松園尚巳

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松園 尚己(まつぞの ひさみ、1922年7月15日 - 1994年12月15日)は、ヤクルト本社名誉会長、ヤクルトスワローズの初代オーナー、 長崎新聞社長、長崎文化放送初代代表取締役会長を務めた[1]実業家。双子の兄は同じくヤクルトスワローズのオーナーを務めた松園直已

まつぞの ひさみ

松園 尚己
生誕 (1922-07-15) 1922年7月15日
長崎県南松浦郡三井楽町
死没 (1994-12-15) 1994年12月15日(72歳没)
職業 実業家
肩書き ヤクルト本社代表取締役社長
ヤクルト本社名誉会長
ヤクルト球団代表取締役オーナー(初代)
長崎新聞社長
長崎文化放送初代代表取締役会長
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来歴・人物

長崎県南松浦郡三井楽町(現・五島市)出身。法政大学工業学校を卒業し、法政大学専門部を中退。長崎市で乳酸菌飲料「ヤクルト」の販売を始め長崎ヤクルトを設立。1956年、関東ヤクルト製造を設立。1967年ヤクルト本社の社長に就任(1988年3月まで21年)。1969年3月、経営が行き詰った産経新聞社からサンケイアトムズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)を買収し、同球団のオーナーに就任する。

長崎地区のヤクルトの一販売業者からスタートし、全国のヤクルト業者を説いて回り一大組織に統合、1956年、製造・販売各社を統合した本社を設立。女性販売員の宅配システムで同社を成長させる。化粧品・薬品事業にも進出、多角化を図る。ヤクルトは、もともと特定の創業者の手によって事業化されたものではなく、代田稔が京大医学部で学んでいたときに、特殊乳酸桿菌の発見・育成に成功し「ヤクルト」の登録商標をした。代田はヤクルトの普及を願い製造・販売権を望む者に分け与え全国にヤクルトを扱う業者が現れた、松園も長崎地区の一業者だった。

1977年長崎新聞社の社長に就任し、1988年まで務める。地方版を充実させ、プロ野球公式戦開催、県観光連盟とタイアップした「新観光百選」の制定などに取り組んだ。

1989年長崎文化放送初代代表取締役会長に就任。

1988年、病で倒れ実質上の球団経営は本社の副社長・桑原潤が取り仕切ることになる(桑原は1988年4月松園に代わり本社の社長に就任。翌1989年10月、球団オーナー代行に就任)。

現役を退いた後でも、ヤクルトの大株主である(松園尚己の資産管理団体「松尚」は、全体第2位の保有)。

1994年12月15日、心不全のため死去。享年72。

逸話

  • ブラジルの大邸宅を購入したとき、その家にあったステンドグラスだけを日本で売りその邸宅を購入したばかりか、その付近の教会をまるごと購入した[2]。なお、マナブ間部らとも交流。
  • 1979年、球団が前年の日本一から一転して最下位になったことに怒りを爆発させ、選手に「本業」のヤクルト販売を命じた。高い給料をもらっている身分でだらけた野球をすることは許さない、本業の仕事がどれだけ大変か身をもって勉強せよとのメッセージがこめられていた。当時の中心選手だった松岡弘杉浦亨(現役引退後、コーチを経てヤクルト本社入り)、伊勢孝夫をはじめとした15人の選手がヤクルトレディに連れられ売り歩く[3]
  • 自身が巨人ファンであることを公言し、「巨人戦には勝たなくていい」などの発言で物議を醸し、世間の非難を浴びた(野球協約が禁止する敗退行為に抵触する恐れがある)。一方で、トレード候補の選手が移籍に難色を示すとそのトレードをご破算にしたり、1977年には2位に浮上しただけでご褒美の海外旅行を計画する(1978年のアメリカでのスプリングキャンプに変更した)など選手をタニマチ的に可愛がった。

関連項目・人物

以下、松園尚己オーナー時代のヤクルト一軍監督

参考文献

外部リンク