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オーギュスト・コント
Auguste Comte
オーギュスト・コント
オーギュスト・コント
生誕 (1798-01-19) 1798年1月19日
フランス王国オクシタニー地域圏エロー県モンペリエ
死没 (1857-09-05) 1857年9月5日(59歳没)
フランスの旗 フランス帝国(第二帝政)
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学社会学
学派 実証主義社会学
研究分野 科学史科学哲学社会構造論社会変動論
主な概念 実証主義、社会静学、社会動学、三段階の法則(神学的段階/形而上学的段階/実証的段階)、「予見するために観察する。予知するために予見する」('Voir pour prévoir, prévoir pour prévenir.')、人類教、実証暦
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オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年1月19日 - 1857年9月5日)は、フランス社会学者哲学者数学者。1817年からアンリ・ド・サン=シモンの教えをうけ、助手を務めたこともあったが、1824年にけんか別れした。1844年から亡くなるまで、ジョン・スチュアート・ミルと親交があり、「社会学」という名称を創始し、彼の影響を受けた英国ハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られる。『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』、『実証哲学講義』、『通俗天文学の哲学的汎論』、『実証的精神論』などの著作がある。生涯を在野の学者として過ごし、パリで死去した。

経歴

誕生

1798年1月19日、コントはフランス共和国の南部・地中海に面したオクシタニー地域圏エロー県の都市モンペリエで生まれる[1]

父は徴税官を務めるルイ・オーギュスト・コント、母は旧姓ロザリ・ポワイエという女性で、両親は1796年12月31日に結婚して、間もなくこの二人の夫婦の間にコントは長男として誕生した。その後、一家には妹が一人、そして二人の弟が生まれた。両親は熱心なカトリック信者で王党派の支持者であった。したがって、両親は長男に立派なカトリック信者となってもらいたいとの願いから聖母マリア聖人たちの名をつけ、イシドール・オーギュスト・マリー、フランソワ・グザヴィエ・コントと命名する[2]

フランス革命以降、フランスでは第一共和政が樹立され、啓蒙の名のもとに 非キリスト教化運動が進められていた。恐怖政治期を通じて教会堂は没収され、司祭は追放されるか投獄され、モンペリエ大聖堂フランス語版は「理性の神殿」に改装された他、サント・ユーラリ教会は倉庫として利用された。1794年の「理性の神殿」除幕式では、ニコラ・アンドレ・フェランという帽子職人が演壇に立ち、「久しく欺瞞によって汚され、今も虚偽の悪臭を放っている本祭壇に、今こそ、私は真理の香気を与えようと思う」と除幕演説をおこなった。そして、ユダヤ人で美女として知られたジュリーが「理性の女神」に扮して行進が執り行われた。モンペリエの町にもギロチンが設置され、王党派と司祭たちが次々と処刑され、モンペリエ大聖堂の参事であったジャン・ピエール・コントが処刑されるなどコント家の親族にも犠牲者が出た[3]

学業期

革命後、フランスは未だ初等教育が未整備であったため、コントは幼少期に近所の老人から読書算を学んだ[4]

1802年、国民公会が定めた「中央学校令」に基づき、全国各地に中等教育機関としてリセが設置された。1806年、コントは9歳に入ると寄宿生としてリセに入学することになる。当時のリセは軍隊式の寄宿生活を教育方針とし、文系教科として古典のラテン語数学をはじめとする理系教科が設定された。コントは文理両教科で共に優秀な成績をおさめた。1812年にはエコール・ポリテクニック入学に必要な学力を修養していたが、年齢資格を満たしていなかったためしばらくリセに留まった後、1814年に同校に入学試験を受けて合格を果たした[5]。コントはナポレオン体制の反動的支配と両親から離れてリセでの息苦しい軍隊教育を受ける中でカトリック信仰を捨てて、やがて共和主義者へとなっていく[6]

1814年はナポレオンロシア遠征に失敗して諸国民戦争プロイセンと連合軍に敗北、パリに帰還後に退位した。戦勝国はウィーン条約を締結して、フランス帝国の占領地域を分割し、フランスにブルボン朝を再興させることを承認した。

ちょうどこの年、コントは念願のエコール・ポリテクニックに入学を果たした[7]。 エコール・ポリテクニックは理工科大学校とも訳されるが、性格的には防衛大学校に近く、学校教育のモットーは「祖国、科学、栄光のため」であり、多数の生徒がパリ防衛戦に参加し、帰らぬものとなった。エコール・ポリテクニックは1794年に数学者のガスパール・モンジュ、軍事学者であり陸軍大臣のラザール・カルノーの発案によって国民公会が設置した総合科学教育機関で、リセで優秀な成績を収めた生徒を対象とした高等教育の場であった。教授には数学者ジョゼフ・フーリエジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、電気学者のアンドレ=マリ・アンペール、化学者ペルトレが務めていた。コントはエコール・ポリテクニークで数学を専攻した[8]

 
パリ防衛戦(1814年)への学生参加を描いたエコール・ポリテクニークを記念する像。

当時、エコール・ポリテクニークはパリ防衛戦の影響から兵営ともなって軍事教練もおこなわれたが、コントは優秀な教授による日々の講義を楽しみ、啓蒙思想家の著作やフランス革命の記録、アメリカ独立に関する文献を読み漁り、フランス革命が旗印とした「自由・平等・友愛」の精神を柱とした学生生活を送っていた[9]

しかし、歴史は急展開を見せる。1815年、流刑地のエルバ島を脱出して北上、パリを奪取したナポレオンは再び帝位についた(百日天下[10]。コントもフランスの勝利に期待を抱いていたが、ブリテン・プロイセン連合軍にワーテルローの戦いに敗北した。結局、ナポレオンは退位を宣言、フランスは王政復古を果たす。王党派であった両親と異なり革命に感化を受けたコントは王政復古に強い憤りと絶望を感じたという[11]。コントは後輩のヴァラに宛てて、こう語った。

「如何に立派な精神が学校の生徒を支配しているか、君には判らないでしょう。僕たちの間には完全な団結があるのです。……。僕たちの真面目な行為には、非常に共和主義の感じがあるのです。……。これが学校全体の精神なのです。……。追伸。これからのジェネレーションは、私たちのジェネレーションに比べて、もっと愚かになるでしょう。そうなれば、もう希望はありません。わが祖国の自由は失われて、二度と戻ってこないでしょう。国王の専制が1789年の崇高な叛乱の以前の姿で復活するどころか、もっと恐ろしいことになるでしょう。憐れなフランスよ!自由な不幸の友よ!理性と人類のために!神よ!本校と同じ精神がフランス全土に普くあらんことを!」[12]

17歳のコントは優秀な学生であったが、王政復古への憤りと軍隊式生活の窮屈さから急進的で反抗的な学生となっていた。自暴自棄な素行不良が見られていた。たびたび娼館に出かけるといった件で叱責を受け営倉送りの処分を受けている[13]。そのため教授陣から目を付けられ、復習教師とのトラブルが原因で退学に追い込まれてしまう。学業優秀なだけに卒業間際の退学処分はコントにとって極めて不本意なことで、コントの内面の中で社会に対する不信感が高まっていく。エコール・ポリテクニーク校退学はコントの人生の大きな転機となった。その後、コントの学友たちはエコール・ポリテクニークに復学していくが、コントは地元のモンペリエに帰郷してしまい、復学を選択しなかった。ここからコントの新しい挑戦が始まる[14]

転機

その後のコントは、進路の方向性を先輩のベルナール将軍が新天地のアメリカで計画していた学校設立と教員募集に情熱を傾けた[15]

コントは一旦パリに戻り、時代と自信の思想を綴った短編の『省察録』を執筆した。「人類、真理、正義、自由、祖国」といったスローガンが掲げられ、「1793年体制と1816年体制との比較を論じて、フランス民衆に訴う」と記され、「元エコール・ポリテクニーク生徒。コント。1816年6月」と署名されている。『省察録』において、コントはフランスがアンシャン・レジームの悪弊を脱却するべく始まったフランス革命が失敗に終わった点を非難した。また、ナポレオン戦争フランス第一帝政下の専制と戦乱、復古王政の反動に対する嫌悪感が表明されている。1793年にはフランスで国王ルイ16世の処刑があり、ジャコバン派の指導者ロベスピエール恐怖政治が猛威を振っていた時代である。また、ルイ18世が亡命先から帰国したのだが、1816年は王政復古後の反動によって南フランスで政府による大規模な弾圧が実行された「白色テロ」の時代となっていた[16]

 
最後の啓蒙思想家ニコラ・ド・コンドルセ

こうした混沌とした時代の中で、コントはフランスの立て直しの必要性を切実に感じており、コンドルセモンテスキュールソーヴォルテールを研究したほか、アメリカ合衆国憲法の勉強もしていた。また、モンジュやラグランジェの数学と数学史における業績を研究、科学と歴史との関係を考察して両者の綜合を認識し始めていた。とりわけ、『人間精神進歩の歴史英語版』(フランス語: Esquisse d’un tableau historique des progrès de l’esprit humain)を執筆したコンドルセの影響は絶大で、進歩主義歴史哲学や「社会数学」という学問的な試みに強い感化を受けた[17]。コンドルセの思想は、コントが後に体系化する「三段階の法則」に重要な着想を与えた。翌年1817年、こうしたコントの希望を裏切るように、ベルナール将軍からアメリカでの新学校設立の無期延期を伝える手紙が届き、渡米を断念したのである[18]。しかし、コントはフランスにおいて学問への情熱を高めていった。同時にそれはこれまで信奉していた啓蒙思想との決別も意味していた。

転機となったのはアンリ・ド・サン=シモンとの出会いである。

 
19世紀初めのアンリ・ド・サン=シモンの肖像

1816年8月、18歳となっていたコントは秘書を募集していたサン=シモンの下で助手を務めるようになった。毎月300フランを支給される契約となっていたが、サン=シモンが破産状態で経済難にあることを知るとコントは俸給を辞退して、数学の家庭教師をしながらサン=シモンを支えるようになった。それだけの魅力を知ったためである[19]

サン=シモンは伯爵位を持つ貴族出身の人物で革命前までは裕福な生活をしていたが、革命の動乱の中で零落しており、コントが出会ったときにはすでに56歳で困窮した老人であった。彼は16歳で軍に入隊してアメリカ独立戦争に参加して名を馳せた人物で、フランス革命期には投機家として活動していたが、投機を危険視するフランス政府によって逮捕され、リュクサンブール宮殿の監獄に投獄された。知人や友人をギロチン刑に奪われていくなか、ロベスピエールがテルミドールの反動で処刑され、釈放された後もナポレオン帝政王政復古を経験していた。当然ながら啓蒙思想が説く悪戯な観念に反感を抱いており、老齢に達しながらも情熱に燃えて多くの弟子を抱えて、「反革命」(合理主義にもつづく「秩序と進歩」)を柱に科学・産業・政治の再編を模索していた人物であった。ナポレオン戦争が終結した1815年以降、サン=シモンはジャン=バティスト・セイをはじめ気鋭の学者たちとサロンで交友し、これからは無意味な革命や戦乱の時代ではなく、産業と経済発展の時代だと考えていた。このようにして、サン=シモンはコントの新しい「父」となり、科学的手法による「社会再組織」という考え方を愛弟子コントにもたらした。コントはその喜びを翌年の1817年初夏に、友人ヴァラへの手紙でこう語っている。

「君は、まだ誤った政治方針を信じているのです。この方針は、僕も君と同じように信じていたもので、それを捨ててから一年にしかなりません。僕の見るところ、君の政治学は、人権の理論、『社会契約論』の思想、前世紀の啓蒙思想家の体系を基礎としているものです。君に言いたいのは、こういう理論、こういう思想、こういう体系は、誤って理解され、今日では虚偽となっているということです。こういう重大な主張を一通の手紙で証明することがほとんど不可能では君にも分かるでしょう。

しかし、せめて、次の事実―今まで、君は気づかなかったでしょうが、これこそ正しい哲学の鍵なのです―に深く注意してもらいたいと思うのです。即ち、すべての人間の知識は、世紀から世紀へ発展していくものであるということ、或る国民の各時代の政治制度や政治思想は、その時代のその国民の知識の状態に相対的たらざるを得ないものであるということです。もし君がこの主張を歴史的知識に照らして真面目に検討してくれたら、それをすぐに受け容れてくれるでしょう。また、もし君が受け容れてくれたら、或る世紀の政治学は、その前の政治学ではあり得ず、従って、十八世紀の政治学は、まさに十八世紀に相応しいものであったため、もはや現代に相応しい政治学ではないという結論が必然的に出てくることが分かるでしょう。要するに、君のすべての一般思想、特にすべての社会思想は、根本的に誤った思想、即ち、絶対者の思想に感染しているのです。この世界に絶対的なものは一つもなく、すべて相対的なのです。……。

君にお勧めしますが、誤った政治思想の方針を脱却するには、まず、すべての科学のように、政治学においても、すべては観察された事実を基礎とすべきものであると考えることで…一切の曖昧な仮定的な思想を除去できるでしょう。ルソーの『社会契約論』のような本は、あまり読まないようにし、ヒュームの『英国史』やロバートソンの『カール五世』のような歴史書をもっと読むことです。それから経済学の勉強、即ち、アダム・スミスやセイの経済学の著書の勉強を始めることです。」[20]
 
古典派経済学者ジャン=バティスト・セイ

コントはヴァラに以上のように勧めている。この手紙でコントが語ったことは「一切の知識は相対的であるから、観察された事実に基づくべきであって、これまでの仮定的な思想を拒絶する必要がある」というもので、十八世紀的な啓蒙思想への決別表明となり、やがて哲学から科学への転換点に生きたオーギュスト・コントの生涯にわたるモットーとなった。しかし、コントはこれまでの形而上学の観念に対して役割の終焉を宣告したが、過去に研究され探求された課題をすべて無意味としたわけではない。書簡内からはすべての知識と観念には発展の道筋があり、発展の道筋を歴史的に分析することが可能な「科学」の対象であることが確認されている。この着想はさらに発展されていく。

また、書簡からはコントが新しい科学に関心を広げていたことが読み取れる。当時の経済学アダム・スミスの頃のような道徳科学ではなく、ジャン=バティスト・セイによって理論的な体系化が進められ、学問として自立しつつあった。だが、経済学へのコントの強い関心は、フランスの経済事情も影響していた。この見解は師サン=シモンと自分自身の貧しい状態から来るものであると同時に、パリの労働者家庭の恐ろしいまでの貧困に対する憂慮が背景にある。コントは労働者階級についてこう語っている。

「パリの人々の貧しさは驚くべきものです。パンは大変に値が高く、食えない惧れもあります。町へ一歩踏み込めば、貧民の惨めな様子で胸が痛まずにはいられませんし、パンも仕事もない労働者に絶えず出会います。」(1817年2月12日) 「一言で申せば、下層階級の悪習は、大部分、現代の政治制度における彼らの社会的地位への不可避的な結果のように思われるのです。……。友よ、僕たちが愛している率直で尊敬すべき労働者階級、彼らは上流階級によって抑圧されているのです。不当に略奪されているのです。」(1819年9月24日)

コントが生きた時代は社会科学と社会主義の黎明にあたる時代であった。サン=シモン、コントの社会学が「反革命」の立場から社会秩序や社会構造を研究対象としたのに対して、ロバート・オウエンシャルル・フーリエ社会主義は労働者の団結を呼びかける運動へと発展していった。さらに後に19世半ばに現れたチャーティスト運動マルクス共産主義は再び革命を目指すようになった。社会主義に対して、コントは師サン=シモンとともに階級対立ではなく、「社会再組織」への研究を進めていった。

独立

 
コントが1818年から1822年まで暮らしていたアパート。

コントはパリの学生街カルチエ・ラタンでアパート暮らしをしながら、サン=シモンの下で研鑽を積んだ。サン=シモンが語り、コントが体系的に執筆していくという師弟関係が成熟して、多くの成果を生み出していった。しかし、1820年に入るころには博学優秀なコントは、サン=シモンから大部分の思想を習得していた。20歳を迎えたコントは師のサン=シモンから精神的に思想的に決裂していき、やがて独立を果たすようになった。

1822年、オーギュスト・コントが24歳の頃、『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』フランス語: Prospectus des travaux scientifiques nécessaires pour réorganiser la société、1822)を発表した。

本書は、啓蒙思想に対する批判で始まり、フランス革命がアンシャン・レジームを破壊するところまでは良いが、その後の新社会の原理とならなかった点が責められた。コントは、過去の安定的な秩序と未来への革新的な進歩という二つの原理の争いを超えて、現実味のある処方箋を示すことが動乱の社会に対する緊急の課題であると考えていた。産業革命によって工業化を果たしつつあるフランスに適した法や制度を制定していくこと、学者や産業者(資本家と労働者)が中核となって構成された政府が主導する「上からの近代化」が必要であると説いた。

そのために、中世からフランス革命に至るフランス史の流れが総括された。コントは、先ず、科学史精神史を切り口として、人間社会の歴史的発展を理論化していき、歴史の法則性の中に新社会の原理を示そうと試みた。次いで、新しい社会の確立を目指して提案したコントの社会発展論は、「人間が精神の変化に従って、神学(想像的)-形而上学/哲学(理性的・論理的)-科学(観察、実証的)」という過程を単線的にたどるように、社会は軍事的(物理防御重視)-法律的(基礎的ルール重視)-産業的という過程を単線的にたどり、発展するという歴史モデルを提示した。それぞれが三つの段階をたどることから「三段階の法則」(フランス語: Loi des trois états)と呼ばれる。

コントは、モンテスキューとコンドルセの事業を継承しながら、天文学や物理学のような政治や社会の法則を導き出し、政治学を思想から観察科学のレベルに向上させるべきであると主張した。そして、科学的手法によって社会が必要とする政策を立案して、国家の発展を目指していくべきだと説いた。コントは自身が提唱する実証的な科学研究のレベルに政治学が到達し、学問の向上によって「科学的政治」が実現すれば、「人に対する支配」が終わり「物に対する支配」へと統治のあり方が変化して専制の時代は終焉するという予測を示した。

この著作はコントの思想を端的に表現した文献となり、以後の研究の方向性を決定づけるものとなった。コントはサン=シモンから学ぶ点を全て吸収してしまい、1824年までにサン=シモンと絶縁して思想的に自立することを選択した。しかし、サン=シモンは貧困を苦にして1823年3月9日にピストル自殺を試みて片目を失うも失敗、1825年にこの世を去ることとなった。オーギュスタン・ティエリやコントを含めて弟子たちによって営まれた葬儀の後ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

サン=シモンとの決別と死を契機に、コントは更なる挑戦を始める。

結婚と危機

 
妻のキャロライン・マッサン英語版

1824年、下院議長秘書や下院議員を務めたほか、サン=シモン派の雑誌『生産者』の編集長だったアントワーヌ・セルクレという若手弁護士と親交していた。セルクレはキャロライン・マッサンという元娼婦の女性と交際していた。

キャロラインは1802年、シャティヨン=シュル=セーヌで田舎役者の父と下着職人の母の間に生まれ、貧しい労働者として育った。娘に母から売春で稼ぐよう強いられて、まもなく警察から娼婦として登録された。こうした中でセルクレがキャロラインの母に金を渡して彼女の更正を手助けするようになったのだ。コントはこの二人に数学を教えていたのだが、キャロラインはセルクレに捨てられ、結局キャロラインはコントと交際を始めた。キャロラインは素行不良のため度々警官に職務質問を受けて尾行されていた。

こうした状況を憂慮してコントは結婚を決意、公証人シャルル・シャンピオンがパリ第4区区役所に婚姻届を提出、1825年2月19日、数学教授オーギュスト・コント27歳と下着職人キャロライン・マッサン22歳の結婚が成立した。この結婚は、結婚以外に道のない女と結婚のチャンスのない男の結婚であった。しかし、コントはこの結婚を半年も経たずに「失敗」と考えるようになった。原因は夫の貧困と妻の不忠実さであった。

1826年1月下旬、コントは『実証哲学講義』と題する講義を彼のアパートの一室で開講した。若干28歳の無名の学者コントが開講したこの講義には、動物学者アンリ・ブランヴィル、エコール・ポリテクニックの恩師だった数学者ルイ・ポワンソ、ドイツの地理学者アレクサンダー・フンボルト経済学者シャルル・ディノワイエ英語版など高名な研究者が聴講に集まってきた。コントの才能を見込んだ学者たちが集まったとはいえ、当代随一の学者を相手にした講義で、その光景は奇妙なものだったという。また、セルクレもこの講義に出席していた。

第一回は、講義の目的や実証主義の精神を紹介するイントロダクション。第二回は諸科学のイエラルシーについて講義し、第三回は数学を講義した。しかし、第四回でコントが突然の休講、原因は精神疲労であった。コントは講義の準備に追われ、社会学についての構想を披露するに当たって、極度の緊張の結果に精神異常をきたしてしまったのである。また、新婚の妻キャロラインが夫を置いて家出したのである。キャロラインは生活苦を理由に売春して金を稼いでいた。コントは妻の不貞に悲嘆にくれながらも仕事に追われており、収入も少なく生活に窮している惨憺たる状況にあった。

コントは静養を目的にパリを離れて郊外のモンモランシーにいた。キャロラインは夫を探してようやく再会を果たし、コントに精神科での治療を受けるように薦めた。コントは精神科医エスキロールの元で入院したが、治療は捗らなかった。事態を重く見たコントの母は息子を禁治産者とする手続きを取って、キャロラインと離縁させようとしたが失敗に終わり、結局、息子夫婦を郷土のモンペリエに連れて帰った。そして、二人はカトリック式の結婚をするが、まもなくパリに戻ったもののコントの精神状態は回復しなかった。

 
ポンデザールとルーヴル宮殿

1827年4月、ついにコントはルーブル博物館に近い芸術の橋ポンデザールから身を投げ入水自殺を試みた。しかし、通りがかりの近衛仕官がコントを救出して、コントは一命を取り留めた。これが契機になってコントは回復を遂げていく。治療費と療養中の生活費を用意してくれた父親からの借金も嵩み、仕事に復帰しなければならなかった。再び、『実証哲学講義』を再開させたが、受講生は以前よりも増えて、狭いアパートでは済まなくなり、広い間取りのアパートに転居している。

実証主義の体系化

『実証哲学講義』は最初の第一巻の刊行に着手する段階に到達して、1830年7月に出版された。この1830年7月は七月革命の年に当たり、シャルル10世が退位してオルレアン公ルイ・フィリップが王位に即位した。また、コントはこの講義とは別に証券取引所に近いブティ・ペールの区役所ホールを借りてプロレタリアートのための科学に関する無料の公演会を開催した。この公演は18年間続けられ、『通俗天文学』と呼ばれる著作へと大成される。この『通俗天文学』の序論が『実証精神論』となった。

1830-1842年までの12年間で、コントは全六巻にわたる実証哲学講義フランス語: Cours de philosophie positive1830年-1842年)を書き上げていき、諸科学の性格を総括してそのイエラルシーを体系化、独自の科学哲学を開いていく。「科学分類の方法」を用いて、数学から発展して物理学化学生物学を経て、抽象から具体へと発展する、概念から自然を経て人間へと到達する、最終的には社会学に到達する科学研究の領域と方法論を定め、観察と実験による法則的な事実の探求を近代科学の基礎とした。また、「三段階の法則」に基づき、科学の発展過程を科学史によって後付け、人間の精神的段階がどのようにして神学的段階・形而上学的段階・実証主義的段階へと発展していったのかを詳細に論じた。

しかし、華々しい業績を上げていくコントは、幸福に恵まれなかった。原因は妻キャロラインの度重なる不貞である。彼女は夫の稼ぎの悪さを非難して断るごとに喧嘩をし、1842年6月15日の大喧嘩では「庭つきの綺麗なアパートを与えてくれるならすぐに出て行く」と口にした。キャロラインは一度ならず幾度(1826年、1833年、1838年、1842年の四回目は決定的別居)も家を空けて放蕩を重ねた。そのたびに大金を持って帰宅してコントの生活を支えた。コントの自尊心は傷つけられ、感情的に打ちひしがれることが多くなった。また、キャロラインは知的で純粋なコントとは異なり、世慣れした女性で、苦労性のコントと生き方が違っていた。二人は互いに理解し合い支えあえる関係を築けないまま、1842年に別れてしまう。

人類教の体系化

思想

三段階の法則

1822年、オーギュスト・コントは、過去の安定的な秩序と未来への革新的な進歩という二つの原理の争いを超えて、現実味のある処方箋を示すことが動乱する社会によって緊急の課題であると考え、新しい社会の確立を目指して「社会を再組織するために必要な科学的な作業のプラン」を提案した。コントの社会発展論は、「人間が精神の変化に従って、神学(想像的)-形而上学/哲学(理性的・論理的)-科学(観察、実証的)」という過程を単線的にたどるように、社会は軍事的(物理防御重視)-法律的(基礎的ルール重視)-産業的という過程を単線的にたどり、発展するというもの。それぞれが3つの段階をたどることから「3状態の法則」(Loi des trois états)と呼ばれる。

社会学

オーギュスト・コントは、「予見するために観察する。予知するために予見する」('Voir pour prévoir, prévoir pour prévenir.')の名言で広く親しまれている社会学の創始者である。その思想は、ニコラ・ド・コンドルセの『人間精神進歩の歴史』で描かれた進歩思想と同様の見解を採用している。

コントによると、数学天文学物理学化学生物学と進んだ精神の歴史は、社会学で完結し、「実証哲学」(Philosophie Positive)の全体系を集約する学的領域と位置づけた。これからの社会の姿を予見し、これを予知し、市民社会の危機を克服する政治・経済を含めて諸現象を実証する社会動学(Dynamique sociale)と、現在の社会を分析するための社会静学(Statique social)との双方からのアプローチを社会学の基礎に置いた。

教育学にも重要性をおき、実証主義教育及び教育組織を社会的再構成のための有力な手段として重視した。

フランス革命後の市民社会の危機の克服を目途とし、現代社会の分析と実証により、再組織の原理の確立につとめた。知的要素に重点をおき、主観的要素が社会を動かすことに着目し、この両者の相反する動力学が社会を遷移させるものであるとの帰結から、実証主義的教育論の重要性を認知し、自ら、工芸協会(Association Polytechnique)を設立し、一般労働者向けの天文学の講義を18年間継続して運営した。無産者教育の実践、社会進歩の理念、思想家としての社会の科学的分析を実証主義によって行い、社会学の創始者のみならず、広義の哲学者として実践的な活動の裏づけをともなう業績から、のちのカール・マルクスに与えた影響は、社会学の域を超え、思想家としての巨匠として後世に多大の影響を残している。

主な著作

逸話

ブラジルの国旗の白い帯に記されている「秩序と進歩」(Ordem e Progresso)はコントの言葉である。

影響と評価

日本のコント研究者

脚注

注釈

出典

参考文献

外国語文献

  • Mary Pickering, 英語: Auguste Comte, Volume 1: An Intellectual Biography , Cambridge University Press (1993), Paperback, 2006.
  • Mary Pickering, 英語: Auguste Comte, Volume 2: An Intellectual Biography, Cambridge University Press, 2009a.
  • Mary Pickering, 英語: Auguste Comte, Volume 3: An Intellectual Biography, Cambridge University Press, 2009b.

邦語文献

外部リンク