正森成二
正森 成二(まさもり せいじ、1927年1月19日 - 2006年10月18日)は、日本の弁護士(自由法曹団)。日本共産党衆議院議員。
来歴・人物
兵庫県出身。旧神戸一中・旧静岡高校を経て、東京大学法学部卒。弁護士時代には大教組の勤評闘争事件の主任弁護士などを担当した。1972年(昭和47年)、第33回衆議院議員総選挙で大阪1区から初当選。元々は反党活動で除名された志賀義雄の地盤ということもあり、その影響の払拭に尽力した。以後当選連続9回。
この間、国会では衆院大蔵委員会や法務委員会、予算委員会に所属し、大蔵、法務、決算行政監視、沖縄北方特別の各委員会の理事、宗教法人に関する特別委員会委員、裁判官弾劾裁判所裁判員を務めた。
日本共産党では党中央委員、法務部会長をつとめ、議員引退後は名誉役員となった。
浜田幸一による「宮顕のリンチ疑惑」発言
1988年(昭和63年)の予算委員会で、委員長浜田幸一の過去の発言を引用して、「過激派泳がせ政策」の存在について正森が追及していたところ、浜田がその発言を認めたうえで「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」などと主張した。浜田からの言質は得られたものの逆に共産党への挑発を受けた正森は、過激派の話題を切り上げて他の質問に移った。
しかしその後、円ドル為替問題の質疑中の正森を浜田が唐突に遮り、「昭和8年12月24日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……」「針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。いいですね。」「私が言っているのは、ミヤザワケンジ[1]君が人を殺したと言っただけじゃないですか。」等と発言しだし[2]、委員会は大荒れとなったこの結果1ヶ月間委員会審議が空転し、浜田は辞任した。[3]
生涯
- 1972年12月10日、第33回衆議院議員総選挙で当時の中選挙区大阪1区から初当選
- 1976年12月5日、第34回衆議院議員総選挙で再選
- 1979年10月7日、第35回衆議院議員総選挙で3選
- 1980年6月22日、第36回衆議院議員総選挙で4選
- 1983年12月18日、第37回衆議院議員総選挙で5選
- 1986年7月6日、第38回衆議院議員総選挙で6選
- 1990年2月18日、第39回衆議院議員総選挙で7選
- 1993年7月18日、第40回衆議院議員総選挙で8選
- 1996年10月20日、第41回衆議院議員総選挙で9選(選挙制度が変わり、旧大阪1区から比例中国ブロックに移って当選)
- 1997年10月30日、衆議院の院議により、議員在職25年表彰
- 1997年11月6日、健康上の理由で議員辞職、引退
- 2006年10月18日 午前9時40分、多臓器不全のため大阪市の病院で死去。79歳。
政策
家族
著書
- 『大きなひとみで』
- 『道ひとすじに』
- 『質問する人、逃げる人』
その他
脚注
- ^ 宮本顕治を宮沢賢治と言い間違えた。
- ^ “第112回国会 予算委員会 第7号議事録”. 国会会議録検索システム (1988年2月6日). 2017年9月30日閲覧。
- ^ 朝日新聞の正森の追悼記事によると浜田は正森と出会ったときに、「俺の首をとりやがって」と話しかけたという。
- ^ 第140回国会 法務委員会 12号
- ^ 千里タイムズ(2011年1月28日 1968号)