恭帝侗

隋の第4代皇帝

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恭帝侗(きょうていとう、? - 619年、在位は618年-619年)は、の皇帝。第二代皇帝であった煬帝の孫。姓は楊。侗は人偏に同。恭帝侑の兄弟。

皇帝になる前は越王の地位にあり、洛陽の守備(東都留守)を任されていた。617年頃から反乱を起こした李密がたびたび洛陽を攻めてきた。西域出身の王世充らをこの軍勢と戦わせたりして何とかしのいでいたが、618年に祖父の煬帝が殺されると、隋の重臣たちに擁立されて即位した。このとき元号を皇泰としたため、皇泰主とも呼ばれる。

しかし、王世充が李密を破って実権を完全に掌握すると、楊侗は邪魔者と為り、翌年に王世充に禅譲することを余儀なくされた上で殺害されたのである。帝位についたとはいえ、李淵に禅譲した恭帝侑とは異なり、後世からは正統な皇帝とされていない。


先代
恭帝侑
皇帝
618年 - 619年
次代
(次代なし)