ソビエト連邦
ソビエト連邦(ソビエトれんぽう)は、正式名称をソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)と言い、1917年から1991年に存在した世界最初の社会主義国家。間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されている。ただし、ソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソ連共産党がすべてのソビエトを支配しており、一党独裁制の国家となっている(ただし、ソ連はレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握およびその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。
首都はモスクワ。国旗の赤は革命を、交差した槌(労働者のシンボル)と鎌(農民のシンボル)は労働者と農民の団結を、その上の五芒星は五大陸の労働者の団結を意味する。
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| 国の標語 : ロシア語: Пролетарии всех стран, соединяйтесь! (ロシア語: 万国の労働者よ、団結せよ!) | |||||
| 公用語 | ロシア語 | ||||
| 首都 | モスクワ | ||||
| 面積 - 総計 - 水面積率 | 解体前も第1位 22,402,200km² 約0.5% | ||||
| 人口 - 総計(1991年7月) - 人口密度 | 解体前は第3位 293,047,571人 13.08人/km² | ||||
| 成立 - 宣言 - 承認 | ロシア革命 1922年12月30日 1924年2月1日 | ||||
| 解体 | 1991年12月26日 | ||||
| 通貨 | ルーブル | ||||
| 時間帯 | UTC +3~+11 | ||||
| 国歌 | インターナショナル (1922-1944) ソビエト連邦国歌(1944-1991) | ||||
| ccTLD | .SU (解体後も使用) | ||||
国名
正式名称は、ロシア語: Союз Советских Социалистических Республик(Sojuz Sovetskikh Sotsyalisticheskikh Respublik; サユース・サヴィェーツキフ・サツィアリスチーチェスキフ・リスプーブリク)。略称 ロシア語: СССР(SSSR; エス・エス・エス・エール)。通称、ロシア語: Советский Союз(Sovetskij Sojuz; サヴィェーツキー・サユース)。
英語表記は Union of Soviet Socialist Republics 。通称 USSR。
日本語表記は、ソビエト社会主義共和国連邦。通称、ソビエト連邦(「ソビエト」は「ソヴィエト」「ソヴェト」とも)。略称はソ連、蘇聯。戦前はソ同盟と訳されることが多かった。ソビエトとはロシア語で「評議会」の意。固有名詞(地名)を含まない唯一の国名だった(ただし、連邦を構成する諸共和国名には地名が入る)。
歴史
ロシア革命
詳細はロシア革命参照
ペトログラードのデモに端を発する1917年の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収集のめどはついていなかった。同年11月コルニーロフ将軍のクーデターにより生じた隙をついて、レーニンが率いるボリシェヴィキは赤衛軍を用いてペテルブルクを掌握した。トロツキーにより赤衛軍から改組された赤軍はその後の列強による干渉戦争、シベリア出兵、内戦に勝利しロシアにおけるボリシェヴィキの支配を決定づけた。
1922年全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。
レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは政敵トロツキーの国外追放を皮切りに、反対派を徹底的に排除して一国社会主義路線を確立した。スターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には処刑や強制収容所での過酷な労働などによって、一説には1200万人以上の人が粛清されたとされる。
第二次世界大戦
ドイツにアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が台頭すると当初は独ソ不可侵条約を結んでいたが、1941年に独ソ戦いわゆる「大祖国戦争」が開始され連合国側として第二次世界大戦に参戦した。数百万人の死傷者を出す長く筆舌に尽くし難い困難の末に勝利した。
日ソ中立条約を結んでいた日本に対しては、ヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を破棄し、ソ連対日宣戦布告をし千島列島や南樺太、満州に侵攻した。この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続けた。また、その後の対応が後の北方領土問題、シベリア抑留問題の原因となった。
冷戦の開始
戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国にスターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義陣営に対抗した。
スターリンの死後新たな指導者となったニキータ・フルシチョフはスターリン批判を行い、その行過ぎた全体主義的独裁の政策を大幅に緩めた。しかしソ連が極端な警察国家、監視国家であることには変わりなかった。彼は食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結局はソ連は食料を海外から輸入しなければならなくなった。
アメリカとの間では直接戦争こそ生じなかったものの、有形無形の敵対行動や世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。特に限りない軍拡と、核兵器の開発競争は世界を核戦争の危機にさらすものだった(1962年のキューバ危機など)。その開発競争が如何に杜撰であったかは、後年のチェルノブイリ原発事故の経緯が物語っている。原子炉構造に問題があったにもかかわらず当初は運転ミスと断じられ、プリピャチ市民は放射線の恐怖をほとんど知らずにいつもの日と変わらずに日光浴や散歩をする人さえいた。
その後、フルシチョフに代わりブレジネフが指導者となると国内問題を放置することが多くなり、官僚の世襲化など体制の腐敗が進んだ。東側全体の経済が次第に沈滞していった。東欧のソ連衛星国ではスターリン批判以降しばしば改革共産主義運動や反体制運動が発生したが、ソ連はこれらに武力介入することがあった(ハンガリー動乱、プラハの春など)。
1960年代に入るとアメリカとの関係は多少改善が進んだ。しかし社会主義の純化を進めていた中華人民共和国との関係は逆に悪化した(中ソ対立)。
ゴルバチョフの改革とソ連の崩壊
経済的危機を打開するため1980年代後半からソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフの指揮の下でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進められた。これにより腐敗した政治体制の改革が進み、1990年にはこれまでの一党独裁制にかわって複数政党制と大統領制が導入された。
そして1991年3月17日には連邦維持の賛否を問う国民投票が行われ、投票者の約76%が連邦維持に賛成票を投じることとなった(バルト三国の様に独立志向が強い共和国では投票はボイコットされた)。その後新連邦条約に基づき連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編が行われる予定だった。しかしそれら改革路線がソ連崩壊に結びつくことを危惧した保守派のクーデターによって国家組織が崩壊、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を引責辞任し議会はバルト三国独立を承認した。
さらに同年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ共和国が独立して独立国家共同体(CIS)を創設、残る諸国もそれにならいCISに加入しソビエト連邦は完全に解体した。
政治
ロシア革命直後と末期を除くと、ソビエト連邦共産党による一党独裁制。民主集中制・計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、党官僚による抑圧的な体制であり、言論・集会・結社の自由は事実上なかった。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされていない体制となってしまっていた。
ことにスターリン時代は粛清によって、多くの人々が死亡し、スターリン主義のもと、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリン没後も国家反逆罪等で逮捕又は亡命を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が1997年に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。この中には日本人抑留者、亡命日本人も含まれているが、日本政府は謝罪や賠償を現行のロシア政府に求めようとはしていない。
なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首はソビエト最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。
歴代指導者
- ウラジーミル・レーニン (1917-1924)
- ヨシフ・スターリン (1924-1953)
- ゲオルギー・マレンコフ (1953)
- ニキータ・フルシチョフ (1953-1964)
- レオニード・ブレジネフ (1964-1982)
- ユーリ・アンドロポフ (1982-1984)
- コンスタンティン・チェルネンコ (1984-1985)
- ミハイル・ゴルバチョフ (1985-1991)
外交関係
詳細はソビエト連邦の外交関係を参照の事。
外交関係では、社会主義国(東側)陣営の盟主としてアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義国(西側)と対決(冷戦)していた。成立当初は孤立したが、独ソ戦で侵攻したナチス・ドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に東ヨーロッパ諸国を衛星国とし、東アジア、中南米、アフリカなどでも社会主義政権を後援し、アメリカや西ヨーロッパ諸国と対峙した。この冷戦はソ連末期のゴルバチョフ政権期に解消が宣言された。
中華人民共和国とは当初協力関係にあったが、後に領土(ダマンスキー島事件)や思想の問題から中ソ対立が起きて、関係が極めて険悪になった。
日本とは1956年に日ソ共同宣言を出して国交を回復したものの、日本はアメリカの同盟国であることや北方領土問題が解決されなかったために関係改善は進展しないまま推移。冷戦終結、ソ連崩壊を経た現在でも日本と後継国家ロシアの間には正式な平和条約の締結が成されていない。
軍事
アメリカへの対抗上、核兵器、原子力潜水艦、大陸間弾道ミサイルなどを配備し、強力な軍事力を保持していた。ワルシャワ条約機構の中心国となり、東ヨーロッパ諸国に基地をおき、ハンガリー動乱、プラハの春など衛星国での改革運動を武力鎮圧した。
しかし、こうした軍事力の維持は軍事費の増大をもたらし、国民経済を疲弊させた。また、1979年から10年続いたアフガニスタンへの介入は何の成果もなく失敗。ソ連の威信を低下させた。
ソ連軍の軍服については、ロシア・ソ連の軍服に詳細がある。
科学技術
航空宇宙技術では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた(宇宙開発競争)。ソ連は人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功、ユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行の成功、宇宙ステーション「ミール」の長期間に渡る運用の成功など、人類の宇宙技術に偉大な足跡を残している。
また、航空機でもミグ・イリューシン・ツポレフなどによって独創的な機構を持つ戦闘機・爆撃機・輸送機や旅客機が製造され、現在でも各国で使用されている。
しかし、一方ではそれが軍事費とともに国家の経済を疲弊させたほか、航空宇宙技術や重工業を優先するあまりに消費財の製造が後回しにされ、民衆を苦しめる結果になったのも事実である。また、チェルノブイリ原発事故に見られるように人命や健康、自然環境の保護をあまり考慮しない原子力開発や工場の建設などが行われた。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な放射能汚染が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。
経済
詳細はソビエト連邦の経済を参照の事。
経済面では計画経済体制がしかれ、農民の集団化が図られた(集団農場)。1930年代に世界恐慌で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに高い経済成長を達成したため、欧米の知識人から理想の国家と見られたが、1960年代以降は計画経済の破綻が見え始め、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。
また、軍事に高い技術と莫大な資金が投じられる中、国民生活に必要な電化製品や消費財の開発と生産、物流の整備はおろそかにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であった。その為に闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、その様な中で共産貴族がはびこるという結果になった。
地理
ソビエト社会主義共和国連邦は世界一の広さを誇った国であった。西はノルウェー・フィンランド・ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニア、南はトルコ・イラン・アフガニスタン・モンゴル・中国・北朝鮮と接していた。
構成国
| 加盟年 | 国名 | ソ連解体後 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1922年 | ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 | ウクライナ | |
| 白ロシア・ソビエト社会主義共和国 | ベラルーシ | ||
| ザカフカス・ソビエト連邦社会主義共和国 | 1936年連邦解散 | ||
| ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 | ロシア | ||
| 1924年 | ウズベク・ソビエト社会主義共和国 | ウズベキスタン | |
| トルクメン・ソビエト社会主義共和国 | トルクメニスタン | ||
| 1929年 | タジク・ソビエト社会主義共和国 | タジキスタン | ウズベクから分割 |
| 1936年 | アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 | アゼルバイジャン | ザカフカスを解散 |
| アルメニア・ソビエト社会主義共和国 | アルメニア | ||
| グルジア・ソビエト社会主義共和国 | グルジア | ||
| カザフ・ソビエト社会主義共和国 | カザフスタン | ロシアから分割 | |
| キルギス・ソビエト社会主義共和国 | キルギスタン | ||
| 1940年 | カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国 | ロシアの一部とフィンランドの一部を合併。1956年ロシアの自治共和国に降格。 | |
| エストニア・ソビエト社会主義共和国 | エストニア | ||
| モルダビア・ソビエト社会主義共和国 | モルドバ | ||
| ラトビア・ソビエト社会主義共和国 | ラトビア | ||
| リトアニア・ソビエト社会主義共和国 | リトアニア |
長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、日本とは北方領土問題を持っていた。この問題はロシアになった今も続いている。またフィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。
なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が憲法で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた法律はなく、ゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、極めてハードルの高いものであった。このため、バルト三国は、連邦離脱法を無視し、1990年に独立することになる。
また、国際連合(国連)にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ、白ロシア(現・ベラルーシ)が独自に加盟したこともあった。
文化
言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には亡命を余儀なくされるものがいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。一方でバレエなどのロシアの伝統的な芸術は高い水準を維持し、クラシック音楽でも、当局による制限を受けながらショスタコーヴィチらが作品を残し、ムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団などが名演奏を残している。
また、スポーツでは国の威信をかけた強化策がとられ、いわゆるステート・アマチュアと呼ばれる選手がオリンピックで数多くの栄冠を手にしている。