され、自己資本不足ないしは市内からの撤退が防がれてきたこと、駅ナカ・駅前への大型店の出店が比較的抑制されてきたこと、中心市街地が東西だけではなく南北にも広がり始端から終端までの距離が長くないこと、容積が過剰なビルの建設が推進されてこなかったことなどにより、過去100年の間概ね一定の地区形態のまま維持することに成功してきた。
現在では、2008年(平成20年)8月の中心市街地活性化基本計画の内閣府認定に対応して行政や市民、各関係者の間で協議・対策が採られ、マンション・ホテル・冠婚葬祭場・老人ホームの建設や、中心市街地地域観光交流施設(八戸ポータルミュージアム)開館といった動きが出てきている[9]。
再開発構想
1990年代より、八戸市の中心街再開発構想が持ち上がっていた。
1994年(平成6年)に三日町と番町にかかる大規模な商業施設の建設計画が持ち上がり、当時の構想は大型店やホテルを取り込んだ2.4haのビルを建設するものであった[10]。
しかしバブル崩壊による不況のため、核テナント誘致が困難な状況となった。さらに地区側は美術館等の公共施設を入居を希望していたが、当時八戸市では八戸市立市民病院の移転や清掃工場建設のために財政的な余裕がなかったため頓挫した[11]。
1999年(平成11年)に「三日町番町地区市街地再開発事業計画素案」が策定され、再び再開発ビル計画が浮上した。大型店・専門店・駐車場合わせて総面積8.2haの計画であった[12]。しかし、2001年にダックビブレが民事再生法の適用を申請したため、再び暗礁に乗り上げた。
現在ははっちの開館とさくら野百貨店八戸店の建替構想が別個に進められている状況であるが、模索は続いている。また地場資本による回帰が進んでおり、旧長崎屋ビルに田名部組が建て替えののち入居・開業する予定であるほか、旧マルマツビル・旧Rec.ビルの葬儀屋による買収・一体化、旧三元ビルの東北資本による買収・開業が進行している。さらに八戸市庁に至近の番町では官民両面からマンション建設もラッシュになっている。ただし、旧来の百貨店(三春屋とさくら野)・ファッションビル(ヴィアノヴァとチーノはちのへ)を主体とした編成には大勢において変化は無い[13][14][15][16]。
通りの名称
市日に合わせた数字の町名が多く、北の表通りのそれぞれの町と南の裏通りのそれぞれの町の数字を対にして合算すると必ず一の位が縁起の良い九になるよう設定されていた(廿八日町と廿一日町、十八日町と十一日町、八日町と朔日町、三日町と六日町、十三日町と十六日町、廿三日町と廿六日町)[17]。
表通り
江戸時代には表町(おもてまち)と呼ばれていた。八戸城下の中で町人町だった城下の北部地区で、表通りの両側に沿って東西に伸びる塩町・廿八日町・十八日町・八日町・三日町・十三日町・廿三日町・荒町・新荒町の総称として表町と言われていた。八戸市内で唯一、三車線が用意されている一方通行道路であり、国道340号のうち旧国道45号部分は電線地中化がほぼ完了しつつある[18]。
裏通り
江戸時代には裏町(うらまち)と呼ばれていた。八戸城下の中で町人町だった城下の南部地区で、裏通りの両側に沿って東西に伸びる下大工町(廿一日町)・十一日町・朔日町・六日町(肴町)・十六日町(馬喰町)・廿六日町(七ッ屋)・大工町(上大工町)の総称として裏町と言われていた[19]。
八戸中心街ターミナル
中心市街地に位置するバス停留所は行先や名称が異なっており、利用者からわかりにくいとの指摘があったことから、2010年(平成22年)4月1日より停留所名称を「八戸中心街ターミナル」に統一。旧称は副名称として供用を開始した[20]。同年10月7日より八戸中心市街地モビリティセンターが開設され、バスの案内等が行われている。
- 八戸中心街ターミナル1番のりば「三日町」ここは、高速バスの降り場にもなっている。
- 八戸中心街ターミナル2番のりば「八日町」
- 八戸中心街ターミナル3番のりば「中央通り」
- 八戸中心街ターミナル4番のりば「朔日町」
- かつては「朔日町(一松堂(いっしょうどう)前)」という名称であった(主に吹上経由として六日町交差点を左折する路線を中心に停車)。
- 八戸中心街ターミナル5番のりば「六日町」ここは、高速バスの乗り場にもなっている。
- かつては、「朔日町(ニチイ前)」→「六日町」であった。
八戸中心街における高速バスの乗り場は、十一日町→八日町(中央通り)→六日町へ、降り場は八日町→三日町(さくら野前)と移動している。
三日町交差点から当停留所の間の三八五観光の前には、路線バスの降車専用停留所がある。この停留所は、十鉄バスの三沢空港行きのバスの乗り場でもある。
このほか、主要停留所において待ち時間を知らせる電光掲示板の設置や、上限料金制の導入などが実施されている。
ギャラリー
出典
- ^ 広報はちのへ平成27年3月号(2月20日発行) No.1279
- ^ 津波避難ハンドブック
- ^ なお、現在は八戸バイパスが国道45号となっている。
- ^ 1968年(昭和43年)の三陸沖北部地震のために取り壊された。
- ^ その後、八戸市児童遊園地は新八戸公園に機能移管されている。
- ^ 都市機能の高度化と地域対応 - 八戸市の「開発」と<場所の個性> -
- ^ 都道府県・政令指定都市・市町村別SC
- ^ 八戸ブックセンター構想に賛否 - デーリー東北、2015年6月14日(47NEWS)
- ^ 都市機能の高度化と地域対応 - 八戸市の「開発」と<場所の個性> -
- ^ 八戸市中心街を再開発 - 東奥日報、1994年8月30日
- ^ 八戸市八日町番町再開発計画縮小 - 東奥日報、1995年5月25日
- ^ 事業化区域を2.2haに設定 - デーリー東北、1999年6月23日
- ^ 八日町地区優良建築物等整備事業
- ^ 番町ヒルズ
- ^ ライオンズマンション番町
- ^ ポレスターアーバンシティ番町
- ^ 歴史(城下町八戸)
- ^ 角川日本地名大辞典 2 青森県
- ^ 角川日本地名大辞典 2 青森県
- ^ バス停名「八戸中心街ターミナル」に統一 - デーリー東北、2010年2月16日
参考文献
- 高橋英博『都市機能の高度化と地域対応 - 八戸市の「開発」と<場所の個性> -』東北大学出版会、2002年1月。ISBN 978-4-92-508545-8。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店、1985年12月。ISBN 978-4-04-001020-5。
関連項目
外部リンク
- 八戸市中心市街地活性化基本計画 - 八戸市
- モビセン(八戸中心街ターミナルモビリティセンター)
- まちづくり元気サイト - 経済産業省 商務流通保安グループ 中心市街地活性化室/事務局