北ノ庄城の戦い
概要
「北ノ庄の戦い(きたのしょうじょうのたたかい)」
は天正11年(1583年)4月に織田氏重臣である、羽柴秀吉と柴田勝家の間に起こった戦いである。
賤ヶ岳の戦いと混同される場合があるが、正確には別々の戦いである。
戦闘開始までの経緯
賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家(以下「勝家」)は、自身の本拠地である「北ノ庄城」に逃げ戻った。
始めは北ノ庄城に戻り態勢を立て直すつもりだったが、共に戦っていた織田氏重臣の前田利家が勝家を裏切り、秀吉側についてしまった。(前田利家は事前に秀吉と内通していた)
勝家が思わぬ事態に驚愕している最中、羽柴秀吉(以下「秀吉」)はすぐに堀秀政と加藤清正や前田利家に北ノ庄城に追撃をかけるように命じた。
死を覚悟する
北ノ庄城は、堀隊、加藤隊、前田隊によって完全に包囲されてしまう。
さらに秀吉は賤ヶ岳の戦いで捕えた、佐久間盛政と柴田勝敏を晒し者にして、柴田軍の戦意を奪った。
最後の宴
4月23日(勝家の死の前日)勝機が完全に去ったことを悟った勝家は、広間に家臣を集め、秀吉へ降伏する事を勧めた、多くの臣下が城から出ていく中、一部の旧臣は最後まで勝家と行動する事を望んだ、勝家は残った臣下を本丸天守に集め、ありったけの酒を振る舞い、「最後の宴会」を開いた、そこには家臣のほかに、女房や尼僧など身分を問わず100人あまりの人が同席し、妓女は踊り、お酌をし、楽器を奏で、舞を舞う… その様子は戦勝祝いのようだったと言われている。
3人の娘のための手配
勝家・自害
天正11年(1583年)4月24日、羽柴軍の猛攻撃が始まった。
勝家は、城に火を放った。
勝ち目は無かったが、それでも勝家は秀吉への降伏することは選ばず、燃え盛る城の中で妻・お市の方と共に自害し、北ノ庄城は落城した。
戦闘後
北ノ庄城主その後
戦闘後は勝家に代わり堀秀政が城主になったが、堀氏はのちに越前に転封されたため、丹羽長秀や青木一矩、結城秀康などが城主になっている。
羽柴秀吉その後
この戦いの後、上杉景勝や毛利輝元、大友義統など多くの戦国大名が秀吉に臣従するようになり、秀吉は天下統一に近づいていった。
参考文献
・戦国大合戦絵巻 80ページ
関連項目
・羽柴秀吉
・柴田勝家
・北ノ庄城
- ^ “北ノ庄城の戦い - 歴史まとめ.net”. rekishi-memo.net. 2020年9月19日閲覧。