金剛院 (沼田市)
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由緒
寺の伝えによると応永年間(1394年 - 1428年)、沼田氏一族が京都の愛宕神社(愛宕宮)を勧請したのが起源だという[2]。寺伝では沼田景繁の3男沼田景次[1]、『真田記』では「沼田五代の3男沼田景次」によるという[3]。
『真田記』によれば、沼田景次が出家して京都の愛宕神社の威徳院に入り、その別当になったという[3]。その後、沼田氏の勧請により、「野狐塚(やこづか)[注 1]」(利根郡横塚村、利南村を経て、現在の沼田市横塚町)に愛宕社(愛宕神社)が創建された[3]。この愛宕社は沼田氏の居城である幕岩城の鬼門に位置し、城の鎮護社だった[4][5]。
愛宕社の別当寺は近隣一円に点在し[注 2]、沼須村(利南村を経て、現在の沼田市上沼須町)にもあった[2]。のちの戦乱時に愛宕社にあった本尊の阿弥陀如来像を、沼須村の別当院に遷したのが、現在の本尊だという[1][3][6]。
元和2年(1616年)、当時の沼田藩藩主真田信之により、沼須村から沼田城城下の坊新田に移された。このとき新しい敷地として100間四方の土地を授けられた[1]。
寺伝によると、山号を授かるため延暦寺(滋賀県)に向かう途上、熱田神宮の渡河地で渡し船が和邇に妨げられたことから「海王山」「善福寺」に決められたという[2]。
歴史
戦国時代まで
金剛院は古くから修験道の基地として知られていた[2]。上杉謙信と北条氏康・北条氏政による越相同盟(永禄12年・1569年)に際しては、金剛院の僧が交渉役を勤めた[2]。『関八州古戦録』(『関東古戦録』)によると、この同盟締結にあたり金剛院の修験者が北条方の使者として立てられ、春日山城での交渉により、氏康の末子北条氏秀を人質として差し出すことなどを取り決めたという[1]。
天正6年(1578年)前後の記録によると、寺内に寺1(廃寺)、末寺1、門寺2とある[2]。天正壬午の乱(天正10年・1582年)では、進攻してきた北条軍により、沼田城もろとも包囲を受けた[2]。天正12年(1584年)には住職の了雲が隠居するため、沼須村に正福寺を創建した[6][注 3]。
寺宝
- 金剛の船松
- 綾戸隧道開鑿日誌
脚注
注釈
出典
書誌情報
関連項目
- 北関東三十六不動尊霊場第2番