第1次アル=ファオの戦い
第1次アル=ファオの戦い(だいいちじアル=ファオのたたかい)は、イラン・イラク戦争中、イラクバスラ県のファオ半島をめぐる戦いである。
第1次アル=ファオの戦い | |
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戦争:イラン・イラク戦争 | |
年月日:1986年2月9日〜2月18日 | |
場所:イラク・バスラ県 | |
結果:イランの勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
ファクリー将軍 ジュブーリー将軍 |
不明 |
戦力 | |
第3軍団 第7軍団 |
革命防衛隊3個師団 35,000 |
損害 | |
死傷者1,500〜2,500以上 | 死傷者1,500〜2,500以上 |
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概要
開戦以来、イラク軍は相次ぐバスラ正面の防御戦の忙殺され、イラク最南端の要衝ファオ半島の防御体制は疎かになっていた。もっとも、イラン軍がファオ半島に進行する可能性は諸事情(天然の障害であるシャッタルアラブ川の存在と、イラン軍の揚陸戦力の不足等)から低いと見積もられていた。しかし、イラクにとり重要な収入源である石油積出港を急襲し、戦争経済に打撃を与えるべくイラン軍は攻勢を決心した。
革命記念日である2月11日頃にファオ半島を攻略すべく、イラン軍は舟艇の準備を進め、且つパフラヴィー時代にイギリスに発注した揚陸艦(2,500t級)2隻を受領。またイラン・コントラ事件を通じ多数の米国製兵器(特にAH-1 コブラの予備部品やTOWを多数調達でき、対戦車火力が充実した)を得て攻勢準備は整いつつあった。
攻撃
1986年2月9日、22時、シャッタルアラブ川河口部において夜陰に紛れ舟艇による強行渡河を敢行し奇襲成功。2月11日夕刻までにアル=ファオ市を含むシャッタルアラブ川西岸地区を占領。クウェート国境まで20kmに迫った。
攻撃に成功したイラン軍はそのまま半島西北地区へ進撃、バスラ攻略を目指した。
事態を重大視したイラク軍首脳は、精鋭の戦略予備、第7軍団を投入し反撃。イラク軍はあらゆる火力で防戦、この際化学兵器を使用、誤爆されたイラク兵含め1,000人以上犠牲。2月13日には、後方アーバーダーンにも化学剤爆弾を投下。イラン軍は過去の戦訓からこの事態を予測、ヘイバル作戦後にイタリア製ガスマスク100万個準備していた。
2月16日、イラク軍は圧倒的な火力・物量を投入したがイラン革命防衛隊の狂信的波状攻撃を押し留められず、イラク第111旅団は壊滅、第7軍団前線戦闘指揮所も占領された。イラン軍は更に主要商業港、イラク海軍基地もあるウムカスル港へ向かう。
2月17日夜~翌未明にかけ半島中部で激戦となったが決定的打撃を与えることができず、両軍膠着状態に。
イラン軍占領のアル=ファオ市とその周辺は地盤も固く防御に適したが、ファオ半島全体は軟弱な地盤でイラク軍機甲部隊は機動展開できず、またイラク空軍は圧倒的な航空優勢にも拘らず、イラン軍の補給船や浮橋の夜間捕捉は困難であった。何よりもファオ半島攻撃は陽動作戦の可能性が高くバスラ正面を警戒、その困難な地勢(当該地区は前線の最右翼にあり、機甲部隊の展開に時間を要した)と相俟って予備戦力の迅速な展開が遅れた。
その後
イラン軍戦力は回復しつつあり、イラン軍兵士の戦意はなお旺盛、
イラク軍の動揺は激しく、フセイン体制崩壊の危険性が高まった。クウェートまで指呼の距離に迫り、イスラム革命を恐れる湾岸諸国には恐慌状態を巻き起こした。
参考文献
- 鳥井順『イランイラク戦争』(第三書館)
- 松井茂『イラン-イラク戦争』(サンデーアート社)
- ケネス・ポラック『ザ・パージアン・パズル 上巻』(小学館)