元慶和
経歴
元逞(拓跋天賜の子)の子として生まれた[1][2]。東豫州刺史に任じられた[1][2]。527年(孝昌3年)9月、南朝梁の譙州刺史の湛僧智に広陵で包囲された[3]。10月、南朝梁の夏侯夔が湛僧智と合流すると、慶和は城ごと梁軍に降った[3]。南朝梁の武帝により信武将軍の号を受けた。534年(中大通6年)、南朝梁の鎮北将軍・北道総督となり、魏王に封じられて、北伐に参加し、項城まで進軍した[1][2][4]。535年(大同元年)1月、東魏の元晏の軍に敗れた[5]。6月、南頓に進攻し、東魏の豫州刺史堯雄の軍に敗れて退却した[5][6]。敗戦の責を問われて合浦に流された[1][2]。後に衡州刺史となった。桂陽の厳容に包囲されたが、蘭欽に救援された[7]。
脚注
伝記資料
- 『魏書』巻19上 列伝第7上
- 『北史』巻17 列伝第5