利用者:たいすけ55/sandbox
ここはたいすけ55さんの利用者サンドボックスです。編集を試したり下書きを置いておいたりするための場所であり、百科事典の記事ではありません。ただし、公開の場ですので、許諾されていない文章の転載はご遠慮ください。
登録利用者は自分用の利用者サンドボックスを作成できます(サンドボックスを作成する、解説)。 その他のサンドボックス: 共用サンドボックス | モジュールサンドボックス 記事がある程度できあがったら、編集方針を確認して、新規ページを作成しましょう。 |
いしかわ せつこ 石川 節子 | |
|---|---|
|
| |
| 生誕 |
堀合 節子 1886年10月14日 岩手県南岩手郡上田村新小路11番地 (のちの盛岡市上田、岩手大学構内) |
| 死没 |
1913年5月5日(26歳没) 北海道函館区豊川町34番地(豊川病院) |
| 死因 | 肺結核 |
| 墓地 | 北海道函館市立待岬 |
| 国籍 |
|
| 出身校 | 盛岡市立盛岡女学校 |
| 職業 | 代用教員 |
| 団体 |
滝沢村立篠木尋常高等小学校 函館区立弥生尋常小学校 |
| 配偶者 | 石川啄木 |
| 子供 | 石川京子 |
| 親戚 | 石川正雄(義理の息子、長女の夫) |
石川節子
[[]]
生涯
死
大正2年4月13日、浅草の等光寺において、与謝野寛、北原白秋、金田一京助、土岐哀果らを発起人として、61名が出席して啄木の一周忌の追悼会が行われた。この会で去る3月23日に、函館の啄木未亡人節子の代理として函館図書館の岡田健蔵が上京して、等光寺に埋葬してあった啄木とカツの遺骨を、函館に持ち帰ったことを報告した[1]。一方、函館図書館でも同じ日に啄木の一周忌の追悼会が催されている。宮崎郁雨、岡田健蔵が幹事となり、堀合忠操、斎藤大硯、岩崎白鯨ら20名あまりが出席している[2]。この来会者の席上で、啄木と面識のない斎藤咀華が写真を参考にし、宮崎ら友人たちの意見も取り入れて、描いた肖像画の油絵が披露されている[3]。追悼会の数日後、「苜蓿社」時代の啄木の友人・岩崎白鯨は、この絵を一目節子に見せようと、岡田健蔵と連れだって病院を訪ねた[3][4]。岡田は絵を前にして、当日の様子について詳しく話し、これを機会に啄木会として「啄木文庫」を創設し、啄木の関係資料の収集や保存をしていくことを約束している。節子は啄木が残した日記、書簡および遺稿など一切を「啄木文庫」に託すことを言い残したと伝えられる[5]。病室の節子は痩せ衰え、正視できないほどだった。岩崎は節子が絵に見入るときの様子を、手記にこう書き記している[6]。
その時は見て貰ったら直ぐ持って帰る積りで行ったのだが節子さんが咳入り〱乍ら一心に眺めてゐるものを、とても持って帰る訳に行かなかったそれで、こっそり岡田君に耳打して、飽きたら返して貰う事にして画を置いて二人ハ帰ったそれは僕にしてハ永の別れであった。(中略)外へ出てから岡田君に、画を持って帰るに忍びなかったと云ったら、同君も同感だと云ってうつむいた。岡田君もあれを最後に、節子さんに逢はなかったことと思ふ。 — 岩崎白鯨
節子は啄木の肖像画とともに、残りの二週間ほどの命を生きた[3]。
血縁の人物のその後
伝記作品
脚注
注釈
出典
参考文献
- 雑誌
- 書籍
- 堀合了輔『啄木の妻節子』洋々社、1974年。ASIN B000J9GAQU。
- 山下多恵子『啄木と郁雨 友の恋歌矢ぐるまの花』未知谷、2010年。ISBN 978-4896423112。
- 坂本竜三『岡田健蔵伝 北日本が生んだ稀有の図書館人』講談社出版サービスセンター、1998年。ISBN 978-4876014422。
- 冷水茂太『啄木遺骨の行方』永田書房、1968年。ASIN B000JA4BMY。
- 。
- ^ [[#()|]] p.