浄土真宗

大乗仏教の宗派のひとつ

これはこのページの過去の版です。218.46.31.251 (会話) による 2006年10月9日 (月) 11:25個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (蓮如の登場~石山合戦)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。


浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、鎌倉初期、法然の弟子親鸞が、法然の教え(浄土宗)を継承発展させ、後に教団として自立した仏教の日本独自の宗派。宗派の成り立ちの経緯から、真宗とする宗派もある。別名に一向宗門徒宗とも言われる。所依の経典は浄土三部経(仏説無量壽経・仏説観無量壽経・仏説阿弥陀経)。

概説

念仏南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ、なもあみだぶつ(本願寺派))を唱えること(称名念仏)を通して、阿弥陀仏の慈悲を信知せしめられ、悪人を含む全ての人が浄土往生し成仏するという絶対他力への信順を往生成仏の正因とする。ここから、今この時にも阿弥陀仏の本願力は私たちに回向されていて、救われている(現生正定聚)とする。この根拠が、無量寿経に説かれる阿弥陀仏の十八願(選択本願)である。ちなみに阿弥陀仏は、西方極楽浄土を仏国土とするである。

親鸞は、インドの竜樹天親から中国の曇鸞道綽善導を経て、日本の源信恵心僧都)・源空法然)へと継承される他力念仏の系譜をふまえ、法然の教えを真宗(真の宗教)と呼んで継承した。しかし法然往生(没)後の弟子たちによる本願・念仏に対する解釈の違いから、浄土宗西山派などからの批判を受け、形としては浄土宗からの離脱を余儀なくされ、当時の仏教界においては無名の存在であった。越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞門徒が形成され親鸞の往生(没)後一派となっていく。親鸞の教えを継ぐ者には自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いは有ったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られ兼ねないため、当時はただ真宗と名乗った。浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例がある。また一向宗は時宗旧一向派(開祖一向俊聖)のこともいう。近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した。近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。

他の仏教宗派に対する浄土真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戎であるという点にある(明治まで、妻帯の許される仏教宗派は浄土真宗のみであった)。そもそもは、一般の僧侶という概念(世間との縁をきって出家し修行する人々)や世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏であると、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子を設けたことに由来する。そのため、浄土真宗には法脈(師弟関係)と血脈の2つの系譜が存在する。

浄土真宗はただ「南無阿弥陀仏」という阿弥陀仏のはたらきにまかせて、全ての人は往生成仏することが出来るとする教えから、他の宗派と比べ多くの宗教儀式や習俗にとらわれない。合理性を重んじていることから、近世には庶民に広く受け入れられたが、他の宗派からはかえって反発を買い「門徒物知らず」(門徒とは浄土真宗の信者のこと)などと揶揄される事もしばしばであった。

ただし浄土真宗においては、蓮如上人が仏壇を安置することを奨励したことから、仏壇に関しての「決まり」が他の宗派に比して厳格である。金仏壇は本山寺院を模していることから、真宗内各派でも作りが異なり、仏具に関しても違いがある。

親鸞入滅後の歴史

親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名大谷本願寺)を建てて本願寺3世と称した。こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺7世の了源など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は蓮如の登場まではほとんど日の目を浴びることがなかった。

蓮如の登場~石山合戦

本願寺8世の蓮如と呼ばれる組織を築き、民衆が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、また親鸞の教えを分かり易くするため短い言葉にまとめて門徒に教える(御文あるいは御文章)などしたため、本願寺は爆発的に発展し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の法脈は衰退することとなった)。この講の場での信者の団結パワーは、主に施政者(大名)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、一向一揆と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、徳川家康上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、薩摩島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。

やがて応仁の乱(1467年1477年)が起こり、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。門徒のパワーはその後朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。

一方、畿内では、はじめ、蓮如が文明14年(1482年)に建立した京都山科本願寺が一向宗の本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は、日蓮宗徒らと結託し、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした。これにより本拠地を失った一向宗徒は、蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本願寺を移した。石山はこれにより大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。

永禄11年(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺11世門主の顕如は義昭に味方し、元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の一向宗徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆は尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により何度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が天皇による仲介という形で提案した和議を承諾し、本願寺が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。

このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであったが、浄土真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。越前国における本願寺門徒と高田門徒との交戦の例に見られるように、本願寺以外の浄土真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。

京都に再興~現在

秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。江戸時代の初期には、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都六条烏丸)に土地を与えられて独立し、東本願寺を構えた。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺は、顕如の三男准如を12世門主とする西(現在の本願寺派)と、長男教如を12世門主とする東(現在の大谷派)とに分裂することになった。

明治維新後の宗教再編時に、大教院に対し宗教団体として公的な登録を行う際に、現在の浄土真宗本願寺派のみ浄土真宗として申請し、他は真宗として申請したことが、現在の名称に影響している。

また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。

浄土真宗の本山には、阿弥陀仏を安置する本堂(阿弥陀堂)とは別に、宗祖親鸞を安置する御影堂があり、親鸞を顕彰し追悼する「報恩講」を最大の行事とする。

宗派

真宗教団連合十派とその本山

その他宗派

外部リンク