ノート:地動説
地動説
迫害のくだりは有名なエピソードですが、内容に自己矛盾を含むのであえて記事内には書きませんでした。追記されているので、この部分の問題点を列挙します。
コペルニクスが1514年ごろに地動説を立てたが、正式な発表を長年ためらったという逸話は有名で、これが迫害を恐れたからだ、といわれることがあります。ただ実際には間違ってたら馬鹿にされるのが怖かったんじゃないかという説もあります。
ただし、コペルニクスはその説の概要を数ページにまとめ(面倒な天体計算を抜いたバージョン)、これが手書きで流布していたので、かなり大多数の天文学者はコペルニクス説を知っていた、とされています。当時は天文学者は数が少なかったので、一つの国に3部も出回れば、国じゅうの全部の天文学者が知っていたと考えてよいような時代です。
マルチン・ルターがコペルニクスのことを指して「この馬鹿者は地球をひっくり返そうとしている」と言ったという逸話は有名ですが、ルターはプロテスタントで、コペルニクスはカトリックです。そもそも宗派が違うので迫害になりません。ルターはカトリックのものなら何でも(というと御幣がありますが)批判したので。
また、「天球の回転について」には、ローマ教皇パウロ3世への献辞がついています。当時、献辞を書くには相手の許可が必要でしたので、コペルニクスは相当な努力をして献辞を書く許可をもらったんじゃないかと思います。以後、カトリックはこの説を批評しません。というか、ローマ教皇への献辞がついた本を批判することは、カトリックの聖職者にとっては事実上できません。
また、「天球の回転について」には、「純粋に数学的な仮定である」という無署名の序文がついています。これは、迫害を恐れたためにあわててつけ加えられたらしいのですが、コペルニクスが書いたものではありません。プロテスタントの印刷屋が勝手につけたんじゃないか、という説が強いようです。
この後、コペルニクスが「天球の回転について」で算出した365.2425日という1年の長さは、グレゴリオ暦を決める基準として、ローマ教皇グレゴリオ13世の改暦委員会が使います。16世紀中は、コペルニクス説への批判はほぼないといっていいと思います。「計算は正しいが説は間違っている」とかいう批判をした天文学者はいますが。
1600年にジョルダノ・ブルーノが火炙りになります。これも地動説と結び付けられることが多いんですが、ブルーのが地動説について述べている部分はその著書では1行くらいしかなくて、どうもほかにカトリック教会を刺激する要因が多すぎたんじゃないかといわれています。
- ブルーノの異端宣告の主要原因は宇宙の無限性と多世界説です。地動説は関係ありません。Aphaea 13:46 2004年3月27日 (UTC)
1616年になると、突然、ローマ教皇が地動説を禁じますが、「天球の回転について」は、いったん閲覧禁止になったあと、純粋に数学的な仮定である、という但し書きを本文中につけて閲覧が再度許可されます。この本が禁書になったことはないようです。というか、以前のローマ教皇への献辞のついた本を禁書に指定することは事実上できないでしょう。
この禁令は、ガリレオ・ガリレイの活動を妨害するために、反ガリレオ派の学者たちが教皇庁にはたらきかけてそうなったんじゃないかと言われています。事実、ガリレオは裁判にかけられます。ガリレオはかなり敵の多い人だったらしく、よくよく見てみると、たとえばガリレオ以外に禁令を破って異端の判決を受けた、という学者もいないし、そもそも禁令自体がガリレオを陥れるための策略だったんじゃないか、という説は、(物証はないですが)信用してもいいかと思います。
あと謎なのは、ガリレオの「天文対話」が、正式な教皇庁の禁書目録に載ったのが何年なのか、いう記述がどこを探しても出てきません。どなたか教えていただけるとありがたいです。
地動説の書籍としては、ヨハネス・ケプラーの「コペルニクス天文学概要」が発刊直後くらいに禁書になってます。もっとも、全く実効性はなかったようです。そもそも宗教改革が吹き荒れる時代なので、カトリックの禁書になってもプロテスタントは読むのは自由でしたから当然でしょう。
記事よりノートが長くなりそうなのでいったんとめますが、 (1) ガリレオ以外に迫害を受けた者はいない (2) ルターはコペルニクスを迫害していないし、そもそも宗派が違う (3) ブルーノは関係ないっぽい (4) グレゴリオ暦改暦委員会はコペルニクス説「も」使った(他説でも計算をしてます) (5) 神聖ローマ帝国宮廷付天文学者ヨハネス・ケプラーは、禁書指定以外の迫害を受けていない。 (「神聖ローマ帝国」は、カトリックの国の集合体です。ただし、ケプラーはプロテスタントです)
それぞれの点を見ていくと、どうも、地動説そのものが迫害されたんじゃなさそうです。
迫害を恐れて、地動説を唱える天文学者がすぐには出なかった、という言われ方もされますが、実は大声で地動説が正しい、とか叫ばないだけで、地動説を使っていた天文学者はたくさんいました。有名どころでは、ケプラーの師メストリンで、天動説の教科書しか書かなかった天文学者でしたが、ケプラーには地動説を教え、さらに、自分の星表は地動説で計算してました。ただし、メストリンの星表が地動説由来だ、というのは、職業天文学者がよくよく見ないと分からないようなんですが。
そんなわけでご異議がなければ何日か後に「どうも迫害されてたわけじゃないらしいよ」くらいのことを本文に付け加えますので意見のある方はお願いします。(もちろん「迫害されていた」部分を消すことはしませんのでご安心を)
Modeha 08:08 2004年3月24日 (UTC)
- すげェ!「個人の研究発表の場でな・・・」かろうとそんなことどうでもいい。いままで曖昧だった知識分野に、新たな知を加えてくれてありがとう。百科事典は、こうでなきゃ!!
- 労作に拍手。個別の項目の教科書的説明じゃなく関連する人や事物を盛り込んだ記事は読みがいがありますね。アイザック・アジモフの科学解説の愛読者としてはこういう記事(+詳細なノートも含め)には大いに拍手を送りたいと思います。sphl 09:01 2004年3月24日 (UTC)
特にご異議がなかったようなので、「迫害はなかったのではないか?」の部分を付け加えさせていただきました。ヨシュア記のくだりは両論併記で箇条書きにするには少し長かったので、ほぼ同様の意味の文を付け加え、本文ではコメントアウトにさせていただきました。
念のため英語版も見てみましたが、地動説が迫害されたというふうに読めるくだりはありませんでした。ただし、英語版は今年の3月に編集合戦をやってるので(そこのいきさつはノートに書いてあったんですがよく分かりませんでした)、何らかの事情でこれに関する記述がはずされているのかもしれません。英語版では、ブルーノとガリレオの例だけが載ってました。また、英語版には、ブルーノが太陽は他の星と同じ種類の星だ、と述べたくだりが載っていましたので、これも一応日本語版にはつけ加えました。
けれど、「地動説は迫害されていたわけではない」ってのは、そんなにマイナーな説なんでしょうか? 少なくとも、私がはじめて唱えた説ではないんですが....。Modeha 14:33 2004年3月26日 (UTC)
地動説が迫害されていなかったという説には説得力があると思いますが、裁判の理由として使えたということは、迫害されていたとは言えないまでも、地動説がある程度問題視されていたということではないのでしょうか? カトリック教会は太陽が教皇の象徴だと考えていて、太陽が中心にあるという考えについては問題視せず、地球が動いているという考えを問題視したという説を読んだことがあるのですが。 教皇庁が1620年にコペルニクスの『天体の回転について』に対して訂正を求めたときには、宇宙の中心に関する記述より地球の運動に関する記述が問題視されたそうです。 コペルニクスはローマ法王に太陽中心説を講義して誉められ、公表するように頼まれたとも言われています。 コペルニクス出版を遅らせたのはスコラ派に批判されたくなかったからだとかガリレオはアリストテレスの説を間違いだと主張した為にスコラはの学者から批判されたとも聞いたことがあります。 専門家ではないので、自信はありませんが。 利用者:133.1.90.392004年3月29日
「反論」の中にこんな文が書いてあるけど…「(天体計算などを行っていない)ブルーノの説の中の天文学に関する部分で、教会を最も怒らせた部分は、太陽は、その他の恒星と同じ種類の星で、特別な星ではない、と述べた部分である。」これ読むと、やっぱり地動説も迫害されてたんじゃないの?って思ってしまうw 教会の立場は結局人間・地球・太陽を特別視する。たとえ教会が地動説自体を迫害していなかったとしても、教会は地動説やブルーノの太陽を含む、ある思想を迫害していたのでしょう。--HarpyHumming 03:50 2004年3月29日 (UTC)
無限・宇宙・一者
記事のほうがどんどん育ってなんだか百科事典の項目じゃなくて学術論文みたい.... で、ローマ教皇庁が1616年から1643年までの間、確かに地動説を迫害したのは事実です。が、それによって異端とされた人物は、ガリレオしかいないので、実質的にこの迫害は、ガリレオを迫害するための理由にされただけだと考えるのが妥当だと私は考えます。この項目を見て、「やはり地動説は迫害された」と思う人がいてもいいと思いますし、そのためにわざわざ両論併記にしてあります。どちらの主張が正しいのかは、この項目以外の学術論文などを見てご自分で判断してください。というと無責任のようですが、日本語版Wikipedia全体の方針がそういう方向のようなので。
ブルーノはいろんなことを言ったしやった人なので、ブルーノの言動に含まれる内容が全部異端の理由になるのなら、それこそ何でも異端になってしまいますが、直接の容疑には地動説は含まれず、
- ブルーノの異端宣告の主要原因は宇宙の無限性と多世界説です。地動説は関係ありません。Aphaea 13:46 2004年3月27日 (UTC)
だそうです。(日本語版Wikipedia ノート:地動説 の記事より)あと、ブルーノの太陽と、コペルニクスやガリレオの太陽は、位置づけが全く違います。ガリレオは、太陽が他の恒星と同等の星で、宇宙の中心にあるわけではない、とは言っていません。コペルニクスもそうです。(ただし、そう考えていた可能性はある、と言われています)地動説と無限宇宙論はこの際別だと思ってください。コペルニクスとガリレオの宇宙論では、宇宙の中心に太陽があって、その他の恒星は硬い球(天球)に張り付いています。ブルーノの宇宙は無限に広がっていて、その中に太陽と同じような大きさ、形の恒星が無数に浮かんでいます。
まとまらないのでこのへんでいったん止めますね。Modeha 14:07 2004年3月29日 (UTC)
もちろんブルーノは地動説支持なんですが、ガリレイが執筆禁止で済んでブルーノが火刑にあうのは、この宇宙観の相違にあります。ブルーノでは宇宙(ブルーノでは-プラトン主義では一般にそうですが-天体は有機体であり霊魂でありそれ自体が生物です)は中心をもたず、あらゆる天体は自由に運動します。これは中心としての神=受肉するキリストの必要性を認めないという教説に帰結します。また死は当時のカトリック教説で言う罰としての意義をもたず、万有の無限な生成の様態として解釈されます。これは神学の領域の問題で(ブルーノは最初ドミニコ会士として出発しました)「地動説」が迫害うんぬんとは次元の違う問題です。 地動説が罪状にいれられているかどうか、手元では調べられませんが、異端審問では過去の言動が細かく精査されますから罪状になっていても不思議はありません。がブルーノの告発ではエリザベス1世に詩を献呈した(=異教徒を讃美した)ことまで罪状にあげられていますから、そのことをもって「地動説迫害」というのは針小棒大の感ありと考えます。Aphaea 07:01 2004年4月3日 (UTC)
コペルニクスの著書の邦訳タイトルは、『天体の回転について』と『天球回転論』なので(どちらも同じ本の訳ですが訳者により書名が違う)、一応、私の書いた本文は、古くからある訳書で書名も有名な『天体の回転について』に直しておきました。ただし、後に出た『天球回転論』のほうが細かい詳細が載っていて分かりやすいです。また、ジョルダノ・ブルーノは項目が立ってないとそもそも話にならないようなので、スタブですが一応項目も立てました。ガリレオ・ガリレイも、少し細かく直しました。逆にうざくなっちゃったかもしれませんが。地動説の項目も、無限宇宙論との違いを書き加えたほうがよいのかもしれません。Modeha 10:46 2004年4月4日 (UTC)
グレゴリオ暦と地動説
- 天動説の破綻を(1)星図の正確さと、(2)ユリウス暦のズレで説明されていますが、これらは天文学が実用的な問題として当時注目されたということを示すだけで、天動説の破綻を示す理由にはなっていません。天動説の記事のほうの説明とも違います。
- コペルニクスの算出した1年の長さは、のちのローマ教皇グレゴリオ13世が1582年にグレゴリオ暦を作成するときにも参考にされた。
- との記述どおり「参考に」されたかもしれませんが、この改暦の中心的な学者はクリストファー・クラヴィウスで、彼は当時、地動説を信じてはいませんでした。彼が参考にした計算値は天動説にもとづくものであったはずです。
- 当時コペルニクスの説に追随した学者は居ませんでした。
- 最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子を除けばヨハネス・ケプラーだった。1597年、…
- とあるとおりですから。
- また、中国で1281年から使われた授時暦は、地動説と関係なく1太陽年をグレゴリオ暦と同じ365.2425日としています。すなわち、暦の問題に天動説か地動説かは関係ありません。Shinobar 2006年6月13日 (火) 14:13 (UTC)
クリストファー・クラヴィウスは、改暦委員会の権威付けのために半分名前を貸したようなもので、実際に改暦作業を行ったのはほかの委員たちだという説もあるようですが。改暦委員会自身も、1年の長さを計測していますが、その計測にはクラヴィウスは直接携わっていないと思いました。確かこれはまるまる1年かけて実際に計測したんじゃなかったかと思いますがすぐには文献が出てきません。また、1582年時点で教会側がコペルニクス説を弾圧あるいは明確に反対しているのならば、コペルニクスの値は使わないはずです。また、コペルニクスがその説を立てたのは、改暦問題が理由であることは、コペルニクス自身が言っています。「天球の回転について」の、教皇パウルス3世への献辞をごらんください。確か、コペルニクスは改暦委員会に誘われたこともあったはずです。実際にはコペルニクスの時代には改暦委員会は編成されませんでしたので、これは話だけに終わったはずですが。日時計があり、かつ、正確に動く機械時計があれば(こちらのほうが当時用意するのが困難)、当時でも、まるまる1年かければ1年の長さはある程度は正確に測定できます。コペルニクスもこの方法で1年を計っていたことは、オルスチン城に残された日時計で分かっていますが、それ以外に(太陽を計測するだけではなく)惑星の位置計算でも計算してほぼ同じ値になったということが重要なのではないですか?
実際には、コペルニクス説に基づいて計算された1年の値も、プトレマイオス説の学者が計算した1年の長さも両方を参照した上で、グレゴリオ暦の1年の長さは決定されています。改暦の話は、当時、コペルニクス説が広く受け入れられたという意味で書いたのではなくて、コペルニクス説やコペルニクスの値を教会が積極的に排除したわけではないという意味で書きました。少なくとも、意識的にコペルニクスの値を外して平均値をとった結果として365.2425日という値が出たわけではないはずです。 Modeha 2006年6月13日 (火) 14:48 (UTC)
- 回答ありがとうございます。コペルニクスの研究の動機に改暦問題があることは分かりました。当時の教会がコペルニクスに対して拒否的な態度ではなかったことも同意します。しかし、現在の記事は、それが天動説の破綻の説明のように読めます。私の論ではコペルニクスが1年の長さを正確に出したことは、地動説の優位を示す証拠にはなりません。Modehaさんには釈迦に説法ですが、惑星の位置のほうが重要なので、むしろそちらが説明の中心に使われるべきではないでしょうか。
- 天球儀というものがありますが、天動説によれば太陽はこの天球を連れて1日1回転します。これに黄道というものが描かれています。プトレマイオス的宇宙においては、太陽はこの黄道上12宮を365.2425日掛けて一巡します。
- 恒星と太陽、地球との関係では、この説明で何の不合理も生じません。厳密に言えば黄道は完全な円であるのに対し、実際は楕円軌道なので、一定速度ではありませんが、楕円軌道はケプラーにならないと発見されないので、プレトマイオスとコペルニクスの間に優劣はありません。グレゴリオ暦について言えば春分点から春分点までの一巡が関心であったので、途中の速度があまり問題ではなかったのですが。
- そもそも、1太陽年は計算するものなんでしょうか? どうやってやるのかは存じませんが、1太陽年の決定は観測によるしかないのでは。そのときに天動説と地動説のどっちを採っても結果は同じだと思います。すでに授時暦の例を出しました。改暦はコペルニクスの研究動機のひとつですが、グレゴリオ暦は地動説の成果ではないと思います。Shinobar 2006年6月14日 (水) 00:55 (UTC)
で、説明を書いていたらものすごく長くなってしまいました。で、定義としては、Shinobar氏のものは誤っていません。ただし、そのような測定を当時の技術でできたか、というと、また別の問題です。実際にやろうとすると、角度で1秒とかいう値を、時間で1秒刻みで計らなければならないという、当時の精度ではとても無理な相談です。そもそも、時間の1秒をはかれる時計が当時まだありません。また、計れたとしても、1年の長さは毎年変わりますので、数十年、数百年の平均を出さなければ意味はありません。(しかも、1年の値が年によって違うと指摘したのはほかならぬコペルニクスです)Shinobar氏の言い方ですと、東京から名古屋の距離を測るには、一直線上に巻き尺を置けばよい、と言っているのと同じで、あまり実現性がありません。で、実際にどう計るのかというと、東京から名古屋と富士山の成す角度を測り、名古屋から東京と富士山の成す角度を測り、三角測量で求めるわけです。今は宇宙体系の話で、別に2点間の距離の話じゃない、と言われそうですが、地動説は、宇宙論であるとともに、1年の長さを出すための測定方法でもあるわけなので、そこは関係があるのです。で、惑星の位置計算で、何故1年の長さが出せるのかというと、それは上記の富士山と同じです。地球を東京、太陽を名古屋、富士山を土星にあてはめてみましょう。Shinobar氏の方式は、地球と太陽「だけ」を使って、2点の距離を出そうとしています。そうする方法はないわけではない。えんえんと巻き尺を並べれば計れます。しかしその方法ではよい精度で値が出ません。そこで、地球から、太陽と土星の方角を計ることによって、三角測量でより厳密な値を出すことができます。実際には、伊豆大島(火星)などのほかの地点(惑星)との角度も出すことによってより厳密に計れます。
で、実際に使われた1年の出し方は、簡単に書くと、1000年前の学者が出した春分の日付と、当時の観測で出した春分の日付を比べるという方式でした。少なくとも、コペルニクスはこの方式を使いました。春分が昨日でも明日でもなくて、今日だったらしいというくらいなら、1000年前でも2000年前でも測定可能です。西暦139年の学者(プトレマイオス)が、秋分は9月25日だ、と書いていたのが分かって、西暦1515年に(コペルニクスが)測定し直したら、春分が3月13日だったとしたら、1年の長さは、365.25日よりも、12/1376 日短い、と推測できます。コペルニクスも当初この方式で1年の長さを365.2425日と出し、その後、惑星の位置計算から365.25671日という値を出しています。後者は今では恒星年と呼ばれる、別の種類の1年です。ただ、コペルニクスの時代は、2種類の1年があるというのはあまりはっきり知られていませんでした。(一応、ヒッパルコスが紀元前に言及はしていますが、それが天文学者の常識になっていたかというと別です)コペルニクスは、1年は2種類あるらしい、というのと、1年の長さは変動するらしい、というのを述べています。改暦に必要な1年の長さは、恒星年ではなく平均太陽年のほうなので、結局、惑星の位置計算で出した1年の値はそのままは使えなかったのですが、コペルニクスの恒星年の値は30秒しか誤差がない正確なものです。(太陽年のほうは46秒ずれ)結局、改暦に使おうとして、別の種類の1年を計っちゃったわけですが、動機として改暦問題があったことと、春分回帰で1年を測定するのは精度的に困難だったこと、結局、惑星の位置を元に、それなり以上に正しい1恒星年の値を出せたのだから、今の記述はそれほどまでには間違ってはいないと思います。この記事は、少なくとも今の版は、地動説の成果としてグレゴリオ暦があるという書き方にはなっていません。グレゴリオ暦策定のための1年の値として参考にされたという書き方になっています。『暦をつくった人々』デイヴィッド・E・ダンカンあたりにこのへん詳しい話が出てるのでそっちも見てください。Modeha 2006年6月14日 (水) 13:31 (UTC)
- 恒星年の計算法はよく分かりませんが、ご説明で雰囲気は掴めました。しかし、太陽年の計算法は、けっきょくのところ、春分点から春分点までを1000回まわるのに何日掛かったかを計測したというご説明ではないですか?
- 現在の記述で私が問題としているのは、天動説の破綻の説明に太陽年が使われていることです。
- プトレマイオスの説では、1年という単位は宇宙の動きの中には存在していなかったのである。太陽は1日かけて地球の周りを公転する。夏と冬は太陽の軌道が変化することにより季節が生じる。プトレマイオスの説明はこうだった。これではこの体系の上で、季節に基づく1年の長さを決定することができない。
- さきの天球上の黄道が季節もちゃんと説明しているではありませんか。太陽が天球上のどこに位置するかによって太陽の南中高度が決り、昼間の長さも決まるのですから。1年の長さの定義は何度も述べているとおり、太陽が天球上の春分点から春分点までを周回する時間であり、それは観測により決定されます。Shinobar 2006年6月14日 (水) 14:31 (UTC)
だからそれは定義であって、その部分に地動説も天動説も入り込む余地はありません。コペルニクスが春分回帰の周期をはかったからといって、それは天動説を唱えたことにはなりません。そして、その定義に基づいて1年を決定する測定は、当時の観測技術では(1年では)困難です。で、天動説では、定義以外の方法で1年を測定する方法がありませんが(正確には、恒星の特定の位置を1年後に計れば理論上は測定できますが、秒単位で動く精度のよい機械時計がないと無理です)、地動説では別の測定法があり、その測定法さえ使えば、人が一生で観測する結果くらいの値があれば、ある程度は正確に1年が(恒星年ですが)決定できる、という意味です。ちなみに、プトレマイオスの出した1年の値は、6分27秒ずれていて、精度的にも相当難がありました。太陽の軌道が季節で変化して、元に戻るまでが1年というのは直接は書いてないですが記事内で少しふれてあります。それとも、この基準では、厳密な1年の測定は技術的にできなかったというふうに書き換えますか? Modeha 2006年6月14日 (水) 15:01 (UTC)
- Modehaさんと私の一致点を確認しましょう。
- 太陽が春分点から春分点へ一巡するのが1太陽年である。地動説と天動説に関わらず、この定義あるいは概念は存在する。
- プトレマイオス的宇宙にも季節と1太陽年の概念および説明は存在する。
- 上記概念にもとづく1太陽年の長さの決定は地動説を採るか、天動説を採るかに関わらず、長期の観測によって行われた。
- グレオリオ暦の作成に、コペルニクスの計算結果も参考にされた。
- コペルニクスがもし居なくてもグレゴリオ暦の作成は可能だっただろう。
- 私が問題にしているのは、改暦が天動説の破綻の説明に使われていることです。
- 天動説の体系に…なかなか破綻は訪れてこなかった。それが明確化するのは、大航海時代である。…さらにもう1つの問題が生じつつあった。1年の長さが、当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのである。…プトレマイオスの説明はこうだった。これではこの体系の上で、季節に基づく1年の長さを決定することができない。
- Modehaさんは、プトレマイオス的宇宙にある黄道を、無視あるいは軽視されていないでしょうか? それはさておき、天動説の記事は惑星の運動を主に解説しています。地動説の記事も視点をそちらに置いて解説されるべきではないでしょうか? 私にはよく分かりませんが、Modehaさんは、コペルニクスの重要な成果は恒星年の測定法であると力説されておられるようです。それならば、記事もその観点で書かれてはいかがでしょうか? 専門的に過ぎる解説は望みませんが、本質を踏まえた解説ならばむしろ理解しやすいはずです。私には現状の記事によって天動説の破綻や問題点は理解できません。 Shinobar 2006年6月15日 (木) 01:23 (UTC)
だから、天動説では1年は定義できても当時の技術では実質的に測定できないのです。1000年観測を続ければできますが。理論的には破綻がなくても、実質的に測定できないという限界を示してしまった以上、その体系が破棄に向かうのは当然です。それを言うなら、周転円を500個追加すれば、プトレマイオス体系でも全部の惑星の動きを無理なく計算できたかもしれませんが、当時の計算技術でそんな体系を作ったら、1年分の惑星の動きを計算するのに2年かかるとかいう事態が生じるでしょう。天動説の破綻は、理論内部の破綻ではなく、「実質的に意味のある惑星の位置予報、1年の値の計算ができなかった(それ以前の生活で役に立つ程度の値は提供できたが、16世紀の人類が要求する水準の精度の値を提供できなかった)」という、実際的な点で主に生じたわけで、別に新星が見つかったからとかそういう理由「だけ」で破綻したわけではありません。それと、何度も書きますが、グレゴリオ暦制定の際に、コペルニクスの値が参考にされたとは書いてますが、それが地動説の成果だとかいう書き方はしてません。あと、季節に基づく1年を決定できないのは、現実問題として事実でしょう。そこで書いている「決定」は、「定義」ではなく「測定」です。後段の「決定を含む部分を「これでは、1年を定義することはできても、当時の技術で厳密に1年の値を『測定』することは不可能であった」というような書き方に変えることも提案してますがそちらについてはどうですか? どうも、Shinobarは、理論内部に破綻がなければ破綻とは呼ばないというお考えのようですが、内部に破綻はなくても外部との食い違いから破綻が生じることはあるわけで、それは別段おかしいわけではありません。アリストテレス的な学問体系には、内部には破綻は生じなかった。プトレマイオスの体系もその中に繰り入れられています。ただ、その破綻は外部からやってきた。その破綻の1つが天動説の破棄であり、また、落体の法則の発見であったりするわけです。
いずれにしても、グレゴリオ暦との関連部分については、当時、ローマ教会が地動説を積極的に排除していなかった(もちろん、諸手を挙げて賛同もしていませんが)、ということを説明するために主に用いたもので、別に、「地動説の成果としてグレゴリオ暦が制定された」とは書いたつもりもないし、そう伝えるつもりもないです。ただ、地動説とグレゴリオ暦には全く関係がないと書いたり、あえて両者の関係の記述を消すのもまたおかしいでしょう。どういう書き方がよいとお考えですか?Modeha 2006年6月15日 (木) 12:40 (UTC)
- Modehaさんと一致できるだろうという点については既に示しました。次に、相違する点を書きます。
- 季節に基づく1年を決定できないのは、現実問題として事実でしょう。
- プレトマイオスの天球儀における黄道が季節も1太陽年という単位も与えております。
- (天動説は)理論的には破綻がなくても、実質的に測定できないという限界を示してしまった
- おおむね同意するのですが、実用上の問題として、航海術と太陽暦を例に挙げるのは適切ではありません。
- ユリウス暦が精確でなかったのは、プレトマイオスの宇宙観によるものではなく、グレゴリオ暦が作られたのは地動説の成果ではありません(この点は一致していましたね)。さきに授時暦の例を挙げましたが、正確には1199年施行の統天暦でしたね。地動説が無くとも1太陽年の精度は改善できました。当時のヨーロッパに話を限定して、地動説によらずともグレゴリオ暦ができたのであれば、天動説の限界は、ここには露見しなかったということです。
- 天動説の破綻は、理論内部の破綻ではなく、「実質的に意味のある惑星の位置予報、1年の値の計算ができなかった(それ以前の生活で役に立つ程度の値は提供できたが、16世紀の人類が要求する水準の精度の値を提供できなかった)」という、実際的な点で主に生じた
- 天動説の破綻は、理論内部の破綻ではないという点は同意します。「16世紀の人類が要求する水準の精度の値を提供できなかった」かどうかは分かりませんが、少なくとも航海術と暦に関して、当時の要求に答えられなかったとは思いません。プレトマイオスの宇宙観にもとづく天球儀と羅針盤を積んだヴァスコ・ダ・ガマ隊は、1522年に世界周航を果たしました。コペルニクスが『天球の回転について』を出版したのは、1543年だったかと思います。グレゴリオ暦がいかにしてできたかは、よくご存じのとおりです。1太陽年を測定するのに1000年掛かるというのを。コペルニクスは短縮したわけではないということもModehaさんのご説明により私は知りました。Shinobar 2006年6月15日 (木) 15:01 (UTC)
どうも、理論的な内容と、その理論が実質的に利用された場合についての話の違いをしているつもりなのですが、そこが分かっていただけていないようです。で、1年を計測するのに1000年かかる話ですが、実際にはそれ以前のアラビアの天文学者が、365.2422日に非常に近い値を出しています。ただ、その方法は分かりません。アラビア人がプトレマイオスを吸収はしても、天文学をそれ以上進化させることはしなかったらしい、という推測から考えると、同じように、数百年前の観測結果との比較で出したものだと考えられます。中国の暦の方もよく分かりませんが、何しろ中国のことですから、千年といわず二千年分くらいの春分の測定値がどこかに残っていて、それを元に厳密な1年が決定できたのかもしれませんね。で、中国はこちらにおいておいて、ここ(中世ヨーロッパ)で算出される(そして、コペルニクスも算出した)1年は、「平均太陽年」です。コペルニクスは、過去1300年の1年の平均値をとったわけです。ただ、コペルニクス自身は、1515年の長さと、1516年の太陽年の長さは違うらしい、と言っていて、それは事実です。Shinobar氏は、この定義さえあれば、1年は観測できると思っていらっしゃるようですが、1年の長さはコペルニクスが指摘したとおり、毎年変わります。もしその変化が周期的なものならば、1000年間の平均値で代用できますが、もし、1年がだんだん短くなっているとしたらどうでしょう。1000年前から今までの平均をとることは意味がなくて、今から1000年分の平均の1年を推算して、それを元に暦法を制定しなければ、今後1000年、使用に耐える暦は完成しません。そういう意味で、プトレマイオスの定義だけに基づく1年の算出は、改暦に耐えうるものだったとは言いにくいのです。
で、これ以上専門的な内容を書いても混乱するだけなので、要点をかいつまんで説明しますと、そもそも、コペルニクスが地動説を打ち立てた理由の1つに改暦問題があって、それは、コペルニクスの300年も前から聖職者たちが問題と考えていたこと、そして、1年の長さ(平均太陽年)を、精度よく測定することができなかったこと、が、地動説が出てきた理由の1つ(あくまでも1つであってすべてではないです)であるわけです。1000年観測を続ければ測定できるというのは上記のとおり詭弁で、必要とされる1年の長さは、過去1000年の平均値ではなく、今後1000年の平均値です。「では、改暦のために測定をしますから、1000年待ってください。1000年後には、ここ1000年の平均太陽年が出ます」ってわけにはいかない。そこでコペルニクスは、1年かけて1回公転する天体(地球)を設定し、三角測量でその天体の公転周期を求めたわけです。
そして、コペルニクスが打ち立てた地動説は、すぐに浸透というわけにも、改暦委員会が諸手を挙げて賛同、というわけにもいかなかったけれど、改暦の際に参考にはされたし、「1年の長さは変動するらしい」という事実については、改暦委員会自身が測定を行って、Shinobar氏の言うクラヴィウス自身も、その事実を確認しています。クラヴィウス自身は、頭がちがちのプトレマイオス信者だったというわけではなかったようで、プトレマイオスよりは目の前で自身の用意した測定器具が出した値のほうを信じる人だったようです。
で、何度も書いてますが、「季節に基づく1年を決定できないのは、現実問題として事実でしょう。」という部分にまた異議を唱えられていますが、ここで書いている「決定」というのは、「使用に耐えうる精度の測定」という意味です。プトレマイオス体系では、定義に基づく観測をしなければならず、しかも、その精度は、「3日観測を続ければ、たぶん、その中の1日が春分だろう」という程度の精度しかありません。プトレマイオス自体が観測に失敗しているくらいの精度での観測が、プトレマイオス体系の限界であったわけです。ただ、その程度の精度でも、1000年積み重ねて平均をとれば、平均太陽年は算出はできます。ただ、その平均太陽年が、今後1000年も使えるかどうかは分からない。だからこそ、コペルニクスは1年くらい惑星を丁寧に観測すれば恒星年が算出できることを示し、これを元に改暦を行ったらどうかと考えたわけです。
一方、改暦委員会自身は、1574年から1575年にかけて1年間測定を行い、それなりの精度の1年の長さを算出しています。ただ、これがどんな計測方法なのかはちょっと分かりませんでした。どっちにしても、コペルニクスよりは30年ほどあとの時代なので、何かよい測定法とかが見つかったのかもしれません。
何度も書きますが、「地動説の成果として、グレゴリオ暦がある」のではなく、くすぶり続ける改暦問題というものが地動説を生む原動力となった、(つまり、前後関係が逆です)そして、グレゴリオ暦制定時、改暦委員会は、コペルニクスに諸手を挙げて賛同まではしなかったけれど、「1年の長さは変動する」という事実と、コペルニクスの出した1年の値は参考にした、その程度にはコペルニクスは信頼されていて、当時、ローマ教会側が積極的にコペルニクス説を排除しようとは考えていなかった、というのが、今書いてある版の内容です。どちらにしろ、改暦の際にコペルニクスの意見や値が参考にされたというのは私の立てた説ではありません。もっとも、この1年の値は、アルフォンソ星表の値とほとんど同じなので、コペルニクスの値ではなく、アルフォンソ星表の値が基準にされた、という研究者もいますが、それはたまたまどちらの値も実際の値に非常に近い精度のよい値だったからでしょう。1mのものを権威ある過去の学者は99cm97mmと計った。別の時代の人は99cm96mmと計った。現代、この物体の長さは1mだと分かっているが、当時の委員会は99m97cmをとった。99cm96mmと出した人の値は顧みられなかった、といったら、それは違うでしょう。航海の話については、別に節を立てられたようなのでそちらに書きます。Modeha 2006年6月16日 (金) 14:12 (UTC)
- 統天暦については不明ですが、1281年の授時暦は1太陽年の長さが変化することに気付いていた。すなわち、それだけの測定法を得ていたようです。
- 改暦委員会自身も1年間測定を行なったこと、アルフォンソ星表もそこそこだったことなど、新しい知識になりました。いろいろお調べいただき、ありがとうございます。
- けっきょく、こういうことなんじゃないでしょうか?
- 16世紀、(天動説の問題ではなく)ユリウス暦の破綻が問題になった。(天動説にもとづく)当時の天文学の成果を動員してグレゴリオ暦が産まれた。コペルニクスも地動説にもとづく測定法を著した。その成果は改暦では重要な役割を演じなかったが、その後の天文学の発展に奇与した。Shinobar 2006年6月16日 (金) 14:57 (UTC)
惑星の位置と航海術
- 航海術と星図の記述ですが、自分の位置を正確に把握するのには(太陽と)恒星の位置が問題であって、惑星の位置は問題にはならないのでは? これもまた、天文学が注目された理由にはなっても、天動説の破綻の例にはならないのでは? Shinobar 2006年6月14日 (水) 03:09 (UTC)
別に節を立てられたようなのでこちらにも書きますが、大航海時代初期の遠洋航海の方法は基本的に同緯度航法です。簡単に書くと、北緯29度の○○諸島に行きたいという場合、北極星の高度が29度になるまで南下をし、そこからどんどん西に向かいます。そのうち着くだろうという適当な航法です。Shinobar氏の指摘は、正確な機械時計があれば成立しますが、それ以前の時代には成立しません。どうも、17世紀後半までは、まともな形で航海に使える機械式時計はなかったようです。精度の問題もありますし、振り子や棒テンプは揺れる船の上では使えなかった、という理由もあります。
それならば北極星だけが重要で、惑星などますます関係ないだろうというとそれほど事態は簡単ではありません。晴天時はそのとおりです。でも、曇りの日、うっすらと雲がひけてきたときに最初に(そして唯一)観測できるであろう星は、暗い(といっても2等星ですが)北極星ではなく、マイナス等級の惑星たち(そして月)のはずです。きちんとした天体暦を使えば、1つの惑星の位置観測から、見えない北極星の高度を計算することも、理論上は可能です。(もちろん、観測さえできれば、ほかの1等星でもよいわけですが)ただ、16世紀初頭の海の荒くれ男どもにそこまでの脳があったのかは不明です。さらに、南洋の場合は事態はより深刻になります。北極星が見えず、固定して観測すべき星は天の南極にはありません。そうなると、なおさら、緯度の決定には惑星の位置が重要になってきます。(正確には月でも何とかなりますが、月のない夜もあったでしょう)天球儀があれば何とかなるというのは事実ですが、そこまでの準備ができる船が一体どれくらいあったかというと、国家の威信をかけた大航海のような場合以外は結構怪しそうです。で、それ以前の遠洋航海は、沿海航行です。大陸を見失わないように、へりにそって進みます。喜望峰まわりのインド航路開拓とかもその方法で行われています。同緯度航法がないとどうしても無理というのは、ヨーロッパからアメリカ大陸方面に行く場合になりますね。で、航海の場合、1度の誤差がおよそ100kmの位置の違いに相当します。惑星の位置が5度違えば、500km離れたところに着いてしまう可能性もあったわけです。Modeha 2006年6月16日 (金) 14:10 (UTC)
- マイナス等級の惑星たちとは、具体的にどの星でしょうか? 金星や火星の動きはけっこう早いはずですが、その動きが、手もとの星図に記入されていたのでしょうか? 持っていたとすると、それは天動説にもとづくアルフォンソ星表だったと思われますが、それは地動説あるいはコペルニクスにより改善されたのでしょうか? それが地動説の成果ならば、それを記事に書いていただくと、納得しやすいと思います。 Shinobar 2006年6月16日 (金) 14:50 (UTC)
- すみません。記事に回答が書かれていましたね。
- コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』が作られたが、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説とたいして変わらなかった。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が使われ続けた。
- では、天動説の破綻と地動説の誕生の記述に、航海術が持ち出されている理由は?
- 暦と同じ状況だと思います。すなわち、天文学が注目される理由にはなっても、天動説破綻の説明にはなっていない。Shinobar 2006年6月16日 (金) 15:25 (UTC)
それ以前は惑星の位置が5度違ってても誰も死なずに済んだものが、大航海時代はそうはいっていられなくなった、つまり、天動説は、人類の要求する精度に追いつくほどの補正ができなかったということでしょう。それは暦法についても同じです。地動説に基づくケプラーのルドルフ星表が出ると、それまで400年近くも使われたアルフォンソ星表があっという間にうち捨てられて、ほんの数年で皆ルドルフ星表を使うようになったのだから、その部分の記述は特に誤ってはいないと思います。(別に私はコペルニクス一人が地動説を打ち立てて完成させたとはいっていません)そしてこの時代、人類の要求する精度にまでプトレマイオス体系を補正した人はいませんでした。Modeha 2006年6月17日 (土) 01:40 (UTC)
- 16世紀の人類が要求する水準の精度の値を提供できなかった
- それ以前は惑星の位置が5度違ってても誰も死なずに済んだものが、大航海時代はそうはいっていられなくなった
- 地動説に基づくケプラーのルドルフ星表が出ると、それまで400年近くも使われたアルフォンソ星表があっという間にうち捨てられ
- ヴァスコ・ダ・ガマはフィリピンで原住民との戦闘で死んでおりますが、部下は1522年に世界周航を果たしております。コペルニクスの書は1543年、ルドルフ星表は1627年です。
- ケプラーが使ったデーターは16世紀後半、天動説にもとづいてティコ・ブラーエが測定したものです。Shinobar 2006年6月17日 (土) 13:47 (UTC)
惑星の明るさ
- 天動説のほうの問題かもしれませんが、ここに纏めて提起しておきます。
- (天動説は)惑星の明るさの変化を説明することができない
- 天動説の周転円と従円の図を見ますと、惑星と地球の距離が変化していることが表わされています。これにより惑星の明るさの変化は説明できるのではないでしょうか? Shinobar 2006年6月16日 (金) 15:07 (UTC)
- 天動説は当時からおかしなところはかなり多く含んでいた。例えば、惑星の明るさの変化を説明することができない。
- プトレマイオスの説では、1年という単位は宇宙の動きの中には存在していなかったのである。太陽は1日かけて地球の周りを公転する。夏と冬は太陽の軌道が変化することにより季節が生じる。プトレマイオスの説明はこうだった。これではこの体系の上で、季節に基づく1年の長さを決定することができない。
- やっと私も気付きました。この2つの記述は、いずれもプトレマイオスの天動説ではなく、アリストテレスの天動説についての記述ではないですか?
- これらのアリストテレスの天動説に対して、プトレマイオスの天動説では、(1)に対して周転円が、(2)に対しては黄道の概念が導入されています。黄道と赤道の交点が春分点、秋分点です。
- ちなみに、黄道、赤道や十二宮などの概念は紀元前何世紀かの中国暦ではあったように思います。729年施行の大衍暦は、精密な観測にもとづき、太陽の黄道上の運行(十二宮の通過)が一定ではないことに気付いています。1281年施行の授時暦でも大規模な観測が行われましたが、その後何百年は観測なされず、明代後半にはイスラム系の回回暦が補助に使われたとあります。そのころまでにイスラム科学は天文、数学の分野でかなり進んでいたようです。(というか、それを学んだのが、ヨーロッパの科学ですが。)
- 1年の中での太陽の黄道上の運行速度が一定でないことは、プトレマイオスも気付いており、体系に組み込まれていたと思います。 Shinobar 2006年6月16日 (金) 22:58 (UTC)
等級がはっきり変わる惑星は、地球から近い金星と火星の2つです。特に、火星は衝の位置にあるときにもっとも明るくなり、それは、光を測定する器具のなかった中世でもはっきり認識できるほどでした。(ほかの外惑星も衝のときもっとも明るくなりますが)衝の位置にあるときは、太陽・地球・火星がこの順で一直線に並ぶときですが、プトレマイオス体系では、このとき太陽-火星-地球の距離がもっとも長くなってしまいます。太陽の光が反射して光っているのだとしたら、それはありえないことになります。もっとも、一直線上に並ぶときに常に距離が一番短くなるような周転円を設定できれば別ですが、衝なんて天球上のどこでだって起きます。少なくとも、そういう体系にはなっていないんでしょうね。それに、何故、5つある惑星のうち火星だけがはっきり分かるような形で明るさが変わるのか、何故土星はそれほど変わらないのか、というところにも、プトレマイオス体系では説明ができません。それは、コペルニクス説では「火星は地球に近く、土星は遠いから」と明確な説明ができます。
黄道12星座の設定者は、中国以前のメソポタミア文明だと推測されています。これがそのまま東に伝わったのが中国の十二宮で、西に伝わったものがエジプトを経てヨーロッパに伝わります。黄道などの概念も、メソポタミア人は持っていました。英語で夏至点のことをTropic of Cancer(かに座の点)といいますが、実際には夏至点はかに座にはありません。それはその後、歳差によって夏至点が動いてしまったためですが、じゃあ実際にかに座に夏至点があった時代はいつかと推定すると古代メソポタミア文明時代になるというのでたぶん間違いはないと思います。同様に、冬至点をTropic of Capricorn(やぎ座の点)と言いますが、もちろんこっちも同様にずれています。夏至点と冬至点の概念があったのだから、メソポタミア人も春分点、秋分点の概念は持っていたと考えるべきでしょう。(それに、夏至点から次の夏至点までを1年とするという定義を持ってもいいわけですからね)となると、どちらにしても、黄道、春分点等の概念は、プトレマイオス体系のものではないことになります。エジプトでは、シリウスを基準にした恒星年を暦に使っていましたが、1000年単位でシリウスの出る時刻がずれるので、多分、恒星年と回帰年が違うことは古代エジプト文明では知られていたはずです。また、ヒッパルコスも歳差に言及しています。ただ、それらの事実が、中世ヨーロッパの天文学者たちにきちんと認識されていたのかはまた別ですが。「ヒッパルコスはそう言ったというけど本当かなあ」くらいの認識だったとしたら、それは(改暦委員会のように)もう一度測定して「ほら本当に春分点は動いている」と認識し直す作業は必要でしょう。
で、「1年の中で太陽の黄道上の運行速度が一定でない」のと、1年の長さが毎年変わる(今年の長さと去年の長さが違うらしい)というのは意味が違います。いきなりその事実を出される理由もまた分かりませんが。Modeha 2006年6月17日 (土) 01:34 (UTC)
- 話の行き違いの理由がかなり分かってきたのですが、Modehaさんのプトレマイオスと、私のプトレマイオスが違うのではないですか?
- Modehaさんのプトレマイオスによれば、一年は太陽の南中高度の推移を測るしかなく、私のプレトマイオスは天球上の太陽の位置を測ります。惑星に関しても、Modehaさんのプトレマイオスは、奇妙なことを主張しているようです。私のプレトマイオスは「火星は地球に近く、土星は遠い」と説明しています。
- 私は専門ではありませんので、FNの高校物理を読んでみました。Shinobar 2006年6月17日 (土) 05:05 (UTC)
- FNの高校物理は、(アリストテレスの)同心球宇宙の矛盾を4つ挙げています。
- 惑星の明るさの変化を説明できない。
- 金星の留から留までの期間の順行時と逆行時の違いが同心球モデルでは説明できないくらい大きかった。
- 春分点→夏至→秋分点までの日数と秋分点→冬至→春分点までの日数が異なる。
- 日食の変化(金環食と皆既日食の違い)
- 逆に、これらはプトレマイオスの体系で解決されたということなのでしょう。私はそう理解しています。Shinobar 2006年6月17日 (土) 06:35 (UTC)
このサイトの説明はだいたい合っていると思いますが、これでは、木星が衝にあるときの位置関係で、明るさが一番暗くなってしまうという問題点は解消されません。このサイトの説明だと、太陽、木星ともに「12」の位置のときが衝ですが、太陽、木星ともに「8」の位置のほうが、太陽-木星-地球間の距離が短くなっています。なんだか、しきりに「コペルニクス説と等価」を強調しているサイトのようですが、金星についても、最大離角のときよりも外合のときのほうが「太陽-金星-地球」間の距離が短くなってしまっています。で、1年の決定のほうに戻りますが、「天球上」の太陽の位置を計測することは事実上できません。太陽そのものが明るすぎて、どの星座のどの位置にあるのかわかりません。当時は正確な機械式時計がありませんから、「今は午後1時0分のはずだから、太陽がこの高度にあるのなら、天球上のこの場所にいるはずだ」というのを正確に把握することはできません。また、春分点は、太陽の赤緯がマイナスから0になった瞬間ですから、春分点を計るのでしたら、どちらにしろその位置を計ることになります。いつのどの地点をどう観測すると春分を計ったことになるんですか? メソポタミアの時代から、春分は太陽の位置が天の北極から90度になった地点のはずで、春分を基準点にする限り、回帰年の定義もメソポタミア時代からかわりません。(そしてその決定法は、プトレマイオスよりも前の時代から変わらないし、また、現在でも変わりません)Modeha 2006年6月17日 (土) 11:16 (UTC)
- 引用サイトの図で位置を数字で表しているのは水星で、衝の位置は「0」ですが、この位置は地動説でも衝の位置です。ここを起点に引用サイトは説明を始めてます。
- Modehaさんは、内惑星について、衝にあるとき地球には近いのだが、影の部分が見えるために暗くなるという不思議を、地動説ならよく理解できると考えておられるようです。地動説の衝と(私の)プレトマイオス体系での衝とは、ともに、太陽─内惑星─地球という位置関係は同じで、地球と内惑星との距離の問題、地球からは影を見ることになるなど、まったく同じです。Shinobar 2006年6月17日 (土) 14:02 (UTC)
- 太陽そのものが明るすぎて、どの星座のどの位置にあるのかわかりません。
- メソポタミアの時代から、春分は太陽の位置が天の北極から90度になった地点のはず
- 星座との位置関係が分からないのに、天の北極との角度は測れるのですか? 赤緯は測れるけれど、赤経は測れないとおっしゃるのですか? では、どうして黄道や十二宮が決められたのでしょう? 中国暦やイスラム暦の例を出したのは、地動説によらなくても、それらの精密測定は可能だったということを言いたかったからです。1281年施行の授時暦で黄緯、黄経と赤緯、赤経の換算をしていたという記事はお読みですか? 赤緯、赤経、すなわち太陽と(北極星だけではない)恒星との視角度が正確に測れなくて、その変換も何も無いでしょう。
- そもそも、ユリウス暦の問題が露呈したのも、改暦委員会が1年間測定を試みたのも、プレトマイオスの天動説に支配されていた16世紀のヨーロッパでも、それが分かるくらいの精度で太陽の位置が測定可能だったということです。当時も太陽の南中高度を測ることで春分を決定していたと、お思いなのですか? プレトマイオスの精度をコペルニクスは越えることができなかった。飛躍的に観測精度が上り、ケプラーが楕円の発見に至るのは、ティコ・ブラーエのデーターです。ブラーエはプレトマイオスの体系にもとづいて測定をしております。もちろんコペルニクスの著作は知っていましたから、それも参考にしたでしょうが。Shinobar 2006年6月17日 (土) 13:12 (UTC)
星座との位置関係が分からなくても、天の北極との角度は出せますよ。一番簡単な方法は、コマ型日時計を設置することです。コマ型日時計の、表、裏、両面に心棒の影ができる日が分点です。天の北極の方向は、夜のうちに固定しておけばよろしい。それと、ティコの体系はプトレマイオス体系ではなく、ティコの体系ともいうべき独特のものです。中心には地球がありますが、その周りを、5つの惑星を従えた太陽がさらに回るという二重の中心を持つ独特のものです。ティコは、もし地球が公転しているのなら、恒星の位置がずれるはずだと考えて観測を行いましたが、そういう結果は出なかったので、地球を中心に持ってきています。ただそれ以外は実質的に地動説の立場の人です。それと水星の話をされていますが、水星に衝はありません。私が指摘しているのは外惑星の衝の位置なので、木星の位置関係で私の指摘した場所をもう一度ごらんください。Modeha 2006年6月17日 (土) 14:00 (UTC)
- 引用サイトの木星の図を見落としてました。私の答えは変わりません。衝の位置は「0」ですが、この位置は地動説でも衝の位置です。しかし、私のさきの内惑星についての議論に抜けがありました。内惑星の場合は地球、太陽との関係がプトレマイオスとコペルニクスで相違する場合があります。コペルニクスでは 内惑星━太陽━地球 の位置関係があり得ますが、プトレマイオスではあり得ません。したがって内惑星の満ち欠けについて、プトレマイオスで説明できない現象が起こります。英語版(Geocentric model)の金星の満ち欠けの図で気が付きました。
- 太陽高度の測定法に関しては分かりました。しかし、黄道十二宮をModehaさんがどう考えておられるかは、お聞きしたいところです。
- ティコが5つの惑星を従えた太陽というモデルを持って測定したとお考えでしょうか? ティコは従来の方法で精密な観測データーを集め、それを眺めていたら、5つの惑星を従えた太陽というモデルがうまく適合したというのが本当のところだと私は想像しています。ケプラーに関しても同じです。当時は地球から見える方向(恒星=天球との関係)しか測り得ないのですから、もともと天動説も地動説も関係ありません。Shinobar 2006年6月17日 (土) 15:58 (UTC)
地動説誕生の背景
私は未だにShinobar氏がこの記事をどうしたいのかがよくわかりません。どういう背景をもってコペルニクス説が登場してくるという主張をされたいのでしょうか? Shinobarの主張ですと、突然、16世紀にコペルニクスが何の時代的背景もなく突然、地動説を打ち立てたかのように見えますが、そう主張されたいのでしょうか? 哲学者とかでそういうことを言っておられる方はいらっしゃらないわけではないようですが(すぐに誰というのは出てきませんが)、まあそういう主張があるのなら、そういう主張があるという内容も盛り込めばよいのではないですかね。Modeha 2006年6月17日 (土) 14:00 (UTC)
- これは地動説の記事ですから、天動説、地動説の発展過程を、時代背景も含めて解説されるべきだと思います。だから、その背景説明の根拠を問い質しているのです。概要の部分に限れば、天動説の概要の記事はだいぶましです。プトレマイオス体系が支配的であった16世紀に、コペルニクスが地動説を唱えたという点は重要なポイントです。コペルニクスが地動説を唱えたのは、プレトマイオスの体系に対してであり、プレトマイオスの天動説とコペルニクスの地動説の違いがどこなのかがポイント。しかるに、現在の記事はプトレマイオス体系をアリストテレス以前のものと混同するなどの誤解の上で無理な説明されているので、訳がわからなくなっているのだと思います。 Shinobar 2006年6月17日 (土) 14:35 (UTC)
- 項目を立て、Modehaさんの該当発言部分を移動させていただきました。
- 天動説の記事では天動説の破綻と地動説が優勢になるのは17世紀としています。こちら地動説の記事もそれに合わせてもよいのですが、いずれにせよ、プトレマイオス体系が支配的であった16世紀に、コペルニクスが地動説を唱えたという画期は記述されねばなりません。そのときに航海術と改暦を出してみても、それがプトレマイオス体系の破綻を示していない。また、これらの点に関しコペルニクスの地動説が優位を示していない。それが、本記事の説得性がないところだと思います。航海術の発達とユリウス暦の破綻をコペルニクスの研究動機として提示し、「しかし、コペルニクスの地動説はその優位を発揮できなかった」と書くこともできます。それは少なくとも現在の記事よりは改善だと思います。望むらくはプトレマイオス体系の本質的な問題、コペルニクスが地動説を考えなければならなかった本当の理由が知りたいのですが、いまの私には見出せていません。Shinobar 2006年6月17日 (土) 16:20 (UTC)
何度も書きますが地動説はコペルニクスが完成させたものではないので、その点については激しく間違ってはいないと思います。結局、木星の軌道について、プトレマイオス説では衝の位置では太陽・惑星・地球間の距離が最短にならないという点についてのShinobar氏の説明はいまだによくわかりません。「12」の位置での各天体の位置関係を説明してください。16世紀に既に現実世界との乖離が明確になったのは事実ですし、また、16世紀に問題と考えたコペルニクスがいたから、地動説が生まれ、そして17世紀に完成したのは事実なので、現段階での記述はそう激しくは間違ってはいないと考えます。畑を耕しているうちは、暦に載る惑星の位置の5度の差は特に問題にならなかった。ところが、大航海時代が始まると、5度くらいとは言っていられなくなった。当時の人間は、プトレマイオス説だから悪いなどとは考えない。それは、天文学体系そのものの信頼性の揺らぎになり、それはまた学者や学問、当時は学問を行うのは僧侶でしたから、僧侶、そして教会への信頼の揺らぎにつながり、それを何とかしようとしたのが地動説が生まれた根本的な理由でしょう。同時代、教会への信頼は揺らいでいた。そこまでいくと宗教改革の話にまでなると思いますが、それが地動説成立の背景として存在することは、私は否定しません。コペルニクスは5度の誤差を少なくすることには失敗したが、詳しい天体観測によって自身の体系がもっと精密になる可能性があるとは思っていたはずです。Shinobar氏の発言では、どうも、コペルニクス一人が地動説を提示するのと同時に完成させたかのようなお考えのようにもとれますが、実際にはそうはうまくはいっていない。5度の惑星の位置の誤差を補正したのは結局、ケプラーです。ケプラーは最初から(最初の著書から)地動説のみを信じていました。ティコに会う前(ティコと文通を始める前)からです。ティコが天動説という点について私は異議を申し立てましたがそれについてもお答えがありません。どちらかというと、ティコは、天動説と地動説のどちらが正しいのかを調べるために観測を行ったというべきで、元から天動説のみに基づいた観測を行ったとは思えません。また、ティコが観測の事実を、天動説や地動説に合うように曲げて記録したという形跡もありません。Shinobar氏の発言は、ティコは天動説のみを信じ、天動説に基づいて観測を行い、天動説に基づいた観測結果を基にケプラーがルドルフ星表を完成させたかのような書き方ですが、それは明らかに間違っています。また、観測結果は、観測者が信じていた体系によって結果が左右されるようなものではありません。もしそのような観測結果が存在するとしたら、それは現代の科学の体系では採用することはできません。
黄道12宮についてどうと言われても困りますが、測定法についてだけ書いておきます。メソポタミアの時代でも、太陽が黄道を動いていることと、おおよその春分点は計れます。それには、昼にも夜にも見える天体、金星や月を用いて、昼間の間に太陽との角度の差を求めればよろしい。夜になってから再び金星と月の高度を測ると、そこからの角度の差でおおよそ太陽がどの星座に入っているかくらいのことは推測できます。ただ、この方法では、基準となる金星や月そのものが移動しているので、あまり精度のよい測定はできなかったでしょうね。とはいっても、測定法があるからといって、それはどの説にも有利には働きませんが。もしもっとよい測定法があるのでしたら教えてください。Modeha 2006年6月18日 (日) 12:44 (UTC)
- 重要でない部分から先に済ませます。木星に関して衝は「0」その次は「13」の位置です。ティコが天動説なのか地動説なのかというのは、天動説、地動説それぞれの定義によります。観測はどちらであっても同じということは私も同意します。太陽の黄道上の位置測定は他の恒星の測定より困難であることは同意しますが、それほど精度が落ちるとも思えません。太陽の動きについては古来より最も関心事であって、かなり詳細な報告がなされているからです。さきに中国暦の例を出しましたが、ほかに10世紀イスラム圏バッターニーなど。
- 16世紀に問題と考えたコペルニクスがいたから、地動説が生まれ、そして17世紀に完成したのは事実
- 基本的に同意。問題は、コペルニクスが、それまでのプトレマイオス体系の何を問題と考えたかです。
- 16世紀に既に現実世界との乖離が明確になったのは事実です
- まだ言いますか。記事では、惑星の明るさの変化、航海術、暦の3つが挙げられていますが、そのいずれもが、16世紀当時に本当に問題だったのかを問うているのです。ユリウス暦は現実的な問題だったが、これはプトレマイオス体系の問題ではなく、観測精度の問題です。観測は地動説と天動説とに関係しないと、Modehaさんと私は合意したはずです。航海術に関しては。16世紀すでに世界周航に成功していることを指摘しました。惑星の運行表は17世紀になって改善されるのだが、それで航海術に変化が起こったのか? 惑星の明るさの変化についてModehaさんは納得されていないようだが、プレトマイオス体系に対するModehaさんの誤解ではないのか? 金星の満ち欠けはプレトマイオスの欠陥だが、それが発見されるのは17世紀に入ってからです。Shinobar 2006年6月18日 (日) 15:24 (UTC)
惑星の明るさについては当時は実用的な問題にはなっていませんし、惑星の明るさの問題が天動説を破滅に導いたとも書いていません。実用上問題が生じたのは、1年の長さの違いと、惑星などの天体の位置推算の誤差です。それに付随して、惑星の明るさや新星、彗星などの観測が、16世紀に現れた天動説に不利な証拠たちです。1年の長さについては再三書きましたが、プトレマイオス体系では、プトレマイオス体系が成立する以前の定義による観測(分点から分点の時間を計測する)しかないのに対し、コペルニクス説では、1年か数年、惑星の位置を観測すれば、1年の値が計算できる(ただし、恒星年)。コペルニクス説では、定義に基づく観測のほか、惑星の位置からも1年が計算できます。つまり、1年の算出方法が大別して2通りあります。一方、プトレマイオス体系では1通りしかありません。そこは非常に大きな違いなのでそこを見落とされると議論が進みません。実際には改暦委員会は恒星年を用いた暦よりは実際的な季節に基づいた回帰年を元に改暦作業を行いましたので、コペルニクスが出した2種類の1年(従来の測定法に基づく回帰年と、惑星の位置から計算した恒星年)のうち、古い出し方で決定した回帰年のほうしか使われなかっただけです。コペルニクスは、恒星年を元に改暦を行うことを提案しています。
Wikipediaでは自身の説を書くのではなく、他者のために書くことになっていますので、しょうがないので私以外がこの件に関して言及している文書を提示します。大沼正則は著書『科学の歴史』では、プトレマイオス説の「数値の改革」がコペルニクスの地動説につながっていったと言っています。直接的な言及ではありませんが、当時の西ヨーロッパ人たちが、プトレマイオス説の誤差に満足していなかったことは間接的に分かります。ただ、大沼は、数値上の誤差よりは社会的背景が地動説を生む原動力になったという主張をしています。一方、加藤邦興・慈道裕治・山崎正勝『自然科学概論』では、プトレマイオス体系では、惑星の明るさを説明するために軌道を合わせようとすると惑星の位置に大きな誤差が生じ、惑星の位置に合わせて軌道を決定すると、明るさの説明ができないことが明記されています。こちらでは改暦問題がコペルニクス説が生まれた背景にあり、かつ、コペルニクス説が改暦委員会に利用されたというのも明記されています。どちらも学術論文というよりは教科書に近い文献ですが、研究者でないライターが書いて、どこかの大学教授が推薦文がわりに一筆序文を書いただけの一般向け科学啓蒙書よりは信頼には値するでしょう。前述の『暦をつくった人々』も、改暦問題がコペルニクス説が生まれた背景にあって、コペルニクスの値が改暦委員会に影響を与えたことは認めています。そこまで言うのなら、惑星の誤差については「大沼正則によれば」とでも書き足しましょうか。そうすればWikipediaでは排除する理由はなくなります。ただ、5度という値については大沼は言及していません。確かこの値は、ケストラーのケプラーの伝記『夢遊病者たち』に出てくると思いました(が、手元にありませんので確認できません)。
航海術については再三書いていますが、その航法は同緯度航法です。たとえば、真南に移動したりする航路はそれらの時代の航法でありますか? まずは沿岸を伝い、その後、同緯度航法というのが当時の航法です。同緯度航法については、前述の『科学の歴史』にも載っています。実際、17世紀、ルドルフ星表以降の時代になると、航海の安全性は飛躍的に上昇しますが、それはルドルフ星表以外にも、機械式時計の精度の上昇や、望遠鏡の発明なども安全性の増加に激しく影響していますので、(それにより、経度も測ることができるようになった)はっきり「ルドルフ星表だけ」で航海が安全になったとは言い切れません。「それ以前に世界周遊しているから地動説は航海術には関係ない」というのは、それ以外の要因のことをあまりにも考えていなさすぎる、また、その後の時代に飛躍的に遠洋航海による貿易が増加したことを考えていなさすぎると思います。国家的事業として立派な機材を積んだ舟ではできたかもしれませんが、一般的な船乗りが世界航海できるようになるのはもっとあとの時代でしょう。一応、ジャック・アタリ『時間の歴史』には、当時(精度的なことを考えるとおそらく17世紀頃)、経度を測る方法として、月と天体との角度を測る、というのが載っていました。月はあまりに地球に近いので、西経0度と西経20度の地点では、見える方角が微妙に異なります。そこで、たとえば西経0度地点での月の位置が正確に予測されていれば、それを元に経度が計算できます。これはルドルフ星表以降の精度のよい星表がないと使えない方法です。恐らく、ルドルフ星表以降の時代で、機械式時計の精度が飛躍的に上がる(振り子時計発明以前)短い時代にこの方法が使われたと推測します。
何度も書きますが、「背景として」改暦問題がある、「背景として」大航海時代の開びゃくによって顕著化した惑星の位置の誤差がある、といってはいますが、コペルニクス説によって一気にそれらの問題が解決したとは書いていません。5度の誤差がある星表ででも世界航海はできたよ。確かにそれはそうかもしれない。でもそれは、「地図のない山に登山に行って帰ってこれたよ」だから地図の作成は登山者の増加には全く関係ない、と言っているのと同じだ、と言っているのですが、その点はまだご同意いたたけませんか? コペルニクスは正確な地図を作ることには失敗しました。それに続くのはケプラーであり、ニュートンであるわけです。どうもその辺のご理解がまだいただけていないようです。Modeha 2006年6月19日 (月) 12:40 (UTC)
- 惑星の明るさに関しては保留します。16世紀当時に実用的な問題ではないのだから。
- バターフィールドの科学革命論については承知しています。だからこそ、コペルニクスがその中でどんな役割をしたかを明確にすべきだと思うのです。そのために16世紀当時の問題を細かく詮索しているわけです。恒星年の測定法を開発したのが重要だと思われるなら、それを記事にされてはどうかと、提案させていただきました。ここで議論しているのは、記事をより良くするためなのですから。惑星の位置が正確に出ないコペルニクス体系で、惑星を観測して正確な恒星年が出るというのは、私には驚きですが。
- 17世紀ごろに航法が進んだ点、お調べいただきありがとうございます。月の位置を測る方法ですが、月の運行は天動説でも地動説でも同じなのではないですか? またしても観測精度の問題を持ち出していませんか? 観測は地動説と天動説とに関係しないと合意したはずです。
- 「大航海時代の開びゃくによって顕著化」ということなので、私は1522年の世界周航を持ち出しました。大航海時代というのは、ほとんどそれまでの話ですから。ルドルフ星表が1627年だから、大航海時代と呼ばれる時期はほぼ終わってますよね。
- 「16世紀に既に現実世界との乖離」があったかどうかです。地動説なくして大航海時代が幕開いたことはむしろ反証にしかなりません。「地図のない山に登山に行って帰ってこれた」のが本当ならば、我もと地図無しで登山する人が後につづくでしょう。登山者が増えることによって地図の潜在ニーズが高まり、地図が作られたとして、「昔の人は地図が無くて苦労した。それで地図ができた。」と述べるのは、歴史の後からの書き変えです。「地図が無いために命を落すものも少なくなかった」などと書き添えるつもりでしょうか。ともあれ、プトレマイオスという地図はあったのです。だから登山もできた。その地図のどこが実用的に問題であったのかを問うているのです。
- どこかの本に書いてあるからというのもけっこうですが、「プトレマイオスの数値をコペルニクスは改善しようとした」というのは、コペルニクス心中の想像でしょう? 現行記事は、コペルニクスは数値を改善できなかったと記述しているのだから、コペルニクス自身の言葉で数値改善の意図を書いていなければ有効ではありません。数値の改善を意図したのだが、できなかったので出版が遅れたのかもしれません。しかし、最終的にコペルニクスは『天球の回転について』を完成とみて、時の教皇に献本もしているのだから、数値の改善が主目的だったとは言えないことになります。
- 匿名IPさんの引用サイトを心覚えに留めておきます。
- ティコの新星は1572年、彗星の観測は1577年、コペルニクスの書は1543年です。これも参考のために。Shinobar 2006年6月19日 (月) 22:48 (UTC)
コペルニクスの出した恒星年は、365日6時間9分40秒で、真の値より30秒長いそうです。(『暦をつくった人々』)精度だけで見れば、旧来の方法で出した回帰年の誤差(+43秒)よりも少ない誤差です。惑星の位置に5度の誤差が生じるのは、コペルニクス自身が星表をつくったわけではないからというのと、コペルニクスの参照した値は、1年の長さを決定するために特に重要な値を主に集めたので、元々、惑星の位置推測向けにはなっていなかったというのもあります。コペルニクスは、1年の長さを出すので精一杯で、惑星の位置計算に必要な値までは残しませんでしたし、自身もほとんど惑星の観測は行いませんでした。
もっとややこしい話になりますが、惑星の位置計算でプトレマイオス体系が最も不得手としたのは、惑星の南北方向への位置のずれです。実際には体系的に計算することはできず、平面的位置(東西の位置関係)とは全く独立に計算をしているはずです。その点で既にプトレマイオス体系は体系的にはできていません。一方、コペルニクス体系では、惑星の公転軌道が、地球軌道からどの程度傾いているのかは計算できます。ただ、どちらにしても、その値は各惑星の公転周期の算出にはあまり影響を与えません。
大沼の著書について、「でしょう」と言われても私は困ります。「大沼はこう言っているが、それは違う」という文献を提示していただくか、「プトレマイオス体系での算出による惑星の位置の誤差は、地動説が生まれる際には何の関係もなかった」という文献を提示していただくかのどちらかになります。もっとも、後者については、社会的影響を全く排除した上で理論体系の進歩だけを研究される方もいらっしゃるようなので、そのような方は主張している可能性はありますが。まあそれにしても、「そういう意見もあるが、大沼はこう言っている」という形で文章を付け加えておくことには現行のWikipediaのやり方にはなんら反するものではありません。むしろ、「自分は大沼は違うと思う」とか言われても、その意見は逆にそのままWikipediaにとりこむわけにはいきません。その主張を査読のある学術誌に発表してもらってから、「査読のある学術誌にこういう研究も発表されている」という形で提示することになります。ただし、それでも大沼の意見を外す理由にはなりません。
月の位置計算はプトレマイオス体系では精度のよいものができません。それは、ケプラーの第二法則が存在しないからです。ケプラーの第二法則は、プトレマイオス体系では導き出せない法則ですから、月の位置計算の精度の上昇は、地動説に起因すると言うことができます。たとえティコ・ブラーエの月の観測結果を全部並べても、(地動説をとり、ケプラーの第二法則を知っていた)ケプラーのルドルフ星表より精密な位置推測はできなかったでしょう。
観測精度を持ち出さないということに私は同意していません。観測精度に問題がなかったことにしたい、ということは分かりましたが、何故そういいたいのかも分かりません。分点の観測法と、それを利用した回帰年の決定法は、プトレマイオスより前の時代からある定義で、プトレマイオス体系とは直接的な関係はありませんが、当時のヨーロッパで天文学といえばプトレマイオス体系しかない。そして、その中で1年を決定する方法はそれ以前からある測定法しかない。そして、プトレマイオス体系での1年の値はずれている。となると、その値への不信はすぐにプトレマイオス体系そのものへの不信に、そして、プトレマイオス体系への不信はそのまま天文学への不信に、そして、天文学への不信はそのまま学問体系への不信に、そして、学問体系への不信はそのまま学者や僧侶への不信に、僧侶への不信は教会への不信につながります。いくら関係なくても、その値を体系にとりこんでいる限り、不信はプトレマイオス体系と教会へ向く。宗教改革の嵐が吹き荒れた時代の話です。1年を出す方法が1つしかない、しかも、1000年観測しなければ有効な値が得られない。では、そうでない方法で、より短期間の観測でよりよい精度の1年を計算する方法がないだろうかというところで生まれたのがコペルニクスの地動説なので、やはり現行の記述はそう大きくは誤っていないと考えます。少なくともコペルニクスは、1年の値をもっと精度のよいものにしたいとは言っていますので、精度の話が全く関係ないとはいえません。コペルニクス自身が惑星の位置の誤差について言及がないとおっしゃっていますが、そういう言い方では、当時の自身の記述がほとんど残っていない利休などについては何も書けないことになってしまいます。ただ、利休は確かにいたし、利休について周辺の情報を元に利休が行ったであろうこと、目指したであろうことを推測することはできるし、それを歴史学者が行ったからといって、それはその行為自体が批判されるべきではありません。(内容が誤っているという批判はあってしかるべきですが)またそれでは、「惑星の位置が分からなくても何も困らなかった」という、当時の世界航海を行った航海者の言及が提示されなければなりません。私はそんな要求はしませんし、仮にそういう言及があったとしても、全部の航海者がそう思っていたという根拠が提示されない限り同意はできませんが。惑星の明るさについては、付随する理由であってそれが中心的な問題ではなかったというのはさきに私が言っているとおりです。明るさはプトレマイオス体系で説明できるとおっしゃったので、違うということを提示しただけです。どちらにしても、さきの、プトレマイオス体系がコペルニクス体系と同価だと主張するサイトにも、明るさについて説明ができるようになったとは書いてなかったと思いますが。あと、プトレマイオス体系とコペルニクス体系は全然同価とはいえないので、そのサイトの内容はあまり過信しないことをおすすめします。こちらのサイト[1] の説明をごらんになれば、プトレマイオス体系では、たとえば火星の公転半径を100倍しても1000倍しても火星の位置は全く同じになる、つまり、プトレマイオス体系では惑星の公転半径が決定できないことが分かると思います。一方、コペルニクス体系では三角測量により各惑星の公転半径が、地球の公転半径を1としたときの比で求められます。(絶対的な値は、この時代は出ません)Modeha 2006年6月20日 (火) 12:52 (UTC)
- 月の運行
天動説でも地動説でも、月は地球の回りを回っているのだから、どちらにもケプラーの法則の適用は可能です。私は16世紀に起こったことと、コペルニクスを焦点に話をしているつもりなので、ケプラーはこのさい関係ありませんが。 - 観測精度
事実は次のようなものだと思います。
- プトレマイオスの時代(2世紀)、観測精度はあまり良くなかった。
- 後の時代(たとえば16世紀まで)、観測精度は上り、プトレマイオス体系の上に反映された。
- 16世紀、コペルニクスは地動説にもとづく新たな体系を提唱した。コペルニクス体系にもとづく予測は上記を越えるものではなかった。
- 17世紀、ティコ・プラーエなどによる観測は精度を格段に上げた。
- ケプラーはティコの観測結果をコペルニクスの地動説に適用、ケプラーの法則の発見により予測精度も飛躍的に上がった。
- これを、「天動説と観測事実の解離が明白になり、地動説が生まれた。」と述べるのは、ひとつのお話としてけっこうだが、そういう事態は17世紀に起こっている。天動説の現記事はそうなっています。しかるに地動説の記事は、それを16世紀に遡らせている。そのために大航海時代などを持ち出しているから、かえって話のつじつまが合わなくなっているということを申し上げているわけです。
- 回帰年の決定法
ヨーロッパ以外の場所で天文学がかなり発達していたことはご存じの様子ですが、16世紀当時のヨーロッパが孤立していたわけではありません。さきのバッターニーは10世紀イスラム圏の人ですが、13世紀には、彼らの著書はラテン語に翻訳されています。話題の改暦委員会が恒星年を採るか、回帰年を採るかで揉めることができるほどに、16世紀当時のヨーロッパは改暦に必要な太陽の運行に関しては十分な知識とデーターを測定法とともに持ち合わせていたわけです(日時計では恒星年も歳差も分かりません)。このときに天動説を採るか、(半世紀前に登場した)地動説を採るかは当然ながら問題になってません。(参考にされたもののひとつという)コペルニクスが出した回帰年の値よりも、当時までの観測データを反映したアルフォンソ表の回帰年のほうが実際の値に近かったはずです。改暦の問題は天動説の破綻ではなく、ユリウス暦の破綻であると、私は指摘しました。紀元前に制定されたユリウス暦は、100年で1日近く狂うというものですから、その破綻はもっともっと早くから現れています。どんなに遅くともヨーロッパが落ち着き、スコラ学が興る13世紀には大きな問題になっていたはずです。それをコペルニクスに絡めたのは、当時のカトリック教会が必ずしも地動説を排除していなかった例証のためであると、Modehaさんはおっしゃっていたはずです。
プトレマイオス体系の1年
- 長くなったので、また節を分けました。Shinobar 2006年6月22日 (木) 06:45 (UTC)
- プトレマイオス体系に関して、いろいろご覧になられたはずです。プトレマイオス体系には太陽の公転と呼んで良いのかどうか、黄道上の運行という形で1年という単位が存在すること、プトレマイオス体系でも惑星と地球との距離が変化していることなどはお分かりになったことでしょう。天動説の記事にもある「その体系の中に1年という長さが組み込まれていない」という記述が誤りであることを、そろそろ認めていただきたいものです。Shinobar 2006年6月21日 (水) 00:12 (UTC)
プトレマイオス体系ではそもそもケプラーの法則を発見することができません。どちらにしろ、地球を中心とした火星の円弧がつくる扇の面積は、単位時間あたり一定になりません。ケプラーの法則は、(第1から第3のすべてが)太陽中心の体系でない限り成立しません。だから、プトレマイオス体系でもケプラーの法則を使えばよいという認識は誤りです。
プトレマイオス体系に基づく惑星運行予報表の誤差が、コペルニクスの地動説につながったと主張する文献もさらに見つけましたので追加しておきます。さきの『自然科学概論』にもありました。また、トーマス・クーン『コペルニクス革命』でも、コロンブスの航海の話のするあとで、航海技術の改良の中に、「天についての知識の増大を必要」という書き方をしています。さらにすぐあとで、それまでは、プトレマイオス理論については、ギリシャ語からアラビア語に訳されたものの重訳しかなく、翻訳の過程で省略されたり誤訳されたりしたので、よい位置予報ができないといういいわけが通用していたのが、ギリシャ語原典が発見されてラテン語訳が出ると、位置の誤差をそういう言い訳でごまかすことができなくなったとも書いていますので、間接的に、大航海時代に惑星の位置予報の精度の向上が求められていたこと、それがコペルニクスの地動説に結びついたという書き方になっています。荻野明男『近代科学の起源』でも、プトレマイオス説に基づく天体暦・航海暦の誤差がこの時代(16世紀です)に明確になったことについてふれています。一方、大航海時代とコペルニクス理論があまり関係ないと主張する方も見つかりましたので参考のために紹介しておきます。高橋憲一訳『天球回転論』で、高橋は、コペルニクスの地動説成立の背景について、新プラトン派とか改暦問題とか、大航海時代と精度とか、さまざまな説があるがどれも決定的なものはなくて、コペルニクスの独創だ、と述べています。ただそれにしても、高橋は、「大航海時代に天体暦の精度が問題になったことがコペルニクス説登場の背景にある」、という説が既に存在することを前提にして自身の主張を行っているわけなので、やはり、大航海時代と当時の天体暦の誤差について言及している今の版にはそれほど問題はないでしょう。
1年が体系の中に盛り込まれていない話については、実際にその体系に1年が存在しないからなのですが、ちょっとうまく説明ができません。簡単に言うと、プトレマイオス体系では、「体系」とはいっても、各惑星は全く独立に動いていて、それぞれの運動に使用する値に関連性がありません。前述したとおり、火星の公転半径を100倍しても、プトレマイオス体系では全く同じ結果になります。1年という値についてもだいたい同じような感じで、1年という数値に誤差があっても、惑星の位置にそれほど大きな差が生まれません。(実際、プトレマイオスは1年を365日5時間55分13秒だと思ってました。6分以上も違います)そんなことを言ったって、実際に火星と木星はそれぞれ全然関係なく自身の運動をしているのだからそれはそれで正しいだろうというとそういうことはなくて、プトレマイオス体系では水星、金星は、太陽に隷属して動いています。つまり、太陽軌道と水星軌道は互いに関連があるわけです。ところが、外惑星に関しては、火星が100倍遠くにいったからといって、土星の位置にずれは生じません。木星の公転周期をうっかり間違って200年にしてしまったからといって、火星の位置にずれは生じません。(外惑星については)「体系」というよりは、互いに独立した惑星の位置予報方法を、単に3回並べたに過ぎない。ところが、コペルニクス体系では、地球の公転周期は1年でなければならないし、火星の公転周期も1.1倍するわけにはいかないし、木星の公転周期が10%ずれれば、火星や土星の位置までずれてしまう。それぞれの値が互いに関連を持っていて、どれかがちょっとでもずれると、そのほかの位置に破滅的な影響を与えるわけです。だから、それぞれの値同士がそれぞれの値の誤差を補完し合う形で、惑星の位置が「そうでなければならない」位置におさまるのがコペルニクス体系の(プトレマイオス理論とは違う)大きな差です。
当時の計測誤差についてですが、プトレマイオス時代までの古代は角度で10分(角度)の観測はできたようです。14世紀には主に航海で天体観測に使われる十字架型の分度器が作られ、ケプラーによるとティコはそれで6分の1分(角度)まで計測したそうです。この便利な分度器について、コペルニクスは多分知らなかったんだろうということでした。改暦委員会もこれを使って分点をうまく計測したのかもしれません。ティコは別格としても、当時の航海者も1分2分の角度は計測できたとみるべきでしょう。
アラビア科学とかについて述べられていますが、確かに古代ギリシャの天文学がアラビアで発展したのは確かですが、少なくともアラビアでの天文学は、精度の若干の向上(もちろん観測器具の精度の向上もありますが)以外に特に目新しいものはなかったというのが大方の見方のようです。前述のクーンは、アラビアの天文学は、プトレマイオスの天文学を広く世間に知らしめたことだったと述べています。中国についても述べている文献があまり見つからなかったのですが恐らく似た認識でしょう。Modeha 2006年6月21日 (水) 12:03 (UTC)
- 「火星の公転半径を100倍しても、プトレマイオス体系では全く同じ結果になります」「プトレマイオス体系では水星、金星は、太陽に隷属して動いています…外惑星に関しては、」と、そこまでプトレマイオス体系が分かっていながら、「実際にその体系に1年が存在しないからなのです」と、まだ口にされるのが不思議でなりません。プトレマイオス体系の天球は、ほぼ1日かけて1周するとともに、太陽は内惑星を連れて黄道上をおよそ1年かけて巡行します(黄道自身が恒星球に対し僅かづつ移動するために、「およそ」という言葉を使いました)。これがプトレマイオス体系における1年です。それをModehaさんは否定なさってはおられなかったように思います。
- もしかすると、地球の自転の問題をどう処理するかで、混乱なさっているのですか? 天球儀は、地球が動かなくても、天球を動かすことでそれを解決しています。ところが、太陽、月を含めて惑星の議論をするときは天球儀を回したままでは複雑過ぎるので、天球儀を止めてみると分かりやすくなります。天球儀が止まっているとき、その中心に想定された地球が代わりに自転しているのですが、そのことはしばらく忘れましょう。そうすると、固定した恒星球に対して惑星がどう運動しているかが見えます。プトレマイオス体系を議論する人々は、これと同じ様に、天球の日周運動をキャンセルし、固定した恒星球、すなわち、コペルニクスと同じ土俵の上で議論することができました。それが赤経・赤緯であり、黄道と黄経・黄緯の概念です。
- あるいはModehaさんは、黄道の概念は昔からあるシステムで、プトレマイオスとは関係がないというお立場でしょうか? プトレマイオス以前に存在した黄道を、プトレマイオスが無視し、取り入れなかったとお考えならば、それは誤解です。
- ついでながら、黄道帯というものもあります。さきにModehaさんは惑星の南北の移動について、コペルニクス体系では「惑星の公転軌道が、地球軌道からどの程度傾いているのか」で説明できるとされました。私のプトレマイオスは惑星の周転円は黄道面とは並行ではなく、傾いていると説明します。その結果、黄道とは一致せず、上下約8度の黄道帯の範囲内を動きます。
- 改暦の経緯についてはよくご存じのはずです。2世紀のプトレマイオスによる回帰年の値、後世の観測により改善されたアルフォンソ星表の値、コペルニクスが出した値などもご存じでしょう。
- ひとつづつ行きましょう。天動説#問題点の記事にある「…その体系の中に1年という長さが組み込まれていないことだった。…この欠点により、1年の正確な測定がなかなかできず、改暦が遅れる原因にもなった。」の段落が誤りであることを認めていただけませんか? とりあえず記事からこの段落のそっくり削除を提案します。その上で、Modehaさんが書き加えたいと思われるものがあるなら、それを加筆されてはいかがですか? Shinobar 2006年6月22日 (木) 06:45 (UTC)
今までメインの話で手一杯で書かなかったのですが、ティコの新星とかは「天動説破綻」の理由の1つとして提示しただけで、「地動説成立の背景」としてそれがあるとは書いてはいません。地動説成立の背景に話題を絞りたい(というか既に絞られていますが)ということのようなので、これ以上はそちらにはふれずに議論を進めます。
コペルニクスがその説を打ち立てるのに当たって、当時、改暦問題が存在したこと、グレゴリオ13世の改暦委員会がコペルニクスの数値(あるいは理論)を参考にした(あくまでも参考程度)、大航海時代の天体予報暦の誤差が、コペルニクス説登場の背景としてある、ということ、これら3つの説は別に私の打ち立てた独自の説ではなく、多数の研究者が指摘している、従って、そういう説があるという形で記事内に提示しておく分には特に問題は生じない。私はそう言いましたがこれについては特に異議はないということでよろしいでしょうか。改暦委員会がコペルニクスを参照した話は、前述のクーンも述べています。参考のため。そうでないと主張するのはかまいませんが、Wikipediaの記事内に繰り入れたいという希望がおありでしたら、前述したとおり、査読のある雑誌に投稿して採用されてからにしてください。
一方、Shinobar氏のほうからは、元となる根拠文献の提示がまだありません。匿名のしかも間違っているサイトの説明が提示されただけです。どちらにしても、独自の研究でないことを証明していただかないと、本文中には繰り入れられません。それがShinobar氏の立てた説でないことを証明してください。
残る部分は、1年が体系に組み入れられているかどうかというところなのですが、この部分は説明が大変に難しく、どうやらさきほどの説明では分かっていただけなかったようです。クーンも、コペルニクス説の重要性がここにあると述べた上で、コペルニクスの本の素人の読者にはこの部分が分からなかった、と述べています。ただ、クーンは「1年」とかいうわかりやすい言い方では説明はしてくれていません。軌道の配列、相対的な大きさが少しでもずれると、全体が壊れてしまう、というような言い方をしています。(コペルニクスも序文で似たことを言っています)「その相対的な大きさ」の中には当然、「1年」という値も組み込まれていますので、「コペルニクス説には1年という単位が組み込まれている」といえます。一方、前述したとおり、プトレマイオス体系では、それぞれの値に何の関連もありません。1年という値は存在はしても、その値は火星の公転周期に影響を与えません。同様に、木星の公転周期は、土星の公転周期に影響を与えません。ところが、コペルニクス体系ではそうではない。1年(恒星年)という値は、火星や土星の観測から決定され、動かすことのできない値として存在しているわけです。どうしてもこの説明が分からないというのでしたら、クーンの『コペルニクス革命』などの文献をごらんください。もっとも、本文中の内容は、「夏と冬は太陽の軌道が変化することにより季節が生じる。プトレマイオスの説明はこうだった。これではこの体系の上で、季節に基づく1年の長さを決定することができない。」ではなく、「夏と冬は太陽の軌道が変化することにより季節が生じる。太陽の天球上での赤緯が同一になる日を観測すれば、定義上は1年を決定することはできるが、当時の観測精度では測定に困難が伴った。プトレマイオス説では、惑星の位置関係から1年の長さを算出することができない。しかし、コペルニクスは、太陽を中心におけば、惑星の位置関係で1年の長さを算出することができることを明らかにした。(ただし、後者の1年は、恒星年といい、前者の回帰年とは少し値が異なる)。」くらいにしたほうがいいかもしれませんが。説明が少々うざくなるのが難点ですが。いずれにしても、他惑星の観測によって地球の公転周期が決定できるというのは、コペルニクス説の一番重要なところなので、そこが省かれるとそもそもコペルニクスの地動説の説明ですらなくなってしまいます。
念のために書いておくと、当時の天文学者が1年の長さについて全く無知だと宣言したのはほかならぬコペルニクス自身です。天球の回転についての序文に出てます。改暦委員会に呼ばれたような人が(請けませんでしたが)そこまで言い切っているのですから、それはある程度は事実を含んでいるでしょう。実際、改暦問題がローマ教会で議論されはじめる1515年から、改暦委員会自身が測定を行う1575年まで、実用に耐えうるような精度で1年を計測した天文学者はヨーロッパにはコペルニクス以外にはいないようです。改暦委員会が最終的にアルフォンソ星表の値を採用したのは別に否定はしませんが、アルフォンソ星表の値とコペルニクスの値が大きく食い違っていたらそうはならなかったでしょう。あくまでも両者の値がほぼ同じ(アルフォンソ星表は+30秒、コペルニクスは+43秒の誤差)だったからこそ、そういう決定ができたものだと認識します。改暦委員会がコペルニクスの値や理論を参考にした、と述べた研究者が複数いる以上、そう考える研究者は存在する、ということです。
Shinobar氏の主張は、ぱっと見はそちらのほうが理解しやすいようには見えますが、それが歴史上の史実を的確に説明できるわけではない。ぱっと見のわかりやすさだけが真理に近いということになると、それこそ、天動説のほうがぱっと見分かりやすいのでこちらのほうが正しいということになってしまいます。コペルニクス説のキモであるこの部分(互いの値が連動している)は、クーン自身が素人には分からなかったと書いているくらいなので多分えらくわかりにくいのでしょう。ただ、その部分の提示がないと、コペルニクス説の説明としては文字通り骨抜きです。もう一度書きますが、コペルニクス説では水星の軌道半径と土星の公転周期には切っても切れない関係があって、それぞれの値が互いに(地球からの観測結果という点を通じて)連動しています。ところが、プトレマイオス体系では、たとえ水星と土星が同一の方角にあったとしても、たまたま計算上、角度が同じになっただけに過ぎない。互いの値は連動していないのです。連動する値の中に、「1年」という値が、コペルニクス体系では組み込まれています。1年の長さが決定できないと、火星の軌道半径が決まりません。一方、プトレマイオス体系の中では、「1年」という値はそう重要ではない。地球の1年が決まらないから、火星の軌道半径が決まらないとかいうことは、プトレマイオス体系では出てこないわけです。体系に1年が存在しないというのはそういう意味です。そういう書き方がよろしくないというのなら、「体系に1年という値が組み込まれておらず、実質的に独立した値となっている」、というような書き方にでもしましょうか。Modeha 2006年6月22日 (木) 12:27 (UTC)
- 議論は無駄で無かったと思います。コペルニクス説のキモ(のひとつ)は、内惑星に限らず外惑星も太陽に隷属しているという点ですね。記事でそのことが欠かせないと主張されるなら、それには何の異存もありません。コペルニクス説登場の背景説明にいろいろ述べられるのもけっこうです。
- しかし、プトレマイオス体系の記述の間違いは放置できません。コペルニクス体系の1年のほうが、プトレマイオス体系の1年より優れていると主張したければそうすればよいので、「プトレマイオス体系の中に1年という長さが組み込まれていない」というのはウソです。「プトレマイオス体系の1年は、恒星球に対する太陽の(黄道上の)運行で定義された。」が正しい。「そのために改暦が遅れた」ということもありません。「夏と冬は太陽の軌道が変化することにより季節が生じる。」という記述は間違いではありませんが、(プトレマイオスの)天動説では「黄道面と赤道面の傾きのために季節が生じる。」というのがより正しい記述です。地動説では「地球の公転面と自転軸が直角でないために季節が生じる。」です。
- 「定義上は1年を決定することはできるが、当時の観測精度では測定に困難が伴った」とおっしゃる主張は、「1515年から1575年まで、実用に耐えうるような精度で1年を計測した天文学者はヨーロッパにはコペルニクス以外にはいない」で補強できるのかもしれませんが、それではアルフォンソ星表は誰がメンテナンスしてきたのでしょうか? それはそれでヨーロッパの事情を説明するのによい題材ですが、プトレマイオス体系で暦を作るのはたいへんだという主張はまったく根拠がありません。参考にされたコペルニクスの平均周回年の値は地動説とは関係ないということはModehaさんからうかがいました。コペルニクスの「理論」が参考にされたとは初耳ですが、いずれにせよ、その理論とやらが暦の作成に応用されたという史実は、21世紀に至っても起こっていないわけですから。
- まずは天動説#問題点の記事にある「…その体系の中に1年という長さが組み込まれていないことだった。…この欠点により、1年の正確な測定がなかなかできず、改暦が遅れる原因にもなった。」の段落のそっくり削除、地動説の該当部分「というのも、プトレマイオスの説では、1年という単位は宇宙の動きの中には存在していなかったのである。太陽は1日かけて地球の周りを公転する。夏と冬は太陽の軌道が変化することにより季節が生じる。プトレマイオスの説明はこうだった。これではこの体系の上で、季節に基づく1年の長さを決定することができない。」の削除を求めます。その上で、このノートでされたご説明を記事に反映されれば良いでしょう。
- コペルニクス説登場の背景に関していろんな説があることは承知しています。ただ、ルドルフ星表が出る1627年には大航海時代と呼ばれる時期はほぼ終わっているなど、現行記事内に自己矛盾がある。それらのことは後まわしにしたいと思います。
「その体系に1年という長さが組み込まれていない」のは事実です。もしその言い方が気に入らないのなら、システマティックに組み込まれていないとでも言い換えますか? 1日の長さを、「鶏が鳴いてから次に鳴くまで」と定義することはできます。それによって1日の長さが25時間になったり23時間になったりするかもしれない。しかし、30年間、鶏が鳴いてから次に鳴くまでの時間を計測したら、どうも平均の1日は24時間だと考えられる、ということになったら、その「1日」という値は、1秒1分1時間という「体系」の中に組み込まれていない独立の量です。私が「1年」が体系に組み込まれていないといったのはそういう意味です。私は1年は測定不可能であるという意味ではなく、算出不可能という意味で「体系に組み込まれていない」と言いました。
当時の1年の値について、クーンも言及していましたので紹介します。クーンは、1年は1日に比べて非常に計測が困難だと述べています。そしてそれ(測定の困難性)が、正しい暦を作ることの障害になったとも述べています。これも、クーンの言及によればという但し書きをつければ、現行の文章をほぼそのまま残すことができますね。
実際、アルフォンソ星表からコペルニクスまで約300年間、満足のいく精度での1年の測定を行った天文学者は、私の知る限り、ヨーロッパにはいません。改暦問題が既にベーコンによって提起されていたにもかかわらず、です。それは、その体系での1年の測定に非常な困難が伴うことを間接的に証明していることになるでしょう。1000年前の値との比較である程度の精度は出せると私は言いました。中国やアラビアの天文学者は、観測台に水時計を設置して、さらに精度を上げました。それは認めますし、彼らの値のすべてが偶然にも真の値に近い値になったとはいいません。しかし、16世紀のヨーロッパというと、ルネサンスの時代です。より古いものが有り難がられるその時代に、何故、プトレマイオスの出した値(365日5時間55分13秒、+387秒の誤差)が顧みられなかったのか、それも説明しきれないと、Shinobar氏の主張が顧みられることもないでしょう。コペルニクスは、どうも、プトレマイオスの時代から1年の長さが変わったらしいと述べています。それはある意味正しいが、それ以前にプトレマイオスの値は単に間違っていた。コペルニクスは、プトレマイオスの値がそんなに誤っているとは思わなかった。そういう意味では、コペルニクスもプトレマイオスに縛られていた時代の人です。にもかかわらず、改暦委員会は何故、プトレマイオスの値をとらずに、アルフォンソ星表やコペルニクスの値に近い値を選んだのでしょうか。それは、Shinobar氏が学会なりなんなり、どこかで説明を行っていただく必要があります。そしてそれに納得する研究者が増えれば、その時点でWikipediaの記事内に繰り入れることができるでしょう。
長い議論をしてきましたが、未だにShinobar氏の主張が、氏の主張ではなく、百科事典に掲載してしかるべき学説だという根拠は提示されていません。従って、今の時点では、氏の主張を受け入れることはできません。ルドルフ表の話も、探せば多分、根拠文献は出てきますが、なにぶん、私がこの記事を執筆したのはずいぶん前なので、文献を思い出すのも大変です。それでも複数の文献を私は提示しました。Shinobar氏からの提示は未だにありません。その前に、そもそも、コペルニクスの原論文すらどれほど読まれたのかも私は推測することができません。ラテン語で読めとは言いませんので(私も読めません)せめて、日本語訳のある文献については参照された上で議論されることを希望します。どちらにしても、Shinobar氏は、自身の行っている主張が、自身の主張ではなく、既にある学説であるという根拠を提示してください。そうでない限り、氏の要求には応じられません。ルドルフ表うんぬんの根拠は、それが終わってから探すことにします。
それと、グレゴリオ暦で書き忘れたことが1つありました。グレゴリオ暦は、1年の長さを決定しただけではなく、満月の日の求め方も定義しています。それは、満月が算出できないと復活祭の日付が決まらないからです。この算出法には、確か、コペルニクス説を取り入れたプロイセン星表が使われています。プロイセン星表の月の部分は確かコペルニクスそのものだと思いましたので、どちらにしても、グレゴリオ暦はその内部にコペルニクス説を内包していることになります。ただし、念のために書いておくと、コペルニクスの月の理論とほぼ同じものを、その前に、アラビアの天文学者が提示しています。「全く同じだ」という研究者と、「コペルニクスは、月の理論に関してはアラビアの科学者のものを借用した」という研究者がいます。私はどちらの主張が正しいのか、その判断材料を持たないので、判定は行いません。(私が見た借用だと述べた文は、さらっと書いてあって、何故、アラビア語の文献をコペルニクスが参照できたのかその説明がありませんでした)ただ、改暦委員会が直接、アラビアの科学者の理論を参照したという研究は(私の知る限り)ないようなので、どちらにしても、改暦委員会は部分的に(そして間接的に)コペルニクスの「天球の回転について」を参照した上で改暦を行ったことが分かります。Modeha 2006年6月23日 (金) 15:25 (UTC)
天動説の記事
- 本来はノート:天動説に書くべきことですが、こちらに纏めておきます。
- 「1年は測定不可能であるという意味ではなく、算出不可能」
- 私のツッコミに対し、真面目に対応し、調べ直しもしてくださっている Modehaさんが、いまだそういう頑迷なことをおっしゃるのは残念でなりません。アルフォンソ星表は、プトレマイオス体系にもとづいて「算出」したものです。
- 私が引用文献を示していないのは、その必要がないからです。私は記事の自己矛盾、Modehaさんがおっしゃられることの自己矛盾を指摘してきただけです。たとえば、「改暦委員会は何故、プトレマイオスの値をとらずに、アルフォンソ星表やコペルニクスの値に近い値を選んだのか」といえば、その答えは「プトレマイオスの時代から1年の長さが変わったらしい」と信じたということでしょう。アルフォンソ星表はプトレマイオスが正しいとしてそれを利用し、算出したものです。13世紀のイベリア半島で作られたということからすると、その数値にはイスラム天文学の成果も盛りこまれていることでしょうが、計算はプトレマイオス体系によるものです。
- プトレマイオスが生まれる百年以上前に作られたユリウス暦の責任を、なぜプトレマイオスが背負わなければならないのか? コペルニクスが生まれる何百年も前の中国暦(太陰太陽暦ですから、月の動きも正確に計算しています)やイスラム(→バッターニー、ウマル・ハイヤーム)が、精緻な暦を持っていたのはなぜか? 4世紀の第1ニカイア公会議のときの春分が13世紀には何日ずれているか、アラビア科学に接していたロジャー・ベーコンにとって明白でなかったか? その後ヨーロッパでまともな測定がされていないというなら、13世紀のアルフォンソ星表の「予測」精度が大したものであることを示していることにならないか? プロイセン星表の月がアラビア天文学者のパクリだと疑われているということは、地動説によらなくとも、月の運動を正確に予測することができることを示していないか? などなど、クーンの言うことを聞くまでも、鶏の聲を聞くまでもないことです。
- これから先は時間の短縮のために、方法を変えます。まず、天動説の記事から、「1年」の段落だけでなく、「問題点」としていた章を、そっくり私の思うところで書き換えます。 私が削った部分でModehaさんが不服と思われるところは、加筆ください。それからまた議論しましょう。なにしろ、私は『アルマゲスト』も『天球の回転について』も読んでおりませんし、衝と合の区別も分からぬ、天文学については素人です。だから記事を書くつもりは無かったのですが、しかたありません。wikipedia英語版(Geocentric_model)や、Modehaさんにここで教えていただいたことをベースに書いてみます。よりよき記事とするため、ご協力ください。天動説#天動説の歴史を書きました。Shinobar 2006年6月24日 (土) 04:52 (UTC)
クーンが、1年の長さを測定するのは大変に困難だと言及しているところはどうしますか? それは私の主張ではないのでクーンに文句を言っていただかなければなりませんが、既に故人です。どちらにしても、その主張が「あなたの主張」でないことを提示していただかないと、Wikipediaの記事に取り入れることはできません。Wikipediaは、あなたの演説場所ではありません。取り入れるわけにはいかない理由は、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかに記述されています。何度も書きますが、当時はより古いものが有り難がれ、新しいもの、値がすぐに取り入れられていたとは限らない時代です。プトレマイオスの値と、アラビアの天文学者の値のどちらが正しいのか、それを求めるすべはありません。
それにしても、プトレマイオス体系では、土星や金星の観測結果から1年の値を算出できない、それがコペルニクス体系とのもっとも大きな違いだ、ということを何度もご説明したのに、その点を無視される理由がまたよくわかりません。プトレマイオス体系では、「1年」は、ほかの値とは孤立した独立の量です。コペルニクスの体系では「1年」も火星の公転軌道もそれぞれが関連した量で、火星の公転軌道を求めることによって逆に地球の1年を求めることができます。いずれにしても、1年の値の測定に困難が伴う、という点については、前に書いたとおり、クーンが言及していますので、それはまた記事内に復活させることにします。このままでは、クーンがあざ笑った、「素人の読者」が書いた記事になってしまいます。
プトレマイオス以前の時代のユリウス暦の問題を何故プトレマイオスが負わなければならないのか、という点については、正確には、その両者を取り込んだローマ教会のせいでしょうね。ローマ教会は、当時信じられていた確からしいものを、その内部にとりこんでいます。クリスマスは恐らく、元々は冬至の祭りだし、1月1日もあとからキリスト教の祝日にされています。そうやってとりこまれたユリウス暦に、満月を決めて復活祭の日取りを決めた暦を、あえてユリウス暦ではなく、教会暦と呼んだわけでしょう。だから、グレゴリオ暦は、ユリウス暦の改訂というよりは、教会暦の改訂です。(ユリウスの時代のローマでは満月は特に重要視されていませんでしたので、もともとのユリウス暦には満月を決定する方法は記載されていません)だから、責任を負わなければならないのは、両者を取り入れたローマ教会であって、それを元にローマ暦が改訂されたわけです。
アルフォンソ星表の精度は実際にそうたいしたものではありません。それも前に書きましたよね。アルフォンソ星表は、航海用に作られたものではありませんから、そんなに精度は高くないし、当時は季節などがきちんと出れば特に不都合が生じなかったからです。そのほかに使ったとしたら、占星術師でしょうね。それがそうは言っていられなくなったのは大航海時代だというのはさきに述べましたし、そう言及したのは私ではない他の研究者です。アルフォンソ星表を使う限り、どんなにがんばっても惑星の位置に5度の差が生じる。ティコほどではないとしても、当時でも5分(角度)、10分(角度)程度は測定できた時代です。誤差は観測によってわかります。その星表に基づく1年が何故精密で、わざわざ測定しなおす必要がないほど正確だったと当時の人間が断言できるのか、これもまたわかりません。アルフォンソ星表じゃ困る、もっといい精度の星表が欲しい、と皆が思っていた時代に決定された改暦であるにもかかわらず、です。どちらにしても、それほどまでに何も読んでいらっしゃらないのでしたら、記事を執筆するのは危険ですので、せめて基本的な文献を読まれたあとにすることをおすすめします。Modeha 2006年6月24日 (土) 07:47 (UTC)
- 「クーンが、1年の長さを測定するのは大変に困難だと言及しているところはどうしますか? 」
- Modehaさんがそれを紹介したいというなら、されれば良いでしょう。
- 「プトレマイオス体系では、土星や金星の観測結果から1年の値を算出できない、それがコペルニクス体系とのもっとも大きな違いだ」
- Modehaさんのご説明で、それは理解できているつもりですが、私にはちゃんと説明できないので、天動説の記事にはプトレマイオス体系の太陽系には「外惑星は別扱いされた」旨のみ書いておきました。Modehaさんのほうで、もっと説明したいことがあれば、記事に反映されてはいかがでしょうか?
- 「アルフォンソ星表の精度は実際にそうたいしたものではありません。その星表に基づく1年が何故精密で、わざわざ測定しなおす必要がないほど正確だったと当時の人間が断言できるのか」
- 惑星の話はさておき、暦の改正に必要な太陽の回帰年に関しては、「プトレマイオスは1年を…6分以上も違う。」「アルフォンソ星表は+30秒、コペルニクスは+43秒の誤差…改暦委員会が最終的にアルフォンソ星表の値を採用した」と教えていただきました。月のお話は面白く思いました。記事にお書きになればいかがでしょうか? Shinobar 2006年6月24日 (土) 10:18 (UTC)
地動説の記事
- さて、天動説のほうは、私の思うところは現在の記事に反映させていただきました。不正確な部分、不足な部分は多々あると思いますが、天動説の記事を直接触られるか、ノート:天動説のほうで議論したほうが、よろしいかと思います。
- 次は地動説の記事に話題を移したいと思います。地動説の現行記事で私が問題と思うのは次の部分です。
- 「もちろん、天動説は当時からおかしなところはかなり多く含んでいた。例えば、惑星の明るさの変化を説明することができない。」から「これではこの体系の上で、季節に基づく1年の長さを決定することができない。」に至るまでの文章は改善を要すると考えます。
- 「カトリックの司祭であったコペルニクスにとって、…グレゴリオ暦を作成するときにも参考にされた。」の文章には異存ありません。Shinobar 2006年6月24日 (土) 12:05 (UTC)
明るさの説明は既に『自然科学概論』で説明されていると書きました。改暦問題がコペルニクス説登場の背景にあったというのは既に私の説ではないとも述べていますし、そう言及した研究者の名も挙げました。大航海時代についても、言及した研究者の名を私は挙げました。1年の長さについては何度も説明したとおりです。クーンは、1年の長さの測定が非常に困難であること、したがって、暦法の決定が難しかったこと、そして、それ(暦法)への要求が、16世紀に「コペルニクス革命」で中心的な役割を果たしたと述べています。私は例示をしましたので、今のところのWikipediaのルールでは、言及者の名前を例示する以外の変更はする必要がありませんが。逆にどのような変更をしたいとお望みなのかがわかりません。また、Shinobar氏の発言内容がご自身の主張ではなく、他者の立てた信頼に足りる学説であるという根拠を提示されておりません。ただし、氏が根拠を提示されたとしても、現行の記述を削除するだけの理由にはなりません。Modeha 2006年6月24日 (土) 12:41 (UTC)
- では、部分に分けましょう。「さらにもう1つの問題が生じつつあった。1年の長さが、当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのである。…これではこの体系の上で、季節に基づく1年の長さを決定することができない。」の段落。これはプトレマイオスが生まれる百年以上前に作られたユリウス暦の責任を、プトレマイオスの責任に転化している部分です。それはおかしいと、Modehaさんも同意なされるはずです。
- さらに、「プトレマイオスの説では、…」以降の説明はプトレマイオス説の「誤った」説明であり、百科事典の記載として看過できない問題です。それこそ、典拠を示していただきたく存じます。Shinobar 2006年6月24日 (土) 14:29 (UTC)
- 私の論拠が必要ですか? 「プトレマイオスの説では、1年という単位は宇宙の動きの中には存在していなかった」のならば、「プトレマイオスは1年を365日5時間55分13秒だと思ってました」「アルフォンソ星表は+30秒」などという数字がどうして出てくるのでしょう。ロジャー・ベーコンはプトレマイオスに依らずして、どうしてユリウス暦の1年が間違っていることを知り得たのでしょう? Shinobar 2006年6月24日 (土) 14:46 (UTC)
前述したとおり、ローマ教会が「確からしい」ものを集めてその教義の内部に他の学説をとりこんでいった結果として、ユリウス暦は教会暦という名になり、満月の計算法が加わった話をさきほどしましたがそこはごらんいただけましたか? 教会暦になった時点で、教会はその暦の不合理を是正しなければならない。文句を言われなければならないのは、ユリウス暦を事実上公式のものとしていたローマ教会で、別にプトレマイオスにどうしろと文句を言うつもりはありません。それに、1年の長さが長かったとは書きましたが、その長さがプトレマイオスに由来するとは書いてません。使っていた1年が、実際より長かった。そう書いただけでプトレマイオスを攻撃していることにはならないでしょう。ただ、プトレマイオス理論で1年を出そうとすると、計算方式はなくて、測定するしかない。、しかも、何度も書きますが、クーンの言うように、この測定には大変な困難が伴った。「1年の測定が困難だったから、改暦が遅れた」のでしょう。計測はできた。簡単だ、とかいうのなら、改暦問題は300年も放置されないはずです。その誤差は蓄積していく一方で、減ることはないのですから。当時比較的正しい1年を出した天文学者はいましたが、そもそも、その値がどれほど正しいのか検証する方法が逆にない。「正しい値がなかった」のではなく、「正しい値かどうかを検証するすべがなかった」のです。
ベーコンは確か、第1ニカイア公会議の時代に制定された春分日と、ベーコンの時代の春分日のずれから改暦の必要性を指摘したんだと思いました。ちょっとうろ覚えですが。ベーコンの提案は、130年ごとに1回分、閏年が多いというものです。グレゴリオ暦制定時は、平均して約133年に1回分の閏年が間引かれていますから、最終的にはほぼベーコンの考えたとおりの値が使われたことになります。また、ベーコンの時代、プトレマイオスは西ヨーロッパではほぼ忘れられていました。アラビアから西ヨーロッパにプトレマイオスの著書が「戻って」くるのは、大航海時代です。それもアラビア語からの重訳で、省略も多かったようです。それ以前の西ヨーロッパ世界では、惑星の動きなどは占星術に使われるくらいであまり重要視されなかったようです。「アルマゲスト」がギリシャ語原典からラテン語訳されるのは、ちょうどコペルニクスの時代、確か1515年あたりだと思いました。恐らくコペルニクスも全訳本を見て「やはりこの体系は間違っている」と確信したんじゃないですかね。逆に言うと、プトレマイオス理論は、全貌が西ヨーロッパに伝わったことが、それ自身の息の根が止まる理由になったともいえます。まあこれは私の想像ですが、そう考える研究者は探せばいるかもしれません。探しませんが。
で、何度も書いてますが、体系の中に1年がある、ないの話は、観測以外の計算法があるかないかの話です。それは何度も書いてますが、どうしてそこを無視されますか。「当時は太陽の位置を1年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなく、クーンによれば、この作業には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった」とでも書き換えますか? クーンの言葉そのものではありませんが、プトレマイオスは直接出てこないし、ここではプトレマイオスかどうかはあまり重要ではないので。そして、その後、コペルニクス説では火星や木星の観測結果から、逆に地球の公転周期を求めることができることを書き足します。Modeha 2006年6月24日 (土) 15:26 (UTC)
- ロジャー・ベーコンがプトレマイオスを知らなかったという説は魅力的ですね。それこそ学会にでも発表してもらいたいものです。13世紀にアルフォンソ10世が星表を作るときにはどうしたのでしょう?
- 『アルマゲスト』のラテン語訳はいつが最初か知りませんが、ひとつの例を挙げます。マスラマ・イブン・アフマド(Maslamah Ibn Ahmad al-Majritihmad)は10世紀後ウマイヤ朝の首都コルドバで活躍した人ですが、すでにあった『アルマゲスト』のアラビア語訳を改善。『平面球形図』の注釈も書きました。またアル=フワーリズミー(9世紀前半にアッバース朝時代のバグダードで活躍)の『天文表』をコルドバの経度に合うように改訂しました。12世紀にバースのアデラード(Adelard of Bath)がフワーリズミーやマスラマのこれらの著作、少なくとも『天文表』をラテン語に翻訳しています。チェスターのロバートも同じころレコンキスタ後のトレドに居て、アル・バッターニーのラテン語訳をやっています。以上は出典というほどでもありませんが、ウィキペディアの他には美星町天文台 星のデーターベース、矢島祐利『アラビア科学の話』岩波新書549など。アルフォンソ10世の下には、アラビア語も読める学者は居たはずですから、ラテン語訳が特に必要だったとは思いませんが。ちなみにコペルニクスはアラビア語は読めなかったし、勉強する気はなかったようですね。
- 「プトレマイオスの説では、1年という単位は宇宙の動きの中には存在していなかった」は、間違いでしょう。Modehaさんのおっしゃっていることは、「プトレマイオスの体系には太陽系というものが存在しないか、不完全であった」ということであって、それには私も同意します。太陽系がなくでも太陽は黄道をおよそ1年かけて周回しているのであり、それが1年という単位であることはModehaさんも否定なさらないはず。Shinobar 2006年6月25日 (日) 02:13 (UTC)
ギリシャ語原典が見つかるまで、西ヨーロッパで使われていたプトレマイオスの著書はアラビア語版からの訳しかありません。そして、アラビア語版はどれも、どこかの部分が省略されている不完全なものです。あるいは、数値などに写し間違いがある、あるいはあるだろうと思われていた版です。アラビア語の写本が原典に忠実であることはほとんどなかった、とは、クーンも指摘していますが? それに、そんなに重要な文献ならば、16世紀になる前にギリシャ語版が見つかってラテン語訳も出ているでしょう。いくつかの版をあげられていますが、どれもアラビア語版からの重訳のようですが。また私は、ベーコンの時代にプトレマイオスが顧みられなかったとは書きましたが、ベーコンがプトレマイオスを知らなかったとは書いていません。当時西ヨーロッパで信じられていた哲学体系はアリストテレスのそれで、Shinobar氏が指摘しているとおり、それはコペルニクスのものとは似てますが違います。ベーコンは当時、アリストテレスの哲学の専門家でもありました。何なら、アリストテレスほどにはプトレマイオスは重要視されていなかったとでも言い換えますか? どちらにしても、文章の書き換えになるような論点ではないようですが。そもそも、アラビア語訳からラテン語に重訳したアルマゲストを元につくられたアルフォンソ星表はちっとも精度が上がらない。それは、アラビア語訳からの重訳なんかに頼っているからで、本物のギリシャ語原典が破損なしに出てくればもっと精度が上がるだろう、ルネサンス期の天文学者たちはそう思っていました。ただ、実際に16世紀初頭にギリシャ語版からの訳が出ても、それはアルフォンソ星表を書き換えるほどの精度の向上には結びつかなかったわけです。
で、「1年という」うんぬんの場所は、「1年は1年以上かけて測定するしかなく....」に書き換えるのではどうですか? と聞いている部分には特にご異議がないようですが、この書き換えでよろしいですか?Modeha 2006年6月25日 (日) 03:38 (UTC)
- いちど書き換えてみてはいかがですか? 天体が日周運動、(月周運動、)年周運動をしているという認識は天動説のものでも地動説のものでもありません。地動説は日周運動を地球の自転に、年周運動を公転に帰せているものです。年周運動がいっぽう(地動説)にあって、他方(天動説)には無いかのような説明は馬鹿げているということを私は言っているにすぎません。Shinobar 2006年6月25日 (日) 08:24 (UTC)
では、そうします。Modeha 2006年6月25日 (日) 10:31 (UTC)
2006年6月25日 (日) 09:43 の改稿
- Modehaさん、お疲れさまでした。とりあえず致命的な誤りは避けられたと思います。
- 「1年の正確な長さが分からず300年間放置されていた」は、改暦の経緯の記述として正確ではないと思います。13世紀にアルフォンソ星表があり、16世紀にコペルニクスの値やら理論やらがあるが、けっきょくアルフォンソ星表に近い線で落ち着く。コペルニクスの「理論」とやらで測定を続けてその結果が出るまで改暦を遅らせよういう提案もなかった。ご紹介いただいた『暦を作った人々』はざっと目を通しましたが、改暦が13世紀に試みがありながら16世紀までずれ込んだ理由が、そういう天文学的な理由だとは、私には思えませんでした。
- 「コペルニクス説では、太陽の位置を精密に計測しなくても、土星や火星など惑星の位置の観測記録を積み重ねていけば、その結果から1年(恒星年)が算出できる。」という記述と、「コペルニクスの著書では…1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかった」という記述とに矛盾があります。どうしてそういう矛盾が出るかというと、ケプラーで精緻になった地動説と、コペルニクス説とをごっちゃにしているという点。もうひとつは、他の部分にも言えることですが、地動説あるいはコペルニクス革命についての古い見識と新しい見識とが混在しているからではないかと思います。
- たとえばバターフィールドもクーンも、半世紀前の論文です。ところが、20世紀最後の四半世紀にさまざまな研究が進んでいます。ノート:天動説#円の個数にも書いておきましたが、プトレマイオス体系の周転円は複雑さを増し「最終的には16世紀までに数十個もの円が使用されることになった」(天動説の旧記事)コペルニクスはこれをよりシンプルにした、というのは、昔の見識です。最近の見識では、コペルニクス説は「プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多い」(地動説の現記事)となっています。(クーンもこれを指摘してましたかね? クーンを読んだのはずいぶん前のことなので忘れました。)
- Modehaさんと議論を始めてから興味が湧き、本を一冊買いました。オーエン・ギンガリッチ『誰も読まなかったコペルニクス』柴田裕之訳 早川書房 (2005年)です。Shinobar 2006年6月25日 (日) 11:18 (UTC)
あれをお読みになったのなら話は少し進むかもしれませんね。『暦をつくった人々』日本語版250ページに、1412年頃、ダイイ枢機卿が、本当の1年の長さはまだ分かっていないと認めていた事実と、それが当時改暦ができなかった理由であるという内容が載ってます。そのの部分も、『暦をつくった人々』によれば、と書き足しますか? アルフォンソ星表(1252年)は出たあとの時代ですが、250ページはきちんとごらんになりましたか? 『誰も読まなかったコペルニクス』は、天球の回転についてがどう読まれたか、誰の本がどこにあって、どういう輩が工作(文字通り、紙工作)をして、存在しないはずの完本をでっちあげているのかという書誌学的に面白い本です。ただ、理論の話はあまり出てこなかったです。クーンが古い時代の人だってのは分かってますし、事実関係などで、明らかにクーンの本には書いてあるが、その後誤りだと分かった事実とかについては議論には使っていないつもりです。もっとも、私の知らないところで新発見された事実までは追い切れていない場合がありますのでそれは指摘してください。また、私はバターフィールドの話はしてません。コペルニクスで天が簡単になったとも書いてません。計算の手間は変わらないわりに、精度もたいして変わらなかったと書きました。もっとも、クーンも同じようなことを言ってますが。Modeha 2006年6月25日 (日) 11:39 (UTC)
- やはり、クーンでしたか。コペルニクスがシンプルにしたわけではないという話は。『コペルニクス革命』は自分の本棚に見付からず、図書館にも本屋にも無いので確認できませんでした。『暦をつくった人々』は読み直してみます。図書館頼みなので、明日は読めませんが。『誰も読まなかったコペルニクス』は手もとにお持ちでしょうか? 90ページあたりに、「(アルフォンソ)表が予測した惑星の位置と、実際の惑星の位置とのあいだで生じうるずれを見付けるための系統だった観測結果の記録はほとんどない。」との記述があります。そのあとに例外としてコペルニクス自身が書き込んだ火星と土星の予測外れの話が続きます。このあたりを読むと、大航海時代あるいは16世紀に、プトレマイオス体系における惑星の位置予測の外れが、じっさいに問題になっていたのだろうかと、私は疑問に思ったしだいです。著者ギンガリッチも、惑星の位置予測精度の向上がコペルニクスの研究動機にあったのかどうか疑問を持っているようです。Shinobar 2006年6月25日 (日) 13:01 (UTC)
アルフォンソ星表(や、天体予報暦)の精度向上がコペルニクスの研究の動機だとは今の版は書いてないし、私もそういう主張はしていません。天動説がだんだん信じられなくなっていく理由として、また、コペルニクスが登場した背景として、誤差の明確化があった、と書いています。直接的な理由は改暦問題でしょう。少なくとも、「天球の回転について」では、それが動機だと書いてあります。(前述の高橋のように、それに異を唱える研究者はいますが)Modeha 2006年6月25日 (日) 13:25 (UTC)
- 改暦が遅れた理由はさておき、
- 「プトレマイオス説では太陽は1日かけて地球の周りを公転する。夏と冬は太陽の軌道が変化することにより季節が生じる。」の部分は、より正しくは(プトレマイオスの)「天動説においての1年は恒星球に対する太陽の黄道上の周回で定義された。黄道面と赤道面の傾きのために季節が生じる。」です。現在の記述のどこが間違いかというと、1年の定義の話をしているのに、日周運動を持ち出していることです。天動説には天体の日周運動と年周運動の概念がそれぞれありますから、ここでは天動説の年周運動を解説するのが正しいのです。それと、コペルニクス以前は日時計で測るしかなかったみたいなイメージが頭に残っていて、この記述に現れているのではないでしょうか? 恒星年、歳差は日時計では測れません。しかるに、古代より歳差は知られていたことは御存じですね。
- ヒッパルコスをModehaさんのヨーロッパ人は都合良く忘れるのですが、じっさい、それを覚えていた古代ローマ人と、後からイタリアへやってきた人たちは違いますから、中世初期のヨーロッパは忘れたというよりも、知らなかったのです。暗黒時代と呼ばれるのはそのためです。知ったのはイスラム科学に触れてからです。中世のイスラム圏では黄道の傾斜角や、歳差などを精密に測っています。イスラム科学がヨーロッパに流入するのは十字軍がひとつの契機とされますが、もうひとつはイベリア半島におけるレコンキスタです。後ウマイヤ朝の首都がコルドバ、統一カスティーリャ王国の首都がトレドです。このトレドにイスラムの学者とともに書物が集められていました。また、アラビア語文献のラテン語への翻訳作業もここで行われます。12世紀ルネサンスの記事には、シチリア王国の首都パレルモ経由とともに、このトレド経由が挙げられています。バッターニーはラテン語名のアルバテグニウス(Albategnius)があるくらい、ヨーロッパで知られていますし、フワーリズミー、10世紀にコルドバに居たアフマド(Maslamah Ibn Ahmad al-Majritihmad)などの名前を出しました。そして13世紀にトレドでアルフォンソ10世の下、アルフォンソ星表が作られます。
- イスラム科学の圧倒に苦い思いをしたのが、たとえばロジャー・ベーコンでしょうか。ギリシア語を学べと彼が奨めたのは、それが原典だからという単純なものではないように思います。『アルマゲスト』の重訳は信用ならないというのは、自明のごとく見えますが、そのあたりの彼らの偏見が含まれているように思います。では『アルマゲスト』の原典とはどれかというと、「アルマゲスト」と呼んだ時点で、それがアラビア語で書かれたことを示していますから、妙なものです。彼らの古代ギリシアへの憧れ、傾倒はそれ以降強くなっていくのですが、現実的にはイスラム科学の成果に頼らざるを得ない。そういった状況が17世紀くらいまで続いていたということでしょう。
- 無駄話をしているつもりはありません。ルネサンス期のヨーロッパを論じるとき、イスラム科学の影響を見過ごすことはできない。また、とくに天文学と数学においてイスラム科学はあなどれないということです。オックスフォード大学博物館にあるロジャー・ベーコンの像が手にしているものは、イスラム科学の成果そのもののようですね。この像を造った人がそう考えたということですが。Shinobar 2006年6月26日 (月) 01:22 (UTC)
- 「太陽の位置を1年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。」という部分。それでは3ヶ月くらいで分かる方法があるのか? というふうに読めてしまいます。コペルニクスはすべてを等速円運動で記述していますから、それぞれの円を4分の1円程度測定して、残りを推定することもできるのかもしれませんが、もしそれができるのであれば、同じ測定結果でプトレマイオス体系の離心率やエカント点の推定に使えば、同じようにできます。Modehaさんの言わんとするところはそうではなくて、太陽系のいろんな惑星の観測結果を総合することで、より正確になるということなのでしょう。
- プトレマイオスには太陽系が無いから、それができない。では、ティコの太陽系ならばどうですか? 地球がはみ子になっている点は、まず置いておいて…。ティコの太陽系は、プトレマイオス体系と数学的には等価です。各惑星が地球から見てどの方角に見えるかに限っていえば、ですが。惑星の満ち欠けは精密に測定できませんでしたから、話を方角だけにしましょう。Modehaさんに教えていただいたとおり、「火星の公転半径を100倍しても、プトレマイオス体系では全く同じ結果になります」これを水星、金星に置き換えれば、ティコが内惑星に施した操作は、惑星が見える方角に関しては、プトレマイオス体系の結果をいっさい変えません。天動説の記事に書いたとおりです。もともと内惑星は太陽の運行に隷属していたのでした。では、外惑星は? 実はプトレマイオス体系における外惑星も太陽の運行と無関係ではありません。プトレマイオスにおける外惑星の周転円の回転角は、太陽の離心円の回転角と同じなのです。ティコは自らの太陽系を作るさいに、外惑星に関してはプトレマイオスの離心円と周転円を交換しました。ですから、図ががらっと変わっていますが、地球から見える方角を計算するのに計算順序が変わるだけで、結果は同じです。ティコが行った離心円と周転円の交換をもとに戻せば、プトレマイオスにおける外惑星の周転円の回転角が太陽の離心円の回転角と同じであることが理解できます。プトレマイオスの太陽系は、図では間接的にしか見えないけれど、数値間の関係では始めから存在していたのです。残る地球ですが、地球から太陽がどの方向に見えるかは、恒星球が限りなく大きければ、どちらが動いても同じであることは誰しもが知っていました。したがって、コペルニクスの系とティコの系はほぼ等価。同時にコペルニクスの系とプトレマイオスの系はほぼ等価なのです。あくまでも、各惑星が地球から見てどの方角に見えるかに限ってです。「ほぼ」と言ったのは、プトレマイオスのエカントをコペルニクスは小周転円に換えているからです。
- アルフォンソ星表の計算とプロイセン星表の計算とが、その手間も結果も大して違わないというのは、当り前のことなのです。各惑星が太陽の向こう側かこちら側か、各惑星の地球からの距離が星表に載っているわけではありませんから(例外は太陽と月の関係。惑星の等級というのもあるかもしれませんが)。逆に各惑星の方角だけを観測して、そのどちらがより正しいかを判別することは、「原理的に」不可能なのです(例外は恒星球の年周視差)。さすれば、地動説を採って太陽系を観測すれば、天動説に依るよりも有利であるということはまったく言えません。Modehaさんがしきりに力説されるので今まで言いませんでしたが、それは信仰であって幻想にすぎません。どうかごゆっくり、お考えください。Shinobar 2006年6月26日 (月) 02:52 (UTC)
そこまで等価を力説されるのなら、プトレマイオス体系で、惑星の位置関係から、「1恒星年」の長さを求める方法を記載してください。私は知りません。中山茂『天文学史』によれば、古代からコペルニクスまでの時代、1年(回帰年)の長さは、それ以前の時代の春分日と、その時代の春分日を比較する方法がとられてきました。そして、それ以外の方法が使われた例が記載されていません。プトレマイオスだって、ヒッパルコスの出した春分、秋分日と、自身の観測した139年の春分、秋分日の比較から、あの、不正確な1年の値を算出しています。(メトンの観測記録も使ってます)少なくとも、プトレマイオスは、春分、秋分との比較以外で1年を出す方法は提示していません。等価な体系なら、コペルニクスと同様に1年を算出できるはずです。ただ、プトレマイオス体系ではどうがんばっても惑星の位置から1年を算出することはできなかった。そこがコペルニクス説との根本的な違いだと何度も書いているのですが、どうしてまた等価だとかいう誤った認識を復活させるのか私には分かりません。「1年以上かけて」が気にいらないのでしたら、「100年以上かけて」に書き換えますか。実際、ずれが1日以上になるには130年はかかるわけですし、100年以下の短期間の比較で1年を出した例は、『天文学史』にはありませんでした。(ただ、春分、秋分を、1日ではなく、数時間単位でもいいから厳密に計れれば、この期間は若干短縮できます)なお、マヤ文明ではグレゴリオ暦よりも正確な365.242日という1年を使っていたそうですが、算出方法は不明だということです。それに、マヤ文明がコペルニクス説登場に影響を与えたわけではないのでこれはこの議論では脇においてよいでしょう。
ティコの体系は、コペルニクス体系とほぼ等価ですが、ティコの体系はプトレマイオスのものとは違います。ティコの体系では、コペルニクスの体系と同様に1年の算出が可能ですが、何度も書きますが、プトレマイオスの体系ではそれはできません。できるというのなら、やった人か算出法を提示してください。
『誰も読まなかったコペルニクス』をもう一度開いてみました。けれど、Shinobar氏の引用のすぐあとには、こんな文字がありました。「だが、」そして、重大な例外があると指摘しています。氏が引用した部分は、「アルフォンソ星表の誤差について述べた文書はあまりない」ということが言いたいのではなく、「1504年、アルフォンソ星表の誤差について、コペルニクス自身がメモを残していた」という、全く逆のことが言いたかった、その前段部分のみを引いているというのが分かりました。つまり、コペルニクスはアルフォンソ星表の誤差について、十分な認識を持った上で自説を打ち立てたことになります。ただ、コペルニクス自身が星表の改訂という方向に向かわなかったのは不思議だと、著者のギンガリッチは言ってますね。いずれにしても、アルフォンソ星表の誤差が、コペルニクス説登場の背景として存在したことは、この文献(『誰も読まなかったコペルニクス』)でも裏付けられました。たいして観測が得意じゃなかったコペルニクスが、2度とか1.5度とか具体的に誤差を記述しているのだから、アルフォンソ星表の誤差は、星表を見るような職業の人には十分すぎるほど認識可能だったということもこれで分かります。
それと、クーンをもう一度見返したら、そういうことを言っている部分はありませんでした。クーンは、プロイセン星表でだいぶ精度が上がったと思っていた時代の人のようです。ただ、そういう書き方は私はしていません。何度も書きますが、精度はたいして上がらなかったと書いています。
氏がどこを私の妄想と指摘しているのかまだ分かりませんが、いずれにしても、どの部分がどの研究者の指摘だったのかは提示しました。もし妄想だとすると、私ではなく、それぞれの研究者の妄想でしょう。そうでなかったら、私が考えもつかないような誤った読み方をしているのかどちらかです。ただ、私は、Shinobar氏が引いた『誰も読まなかったコペルニクス』のような引き方はしていないつもりです。どちらにしても、何かが妄想だというのでしたら、その主張を裏付ける根拠文献を提示してください。氏が指摘した『誰も読まなかったコペルニクス』の該当部分は、氏の主張を裏付けるものではないことは、前段でご説明いたしました。Modeha 2006年6月26日 (月) 10:58 (UTC)
- 暦の1年を決定するには長年観測するしかないでしょう。年毎の変動がある中で、「平均」が欲しいのですから。「1年以上かけて」を「100年以上かけて」に書き換えるのも妙案かもしれません。それは天動説であろうと地動説であろうと、コペルニクスでもケプラーでも同じです。
- コペルニクス以前は日時計で測るしかなかったと、やはり思っておられるのですか? 日時計で歳差は測れないというのはいいですね? ヒッパルコスが歳差を知っていたというのもよいでしょうか? バッターニーが歳差を精緻に測っていたというのも? バッターニの著作が多くラテン語に翻訳されていたことも?
- 以上のうちのどれかを疑うか、イスラム科学が知っていた太陽が恒星球の上でどこに位置するかを知る方法を、そんな大事なことを例によって当時のヨーロッパ人は見落としていた。あるいは、その後の科学史家がそれを見落としていたかということになります。
- 私の想像ですが、ヨーロッパの一部の歴史家はヨーロッパの科学に与えたイスラム科学の役割を、意識的にネグレクトしているのではないでしょうか? アラビア語文献をラテン語に翻訳した人で名前が挙がるのは、たいていイギリス人であるというのも、気になってます。どうもイギリス人が書いた歴史ではないかと。12-13世紀のトレドの翻訳チームがイギリス人ばかりだったと想像できますか?
- 惑星の観測で太陽の運行を知るということが、コペルニクスの体系でできるのなら、プトレマイオスの体系でもできるはずだということを私は言っています。まずコペルニクス体系でそれができる方法を教えてもらわねばなりませんが、きっと難しくて私には理解できないでしょう。それで私なりに簡単に考えてみます。コペルニクスでもティコでもよいが、地球起点のティコのほうが言葉が少なくてすむでしょう。
- たとえば金星の動きを観測していて、近い2点を結んだ線を2分する垂線を立て、次の点を観測してまた同じことをすると、3点から2本の垂線が立てられて、その公転に太陽が居る。これを連続的にやれば太陽の軌跡が描けます。それぞれが単純な円だとそれで良いのですが、実際はいろいろと補正がはいるのでしょう。まあ、イメージですから、そこいらでかんべんしてください。次にプトレマイオスで同じことをします。そうすると太陽軌道ではなく、別の円軌道、金星の離心円が描かれます。そこに金星の周転円の中心があるのでした。地球からそちらへ線を引くと、その延長線上に太陽が居るはずです。どうせ方角だけが問題なので、太陽軌道はどこか地球から適当な距離で決めて構いません。離心率の話は細かくなるので置いといて。
- 火星でこれをやってみましょう。ティコでは金星と同じ手順で太陽の位置が分かります。プトレマイオスでは近い3つの観測点から火星の周転円の中心Oが出ます。ところが、そこへ向けて地球から線を引いても、そこには太陽は居ません。この場合は、周転円の中心Oからひとつの観測点Aへ向かう線を、地球の位置に並行移動します。Oを地球の位置O'へ移し、並行移動してきたA'への線を延長したところに太陽が居ます。
- 観測データーに地球との距離が付いているわけではないので、以上のような作図は実際にはできません。演算手順のイメージです。
- ところで、ティコのモデルで地球から見える各惑星の方角が、プトレマイオスのものと「まったく」同じであるということは理解されているでしょうか? ティコがプトレマイオスをどう変換したかをもういちど追っかけても分かりますが、そうしなくとも、それが同じでないならば、ティコの太陽系はただちに否定されるはずです。あるいは同じでないならば、ティコはより正確な測定結果を持っているのですから、自分のモデルの証明にそれを使えたはずです。彼は地球から見て同じように見える、プトレマイオスとは異なる宇宙の姿を考えたのです。それが自分の観測結果と合っていたかというと、合っていません。それは(5惑星に共通の)離心円や周転円(太陽に対する公転円)、エカントなどでは近似しきれなかったからです。
- ティコの太陽がもし、公転速度を上げたとしたら、どういうことが起こるでしょうか? 太陽系の他の惑星もそれに連れて引っ張られるように軌道を変えますよね。ですから、惑星を監視しておれば、太陽の異常(実際は地球の公転の異常ですが)分かるというものです。
- プトレマイオスの太陽が動きを早めたら、どういうことが起きるでしょうか? 内惑星もそれに引っ張られて軌道を変えます。外惑星は? その周転円を回る速度を早めます。
- モデルのどこを動かせば、観測結果はどう動くはずだということが分かっていれば、観測結果から逆にパラメータのどこが動いたかが分かります。Modehaさんがおっしゃられていることはそうでしょう? プトレマイオスでも太陽がどう動けば5惑星がそれぞれどう動くかは予測できます。それが、惑星を観測して太陽の動きを知ることができるということの意味です。Shinobar 2006年6月26日 (月) 14:03 (UTC)
『誰も読まなかったコペルニクス』に関する私の指摘はどうなったでしょうか。それと、何度もかきますが、16世紀前半の数学技術で、プトレマイオス体系のみを使用し、1年の長さを算出してください。ティコの体系はまだありません。ティコの体系は、コペルニクスのそれを改変したもので、ティコのオリジナルではありません。コペルニクス理論から導き出される亜流の体系です。念のために書いておくとクーンはそう言っています。クーンも、ティコの体系は幾何学的にはコペルニクスのものと同じだと述べていますが、プトレマイオスと等価だとは言っていませんし、多分、ティコも言っていません。クーンは、ティコの体系はアリストテレス-プトレマイオスの宇宙の放棄を読者である天文学者たちに迫り、実際そうなったとは書いてますがね。ティコ本人が、自身の体系はプトレマイオスのものと等価だと言っていたのだとしたら、どの文献にそれが記述されているのかを提示してください。ヒッパルコスの歳差の言及は当然知っています。だからこそ、恒星年と回帰年に差が出るのです。ただし、この2種類の1年に差があることは、古代エジプトでは知られていました。有名な、夜明け前にシリウスが出ることを基準にした場合、恒星年と回帰年の差で数百年後には大きな差が生まれます。だからといって、16世紀初頭の西ヨーロッパ人がどこまでそれについて知っていたのかは分かりませんがあまり知られてはいなかったんでしょうね。前にも書きましたが、ヒッパルコスはそう言ってるっていうけど、ほんとかなあくらいの認識だったんじゃないですか? 別にアラビア科学をないがしろにするわけではありませんが、コペルニクス理論の重要なヒントとかがアラビアで生まれてそれをコペルニクスが知っていたとかいう話でもない限り、地動説の記事内にわざわざ書く必要はないでしょう。天文学とかそういう記事で書けばよろしいのではないですか。Modeha 2006年6月26日 (月) 14:19 (UTC)補記Modeha 2006年6月26日 (月) 14:21 (UTC)
ちょっと整理
- また長くなったので、区切りを入れます。2006年6月25日の記事で私がおかしいなと思うところは次のような部分です。
- 「1年の正確な長さが分からず300年間放置されていた」
- 「コペルニクス説では、太陽の位置を精密に計測しなくても、土星や火星など惑星の位置の観測記録を積み重ねていけば、その結果から1年(恒星年)が算出できる。」という記述と、「コペルニクスの著書では…1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかった」という記述とに矛盾があります。
- 「プトレマイオス説では太陽は1日かけて地球の周りを公転する。夏と冬は太陽の軌道が変化することにより季節が生じる。」の部分は、より正しくは(プトレマイオスの)「天動説においての1年は恒星球に対する太陽の黄道上の周回で定義された。黄道面と赤道面の傾きのために季節が生じる。」です。
- 「太陽の位置を1年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。」という部分。
- 「(破綻が)明確化するのは、大航海時代である。」
- これらを個々に取り上げてきましたが、まずプトレマイオス体系に対する誤解を解かなければなりません。ところが、それはどうも誤解というよりも、偏見ではないか。すなわちそのバックの地動説信仰あるいはコペルニクス信仰を解かないことには記事の改善が望めないのではないかと思うようになりました。地動説信仰と私が呼んだものは、一部の歴史家によって作られているというのが私の仮説です。この信仰は、コペルニクス以前は無知だったと強調することで維持されます。科学史の分野でそれが見直しされてくる様子は、「12世紀ルネサンス」などに現れています。
- 地動説信仰によるプトレマイオス体系に対する偏見は、上記の2に典型的に現れています。コペルニクスの著書でそれができないことを「知っている」のに、算出できると「信じたい」。また、注意して外惑星だけを挙げているのは、プトレマイオス体系で内惑星と太陽の運行は関係していることを「知っている」ので、内惑星を挙げるとプトレマイオス体系でもそれができることに触れなければならないが、それを「認めたくない」ので内惑星については避けておく。
- 1254年に完成し、その後メンテを受けていたかもしれませんが、1627年にルドルフ星表が出るまで300年以上を生き延びたアルフォンソ星表の計算プロセスを想像してみてください。まず太陽の(赤経赤緯上の)位置を決めます。これを使って次に内惑星の位置を。外惑星の計算には周転円の角度にさきの太陽の計算結果を使います。つまり、太陽→5惑星と計算するわけです。この逆算が当時の数学技術でできたかとのお尋ねですが、それができなければ、離心率とかエカントだとかのパラメーターの決定ができないです。それらの数字はイスラム科学で計算されたものを鵜呑みにした可能性はあります。でもsin,cos,tanを振り回して順算ができたのだから、逆算も可能でしょう。パラメータを変えながら順算を繰り返すという手もあります。それを当時の人がやろうとしたかどうかは別問題です。体系がそれを可能にしているか、不可能かを論じているだけです。コペルニクス体系でそれが可能ならば、プトレマイオス体系でも同じことができるということを指摘したのです。さきの信仰が、プトレマイオス体系での惑星はそれぞれ独立して動いているという、誤った「思い込み」を作っていることへの反論です。
- 『誰も読まなかったコペルニクス』の読み込みについては、著者の意図にかかわらず、書かれていた事実を材料に使うことは可能です。私はそのつもりで引用しました。Modehaさんが紹介してくださった事実を使って議論を展開しているとおりです。著者の意図について言えば、同書91ページ「表の誤りも十分認識していた証拠は固い。」の次の「だが」に注目してください。著者の言いたい結論は次の段落、すなわちこの「周転円神話」と題された第4章の最終段落「コペルニクスもその先人も、予測の精度をわずかばかり上げるためだけに、円を追加する気などなかったのは明白だ。」つまり、火星や土星の1度か2度の差をコペルニクスは知っていたのに、それを改善する努力がみられない。けっきょく自説を展開する理由は別のところにあった、ということだと思います。Shinobar 2006年6月27日 (火) 00:18 (UTC)
では、それらの主張が、ご自身の妄想ではなく、その他の研究者の研究結果であるということを明示してください。これについては何度も書いていますがいまだ提示がありません。単なるあなたの主張や妄想ではないということが分からないと、記事に取り込むことはできません。それは何度も書いています。私の執筆部分が、私の妄想ではないことは、既に、それらに言及した論文があるという形で明示しました。Wikipediaで記事を編集なされるつもりでしたら、Wikipediaがどのような編集を受けて入れているのかを認識した上で行ってください。事実関係の話はえんえんと書いてきたことの蒸し返しなのでもうしません。私があれこれ説明しても、必ず違う話や蒸し返しの話をされて、こちらの疑問にはお答えいただけない。それでは議論にはなりません。一方的に私があなたの質問に答えているだけです。そして、Wikipediaは、あなたの理解の範囲を超えた記事がはるかにあり、だからといってそれがその記述を排除する理由にはなりません。
私が、そして全世界のウィキペディアンが要求するのは、「あなたの主張ではない」ということを証明する、あなた以外の言及です。それも、クーンや中山茂や大沼正則よりもより信頼に値すると考えられる人物が、あなたと同じ説を打ち立てたという文献を提示してください。あなたは、私の要求に何も答えようとしない。「可能でしょう」とかいうのはあなたの希望であって、事実とは異なります。事実というのでしたら実際に計算した結果を提示してください。あなたに計算ができなくても、そんなに簡単にできるのならば、他の研究者の誰かがやっているでしょう。私はここでいったん、あなたの質問に回答するのを停止します。今度は私が聞く番です。私の質問にお答えください。ひとまずお聞きするのは下記の1点に絞ります。
「プトレマイオス体系で、1515年以前の数学、科学理論、技術、惑星の観測記録を元に1年(恒星年)が計算できる」という研究結果が、いつ、何という研究者によって発表されたのか、それを提示願います。Modeha 2006年6月27日 (火) 11:15 (UTC)
- 私が新しい主張をしていますか? たとえば 「コペルニクス説では、太陽の位置を精密に計測しなくても、土星や火星など惑星の位置の観測記録を積み重ねていけば、その結果から1年(恒星年)が算出できる。」という記述と、「コペルニクスの著書では…1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかった」という記述に矛盾がある。これではこの記事を読んでも意味が分からないでしょう。こういう矛盾が出るのは、こういう思い違いをなさっているのではありませんか? ということを説明しているだけです。お急ぎにならず、また時間のあるときにこのノートを読み返し、ゆっくりとお考えください。私も気長にやるつもりです。Shinobar 2006年6月27日 (火) 12:40 (UTC)
その部分も既にお答えしました。もう一度というのならまた書きますが、コペルニクスは1年の値を算出するために便利な観測記録のみを集めて計算しました。そして、著書は、1年の値を決定するところまでで終わっていて、「何年何月にここに土星がいるはずで、地球はこの位置にあり、従ってこの方向に土星が見える」というのは、コペルニクスの著書だけでは分からないのです。晩年の著作ですし、そこまでは書き切れなかったのでしょう。ただ、全巻を読み通せば、その原理を使って位置計算をすることはできます。だからこそあとからプロイセン星表が作られたのでしょう。その2文は、どこも内部に矛盾を含んではいません。あと、念のために書いておくと、後段部分は全部を私が書いたわけではありません。私が書いたものに、他の方がだいぶ付け加えをしています。で、もう一度書きますが、あなたの主張が既に発表された学説であるという根拠を提示してください。Modeha 2006年6月27日 (火) 13:38 (UTC)
(追記)後段部分についてもうちょっと説明すると、コペルニクスの著書は、「理論書」です。しかし、当時のほとんどの天文学者が欲しがっていたのは、「この式にこういう数字を入れて計算すると、土星の位置が出る」のような、より実用的な星表でした。アルフォンソ星表やプロイセン星表がこれ(星表)にあたります。この星表を元に、天体暦が作られます。天体暦は一般人、主に航海者などが買って船に積み込んで使います。天体暦は「1月1日には土星はこの位置、火星はこの位置、月齢はいくつ、1月2日には何時頃に日食がある」みたいのが365日分ずらずら並んでいる文字通り暦です。コペルニクスの著書には、「星表」に当たる部分がない純粋な理論書の形態をとっていて、「ほら、コペルニクスの本を使えば、惑星の位置がこんなによく出る」というふうな直接的な形で自身の説の正当性を証明できなかった、というのが、今書いてある文の意味です。そういう書き方のほうがいいのなら書き足しますが、まず、星表と天体暦の説明からしなきゃならないし、この項目にその説明を全部繰り入れなきゃならないかというとそうは思いません。Modeha 2006年6月27日 (火) 13:59 (UTC)
- プトレマイオス体系で惑星の観測から太陽の位置を知る法は、「そこまで等価を力説されるのなら、プトレマイオス体系で、惑星の位置関係から、「1恒星年」の長さを求める方法を記載してください。」というModehaさんの求めに応じて、私の無い知恵を絞って説明を試みたものです。理解されないのならそれまでです。
- 上記のご説明は、どなたが書かれたか現行記事の「コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』が作られたが、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説とたいして変わらなかった。」の記述もご不満ということですか?
- 私の素朴な疑問は、プトレマイオスでは惑星の位置は不正確、コペルニクスでも不正確、なのにプトレマイオスではできないが、コペルニクスでは惑星の観測から太陽の位置が分かる、というのが奇妙に見えるのです。「Aの体系はX→Yがちゃんと出ないため、Yを知ってもXは知り得ない。Bの体系だとX→Yがちゃんと出るので、Yを知ってXを知るころができる」なら理解できます。「完全に正確とは言わないが、A体系でもB体系でもX→Yはそこそこ出ますよ」と言うならば、A体系でもB体系でもYを知ってXを知ることができるのではないかということです。Shinobar 2006年6月27日 (火) 14:45 (UTC)
- 今日、Modehaさんにご紹介いただいた、高橋憲一訳・解説『コペルニクス・天球回転論』みすず書房(1993年)が届きました。高橋の天動説の解説は詳細なもので、よく勉強して天動説の記事に反映したいと思います。ご紹介ありがとうございます。
- この書が『アルマゲスト』を解説するp132に、「この惑星理論が、暗黙的にではあるが、太陽の運動に関連していることに注意する必要がある。」として、たとえば外惑星について周転円の半径を示す線分が、太陽の方向と並行になっていることを説明しています。内惑星はすでに導円側で一致してますから、この理論で「太陽がすべての惑星理論に関与せざるをえなくなっている事実は特筆すべきものである。」と高橋は書いています。p133には「地動説と天動説の両モデルは幾何学的に等価だからである。」という言葉もあります。手元にある別の本『誰も読まなかったコペルニクス』p72「イームズは、どちらのモデルも同じ結果を導かなければおかしいことを知っていた。」などからも、私はこれが高橋のユニークな主張だとは思いません。Shinobar 2006年6月28日 (水) 07:36 (UTC)
お手元にあるのならそれを使って説明しますが、「プトレマイオス説とコペルニクス説が幾何学的に等価」というのは、132ページから133ページに載っています。で、「幾何学的に等価」なのは確かにある意味事実なのですが、それには条件がつきます。それは、「地球以外の惑星が1個しかないこと」。もし、2個以上の惑星があると、それが成立しません。そしてそこが、プトレマイオス説とコペルニクス説の全く異なる場所なのです。そして、地球以外に2個以上の惑星があるとき、188ページにある式が成立します。そして重要なのは、外惑星3つの周転円の周期が、全部「1地球年」で、それぞれの周転円が成す角が、惑星の種類によらず同一だということです。コペルニクスは、外惑星それぞれにある3つの周転円が全部「同じ」ものなのではないかと考えました。前述のとおり、プトレマイオス体系では、導円・周転円の半径を同時に200倍しても、計算結果は同じになります。逆に言うと、全部の周転円の半径が全く同じになるようなシステムを組むとどうなるでしょうか。もちろん、各惑星の軌道が入り乱れてしまいますが、そこで133ページ(または185ページ)にある変換を行うと、それだけでティコ・ブラーエの体系が出てきます。(内惑星の説明は省略)非常に簡単に言うと、何故、コペルニクス理論では惑星の公転周期が厳密に出るのに、プトレマイオス体系では出ないのか、というのが、そこに集約されます。もう一度書きますが、「プトレマイオス体系とコペルニクス体系が幾何学的に同価になるのは、地球以外の惑星が1個しかないとき」だけです。もし、そういう太陽系に人類が生まれていたら、コペルニクス的な理論が成立するのには相当時間がかかったでしょう。この部分は、クーンが長大なページを使った上で、素人の読者にはここが分からなかった、と、半分説明を投げているような部分です。(『コペルニクス革命』274ページ)クーンがあれだけのページを使って説明しきれないものを、私にweb上で説明しろといわれても、それは願い下げです。同じデータが与えられても、体系Aでは惑星の公転周期が算出でき、体系Bではできないことは事実として存在するということです。それはあなたの理解の範囲を超えているかもしれませんが、世の中はあなたが理解できている現象だけで成立しているわけではありません。また、Wikipediaは、あなたが理解できないものを導入できないというルールもありません。ただ、「素人の読者」にとってわかりやすいだけの説明が、同時に事実を伝えられるかというとそうではありません。「自分にとってわかりやすいものを信じる」というのは、哲学として存在することは可能ですが、その信じるものが事実であるという保証はないのです。プトレマイオス体系では、地球の1恒星年を惑星の観測記録から厳密に求めることができない。理解しがたいかもしれませんが、少なくとも、『コペルニクス・天球回転論』にはそこはちゃんと出ています。
その他の指摘についてはもう既に何度も説明をいたしましたので省略します。1年の長さが分からなくて300年放置されていたのは、あなたにとって理解しがたいでしょうが、厳然たる事実です。仮にアルフォンソ星表の値がどんなに正しくても、200年後の改暦委員会が、「どの値が正しいんだろう?」と考えたときに、確かめるすべがなければ使えません。『天球回転論』87ページをごらんください。何人もの天文学者が出した1年の長さが、コペルニクスによって提示されていますが、どれが正しいのか、この時点でコペルニクスは分かっていません。『暦をつくった人々』250ページもまた参照してください。ダイイ枢機卿は、(もうアルフォンソ星表はあった時代なのに)1年の長さが分からなくてさじを投げています。1年の長さの厳密な決定には、分点の観測を数百年行う以外に方法がなかったのもまた事実です。あなたには理解しがたいかもしれませんが、プトレマイオスのやり方はそうです。(マヤ文明については不明)そのほかの疑問についても、ほとんどは私の過去の発言に答えが載っています。
ところで、指摘部分の後半は、コペルニクスの書は理論書で、簡易に計算ができる星表や、見るだけで惑星の位置が分かる天体暦もついていなかったので、その書だけで説の信憑性をすぐには証明できなかった、という説明をしましたが、それにはご異議はないですか? ないようでしたら記事に繰り入れます。いろいろいじりましたからそのうち天動説のほうもいじらなければならなくなりそうですが、それは地動説のほうがひときりついてからにします。Modeha 2006年6月28日 (水) 12:14 (UTC)
- 「コペルニクスの書は理論書で、簡易に計算ができる星表や、見るだけで惑星の位置が分かる天体暦もついていなかったので、その書だけで説の信憑性をすぐには証明できなかった」という説明を記事に繰り入れるんですか?
- そうすると、「コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』が作られたが、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説とたいして変わらなかった。」との現記述との関係はどうなるんでしょうか?
- ともかく、記事全体の整合性をとりつつ、私ども素人にも分かった気にさせる記事を期待します。 Shinobar 2006年6月28日 (水) 13:32 (UTC)
今まで惑星の位置予報にはプトレマイオス体系しか使えなかったものが、コペルニクス体系が出てきて、だいたい同程度以上の精度で位置計算ができるようになった、という意味で、別に矛盾は生じていませんが。むしろ、今まで1体系しかなくてそれしか信じるものがなかったものが、同程度以上の精度で別体系が出て、天文学者が体系を「選べる」ようになったのが16世紀の大きな変革点でしょう。この時点で、唯一信じられていたものが、唯一でなくなったのだからそれで十分です。
精度がたいして変わらなかった、という場所は、『コペルニクス・天球回転論』から引いたのですが、『誰も読まなかったコペルニクス』のギンガリッチは全く逆に、プロイセン星表のほうが精度がよかったので、16世紀にはアルフォンソ星表を駆逐したようなことを書いています。私は、ギンガリッチのほうがより信用できると思います。というのは、『天球回転論』で高橋が引用したデータは、ほかならぬ、ギンガリッチのものだからです。当時の天体暦を系統的に集めて調べている人のほうが言っているのだから、そこはギンガリッチ説も取り入れるべきでしょうね。この部分も次回の改訂に使います。『誰も....』は前読んでいたのですが、天球回転論のほうのデータも同一人物のものだということには当時気付きませんでした。Modeha 2006年6月28日 (水) 13:44 (UTC)
(追記)アルフォンソ星表よりもプロイセン星表のほうが精度がよいという言及は、『誰も読まなかったコペルニクス』246ページ及び344ページにあります。Modeha 2006年6月28日 (水) 13:54 (UTC)
- 同じデーターを前にして、ギンガリッチは「『アルフォンソ表』をしのいだ」と言い、高橋は「決定的に優れていたとは到底いえない」と言った。同じことをどの側面で述べるかであって、どちらを信じるかという話でもないでしょう。Modehaさんがおっしゃるように、プトレマイオス以外の体系でも同程度以上の精度が出ることを示せたということではないですか。そのためにコペルニクスは、近似のための円の数を増やさねばならなかった(34→48)のでしょうね。とくに地球は3→9へ(高橋、p191)。コペルニクス体系では地球軌道が、他のすべての惑星の視方向に影響を及ぼすのが(あたりまえですが)よくわかります。
- 「場所を譲った」かというと、どうでしょう?
- プロイセン星表は1551年初版、1571年に改訂版。
- ルドルフ星表は1627年初版。
- アルフォンソ星表は1254年に登場。活版印刷は1483年初版、改定増刷は1641年まで続きました。
- 以上、ご参考まで。Shinobar 2006年6月29日 (木) 00:37 (UTC)
アルフォンソ星表が17世紀初頭まで使われていたことは分かっていたのであの書き方にしました。しかし、増刷回数や年とかはあまり参考にはなりません。それを言うなら、『アルマゲスト』日本語版は1980年代になってようやく発刊されています。『天球回転論』の巻末文献解題で提示されているギンガリッチの論文はすべて1988年以前の古いものです。『誰も読まなかったコペルニクス』は原著2004年ですから、ギンガリッチがその後研究を進めた可能性はおおいにあります。どちらにしても、現在の表現を減らさずに、ギンガリッチは精度が上がったと言っているくらいのつけたしをするのは問題ないでしょう。いずれにしても、アルフォンソ星表よりプロイセン星表のほうが幾分は(それが、体感できる程度だったのかどうかは別として)精度がよいのは事実です。『天球回転論』を見ても、アルフォンソ星表では最大6度の誤差が出るのに対し、プロイセン星表のほうは最大でも4度程度です。
1体系しか計算の方法がなかったのが2体系になって選べるようになったのが重要だというところは反論なされていないようですが、そういう形で書き換えるということでよろしいでしょうか。Modeha 2006年6月29日 (木) 11:23 (UTC)
- 「1体系しか計算の方法がなかったのが2体系になって選べるようになったのが重要」は、まったくもって賛成です。
- これから先は私の推論になりますが、コペルニクスは、プトレマイオスだけではなく過去の論者の宇宙論(パドヴァ大学でいろいろ聞いたのでしょう)が複雑怪奇なのに我慢がならなかった。そこで太陽中心の太陽系という概念を思い付いたか、飛びついた。これが真理に近いのならば、惑星の不思議な動きもすっきりと説明できるはずであった。しかし、やってみると、プトレマイオスと大して変わらない。それではと、彼は周転円の数を増やした。プトレマイオスとコペルニクスの予測を並べた図(高橋、p191)をよく見れば、それぞれの周転円の数の効果が見て取れます。しかし、彼がそこで勝負をしようというのは間違っていた。なぜかというと、地球から見た惑星の方向に限って言えば、天動説でも地動説でも、幾何学的に等価だからです。Shinobar 2006年6月29日 (木) 11:56 (UTC)
書き換えました。指摘部分で改訂が必要な部分としては、太陽の位置が戻ってくるのが1年という部分くらいだと思いますが、これは「天球上で太陽が同じ位置に戻ってくるまでが1年」くらいに書き換えれば意味のあいまいさはなくなると思います。Modeha 2006年6月29日 (木) 12:51 (UTC)じる。」
- 現在の記述のどこが間違いかというと、1年の定義の話をしているのに、天動説の年周運動ではなく日周運動を持ち出していることです。Shinobar 2006年6月29日 (木) 13:11 (UTC)
天動説の破綻
- Modehaさん、お疲れさまです。 2006年6月29日 (木) 12:30 の加筆は良いものだと思います。
- 残る問題は概要にある、16世紀に天動説は破綻していたのか? という点です。現記事は破綻の理由を3つ挙げています。しかし、素人の私にさえ疑問を起こさせる、説得性の無い議論です。これらを主張している人が居るとしても、通説とは思えません。引き続き、ぽちぽちやりましょう。
- 惑星の明るさの変化を説明できない?
- 大航海時代に惑星の位置の数°単位での誤差が深刻であったか?
- ユリウス暦はプトレマイオスが生まれる100年前にできた暦ではないか? また、最終的に天動説で片付いたではないか。
惑星の明るさは何度も書きました。プトレマイオス体系では地球から最も離れたときに衝の位置に来る構造になっています。逆に、衝のときに一番近くするモデルもあるのですが、それだと惑星の位置の誤差が出ます。どちらにしても、問題点としてそういうものがあったというつけたしの理由で、メインの理由は別(改暦問題その他)です。
深刻かそうでないか、よりは、アルフォンソ星表から算出されたのよりもより精度のよい天体暦が要求されていたのは時代背景として事実でしょう。それは何度も書きますが私の主張ではありません。高橋はそうじゃないとは言ってますが、彼の主張だと南洋航海に対する説明がありません。また、アルフォンソ星表が実用上十分なほど正確なものならば、そもそも、ラインホルトがプロイセン星表をわざわざ作る必要性がありません。実際にはコペルニクスが説の構想を立てた1514年頃とプロイセン星表の1551年はちょっと年が離れていますが、1514年には不要だったものが突然1551年に作られる意味がありません。。『天球回転論』169ページによれば、コペルニクス自身も、恐らく、自身の説を使って1535年に天体暦を作っているそうです(現存せず)。紹介者が「最も信頼できる」とか書いているということは、この紹介者(ベルナール・ヴァポウスキ)にとってはアルフォンソ星表から作られた天体暦の誤差には我慢ならなかったのでしょう。なおこの人は地図作製者だそうです。地図作成となると、天体暦に航海並の精度を要求していたのでしょう。『誰も読まなかったコペルニクス』91ページには、コペルニクスがアルフォンソ星表の誤りを十分認識していたと考えられると述べられています。最後以外は、動機づけの証拠としては弱いかもしれませんが、その他の研究者の言及でそれは足りると思います。高橋自身も、「大航海時代がコペルニクス説登場の背景にある」という説があることはことは認めているわけですから、「そういう説がある」という形で記事に導入するのは全く問題ありません。
ユリウス暦の誤差がプトレマイオスのせいだとは私は言っていませんし、記事にもそうは書いていません。改暦問題がきっかけとなって、コペルニクス説が登場することになった、と書いています。そして、そういう言及を行った研究者の名はいくつも挙げました。そういう説がある以上、それを記事に入れることは問題ありません。それに、受け入れられていないような特殊な説でもありません。また、改暦委員会が、コペルニクスの値と著書を改暦に使ったのは事実です。「コペルニクス説がなかったら改暦できなかった」とか、「コペルニクス説が登場したおかげでようやく改暦を行うことができた」は書いてませんしそういう主張もしていません。そう読めるのでしたら読み違いです。なるべく読み違いがなくなるようには努力して記事を書いたつもりですが、これ以上の説明はこの箇所では不要だと考えます。それとこの質問に関しても以前既に答えています。Modeha 2006年6月29日 (木) 14:30 (UTC)
- うまく纏めていただきました。細かいところで私が言いたいことはありますが、Modehaさんがここで纏められた認識は、私のものとそう遠くないものです。すると、Modehaさんの認識と現記事の概要部分が異なっているか、私が読み違いをしているかです。私が記事を読み違えているのならば、できればそれを防ぐような書き方をされるよう希望します。
- 現記事を私はこう読みました。「16世紀に至るまで…天動説は当時からおかしなところ…惑星の明るさ…破綻…が明確化するのは、大航海時代である。…さらに…1年の長さ…」。これらの文章は「惑星の明るさ、航海術、暦の3つのボロで16世紀に天動説は破綻した」と読めました。
- Modehaさんがこのノートで示された認識、「16世紀に問題と考えたコペルニクスがいたから、地動説が生まれ、そして17世紀に完成した」は、私もそのとおりだと思います。ひとつは「破綻」という言葉をどう使うかです。天動説の現記事はこうなっています。「16世紀に…天動説を脅かす事件は続いた。…そして破綻は17世紀にやってきた。」。もうひとつは、暦に関する書き出しの「さらに」の使い方でしょうか。
- 暦に関する記述は2006年6月25日の改稿で改善されたものの、まだいくつか問題を残しています。
- 改暦が遅れた主原因は何か?
- プトレマイオス説の一年の説明に日周運動を使っている。
- プトレマイオス体系で1年を決定するのは、それほど困難なのか?
- 最後の問題について、Modehaさんはノートでこうおっしゃっています。「プトレマイオス体系ではどうがんばっても惑星の位置から1年を算出することはできなかった。そこがコペルニクス説との根本的な違い」
- その重要性を続く段落で指摘したいがために、改暦問題を述べる段落にその伏線を混入しようとするところに問題が生じているのではないでしょうか?
- グレゴリオ暦の策定に、その方法はまったく使われていません。また、その後21世紀に至るまで、どの暦にも使われていません。コペルニクス説によって惑星の観測から算出できるのものが、恒星年なのか回帰年なのか存じませんが、グレゴリオ暦は恒星年を捨て、回帰年を採りました。また、回帰年の変動に対しては平均年を採る立場でした。コペルニクスが回帰年を測定したのは、自ら分点の測定(改暦委員会のダンティも同様に分点、至点を観測した)、平均回帰年は先人のデーターとの突き合わせでした。コペルニクスが恒星年を測定した方法は、『コメンタリオルス』でコペルニクス自身が書いているように、惑星の観測ではなく、恒星「乙女座のスピカ」(高橋、p88)を観測したのであって、すなわち古代エジプトでシリウスを観測したのと同じ方法です。Shinobar 2006年6月30日 (金) 02:47 (UTC)
それぞれの疑問点は、どうぞご自身で解明してください。それらは記事の内容とは関係ありません。専門家が専門家相手に専門書で数百ページ使って説明しているものをここで私が説明しきれるとは思えません。手がかりとなる文献は提示しました。そういう説が唱えられている以上、Wikipediaで「改暦の遅れがコペルニクス説が生まれた理由」とか「プトレマイオス説では惑星の位置観測から地球の恒星年を算出できない」と書くことは問題ありません。何度も書きますが、Shinobar氏が理由が分からないことは、記事内からその内容を排除する理由にはなりません。
グレゴリオ暦に関する部分は、そういうことでしたら「改暦委員会はコペルニクス説は直接は使用していない。ただし、実際の改暦の際はコペルニクスの計測した1年の値と著書の一部が参照・使用された。」くらいにしますか。
それと、プトレマイオス説で改暦が行われたかというと、その認識も違うでしょう。1年の計測は、プトレマイオス説やそれ以前のアリストテレスの宇宙モデルが出る前のメソポタミアやエジプトでも行われていますし、計測方法はコペルニクスの時代まで同じ(数百年前の分点とその時代の分点を比較する)です。月の理論に関してはコペルニクスの著書を使っていますが、これはアラビアで既に発見されていた方法の再発見か引用です。ただ、プトレマイオス説ではないのは確かです。それに、これをもってコペルニクス説と関係ないと明言するのは危険です。改暦は、プロイセン星表刊行以後、プトレマイオス説でなくても惑星や月の位置予報ができる、ということが証明されたあとの時代に行われました。もし、そうでなかったら、改暦委員会は月に関してはよりプトレマイオス説に固執した誤差の多い体系を採用していた可能性もあります。
日周運動うんぬんのところは、「天球上を1周」と書き換えることを提案しましたが、それでも日周運動と誤解されるというのでしたら「恒星天球上を1周」ということにしましょう。それなら誤る可能性は低いでしょう。Modeha 2006年6月30日 (金) 14:39 (UTC)
- お勧めですので、惑星の明るさと、航海術については、ひきつづき勉強させていただきます。
- 月の問題は、アンティオケイアの大司教が改暦委員会のメンバーに入っていますので、イスラムの太陰暦の知識が入っていたかもしれません。いずれにせよ月の問題はコペルニクス説の説明にはなっても、地動説の説明にはならないので、とくに触れる必要は感じません。
- 改暦問題を記事で述べるのは、コペルニクスの研究動機、およびカトリック教会との関係を述べる必要性からということですね。それを天動説の破綻の証拠と読まれるのは、Modehaさんにとっても不本意でしょう。そもそもプトレマイオス説とは関係ないんじゃないかというお話も受け、該当段落を「いっぽう、」で始め、「プトレマイオス説では」という説明を、この段落ではいっさい省くことを提案します。改定案は次のとおりです。
- この文章のあと、「カトリックの司祭であったコペルニクス…」の段落が続きます。Shinobar 2006年7月1日 (土) 00:41 (UTC)
プトレマイオス説では惑星の観測記録から1恒星年の長さが決定できず、それが改暦が遅れた原因の1つなので、それは消せません。何度も書きますが、あなたにとって理解不能なことが、記事から内容を減らす理由にはなりません。そう書いている研究者がいるのは事実ですので、消す必要はありません。惑星の観測記録から1年が算出できないのは事実ですし、1年の算出方法の工夫がコペルニクス説を生んだのは事実でしょう。Modeha 2006年7月1日 (土) 01:03 (UTC)
(追記)Shinobar氏の主張は、単に、プトレマイオス説の欠陥を消そうとしているだけのように見えます。『天球回転論』をお持ちのはずなので、もう一度開いてください。187ページです。「またしばしば...」で始まる段落をごらんください。コペルニクスの地動説では、惑星の距離や周期(地球で言えば1年のことです)が、観測データのみで(これは惑星の観測データ、という意味です)決定できるのが最大の長所だ、と書いてあります。逆に言うと、これができないのがプトレマイオス説の弱点です。最も重大な2説の差異をあえて消す理由が全くありません。何度も書きますが、それでは、クーンの言う「素人の読者」の書いた記事です。Modeha 2006年7月1日 (土) 01:23 (UTC)
- 「プトレマイオス説では惑星の観測記録から1恒星年の長さが決定できず、それが改暦が遅れた原因の1つ」と信じるのは、あなたの信仰の問題なので、私はとやかく申しません。しかし、「コペルニクス説で惑星の観測記録から1恒星年の長さが決定され、グレゴリオ暦が策定された」のではないことも、Modehaさんはご存じのはずです。Shinobar 2006年7月1日 (土) 02:52 (UTC)
- コペルニクス説とプトレマイオス説の差は、その後の、現記事で「コペルニクス説では、」で始まっている段落で説明されてはいかがですか? 改暦の部分にプトレマイオス説の欠陥を書こうとするから、無理が出るのでしょう。Shinobar 2006年7月1日 (土) 02:38 (UTC)
別に信仰としてそう言っているわけではなく、何人もの研究者がそう言っているのですが。『暦をつくった人々』250ページのダイイ枢機卿への言及はどうするおつもりですか。何度も聞いていますが、これに関してもお答えがありません。もちろん、1年の長さが分からない、という以外にも、対立教皇が立っていた時代だとかそういう歴史的な理由がいくつも重なったものだということは認めます。そういう歴史的背景の話を少し書き足せば満足ですか? ただ、私がそれを書かなかったのは、この記事が改暦の記事ではないためです。いずれにしても、プトレマイオス説が改暦に必要な値や簡単な1年の算出方法を提示できなかったのは事実でしょう。そんなに簡単に1年が出せるのなら、コペルニクス以前の時代に改暦が行われたはずです。
どうも、プトレマイオスに言及するところがお気に召さないようなので、その部分はちょっと書き換えてみました。ごらんください。Modeha 2006年7月1日 (土) 06:56 (UTC)
2006年7月1日の改稿
- ありがとうございます。ずいぶん良くなったと思います。私がプトレマイオスとコペルニクスの類似点を指摘するのは、プトレマイオス教の広宣のためではなく、それによって両説の本当の差異を浮かびあがらせ、コペルニクスの革新部分を明らかにするためです。ご理解ください。お奨めいただいている図書の指摘部分はもちろん読んで勉強させていただいています。読後感はのちほど報告させていただきます。ひとまずは、お疲れさまでした。Shinobar 2006年7月1日 (土) 11:05 (UTC)
- 訂正します。「ずいぶん良くなった」ではなく、「少し良くなった」ですね(笑)。それはさておき…
- ヨーロッパでは12世紀にライナーやグローテストなどの測定もありましたし(ダンカン、p230)、1412年頃、ダイイ枢機卿が「本当の1年の長さはよう分からん」と言った(ダンカン、p250)時代にも、アルフォンソ表だけでなくいくつかのデーターはあったのですが、16世紀の改暦委員会までには、いくつも天文表が出されていたようです(ダンカン、p253)。コペルニクスは「太陽や月の動きが、まだ十分正確に測定されたことがなかった」として、みずから測定します。すなわち古代エジプトでシリウスを観測したのと同じように乙女座のスピカを観測して恒星年を(高橋、p88)、またメソポタミア時代と同じかどうか、分点を測定して回帰年を出します。自分のそれと、古代エジプトやらプトレマイオスやら、たぶんアルフォンソ表、バッターニ(ダンカン、p259)など先人たちのものと比較し、「どうも回帰年は大きく変動するらしい。それに比べて恒星年は確からしい」と結論づけます。それで改暦委員会も、恒星年を採るか、従来どうり回帰年でいくかの議論をするわけですが、私が思いますに、もともと暦の上の季節と実際の季節のずれが問題でありましたから、季節と直結しない恒星年は論外のはず。必要なのは何日に太陽が春分点を切るかであって、何日に太陽がうお座のどこにあるかを知りたいのではないということを考えると、コペルニクスの提言は、要らぬ議論で改暦作業を遅らせたというのが、私の感想です。
- 次に、高橋のp187-188。高橋は、太陽中心説の最大の長所は、宇宙の体系性の提示であるとして、「惑星天球の配列順序、惑星距離、周期」を、観測データーのみに立脚して決定できるとしています。これは、Modehaさんの手で、2006年7月1日の改稿に反映されました。そこが重要ポイントであるということは、私も同意見で、早くそれが記事に反映されるのを待っていました。「惑星の位置観測から恒星年が算出できる」というのは、できるかもしれないが、大したポイントではないと、今も私は思っています。
- 高橋はここでは惑星の公転周期、地球の公転周期、会合周期の関係式を示しています。これは太陽中心説を採ることで、内惑星、外惑星が式の±符号で統一的に解釈できることを言っています。この式を、「太陽の観測により地球の公転周期を、惑星の位置観測から会合周期を得て、惑星の公転周期を算出できる」とも読めます。私には「惑星の位置観測から地球の公転周期を算出できる」とは読めません。地球の公転周期と惑星の公転周期の2つが未知数として残るので、太陽を観測しないならば、どうやって惑星の公転周期を知りうるのかという疑問が残ります。
- 内惑星について高橋は言っていませんが、周転円モデルでも、惑星の公転周期→周転円の回転周期、地球の公転周期→太陽の回転周期と読みかえれば、これらの式は同じです。たとえば金星について、表2.1(高橋、p126)の観測数値を使って説明します。内惑星の周転円モデルの絵がありませんが、内惑星の導円の回転角は太陽の導円の回転角と同じです。観測では金星は恒星球を背景に太陽と同じくおよそ1年で1周し、8周回る間に5回の逆行があります。周転円モデルの金星は太陽に釣られて左回りに転がりながら移動します。その導円は太陽と同じ、左回りに1年で1周。周転円も左回りに回転し、合成運動は、概ね左回り、ときに右回りに逆行します。逆行のうちに、地心距離最少の点(会合)を迎えます。最初の会合から次の会合までに、周転円は1回転と少し余分に回ります。どのくらい余分かというと、導円が1周する間に、周転円は会合回数+1回余分に回っています。導円8回転のうちに、会合5回ですから、周転円は5+8回=13回転しています。これから、周転円の恒星球に対する回転周期は、8年÷13回転=およそ225日が算出できます。コペルニクスにできることならプトレマイオスにもできるでしょうと、私が申し上げたことは、たとえばこのようなことです。Shinobar 2006年7月1日 (土) 14:09 (UTC)
コペルニクスの時代(1515年)からグレゴリオ13世の時代(1570年代)まで、改暦しようという教皇は現れませんでした。むしろ、改暦委員会の編成がコペルニクスの著書が出た1543年よりあと、かつ、わずか30年で(当時にとっては短い時間です)で編成されたということは、逆にコペルニクスの著書によっていよいよユリウス暦(あるいは教会暦)の矛盾が顕著化し、改暦を早めたという見方もできるでしょうね。
数値を足したり引いたり掛けたり割ったりすれば、そのうち、今の体系で意味のある値はそのうち出るでしょう。観測結果は、プトレマイオス説だろうとコペルニクス説だろうと変動しません。前述したとおり、観測者の信じる説によって変動する値があるとしたら、科学の世界ではその値は参照することはできません。しかし、金星が恒星天球上を1周する時間が分かったからといって、プトレマイオス体系でその値が何の意味を持ちますか? 地球に対する値以外は、プトレマイオス体系では何の意味もない。それに、その方法で、「太陽の公転周期」(つまり1年)を計算できますか。それはできません。それがコペルニクス体系とプトレマイオス体系の決定的な違いです。
未知数として残る値の算出法は、188ページをごらんください。これも何度も書いています。
1 / Tκ = 1 / Tλ ± 1 / Tα
※Tκは惑星の公転周期、Tλは地球の公転周期(1恒星年)、Tαは会合周期で、±は内惑星ならプラス、外惑星ならマイナスになります。
この式は、コペルニクス体系でなければ成立しません。この式が成立するか否かがコペルニクス体系とプトレマイオス体系の大きな差異で、もし1つの値が若干不正確でも、残りの2つの値がそれを補完します。そして算出された値にたとえ若干誤差があったとしても、他の火星や金星や土星の観測結果によって、その値を修正することができます。それと、コペルニクスが1年(回帰年)の値が変動するらしいと結論したそもそもの理由は、プトレマイオスが139年の秋分日の観測を誤ったためです。この誤りについては、ヒッパルコスの値と合わせるために、わざと嘘の値を出したのではないかという指摘もあとの時代にされています。どちらにしても、誤りの主な原因はそもそもプトレマイオスです。プトレマイオスの不正確さが1400年後の改暦を遅らせる理由になった、というのでしたら、全く持ってそのとおりでしょう。そんな、プトレマイオスとかいう信頼できない天文学者の値を参照したコペルニクスにも若干は責任があるかもしれませんが。
改暦が遅れた理由に、1年の測定に困難があったことと、正確な1年の値を検証する簡易な方法がなかったことがあることについては同意していただけたということでよろしいですか。Modeha 2006年7月1日 (土) 15:31 (UTC)
(追記)Shinobar氏の主張では、金星の公転周期(プトレマイオス体系では、金星が恒星天球を1周するのに必要な時間)は、365.25×8/13=224.6154日になりますが、実際の値は224.701日です。(Wikipedia日本語版による)。コペルニクス説による値は、224.70日(ケプラー著『宇宙の神秘』日本語版281ページ)で、どちらにしてもコペルニクス説のほうがより精密な値が出ます。Modeha 2006年7月1日 (土) 16:23 (UTC)