伏見藩
前史
伏見城は豊臣秀吉によって築城された。伏見の大地震によって倒壊したこともあったが、早くに再建されて豊臣時代には豊臣氏の繁栄を示す象徴、そして一大政治都市として発展した。慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が生涯を閉じたのも、この伏見城においてである。
秀吉没後、伏見城には徳川家康が入り、最高実力者として政治を取り仕切った。やがて家康と石田三成の対立が先鋭化すると、家康は三成を挑発するために、慶長5年(1600年)に伏見城の留守部隊に鳥居元忠・内藤家長・松平家忠らのわずかな部隊を残して会津征伐に赴いた。そして三成はこれが家康の挑発と知りつつも、蟄居という現状打開を謀るためにそれに乗って挙兵した。こうして、伏見城は関ヶ原の戦い前哨戦の舞台となる。1800名程度の将兵にも関わらず籠城軍の士気は高く、西軍は4万の大軍で攻めるが太閤秀吉の築城した名城である伏見城は堅固であり、元忠の奮戦などにより落城までの日数を要し、その後の戦略に大きな齟齬をきたした。
関ヶ原後、家康は豊臣氏の牽制と畿内支配の拠点という両点から、焼失した伏見城の再建に乗り出す。そして慶長8年(1603年)、家康は伏見城にて将軍宣下を受け、江戸幕府を開いた。その後、家康は慶長12年(1607年)に駿府城を正式に居城とするまで、この伏見城を拠点としている。
藩史
家康が駿府に移った後、伏見には家康の異父弟の松平定勝が遠江掛川藩より5万石で入り、ここに伏見藩が立藩した。定勝は京都所司代の板倉勝重と共に京都守備に貢献したことから、城米2万石を下賜された。また、大坂の役においても伏見城は徳川方の重要拠点となった。
豊臣氏滅亡後の元和3年(1617年)、定勝は伊勢桑名藩6万石へ加増移封され、代わって摂津高槻藩4万石の内藤信正が1万石加増の上で入った。しかし伏見城は豊臣氏滅亡後からは重要拠点としてみなされなくなった。
廃藩
信正が元和5年(1619年)7月に大坂城代として転出すると、伏見藩は廃藩となり、伏見城は伏見奉行の管轄化に置かれることとなった。
そして元和9年(1623年)に徳川家光が伏見城にて将軍宣下を受けた後、一国一城令に基づいて伏見城は廃城となった。
その後、城跡の丘陵には桃の木が植林され、桃山と呼ばれるようになった。秀吉の時代が桃山時代と称されたのは、この桃の木から由来されていると言われている。
歴代藩主
松平(久松)家
親藩 - 5万石
代 | 氏名 | よみ | 官位・官職 | 在任期間 | 備考 |
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1 | 定勝 | さだかつ | 従四位下 左近衛権少将 |
慶長12年 – 元和2年 1607年 – 1616年 |
久松俊勝の4男 徳川家康の異父弟 |
内藤(信成系)家
譜代 - 5万石
代 | 氏名 | よみ | 官位・官職 | 在任期間 | 備考 |
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1 | 信正 | のぶまさ | 従五位下 紀伊守 |
元和3年 – 元和5年 1617年 – 1619年 |