新九郎、奔る!
『新九郎、奔る!』(しんくろう、はしる)は、ゆうきまさみによる日本の歴史漫画。室町時代から戦国時代前期の人物で、後世「北条早雲」の名で知られる伊勢新九郎盛時(出家後の名として伊勢宗瑞)を主人公とし、「下克上の素浪人」という従来の北条早雲像とは異なり、歴史学での最新の見解をもとに室町時代の体制と秩序に生きる「名門伊勢家の一員」として育ちながら戦国大名へと転身していくその生涯を描く[1][2]。
| 新九郎、奔る! | |
|---|---|
| ジャンル | 歴史漫画 |
| 漫画 | |
| 作者 | ゆうきまさみ |
| 出版社 | 小学館 |
| 掲載誌 | 月刊!スピリッツ ビッグコミックスピリッツ |
| レーベル | ビッグコミックススペシャル |
| 発表号 | 月スピ:2018年3月号 - 2019年12月号 週スピ:2020年7号 - 連載中 |
| 巻数 | 既刊8巻(2021年9月10日現在) |
| テンプレート - ノート | |
| プロジェクト | 漫画 |
| ポータル | 漫画 |
『月刊!スピリッツ』(小学館)にて、2018年3月号(2018年1月27日発売)から2019年12月号(2019年10月27日発売)[1][2]まで連載された後、週刊『ビッグコミックスピリッツ』(同社刊)へ移籍して、2020年7号から隔週で連載中。
単行本第1集は2018年8月9日に発売されたが、ゆうきの漫画家としての初期の代表作の一つ『究極超人あ〜る』の約31年ぶりの新刊第10集と、最新作である本作品の第1集が同日発売となった[3]。2021年9月時点で第8集まで発売されている。
主人公である北条早雲こと伊勢新九郎盛時は出自・生年について諸説ある人物であるが、本作品では近年の歴史学の見解で主流となっている伊勢氏支流の備中伊勢家の出自で康正2年(1456年)生まれの享年64歳説(応仁の乱開戦時に12歳、伊豆国・堀越御所討入時に38歳)を採用している。父親については近年の通説通り室町幕府官僚で幕府申次衆の伊勢盛定とするが、母親については通説の盛定の正室で伊勢宗家当主・伊勢貞国の娘ではなく、『北条五代記』に準じ盛定の側室で堀越公方被官・横井掃部助の娘を生母とする[注釈 1]。また、新九郎の生誕・成長の地は父の所領がある備中国荏原郷ではなく将軍直臣の父と一家が暮らす京都および山城国とし[注釈 2]、新九郎の元服後に父の名代として荏原に下向したとして話を構成している。
あらすじ
時は明応2年(1493年)、伊豆国・ 堀越御所に手勢を率いて討ち入る一人の男がいた。その名は伊勢新九郎盛時。室町幕府奉公衆として、幕命により足利茶々丸の首を獲りに来た新九郎だが、その心中では一つの決意を固めていた。「明日から、俺の主は俺だ!」
第1章「応仁の乱 編」(第1集 - 第3集)
- 遡ること27年前、文正元年(1466年 )8月。室町幕府官僚の父・伊勢備前守盛定の被官で傅(もり)役の大道寺右馬介に山城国宇治の館で育てられていた当年11歳の伊勢千代丸(のちの伊勢新九郎盛時)は、元服に向け伊勢家の子弟としてのふるまいを学ぶため京の伊勢宗家(伊勢伊勢守家)の邸に住む父・盛定の手許に戻り一家(伊勢備前守家)と同居することになる。伊勢宗家は当主が室町幕府政所の長官である執事を歴任する家柄で、当主・伊勢伊勢守貞親は、伊勢宗家の婿となった盛定の義兄であり、将軍・足利義政の元服前に傅役を務めその縁で側近として義政から深く信任され、大名の家督にも介入する強大な権力を握っていた。また貞親は嫡子・伊勢兵庫助貞宗にも義政の嫡子・春王の傅役を務めさせ、春王が将来将軍になる際は伊勢家として引き続き権勢を得ることを目論む。
- 以前義政に嫡子が生まれなかった頃、義政は弟・足利義視(今出川殿)を僧侶から還俗させ将軍継嗣としたが、義政に嫡子・春王が生まれたことでその立場は微妙となり、義視の将軍位は一代限りでその後は成長した春王に将軍位が譲られるとされた。しかし貞親は義視の激しい性格を見て将来将軍位が義視から義政の子・春王へ返還されず義視の子へ継承されてしまうと、春王の傅役としての伊勢氏の権勢が失われると危惧し、義視の排除を企てる。
- 文正元年(1466年)9月、貞親は将軍・義政に斯波家の家督争いで斯波義敏に敗れた斯波義廉が兵を集めるのを義視が支援しており、義視に謀反の疑いありと訴えた。これに義政は激怒、明日義視に切腹を命じようと息巻いたが、義視はすぐに邸を脱出し細川邸次いで山名邸へ逃げ込み、山名宗全を中心とする反貞親派の大名達は今出川殿御謀叛というのは貞親による誣告であり、貞親が切腹すべきと義政に迫った。その日義政は貞親への切腹命令を下さず奥へ引き込んだものの、流されやすい性格の義政が切腹命令を出すのは時間の問題と思われた。これにより伊勢宗家邸は反貞親派の大名の兵に取り囲まれるが、貞親とそれに同調する盛定[注釈 3]に切腹命令が出る前、邸を取り囲む兵が減ったその日の夜に貞親は盛定と共に近江国へ逃亡し、貞親は政所執事、盛定は申次衆の座を失い失脚した。また貞親に同調し権勢を得ていた斯波義敏、赤松政則、季瓊真蘂らも逃亡、失脚した(文正の政変)。貞親と盛定が都を去ると、貞親の嫡子・伊勢兵庫助貞宗が貞親に代わり伊勢宗家の当主および政所執事として幕府に出仕しその座を継承、伊勢家は諸大名との関係の改善を図りつつ政務をこなし、その中で千代丸も幕府重鎮の大名・細川勝元、山名宗全らから知遇を得る。
- 文正の政変後、協調関係にあった細川勝元と山名宗全だったが、幕政の主導権をめぐって次第に対立。応仁元年(1467年)、畠山家の家督争いへの加担を皮切りに京を東西に二分する「応仁の乱」へと発展する。当初将軍・足利義政は両者に停戦命令を出すなど中立を保ち大名たちの私戦との位置づけであったが、細川勝元が将軍御所を囲い込むことで将軍と幕府は細川方となり、将軍に近侍する伊勢家も細川方に属することとなる。ここに至って主に堀川を挟んで東側に陣を布いた細川方が東軍、西側に陣を布いた山名方が西軍と呼ばれることとなり、戦乱は泥沼化していった。戦火の最中、千代丸は12歳で元服し、名も伊勢新九郎盛時と改める。戦況が東軍に不利になると将軍・義政の弟で東軍総大将に担ぎ上げられていた足利義視は総大将にも関わらず伊勢国へ逃亡。義視に仕えていた新九郎の兄・八郎もこれに付き従う。一方、貞親と盛定は義政に呼び戻され復権し京へと帰還する。そして新九郎の姉・伊都は将軍御所警備の名目で上洛し東軍に属する駿河国守護・今川治部大輔義忠のもとへ嫁ぐことになった。
- 応仁の乱勃発から一年、東軍総大将にも関わらず逃亡した足利義視が都へ帰還するが、幕府内での立場を失い、約束されていたはずの次期将軍の地位も危うくなっていた。義視に利用価値が無くなったと判断した伊勢一門は八郎に伊勢家に戻るよう命じるが、伊勢国への逃亡の旅で主君・義視への厚い忠誠心を抱くようになった八郎は義視こそが「次の将軍に相応しい」と貞親や盛定への怒りをあらわにし反発する。そして悲劇が起きる。
- 応仁2年(1468年)11月、新九郎の姉・伊都の輿入れの準備で伊勢家が忙しい最中、幕府内で孤立していた将軍・義政の弟・足利義視が失踪し、義視に仕える新九郎の兄・八郎も姿を消す。応仁の乱の東軍総大将である義視には西軍に通じている噂が絶えず、もし義視が西軍に向け出奔したならば幕府への謀反、それに従う八郎も同罪ということになるため、新九郎と備前守家の家人達は出奔を阻止すべく暗闇に包まれた戦下の夜の街で捜索を行う。新九郎は義視が安全に逃れる場所として比叡山に向かっていると考え、鴨川の河原で川を渡ろうとしていた義視の一行を発見するが、八郎が刀を抜いて新九郎達の前に立ちふさがり義視の一行を逃そうとする。新九郎は八郎に伊勢家に戻るよう説得するが、八郎は「(備前守家の)家督など新九郎にくれてやる」と聞く耳を持たない。八郎が義視の一行を追って立ち去ろうとしたその時、新九郎達を尾行してきた幕府奉公衆の伯父・伊勢掃部助盛景一行が狙い放った矢は八郎に中たり、盛景が新九郎の目の前で八郎にとどめを刺し八郎は落命する。八郎の遺体は伊勢宗家邸に運び込まれるが、盛景は謀反人を身内で片付けたまでと開き直り、貞親や盛定、貞宗は一門から謀反人を出す訳にはいかないとして、八郎を殺害することで身内からの幕府への謀反を防いだ盛景に落ち度は無く、八郎の死を急な病死として扱うこととした。新九郎はこの一門の決定に抗うことが出来ない無力な自分に落胆し、雨が降る夜の邸の庭でひとり泣いていたが、備前守家の若い家人達が新九郎の前に集い「どうか明日から将来の備前守家の後継者として心構えを持って下さい」「我らが力を尽くしてお支えいたす」と新九郎を励ました。
第2章「領地経営 編」(第4集 - 第6集)
- 文明3年(1471年)2月、応仁の乱は京での戦闘がほとんど無くなったが、地方へその余波が波及していた。父・伊勢備前守盛定の所領の備中国荏原郷では隣国備後国で続く争乱に対し備中国守護・細川勝久から兵糧提供の準備を求められ、また争乱の結果によっては敗残兵への備えが必要になることから、父・盛定は16歳になった新九郎に名代として荏原への下向を命じる。
- 3月、新九郎は備前守家の家臣、大道寺太郎、荒川又次郎、在竹三郎、荒木彦次郎、山中駒若丸らと共に荏原郷に入る。荏原郷では父・盛定の伊勢備前守家と、父の次兄・伊勢掃部助盛景の伊勢掃部助家で、備中伊勢氏としての所領を東西に分割しており、備前守家の所領・東荏原はここ2年ほど年貢からの収入が大幅に減っていた。原因として掃部助家の所領・西荏原との土地の境目があいまいで、東西荏原の年貢を集めるため両家が設けた荏原政所の胸先三寸で備前守家の取り分が決まっていることを知らされる。地侍や農民も新九郎を領主として認識しておらず、逆に掃部助盛景の嫡子で新九郎の従兄にあたる伊勢九郎盛頼の人気は絶大。荏原政所を頭人として取り仕切る父の三兄で新九郎の伯父・珠厳も新九郎をすぐに京へ帰る客扱いし、新九郎は荏原に来て早々に山積する問題に頭を抱える。
- 新九郎は細川家家臣の備中国守護代・庄伊豆守元資からの要請に応じ備後国へ向かう東軍・山名是豊の軍勢の宿泊、通過の支援を行うと共に、荏原の土地の台帳に基づき年貢が分けられるよう荏原政所頭人・珠厳、掃部助家の盛頼らに求め、台帳の確認や検田を行おうとするが、珠厳らはそれを快く思わない。同じころ荏原の北の戸倉から小菅を勢力範囲とし伊勢家に心服しない国人那須家の弦姫とその従兄で那須家当主・那須修理亮資氏とも知り合うが、これが荏原の問題を解決する思わぬ糸口となっていくこととなる。
- 4月、新九郎は伯父である荏原政所の頭人・珠厳から新九郎の荏原赴任を歓迎する酒宴に招かれた。酒宴には新九郎と家人たちに加え、珠厳、盛頼の弟で珠厳に仕える珠龍、そして掃部助家からの盛頼が参加することになっていたが、盛頼は到着が遅れていた。しかし酒宴の席に着いた新九郎は何かおかしい雰囲気を感じ取り、腹痛を理由に帰ろうとしたところ、これを押し留めようとする荏原政所の給仕と揉め、板戸が倒れると隣の部屋に武装した侍たちがおり酒宴で新九郎たちを殺害しようとしていたことが明らかになる。珠厳は盛頼一行が到着後、盛頼に殺害を実行させるつもりだったが、盛頼到着前に新九郎たちに発覚してしまった以上自ら実行する覚悟を決め、武装した侍たちが新九郎たちを取り囲む。新九郎たちは酒宴の席に着く前に太刀を預けてあり、腰刀だけでは相手にならず斬死を覚悟する絶体絶命の状況となったが、そこに盛頼とその家人たちが遅れて到着する。珠厳は盛頼に「待ちかねていたぞ」と言い、盛頼が珠厳に加勢と思われたその時、盛頼は珠厳を取り押さえると、珠厳が荏原政所頭人として東西荏原の採れ高を不正に操作し自らの懐を潤していたことを明らかにし、珠厳は病を得て執務ができないため今日を限りに退任、代わって盛頼の弟の珠龍が荏原政所の頭人になることを宣言した[注釈 4]。盛頼は新九郎を助けるつもりでクーデターを起こした訳ではないものの、新九郎は自分に敵対的と思っていた盛頼に絶体絶命の状況から救われることになった。
- 4月28日、京では将軍・足利義政が珍しく伊勢宗家邸に伊勢貞親を「私用」として訪ねた。義政は元服前に伊勢宗家邸で傅役の貞親に養育されたため、屋敷に懐かしい匂いがする、廊下を走って貞親に叱られたことを思い出す、などと昔話をしていたが、話を改め貞親が将軍側近・日野勝光を失脚させようとしていたこと、および義政の将軍位退位と義政の嫡子・春王の将軍就任の裏工作を行っていることを証人と共に突き付けた。義政は自分を育ててくれた礼と共に涙ながらに貞親を本日を以て幕府政所執事から解任し無役とし、貞親の嫡子・貞宗を代わりに任命することを申し付けた。これにより貞親は文正の政変に続く2回目の失脚で、出家の上、近江国へ出奔することとなった。また貞親と一連託生の新九郎の父・盛定もとばっちりを受け出仕停止、出奔こそしなかったものの蟄居となった[注釈 5]。将軍の命で貞宗が政所執事職を継いだい伊勢宗家(伊勢伊勢守家)はともかく、盛定の備前守家は家自体が無役ということになると、役目の対価で与えられている東荏原の所領も取り上げられる可能性が出てきた。荏原にいる新九郎はこの事態を手紙で知るも様子を見守るしかなく、気休めに那須の弦姫と鷹狩りや馬の遠乗りに出かけながらも落ち着かない日々を過ごすのであった。
- 5月、新たに荏原政所の頭人となった盛頼弟・珠龍と、盛頼、そして新九郎による話し合いが持たれた。新九郎はこれに加えて那須家当主・那須修理亮資氏を呼び、西荏原・掃部助家、東荏原・備前守家、那須家の3家による年貢の取扱いの監視の仕組みを導入することでの珠厳の不正蓄財のような事件の防止を提案する。荏原は掃部助家にしか取りまとめられないと思っている盛頼はたじろぐが、那須資氏が面白うござると合意したことで盛頼も合意せざるを得ず、この監視の仕組みは動き出すこととなった[注釈 6]。
- 新九郎は新たに幕府政所執事となった兵庫助あらため伊勢伊勢守貞宗に呼ばれ上洛。そこで父・盛定が剃髪し蟄居状態であることを知る。新九郎は貞宗や細川勝元に依頼し将軍・義政に会う約束を取り付け、嫌がる盛定を連れ義政に謁見。盛定は義政に貞親の不正工作に加担した謝罪と、自らの隠居により家督を新九郎に譲ることを願い出る。義政はいつもの気まぐれか盛定の隠居と新九郎による家督相続は認めたが、備前守の官位や幕府申次衆の役目を引き継ぐことは認めず、新九郎は無位無官、無役で父の備前守家の家督と東荏原の所領を相続することとなった。これにより新九郎は東荏原の領主「名代」から正式な「領主」となった。
- 5月30日、新九郎が荏原に戻ると、掃部助家と那須家が戦の一歩手前の一触即発の状態になっていた。争いの原因は代々那須家に仕える沼之井という者が耕す土地が台帳では掃部助家の土地をなっており、台帳の通り今後年貢の取りまとめを掃部助家が行うことを沼之井に伝えに行くと沼之井が拒否し乱闘となり、掃部助家に死人が出て沼之井は那須家に保護を求め逃げ込んだと言い、おまけに那須家は狩り小屋との名目で砦を建て、掃部助家による見分も拒否しているという。新九郎はまず盛頼が具足姿で今にも那須家に攻めかかろうとしていたのを押し留め、次に那須家の砦がある場所が法泉寺の背後の山であることが分かると、東荏原の領主として法泉寺の寺域での争いを禁止する「禁制」(法泉寺の平盛時禁制)[注釈 7][4] を発行し、弦姫を介して資氏に対し東荏原領主として法泉寺の寺域に禁制を発行したこと、東荏原は西荏原の側に付き那須家と戦う意思が無いことを説明、那須家に話し合いの席に着くことを説得し、那須の砦を解体させることに成功する。さらに掃部助家と那須家両方が納得する仲裁者として、新九郎が元服前に細川家への使い走りをしていたことからの顔見知りである細川家家臣の備中国守護代・庄伊豆守元資に仲裁を依頼、掃部助家と那須家は他ならぬ守護代による仲裁ということで話し合いの席に着くことになった。ほどなく法泉寺で行われた話し合いでは仲裁役の庄元資が取りまとめ、沼之井の年貢はこれまで通り那須家が扱うが、那須家は掃部助家に埋め合わせをするということで詳細を詰める事となった。
- 新九郎は領主になったと言えども16歳の男子。那須の弦姫に初めて会った時から女性ながらその凛々しい姿に憧れを抱いていたが、一緒に鷹狩りや馬の遠乗りに出かけるうちに憧れの気持ちは恋心へ変わっていった。那須家が法泉寺裏山の山中に築いた砦の解体に立ち会った際には、新九郎は河原で半裸で汗を拭う弦姫を見てしまい、想いに耽ったり夜な夜な妄想に頭を悩まる日々を過ごすのであった。
- 6月、盛頼は、新九郎に東荏原の代替わりのお披露目の祝宴を開き、近隣の主だった国人たちも招いて美味しい酒など景気よく振る舞えば領主がましくなるだろうと言う。新九郎がこれを笠原や平井ら備前守家の宿老に相談すると、宿老たちは新九郎の父・盛定が京で酒宴や贈答にかなりの金を使ってしまったため[注釈 8]、城の整備、家人らの俸禄、備えの更新などで借銭の域に達しておりとても祝宴など開ける状況ではないという。新九郎は一旦祝宴を諦めるが、宿老たちは代替わりのお披露目もして差し上げられないようでは宿老として名折れだとして、その年の年貢の一部を質に入れることで借銭をしお披露目の祝宴を開くこととなった。
- 6月24日、祝宴の当日。東荏原・高越山麓の城主館に次々招待客がやってくる。盛頼や、しばらく前に荏原に下向してきていた盛頼の父で新九郎の伯父の伊勢掃部助盛景、備中国守護代・庄伊豆守元資、那須修理亮資氏とその従妹の弦姫も到着。弦姫は普段の男装ではなく女性らしい打掛姿で現れ、新九郎の目は釘付けとなる。途中、庄元資、盛景、資氏らが和解の仕上げをすると別室へ移動するが、しばらく後で和解が成立したとして戻ってきた。
- 祝宴も終わり招待客は三々五々帰っていく。盛景は盛頼に弦姫を那須家の館がある戸倉まで送っていくよう申し付け自分は先に帰っていったが、先程まで祝宴の席にいた弦姫が見当たらない。新九郎と家人たちは弦姫を探すが、新九郎は馬房で馬を眺めていた弦姫を見つける。弦姫は祝宴での男たちの自慢話が退屈で仕方無かった、もう少し新九郎と話したいという。新九郎は我慢していたものが切れてしまい、貴女に惹かれているようだと言ってしまう。弦姫は自分が一度政略結婚をし男女の機敏など知らぬまま子も産まずに帰ってきた女だが、今まで殿方からそのようなことを言われたことは無く、新九郎を何とかわゆいお方だという。ふたりは人が来ない敷地内の工房に移動し、結ばれる。そして夜のうちにそれぞれ元の場に戻り、弦姫は戸倉に帰って行った。
- 翌朝このことはほどなく新九郎の家人たちにも知れることとなった。家人たちの会話では在竹三郎がこれを機に那須と結ぶのも手かと問うが、荒川又次郎は遊びなら構わんだろうが殿の立場と前途を考えると正室は京でしかるべき家から迎えなければならないだろうと言う。新九郎は盛頼に呼ばれ外出するが、そこで何も知らない盛頼から備中国守護代・庄元資を呼び込んでの仲裁をお膳立てした礼と共に、昨日の祝宴の合間に行った会談で掃部助家と那須家の和解の総仕上げとして那須の弦姫が側室として盛頼に嫁ぐことが決まったと知らされ、新九郎は凍りつくのだった。
第3章「凶の都 編」(第7集 - 第8集)
- 弦が盛頼の側室になる話を聞き、弦に恋心を抱いていた新九郎はもぬけの殻のようになった。かと思えば荒れて高越山麓の城主館裏で大声を出しながら太刀で竹を切ったりと躁鬱をくりかえしていたが、ほどなく良い家来たちの前でいじけていては罰があたると思い直し、次第に平静を取り戻していった。一方、弦を側室に迎える盛頼[注釈 9]は、父・盛景と那須修理亮資氏が本人たちの承諾なしにこの結婚を決めたのはひどい話だが、弦は一本芯の通った女なので、幕府奉公衆の役目で荏原を離れ京に上洛する間も父・盛景や荏原政所などに目を光らせてくれる弦ならば安心して背中を任せられると言う。数日後、弦は掃部助家に輿入れし、これに合わせ盛頼の父・盛景は正式に隠居し、盛頼は西荏原の領主と掃部助家の家督を継いだ。
- 文明3年(1471年)7月、京では死病の疱瘡が流行っていた。衛生環境が悪く日々の食事にも困る生活困窮者ほど感染率も死亡率も高く、市中には遺体があふれていた。疱瘡は経験則で一度罹り死なずに回復すると二度と罹らない病として知られていたため、疱瘡の罹患経験がある侍所の者が指揮を取り被差別民[注釈 10]が遺体の搬送と火葬の処理を行った。伊勢宗家邸では新九郎の弟・弥次郎が高熱で動けなくなるが、疱瘡とは異なる発疹が出てはしかの様相を示した。義母・須磨が懸命に看病するが、須磨もはしかに感染し亡くなってしまう。疫病の大流行に対し、将軍・義政は疱瘡・はしかの罹患経験がある侍所の者を現場の指揮に出す他は、祈祷以外の根本的な対策を行うことが出来ず、天皇からはこの状況を諌める漢詩を贈られ、妻・日野富子とは大喧嘩、将軍家は家庭内別居状態になった。
- 7月下旬、荏原にいる新九郎の元に、義母・須磨が亡くなったので上洛するようにとの知らせが到着する。急ぎ京へ向かい、市中に入ると疫病で亡くなった躯(むくろ)を運ぶ多数の荷車を見かける。新九郎が伊勢宗家邸に着くと、弥次郎ははしかから回復していたが、須磨の葬儀は死因が疫病だったためやむを得ず一門で手早く済ませ終わっていた。新九郎は義母の位牌に手を合わせた。
- 須磨が亡くなったことで新九郎の父・盛定(備前入道)はひどく落胆しており、幕府の役目から隠居・引退後も実質的にこなしてきた申次衆の仕事が出来る状態ではなくなっていた。新九郎はすぐにも荏原に戻りたかったが、新九郎の義従兄で幕府政所執事となった伊勢伊勢守貞宗は、伊勢宗家当主として一門の新九郎に対し、父・盛定に代わり滞っている申次衆の仕事をこなすよう命じ、新九郎が幕府の仕事に慣れるように仕向けるのであった。
- 8月。伊勢宗家邸敷地内の別棟・北小路第(きたこうじてい)には将軍・義政の嫡子・春王が住み、貞宗が春王の傅役を務めている。疱瘡やはしかが流行る間は貞宗も非常に気を遣い人の行き来を減らし春王が病にかかることは無かったが、人の行き来を戻した途端、春王が赤痢になる。春王を見舞いに訪れた父・義政、母・日野富子も赤痢になり、あわや将軍家一家が全滅の危機となるが、ほどなく持ち直す。その春王に呼ばれ新九郎が北小路第を訪ねると、春王は新九郎が数年前に献上した竹馬が壊れてしまい直して欲しいという。新九郎がこの竹馬を直しふたたび献上すると、直した新九郎を余の股肱(ここう)で恃み(たのみ)にする、明日も明後日も訪ねて参れという。子供だが次期将軍を約束された春王から好かれることは新九郎にとって将来の栄達の道が開かれたも同然と貞宗や盛定、笠原や大道寺右馬助など周囲は喜ぶが、早く荏原に戻り所領の差配をしなければならない新九郎は内心困り果てた。
- 8月末、応仁の乱は5年目を迎え膠着状態で落とし所が見えなかった。新九郎は細川勝元の正室で西軍・山名宗全の娘(養女)・亜々子が齢70近い宗全の身を心配していると聞き、新九郎は自分が乱の終結に何らか貢献出来ないかと考えていたが、幕府方・東軍の貞宗が西軍に属する貞宗の叔父・伊勢貞藤と極秘に連絡を取り合っていた「蛇の道」[注釈 11]があることを知ると、新九郎は貞宗に依頼しこれを使い下人に扮して西軍・貞藤の屋敷に潜り込む。貞藤の屋敷では、貞藤と新九郎の実母で貞藤と再婚した浅茅は新九郎が下人に扮して潜り込んできたことに驚くものの、新九郎を歓迎する。そこで新九郎は「(山名)宗全入道にお会いすることは出来ないでしょうか」「囲碁の勝負がまだ付いていないとお伝え頂ければ分かるはず」[注釈 12]と貞藤に依頼し、その夜新九郎は貞藤と共に山名宗全邸を訪ねた。現れた宗全は驚いたことに中風で半身不随、言葉もろれつが回らなくなっていたが、意識や思考は明瞭なようで、「敵地に乗り込んで勝負に挑もうとは見上げた根性」とぶっきらぼうなことを言いつつ新九郎を歓迎した。ところがここに西軍の乱の急先鋒・畠山義就と大内政弘が囲碁を観戦に現れると場の雰囲気は一気に緊張したが、新九郎を東軍の間者とみなす畠山義就が厳しい言葉を浴びせようとするのを宗全は西軍の首領として諭し、囲碁の勝負は進んだ。新九郎は宗全から細川家と山名家を和睦交渉に向かわせる言葉を引き出し細川勝元に伝えたかったが、応仁の乱の継続を望む畠山義就と大内政弘が厳しい視線を投げかける中、新九郎は宗全からそのような言葉を引き出すことは出来ず、囲碁も中風ながら局面が進むたびに頭脳が冴え渡ってくる宗全の勝利に終わった。
- 翌朝、貞藤は東軍・伊勢宗家邸に帰る新九郎に、畠山義就などはそなたを東軍の間者と疑っており斬りに来かねんので下京に帰る大工・人足たちに混じって帰ると良いと言い、新九郎はそれに従い再び下人に扮した格好で人足一行と共に屋敷を出発した。しかしほどなく西軍の足軽[注釈 13]たちが新九郎が混じる人足一行の行手を阻み、伊勢新九郎というガキがいたら出せ、さもなくば片っ端から斬るという。人足がそれを拒んだところ斬り合いが始まり、新九郎も自分を襲ってくる足軽を初めて真剣で斬ったが、別の足軽に押し倒されやられると思ったその瞬間、人足の頭(かしら)が新九郎を押し倒した足軽を槍で刺殺し、新九郎は危機一髪の状況から救われるのだった。人足たちは実は侍で、その頭は横井掃部助の家人で新九郎の実母・浅茅に仕える多米権兵衛。もともと貞藤と浅茅が多米権兵衛に命じて新九郎を守るために人足を装ったものであった。
- 伊勢宗家邸に戻ると、新九郎は山名宗全に会うと思っていなかった貞宗から西軍にこちらの手の内を見せたとこっぴどく叱られるが、貞宗はしょげる新九郎に早く下人の格好から着替えよと促した。新九郎には荏原から書状が届いており、荏原が洪水で被害に遭っているという。将軍嫡子・春王からいとまを請い急ぎ荏原に戻ると、夏前半の日照りに対し夏後半は雨が続き洪水となり、堤が切れて田がやられていた。宿老の平井は今年の収入は東荏原300貫のうち150貫程度になるのではないかと予想するが、借銭の返済もあり、新九郎は頭を抱えた。新九郎には荏原での領主に加え、京では盛定に代わっての申次衆の仕事や、春王への伺候があり、しばらくの間一月ごとに荏原と京の行き来に忙殺される生活を送るのであった。
- 文明4年(1472年)、細川勝元は山名方と応仁の乱の和睦を試みるが、東軍、西軍の双方に和平反対勢力がおり、和平は成し得なかった。また勝元が関与していた関東情勢も、昨年古河公方・足利成氏を古河城から追い出し幕府・関東管領側の勝利まであと一歩まで行っていたにも関わらず、この年は古河公方側が盛り返し足利成氏は再び古河城を奪還、関東管領側は本拠地・五十子陣が攻撃されるところまで押し戻され元の木阿弥となった。これにより細川勝元は幕府管領として政策の成果が出ていないことに自ら切れてしまい、5月、勝元は応仁の乱を引き起こした責任を取る名目で細川家家臣数十人と髷を切り隠居の意を示した。これには細川野州家から勝元の養子に入り勝元の継嗣となった細川勝之も含まれ、この騒動で勝之は家督相続権を失い、細川京兆家の後継者には勝元と山名家の血を引く亜々子との間に生まれた聡明丸が就くことが確定した。またこれを伝え聞いた山名宗全は、山名の血を引く者が細川家の後継者となり、山名家と共に繁栄していくであろうことに安心し、こちらも応仁の乱を引き起こした責任を取るとの理由で切腹を試みるがすぐに周囲に発見、制止され以後寝たきりとなった。応仁の乱を引き起こした東軍、西軍の実質的なリーダーがそれぞれ隠居と寝たきりで不在となり、乱は終結への道筋が見えず混迷が深まることとなった。
- 翌文明5年(1473年)はそれまで時代を動かしてきた大物が立て続けに死去する世代交代の年であった。まず1月、前幕府政所執事で新九郎の伯父の伊勢貞親が蟄居していた若狭国で享年57歳で亡くなる。将軍・義政の育ての親として権勢を振るい、幕府奉行衆、奉公衆を意のままに動かした天下の佞臣の寂しい最期だった。3月、応仁の乱の西軍の実質的なリーダー山名宗全は中風を患っていた上に前年の切腹未遂事件以降寝たきりであったが3月18日享年70歳で亡くなる。5月、東軍の実質的なリーダーで前幕府管領の細川勝元が数日前には将軍・義政との酒宴に出席していたにも関わらず享年42歳で急死。応仁の乱の東軍・西軍それぞれの中心である細川家、山名家で当主が死去し、和平を望む後継者に代替わりすることで乱の終結に向けた前提が整っていくのであった。
- 文明5年(1473年)秋、新九郎の姉・伊都が正室として嫁いだ駿河国守護・今川上総介義忠との間に待望の嫡男が誕生、龍王丸と名付けられ今川家は喜びに沸いていた。伊都の実家である新九郎の伊勢備前守家でも駿河を訪問し祝いの言葉を述べるべきであったが、所領の東荏原が一昨年、昨年と2年続きの不作で借銭続きの備前守家では、祝いの品を用意するのも駿河までの旅の路銀も捻出が難しく、祝いのために駿河訪問は難しい状況であった。ところが政所執事として幕府の政策の中枢にいる貞宗から、駿河国へ行き今川家の内情を調べてきてくれないかという命を受ける。義忠は幕府からの関東出兵命令をいい加減に扱いながらも遠江国の守護職はしつこくねだるため、将軍の御教書を出し義忠を将軍御料地の遠江国懸革(かけかわ)庄の代官に任ずるので義忠がどう動くか内偵してきて欲しいという裏があった。
- 文明5年(1473年)12月、新九郎18歳。荒川又次郎を留守役として荏原に残し、大道寺太郎、在竹三郎、荒木彦次郎、山中駒若丸らと共に伊勢から駿河へ向かう船にあった。船酔いで伏せるも富士の山は聞きしに勝る美しさで、一行は小川湊(焼津)に上陸しほどなく駿府に到着する。義忠への挨拶と祝いの言葉を述べた後、義忠の正室となった姉・伊都にも面会するが、新九郎がした昔話に伊都は亡くなった兄・八郎や母・須磨を思い出したようで、寂しい思いをさせたのではと詫びるが、伊都はこちらで家族を作っている戦いの最中なので泣き暮らしてなどいられないと気丈に応えた。今川家では幕府から下された懸革庄の代官任官の御教書に対し義忠は遠江国に並々ならぬ関心を抱いているというが、新九郎が義忠に細かく聞こうとするとごまかされてしまった。新九郎がふと関東に興味があることを漏らすと、義忠は関東のことなら今川一門で従弟の小鹿新五郎範満に聞けという。範満はここまで参られたなら伊豆へ足を伸ばしてみてはと誘い、新九郎一行は伊豆国を訪れ堀越公方・足利政知に謁見することとなった。
- 京では新九郎たちが出立して間もない12月19日、将軍・義政の嫡子・春王丸が9歳で元服し将軍宣下を受け、年が明けた文明6年(1474年)正月より10歳になった第9代将軍・足利義尚の新体制へと移行した。しかし10歳の将軍では大人の補佐無しには心許なく、将軍を補佐すべき管領も勝元亡き後の細川家当主は9歳の童(細川聡明丸)で細川家が管領を担うには役不足、他に管領になりえる斯波家と畠山家はそれぞれの家中の家督争いで戦になっており管領を出せる状況ではなく、管領不在のまま、政所執事であり傅役として将軍・義尚の「お父様(おててさま)」でもある貞宗が、父・貞親と同じ轍は踏みたくないとは言うものの将軍の補佐し政権に引き続き関わっていくのであった。
- 新九郎たちは明けて文明6年(1474年)1月2日、小鹿新五郎範満に伴われ伊豆国へ入った。堀越公方は幕府が廃した古河公方[注釈 14]に代わり幕府が公式に認める「鎌倉公方」であり、正月の諸行事は京の将軍家に準じて行われ、正月三賀日は伊豆の堀越御所にて関東管領や関東周辺国の守護(の代理)との対面の儀となる。新九郎は1月4日に対面と決まり、空いた時間に修善寺の温泉を訪れた。修善寺の湯に浸かりながら川を挟んで山が連なる風景がなんとはなしに荏原に似ていると評していたが、新九郎の西国訛りにどちらからおいでになられたと声を掛けてくる御仁がおり、自らを武蔵国の住人源六左衛門、六左とでもお呼び下されと名乗った。新九郎は正式な名乗りはしなくて良いと解釈し京より富士山見たさに下ってきた新九郎と名乗ったが、六左は新九郎を品骨卑しからずいずれ貴顕に交わることもござろうと言い、歌は詠まれるかと聞き「蓑の代わりに山吹を差し出された話」をし、新九郎は話題豊富な六左に感心するのであった。
- 1月4日、新九郎は堀越公方・足利政知に謁見する。政知は顔が弟で将軍を継いだ義政に似ているが、義政に比べ疲れたような顔をしていた。というのも政知は15年前伊豆国に送り込まれたが、自ら「鎌倉公方」として古河公方・足利成氏と戦おうとすると義政から「粗忽の企て」と叱られてしまい、関東の国人への調略や命令も京の義政と幕府から直接行われる。「鎌倉公方」とは名ばかりで公方としての働きも己の意思では許されず、関東管領からは鎌倉は危険だから来ないでくれと言われ伊豆から動くことも出来ず[注釈 15]、ふてくされざるを得ないためであった。そんな政知は将軍家の一員として京に生まれ天龍寺の僧侶として京に暮らした人物であり、新九郎の伊勢家の名を懐かしい京の香りがすると言い、新九郎が話す女金貸しの話、疫病流行の際の将軍家の話や、細川家の相続の話など京の話を喜ぶのであった。1月末、新九郎は京に戻り、幕府政所執事の貞宗に今川上総介義忠が遠江に並々ならぬ執着を抱いていることを報告し、2月には荏原に戻った。
- 文明6年(1474年)4月、京では故・山名宗全の後継者である山名左衛門佐政豊と、故・細川勝元の後継者である細川聡明九郎(聡明丸、政元)が初めて会談を行い、両家の和睦が成立。が、これで応仁の乱が終結した訳ではなく、西軍で山名家のみが幕府・東軍に帰参するというもので、この直後に山名勢と畠山義就の戦闘が発生するなど、応仁の乱の終結にはまだ時間が掛かるのであった。
- 8月、今川義忠は遠江国に出陣。目的は応仁の乱の西軍・斯波義廉の遠江国内の勢力の掃討であったが、今川一門の堀越貞延を堀越郷(袋井)に入部させ、河匂・浜松荘の代官・巨海新左衛門尉を追討、見附の守護所に立てこもる斯波氏被官・狩野宮内少輔を自死に追い込むなど、遠江国内で新たな守護にでもなり斯波家の勢力を追い出すかのような振る舞いを始めた。
- 文明7年(1475年)2月、幕府は斯波家の東軍勢力である甲斐敏光を守護代として遠江国に送り込ませ、遠江国は一転し東軍の領国となった。ところが義忠が堀越郷に入部させた堀越貞延が国人勢力の横地・勝田に襲われ討死にすると、7月、義忠は報復のため遠江国に攻め込み、勝田氏の本拠地勝間田城を攻め落とし、続けて見附の守護所を守る斯波家の守護代・甲斐敏光を追放。返す刀で横地氏の本拠地横地城に攻めかかった。
- 文明8年(1476年)2月、義忠の軍は横地城を落城させるが、その日の夜、今川方の勢力がいる遠江国相良へ撤兵中、横地の残党から襲撃を受け、流れ矢が義忠に中たり戦死した。義忠の戦死により、今川家では家督の継承をめぐり争いが発生し、これに関わることとなる新九郎の運命が変転を始める事となる。
第4章「駿河動乱 編」
- (連載中)
登場人物
本作では、武家の男性は官位名に名前の読み仮名をルビで振って呼ばれることが多い。一例では新九郎の父・伊勢盛定の官位は備前守であるため、他の登場人物の台詞で呼ばれる時には「備前守(もりさだ)殿」のように記されている。
年齢は数えで表記するため満年齢より1、2歳上の表記となっている。
伊勢一門
伊勢氏は平安時代末期に源平の合戦で都落ちし壇ノ浦で滅んだ平家と先祖[注釈 16]を共通にする伊勢平氏の支流[注釈 17]。室町幕府では初代将軍足利尊氏に仕え深く信頼されたことでその後一門から幕府の政所、申次衆、奉公衆などの重要な地位に多数の人材を輩出し[注釈 18]、伊勢家一門がいなければ幕府の政(まつりごと)が立ち行かなくなると作中で細川勝元に言わしめた[注釈 19]。家事として故事や武家礼法(伊勢流)に詳しく、また将軍の藩屏として弓馬を得意とする文武両道の家柄である。
伊勢備前守家
伊勢氏支流の備中伊勢家に生まれた新九郎の父・伊勢盛定が、伊勢宗家である伊勢伊勢守家の娘・須磨を娶り、宗家の婿養子の立場で興した家である。新九郎の生家であり、兄・八郎が早世したため父・盛定の隠居により新九郎が当主となった[注釈 20]。
- 伊勢新九郎盛時(いせ しんくろう もりとき)
- (伊勢千代丸→伊勢新九郎盛時)
- 本作の主人公。後世「北条早雲」の名で知られる人物。康正2年(1456年)生まれ。幼名は千代丸(ちよまる)[注釈 21]。元服後の仮名(けみょう)は新九郎。
- 正義感が強く、理屈や正論を好む。父・伊勢備前守盛定を敬愛している。父の被官で傅役の大道寺右馬介は千代丸について、置かれた環境と修行によってひとかどの武士にも立派な学識僧にも名のある職人にも容易になりそうだが、気の利いたことは言えないので商人になるのは難しそうだと評している。趣味は鞍造り(伊勢氏の家職でもあり宗家の邸内に工房がある)で、自作のデザインを書き留めた帳面を持ち歩いている。
- 第一話の文正元年(1466年)8月、当年11歳。傅役・大道寺右馬介の山城国宇治の館で暮らしていたが、元服に向け伊勢家の子弟としてのふるまいを学ぶため[注釈 22]京の伊勢宗家の邸に住む父一家と暮らすことになる。
- 文正元年(1466年)9月、文正の政変では父・盛定が伊勢宗家当主・伊勢伊勢守貞親と共に将軍・足利義政が切腹命令を出す前に逃亡[注釈 23]し失脚。貞親に代わり伊勢宗家当主を継いだ伊勢兵庫助貞宗の命で、千代丸は伊勢家と幕府重鎮・細川勝元の間の使い走りをすることになるが、勝元は礼法の伊勢家で教育され頭も良い千代丸を気に入り、千代丸は身重の勝元正室の話し相手を任されるようになる。有力大名の山名宗全が酒宴のため細川邸を訪ねた際は、千代丸は宗全と碁を打つこととなり[注釈 24]、細川勝元、山名宗全というふたりの大物から知遇を得ることとなった。
- 応仁元年(1467年)夏、応仁の乱の最中に12歳で元服。伊勢新九郎盛時と名乗る。元服を急いだのには、生母・浅茅が伯父の伊勢貞藤に正妻として再婚する前に盛定の子として元服したいという思いもあった。「盛時」という諱(いみな)は、「盛」定の子であることを示すとともに、母方の祖父・横井「時」任が一字をくれたもの。元服後は将軍直臣の盛定の子ということで将軍・足利義政に御目通りし、幕府奉公衆の役目に就いた[注釈 25]。
- 応仁2年(1468年)11月、今出川殿(足利義視)が失踪し、義視に仕える兄・八郎も姿を消した。義視は東軍の総大将ながら西軍と通じているとの噂もあり、義視が西軍に向け出奔したならば、それに従う八郎も幕府への謀反ということになるため、新九郎と備前守家の家人達は出奔を阻止すべく捜索を行い、鴨川の河原で川を渡ろうとしていた義視の一行を発見する。しかし八郎は義視の一行を逃そうと刀を抜いて新九郎達の前に立ちふさがる。新九郎が八郎を説得するものの叶わず、八郎が義視一行を追ってその場を立ち去ろうとしたその時、幕府奉公衆で伯父の伊勢掃部助盛景一行が狙い放った矢が八郎に中たり八郎は落命する。八郎の遺体は伊勢宗家邸へ運び込まれるが、盛景は謀反人を身内で片付けたまでと開き直り、貞親や盛定、貞宗は一門から謀反人を出す訳にはいかないとして、八郎を殺害することで身内からの幕府への謀反を防止した盛景に落ち度は無く、八郎の死を急な病死として扱うこととした。新九郎はこの一門の決定に抗うことが出来ない無力な自分に落胆し雨が降る夜の邸の庭でひとり泣いていたが、備前守家の若い家人達が新九郎の前に集い「どうか明日から将来の備前守家の後継者として心構えを持って下さい」「我らが力を尽くしてお支えいたす」と新九郎を励ました。
- 文明3年(1471年)3月、16歳になった新九郎は父・盛定の名代(代理)で備中国の所領・荏原郷へ下ることになる。初めての領地に心躍らせる新九郎だったが、到着してみると山積する問題に頭を抱えることになる。
- 文明3年(1471年)5月、伊勢宗家当主に復帰していた伊勢貞親が文正の政変に続く2回目の失脚をし幕府の役目から解任され、貞親の右腕として活躍し一蓮托生と見られていた父・盛定も幕府の役目を外れ隠居することとなる。将軍・義政は盛定の隠居に伴う嫡子の新九郎による相続を認めたものの、新九郎が官位や幕府での役目を継ぐことを認めず新九郎は無位無官かつ幕府に無役で家督を相続することとなった。その後、再び伊勢宗家当主を継いだ貞宗から命じられ、盛定が担っていた申次の仕事の一部を務めることとなる。
- 伊勢備前守盛定(いせ びぜんのかみ もりさだ)
- 新九郎の父。官職名は新左衛門尉→備中守→備前守。
- 伊勢氏支流 備中伊勢家の当主・伊勢肥前守盛綱の四男として生まれ、京で伊勢宗家(伊勢伊勢守家)に出仕し幕府政所執事の先代伊勢守・伊勢貞国に気に入られその娘・須磨を娶る。その際実家の備中伊勢家より備中国荏原郷の東半分、東荏原を与えられる。幕府の外交官的役割を果たす申次衆を務め、義兄となった伊勢宗家当主で政所執事の伊勢伊勢守貞親の右腕として働き、宗家で貞親に次ぐナンバーツーの扱いを受けるが、文正元年(1466年)文正の政変では将軍弟の足利義視を誣告した貞親と同罪と見なされ、将軍・足利義政が切腹命令を出す前に貞親と共に近江国へ逃亡し失脚する。応仁元年(1467年)応仁の乱が起こり貞親が将軍・義政から呼び戻されると、貞親とは別れ駿河へ行っていた盛定は今川義忠の軍勢に守られて上洛し、間もなく貞親と共に正式に赦免される。
- 京での申次衆の役目や貞親の右腕としての活躍とは裏腹に、所領である東荏原の経営は被官に任せきりで東荏原に赴くことも無く、領民は盛定の顔すら知らない。それがやがて備前守家の財政に影響を与えることになる。
- 第3集収録の読み切り外伝「新左衛門、励む!」では主人公を務める。
- 文明3年(1471年)5月、貞親が2回目の失脚により出奔すると、貞親と一蓮托生とみられていた盛定は出奔こそしなかったものの出仕停止で無役となり、新九郎に家督を譲り出家、備前入道正鎮と名乗った。
- 伊勢八郎貞興(いせ はちろう さだおき)
- 新九郎の5歳年上の兄。盛定の長男で嫡子。備前守家の惣領。幼名は福徳丸(ふくとくまる)[注釈 26]。仮名は八郎。
- 文正の政変後、将軍・足利義政の実弟で次期将軍の足利義視(今出川様、殿)に仕える。応仁の乱が起こると東軍総大将に担ぎ上げられた義視は東軍に不利な状況に不安を感じ伊勢国へ逃亡、八郎もこれに付き従う。翌年義視の復帰とともには八郎も帰京するが、人相が変わるほどの大きな刀傷を負っていた。義視の逃亡の旅に付き従う中で、八郎は義視に厚い忠誠心を抱くようになり、伊勢家に戻れとの一門の命に反して義視の二度目の出奔に付き従う。八郎は義視を追う新九郎たちの前に刀を抜いて立ち塞がるが、実の伯父である伊勢掃部助盛景によって討ち取られた。義視の「謀反」に従った事実を隠すため、その死は「病死」とされた。
- 八郎の死により、父・盛定が興した備前守家の家督は新九郎が後継者となることが確定した[注釈 27]。
- 伊都(いと)
- 新九郎の3歳年上の姉。弟たちをとても可愛がっており、実母が側室のため立場の弱い新九郎に代わって父・盛定に厳しく意見することもある。応仁2年(1468年)駿河国守護・今川義忠に正室として嫁ぐこととなり、駿河国駿府へ向かった。後世、駿河今川家では北川殿の名で知られる。
- 文明2年(1470年)義忠との間に第一子の女児を[注釈 28]、文明5年(1473年)男児(龍王丸、のちの氏親)を出産した[注釈 29]。
- 文明8年(1476年)2月、夫・今川義忠が駿河国隣国の遠江国を攻略中に流れ矢に中たり戦死。今川家中では義忠による遠江国攻略は幕命に反するものだったとして幕府に恭順の姿勢を示すため義忠の嫡子・龍王丸を家督から外し従弟の小鹿新五郎を家督に据えるべきとの騒動が起きる。夫との遺児・龍王丸を今川家家督に就けるため伊都の武家に生まれ嫁いだ女の運命、伊都の「女の戦(いくさ)」が始まる。
- 須磨(すま)
- 盛定の正室。伊勢宗家の先代伊勢守貞国の娘。貞親の妹。貞興と伊都の実母で、実母が側室の新九郎にとっては義母。家に迎えられた新九郎との間は少々ぎこちない。またしつけにも厳しく廊下を走る子供たちを叱ったりする。
- 文正元年(1466年)文正の政変で夫・盛定が失脚、近江国へ出奔・逃亡した際には同行し、悲観するどころか夫の逃避行への同行にまんざらでもない様子であった。盛定の帰京時には同行しておらず、しばらく近江の朽木家に預けられていたが、伊都の婚礼を前に都に帰還した。
- 文明3年(1471年)7月、都で流行した麻疹に罹り命を落とした。その直前には、盛定から備前守家の家督を継ぎ備中国荏原の所領に下向した新九郎が金策に苦しんでいるのを知り、自らの化粧料から当座の銭と割符を荏原にいる新九郎に送った。義理の息子であっても新九郎の窮状を助け一家の安泰を願いながらの死であった。
- 伊勢弥次郎(いせ やじろう)
- 新九郎の同腹の弟。新九郎の8歳年下。新九郎に「なんだかモヤっとしている」と言われてしまうほど特徴のない顔立ちだった。
- 新九郎と同じ実母・浅茅の手許の横井家で育てられていたが、彼女が再婚した夫・伊勢貞藤と都落ちしてからは備前守家の須磨の許で育てられるようになった。新九郎とは違って気が廻るため、須磨との関係も良好であった。
- 将軍・義政の嫡子・春王(後の第9代将軍・足利義尚)の遊び相手を貞宗の嫡子・福寿丸(後の政所執事・伊勢貞陸)と共に務め、また気分屋で難しい細川聡明丸(後の細川政元)との関係も良好で、新九郎は「世慣れてる」と評している。
伊勢伊勢守家
伊勢宗家であり、当主が室町幕府の財政を司る政所の長官である執事を歴任し、官職名「伊勢守」を名乗る。
- 伊勢伊勢守貞親(いせ いせのかみ さだちか)
- 新九郎の義伯父。仮名は七郎。官職名は兵庫助→備中守→伊勢守。幕府政所執事を務め、斯波家の家督争いに介入するなど絶大な権勢を誇る。将軍・足利義政が幼少のころ傅役(もりやく)を務めた育ての親でありその縁で将軍就任後も側近。義政に振り回される一方で愛着を持っている。先妻(兵庫助貞宗の生母)は越前の甲斐氏出身であったが、離縁して若い夫人(その姉が斯波義敏の妾)を娶る。将軍側近として大権力者、豪腕政治家である一方で、人に教えるのが好きで、元服前でまだ体が細い千代丸(新九郎)に弓を教え「お前は元々筋がいい」と褒めるようなところもある。
- 貞親が将軍・義政の傅役を務めたのと同様、貞親は嫡子・貞宗にも義政の嫡子・春王の傅役を務めさせ、春王が将来将軍になる際は伊勢家として引き続き権勢を得ることを目論む。
- 以前義政に嫡子が生まれなかった頃、義政は弟・義視(今出川殿)を僧侶から還俗させ将軍継嗣としたが、義政に嫡子・春王が生まれたことで義視の将軍位は一代限りでその後は成長した春王に将軍位が譲られるとされた。しかし貞親は義視の苛烈な性格を見て将来将軍位が義視から義視の子へ継承されてしまい、義政の子・春王への継承が反故にされかねず傅役としての伊勢氏の権勢が失われると危惧し、義視の排除を企てる。文正元年(1466年)9月、貞親は将軍・義政に斯波義敏との斯波家の家督争いに敗れた斯波義廉が兵を集めるのを今出川殿が支援し今出川殿に謀反の疑いありと訴え、義政は激怒、明日義視に切腹を命じようと息巻いたが、義視はすぐに邸を脱出し一旦細川邸次いで山名邸へ逃げ込み、山名宗全を中心とする反貞親派の大名達は今出川殿御謀叛というのは貞親による誣告であり貞親が切腹すべきと義政に迫った。その日義政は貞親への切腹命令を下さず奥へ引き込んだものの、流されやすい性格の義政が切腹命令を出すのは時間の問題と思われた。これにより伊勢宗家邸は反貞親派の大名の兵に取り囲まれるが、貞親とそれに同調する盛定に切腹命令が出る前、邸を取り囲む兵が減ったその日の夜に貞親は盛定と共に近江国へ逃亡し、貞親は政所執事、盛定は申次衆の座を失い失脚する。また貞親に同調し権勢を得ていた斯波義敏、赤松政則、季瓊真蘂らも逃亡、失脚した(文正の政変)[注釈 30]。
- 応仁の乱が起こると将軍・義政に呼び戻され、政所執事および将軍の側近に復権する。
- 文明3年(1471年)4月、将軍・義政の義兄で側近の公家日野勝光の追い落とし工作をしていたところ義政に発覚、責任を取らされ失脚し、出家のうえ再度出奔した。幕府政所執事は嫡子の貞宗が継いだ[注釈 31]。
- 文明5年(1473年)1月、出奔先の若狭国から再度上洛しようとしていたところ病で死去した[注釈 32]。
- 伊勢兵庫助貞宗(いせ ひょうごのすけ さだむね)
- 貞親の嫡子。新九郎の義従兄。仮名は七郎。官職名は兵庫助(→兵庫頭)→伊勢守。将軍・義政の嫡子・春王の傳役。
- 伊勢宗家(伊勢伊勢守家)当主を務める父・貞親の嫡子として伊勢兵庫助貞宗を名乗るが、文正の政変(1466年)や文明3年(1471年)に貞親が失脚・出奔すると伊勢宗家当主と政所執事職を継ぎ伊勢伊勢守貞宗を名乗る。
- 文正の政変の際、反貞親派の大名達が貞親無き伊勢一門全体を幕政から排除しようとした一門の危機では、貞親とは犬猿の仲だった細川勝元と結ぶことで危機を脱する機敏な情勢判断と柔和な交渉力を持つ(が、父・貞親からはいつになっても「まだまだ頼りない」「貞宗はアテにならん」と言われる)。
- また千代丸が元服する際には彼に乞われて烏帽子親を務めた。
- 文正の政変後、貞親が復権すると当主と執事の座を貞親に返上するが、文明3年(1471年)貞親の2度目の失脚で出家、出奔した際には、改めて伊勢宗家当主・幕府の政所執事職を受け継いだ。
- ハンサムな顔立ちで従妹の伊都は結婚するなら兵庫助様よりいい男でなければ嫌と言い、盛定は「兵庫助殿が今でこそ女房子供がいて取りすました顔をしているが若いころは」と陰口を言うことで伊都を諭した。
- 盛定・新九郎一家が同じ伊勢宗家邸に住んでおり、成長した新九郎が備前守家の家督を相続した後はしばしばふたりで酒を酌み交わし、幕政の中心にいる立場から義従弟の新九郎に最新の政治情勢を教えることもある。
- 伊勢備中守貞藤(いせ びっちゅうのかみ さだふじ)
- 貞親の実弟で須磨の兄。新九郎の義伯父。通称は八郎、官職名は兵庫助→備中守。
- 反伊勢派大名とも良好な関係を持っていたため、文正の政変後も京に残る。先妻を失っており、新九郎の実母・浅茅を正室(継室)に迎える[注釈 33]。応仁の乱が起こると、西軍斯波義廉と通じたという謀反の嫌疑をかけられ、都から追放されたが、西軍が足利義視を迎えて「西幕府」を設立するとその政所執事となった。その際、貞親が健在であるにも関わらず伊勢宗家当主を意味する「伊勢守」を自称する手紙を送り貞親を憤慨させた。
- 浅茅(あさじ)
- 新九郎の実母。堀越公方被官で尾張国国衆・横井掃部助時任の娘。盛定の側室であるが、同居ではなく、実家・横井家の京都の屋敷で暮らしている。
- 応仁の乱勃発後、先妻を失った貞藤の継室に迎えられた。盛定は貞藤に浅茅をとられたことを悔しがっているが、一方で横井家を守るための戦をしていると行動を理解している。貞藤が追放された際、貞藤と行動をともにした。
- 第7集第42話、第43話では、下人に身をやつし西軍の貞藤の屋敷にやってきた新九郎に貞藤と共に驚くが歓迎する様子が描かれている。
- 伊勢八郎貞職(いせ はちろう さだもと)
- 貞藤の嫡子。実母は貞藤の亡くなった先妻。新九郎の義従兄。
- 西幕府で西幕府将軍・義視の申次を務める。下人に身をやつし西軍の貞藤の屋敷にやってきた新九郎に驚いた[注釈 34]。
- 伊勢伊勢守貞国(いせ いせのかみ さだくに)
- 外伝「新左衛門、励む!」に登場。貞親らの父で先代の政所執事、伊勢守。
- 若き日の盛定(新左衛門)を気に入り、娘の須磨と娶せて婿とする。昨日会ったばかりの須磨が「息災か?」と盛定に尋ねるほど娘を溺愛している。また「早く孫の顔が見たい」と盛定をせっつき、福徳丸(八郎)が生まれると、「今度は女の子が欲しい」と再びせっついていた。待望の孫娘・伊都が生まれた翌年に死去。臨終の床で盛定に「もう一人、男子がいた方がいいぞ」と遺言を残した。
伊勢肥前守家(備中伊勢家)
伊勢氏の支流で代々備中国の所領を継承し、幕府では奉公衆などを務めている。盛定の実家。
- 伊勢掃部助盛景(いせ かもんのすけ もりかげ)
- 伊勢肥前守盛綱の次男、盛定の次兄、新九郎の伯父。仮名は九郎。官職名は掃部助。幕府奉公衆。伊勢肥前守家の所領の中で、備中国荏原郷の西半分の西荏原を継承し、自らが当主として伊勢掃部助家を興す。
- 本来、自分が全てを相続するはずだった荏原郷の東半分が弟の盛定に与えられたため盛定の伊勢備前守家を嫌っている。
- 足利義視(今出川殿)が結果として東軍を離反し西軍入りする2回目の出奔の際には盛景は奉公衆として今出川邸の警備に当たっていたが、邸に出入りする雑人の格好に扮した義視に気づかず外出させてしまったのは盛景の失態であり、それを挽回しようと新九郎たちを尾行して鴨川の河原で義視一行に追いつき、義視を逃そうとする新九郎の兄・八郎を討ち取った。盛定の後継者の八郎を殺害することで備前守家を弱らせようという裏の意図もあった。
- 一方所領の経営では、盛定が東荏原の所領経営を被官に任せきりにし領民は盛定の顔すら知らないのに対し、盛景は京での奉公衆の役目の合間にこまめに西荏原に帰り所領の経営に心を砕いており、荏原は東西とも盛景の所領であると思っている領民すらいる状況である。
- 那須の弦姫を側室に娶った嫡子の盛頼に家督を譲り正式に隠居した[注釈 35]。
- 伊勢九郎盛頼(いせ くろう もりより)
- 伊勢掃部助盛景の嫡子、新九郎の従兄。仮名は九郎。幕府奉公衆。新九郎が盛定の領主名代として備中荏原郷に下向した際には、先に京を出立し荏原で新九郎一行を出迎え荏原の主が誰か思い知らせてやると意気込んだ。新九郎の領主名代としての活動に立ちふさがる存在となる。
- 所領の経営では、父・盛景と同様京での奉公衆の役目の合間にこまめに西荏原に帰り所領の経営に心を砕いている。備中伊勢家と言えども将軍に仕える役目は京での仕事であるが、盛頼は子供に頃からほぼ半分荏原で育っており[注釈 36]荏原に親しみが大きい。そのため父同様、東荏原の備前守家の盛定と新九郎を邪魔だと思っており、盛景からは「東荏原を盗ってしまえ」とも言われている[注釈 37]が、盛定と新九郎は伊勢宗家の貞親や貞宗との関係が深く、うかつに手を出せないことでバランスが保たれている。しかし新九郎が珠厳の不正蓄財のような事件の再発防止に備前守家、掃部助家、備中那須家の三家での監視の仕組みを提案したり[注釈 38]、掃部助家と備中那須家との諍いに庄元資の仲裁を呼び込んだことを「俺にはマネできん」と高く評価するようになり[注釈 39]、その関係は改善しつつある。
- しかし荏原の地侍や農民からは西荏原の掃部助家が荏原全体を領有しているという感覚はなかなか消えないようで、農民の子供は盛頼を「九郎(もりより)様」と様付けで呼び、新九郎を「新九郎」と呼び捨てにしていた[注釈 40]。
- 盛頼には京に正妻と嫡子がいる[注釈 41]。
- 西荏原の所領の境界をめぐり掃部助家と那須家が戦になりかねない一触即発の状態になった時には、新九郎の奔走もあり備中国守護代・庄伊豆守元資の仲裁で那須家と和解に至ったが、和解の総仕上げとして盛景や那須資氏のお膳立てで那須の弦姫を側室として娶るとともに、父・盛景から掃部助家の家督を相続し、以後は伊勢掃部助盛頼を名乗る。
- 珠厳(しゅげん)
- 伊勢肥前守盛綱の三男、盛定の三兄、新九郎の伯父。出家し僧形であると共に、盛景の西荏原・掃部助家、盛定の東荏原・備前守家が共同で東西荏原の年貢を集めるため設けた荏原政所の頭人である。
- その立場を利用し東西荏原の年貢の一部をかすめ取り自らの不正蓄財をしていたが、新九郎が東荏原の収入が急に減った原因を探ろうと政所での帳簿確認や検田を始めようとしたことに焦り、荏原政所で新九郎のための宴席を偽り新九郎とその家臣たちを殺害しようと目論んだ。しかし殺害自体を盛頼にやらせ自分の手を汚さずに済ませようとしていたことを盛頼に見透かされ、また東荏原だけでなく西荏原の年貢にも手を付けていたことを盛頼が気づき、高齢で病のためとして荏原政所頭人の座を引退させられた[注釈 42]。
- 伊勢肥前守盛綱(いせ ひぜんのかみ もりつな)
- 第3集に含まれる外伝「新左衛門、励む!」に登場。新九郎の父方の祖父で、盛定らの父。
- 伊勢宗家の婿となった盛定に備中国荏原郷の半分を相続させ、間もなく隠居した。
- 伊勢八郎左衛門盛富(いせ はちろうざえもん もりとみ)
- 第3集に含まれる外伝「新左衛門、励む!」に登場。伊勢肥前守盛綱の嫡子、盛定の長兄、新九郎の伯父。幕府申次衆。
- 父・盛綱から家督を相続した後は伊勢肥前守盛富を名乗る。父の所領の内、丹後国川上本庄を相続している[注釈 45]。
- 貞親の法要に伊勢一門が集まった際に、隠居・出家した姿で一門の長老として振る舞う盛富(肥前入道)が描かれている[注釈 46]。
伊勢家被官
- 蜷川新右衛門親元(にながわ しんえもん ちかもと)
- 伊勢守家家宰として貞親、貞宗に仕える。アニメ『一休さん』に登場する「新右衛門さん」の実子[注釈 47]。
- 政所に執事をはじめ多数の事務官を担う伊勢守家の家宰の立場に恥じない抜群の記憶力と頭の回転の早さで、貞親の出奔時に伊勢平氏都落ちの故事や、盛定の初任官時のことを立ちどころに会話にする。
- 政務に関わっていた者の視点で書かれた親元日記の著者でありこれから室町時代の政務体制を詳しく知ることができる。その体で第1集から第3集の解説ページ「蜷川新右衛門の室町コラム」での解説役も担当する。時折秀吉など未来の事象まで口にするため新九郎から「いつの時代の人なんですか!?」と突っ込まれている。
- 大道寺右馬介重昌(だいどうじ うまのすけ しげまさ)
- 備前守家の被官。新九郎の傅役。妻が浅茅の妹のため、新九郎にとっては母方の叔父に当る。親身に新九郎の傅役を務めるが性格は武骨者。伊勢家の所領のひとつがある山城国宇治の館に住み、新九郎が11歳になるまでその地で預り武家の子供としての教育をした。
- 右馬介が管理していた伊勢家の宇治の所領は土一揆など何らかの紛争から守りきれず、右馬介は戦傷で左腕を失った姿で当主となった新九郎に詫びた[注釈 48]。
- 大道寺太郎重時(だいどうじ たろう しげとき)
- 備前守家の被官。新九郎の家臣。大道寺右馬介の嫡子。新九郎と同年齢。母が浅茅の妹で新九郎の乳母のため、新九郎とは従兄弟であり乳兄弟である。山城国宇治の生まれ育ち。
- 新九郎と前後して元服し、共に幕府奉公衆として出仕する。幼いころから新九郎と育ったため主君の新九郎に対してタメ口であり、それをしばしば年長の在竹三郎にたしなめられる。
- 荒川又次郎(あらかわ またじろう)
- 備前守家の被官。新九郎の家臣。荒川又右衛門の次男。新九郎より6歳年上。備中国荏原郷の生まれ育ちで、幕府奉公衆のお役目のため荏原から上京してきた[注釈 49]。冷静沈着。
- 在竹三郎(ありたけ さぶろう)
- 備前守家の被官。新九郎の家臣。在竹兵衛尉の三男。新九郎より5歳年上。荏原郷の生まれ育ちで、又次郎とともに荏原から上京してきた。お調子者。父、長兄、次兄と顔が非常に似ており新九郎は初対面で親族であることを見破った。
- 荏原に父から与えられた「猫の額ほどの」田畑を持つ。三郎には百姓の爺さんが仕えているが、爺さんが腰を痛めた時には三郎自ら田畑を耕し自分の食い扶持となる農作物を育てる。三郎いわく「地侍の三男など百姓と変わりません」[注釈 50]。
- 荒木彦次郎(あらき ひこじろう)
- 備前守家の被官。新九郎の家臣。新九郎と同年齢。剣の達人。下戸で馴れ合いを好まない。新九郎の外出で警護が必要な際に同行することが多い。
- 剣は我流で、本人は考えると怖じ気づくため何も考えずに体が動くように鍛錬しているというが、多米権兵衛からは勢いにまかせ突出しすぎでそれでは主を守るどころか押し包まれていずれはなます、「匹夫の勇」の誹りは免れないと指摘された[注釈 51]。
- 山中才四郎(やまなか さいしろう)
- 備前守家の被官。新九郎の家臣。新九郎より5歳年下。幼名は駒若丸。本人は山城国生まれだが父が荏原出身[注釈 52]。新九郎の初の荏原下向時は元服前で駒若丸を名乗っていたが新九郎の身の回りの世話をする条件で新九郎の荏原下向への同行が許された。可愛い少年。
- 荏原へ下向した新九郎の家臣で一番年下なこともあり、在竹三郎からは那須の弦姫への恋心に悩む新九郎を慰めるため殿の褥(しとね)に同衾(どうきん)せよとからかわれた[注釈 53]。
- 第53話では、16歳になり元服し山中才四郎を名乗るようになったが、相変わらず在竹三郎から「烏帽子がずれているぞ、いや嘘だ」とからかわれている。
- 笠原弥八郎(かさはら やはちろう)
- 備中伊勢家の被官。東荏原で高越山城代を務める笠原美作守の三男。荒川又次郎や在竹三郎と幼なじみ。荏原の情報に詳しく耳も早い。食いしん坊でいつも何か食べている。
- 笠原美作守(かさはら みまさかのかみ)
- 領主の盛定に代わり東荏原高越山城代を務める備中伊勢家の宿老。弥八郎の父。
- 平井安芸守(ひらい あきのかみ)
- 備中伊勢家の宿老。備中伊勢家に管理を任された将軍御料地の備後国志摩利荘で代官をしていたが、応仁の乱の争乱が備後国に波及するとやむを得ず荏原に戻ってきた[注釈 54]。
- 井上飛騨守(いのうえ ひだのかみ)
- 備中伊勢家の宿老。
- 多米権兵衛元益(ため ごんべえ もとます)
- 尾張国蟹江郷の住人横井掃部助時利の家人。新九郎の実母の浅茅(横井家が実家)に従っており、新九郎の義伯父かつ義父で応仁の乱下で西軍に参加する伊勢貞藤(浅茅の再婚相手)の邸で仕えていたが、下人に身をやつし潜り込んできた新九郎を東軍の伊勢宗家邸へ安全に返すため大工人足の頭として新九郎に同行した。実は戦慣れしている[注釈 55]。
足利将軍家
- 足利義政(あしかが よしまさ)[注釈 56]
- 室町幕府第8代将軍。将軍として周囲からは「御所(様)」と呼ばれている。第6代将軍足利義教の子。10歳で早世した第7代将軍足利義勝の同母弟。
- 生後公家の邸で育てられていたが、伊勢貞親が傅役となり伊勢宗家の邸で武家のいろはから棟梁としてのふるまいまで教育を受けた[注釈 57]。8歳の時に兄が亡くなり後継者とされ、14歳で元服すると共に将軍職に就いた。
- 公家の日野家から富子を正室に迎えるが、義政になかなか跡取りの嫡子が生まれなかったため、仏門に入っていた異母弟・義視を還俗させ後継者としたが、そのとたん富子が懐妊し嫡子の春王が生まれ、後の文正の政変や応仁の乱の波乱の原因のひとつとなった。
- 将軍だった父が暗殺されたことで将軍の権威は地に堕ちていたが、祖父の第3代将軍足利義満のような威光、父・義教のような武威を室町殿に取り戻そうと、伊勢貞親や側近を重用し将軍親政を行なうため父同様に守護大名の家督相続に口を挟みその弱体化を画すが、いよいよのところで父が守護大名の反抗を受け暗殺された最期が脳裏をよぎり[注釈 58]、腰砕けになることもある。そのため前言を翻すことが多く、新九郎はそのことを嫌っている。また気まぐれな発言も多く、将軍直臣の新九郎の父・盛定が隠居を申し出た際には、新九郎が所領を相続することは認めたが官位や備前守を名乗ることは許さず、新九郎には無位無官かつ幕府に無役で備前守家を継ぐことを命じた。
- 文明5年(1473年)義政は将軍位を9歳の嫡子の春王(元服し義尚)に譲ることを決め、翌文明6年(1474年)から10歳になった新将軍・義尚の新体制へ移行したが[注釈 59]、この後も権力は握り続けしばしば政治に口をはさむことになる。
- 足利義視(あしかが よしみ)
- 将軍・義政の異母弟。今出川の邸に住んでいるため周囲からは「今出川(殿、様)」と呼ばれる。正義感が強く、苛烈な性格は「普広院様(父・足利義教)に似ている」と評される。
- 5歳で仏門に入り浄土寺門跡で義尋と名乗っていたが、当初子がいなかった兄・義政から次期将軍を約束され還俗し正式に将軍継嗣となった。しかし義政に嫡子・春王が生まれたことで微妙な立場となる。文正の政変の際に伊勢家が養育する春王を次期将軍にしたい伊勢貞親に謀反の疑いで讒訴され義政から切腹を命じられる危険があった経緯から伊勢家の人間を嫌っている。
- 応仁の乱が起こると細川勝元によって東軍の総大将に担がれるが、形勢が東軍不利に傾くと、大内政弘の数万の軍勢が西軍に加わるため京に入洛した直後に東軍の総大将にも関わらず逃亡、失踪した。この際近江国田上荘で住民から落ち武者狩りに遭い、家臣4人を失い鎧と太刀を取られる屈辱を味わったが(義視に仕える新九郎の兄・八郎もここで顔に大きな刀傷を負った)、一年後義視を保護した伊勢国の北畠教具の軍勢に守られ上洛する際にはわざわざ田上荘に立ち寄り「恩返し」と称して同荘を焼き討ちした[注釈 60] [6]。
- 帰京後、義政に日野勝光ら側近の排除を諫言したことで義政の怒りにふれ、また自分を切腹させようとした貞親の復権によって命の危険を感じ、幕府内および東軍での立場を失ったと思い込み再び逃亡し比叡山に逃れる。その後、山名宗全によって迎えられ、数日前まで東軍の総大将だった義視がここで西軍の総大将と西幕府の「御所」(将軍)になるという前代未聞の事態となった。またこの逃亡と寝返りにより義視は幕府(東幕府)の将軍継嗣の立場から外され、春王が次期将軍に確定することとなった。
- 足利義尚(あしかが よしひさ)
- 義政の嫡子。幼名は春王[注釈 61]。文明5年(1473年)12月19日、9歳で元服すると共に将軍宣下を受け室町御所に移り翌年正月から10歳の室町幕府第9代将軍となった[注釈 62]。
- 元服前に伊勢宗家の敷地内にある北小路第で傳役の伊勢貞宗に養育されていた頃は、貞宗の子の福寿丸や新九郎の弟の弥二郎を遊び相手にしていた。新九郎が作成し献上した竹馬を気に入り、壊れた竹馬を修理した新九郎を、余の股肱(ここう)で恃み(たのみ)にする、明日も明後日も参れという。子供だが次期将軍を約束された春王から好かれることは新九郎にとって将来の栄達の道が開かれたも同然と貞宗や盛定、笠原や大道寺右馬助など周囲は喜ぶが、荏原に戻り所領の差配をしなければならない新九郎は内心困り果てた[注釈 63]。
- 日野富子(ひの とみこ)
- 義政の正室で春王の生母。夫の義政と夫婦喧嘩をした際は嫡子春王が住む伊勢宗家邸敷地内の別棟「北小路第」に泊まることもある。
守護大名家
細川家
細川家は鎌倉時代初期に足利家から分家した足利一門[注釈 64]。南北朝時代の動乱では足利尊氏を支え朝廷との交渉や鎌倉の掌握、四国の平定などで活躍し、室町幕府では将軍に次ぐナンバーツーの管領職を斯波家、畠山家と交代で務める家柄である。 本作品の時代、細川家では一門の結束が固く、斯波家や畠山家のような家督争いは発生しておらず、家督争いに介入することで守護大名の勢力を削ごうとする将軍の干渉を受けていない。また応仁の乱でも斯波家や畠山家、山名家など数多くの大名家が一族の間で東軍、西軍に別れ争ったが、細川家は一門がすべて東軍に属し結束を誇った。
- 細川右京大夫勝元(ほそかわ うきょうのだいぶ かつもと)
- 細川宗家である細川京兆家当主。官位は従四位下。官職名は右京大夫。土佐国・讃岐国・丹波国・摂津国・伊予国5か国の守護。長年に渡り室町幕府管領に何度も就く重鎮で政情を左右する大物であるが、第3集に収録される外伝「新左衛門、励む!」では25歳の頃の勝元が「出ておいた方がいいかなーと思った」との理由で1シーンだけ描かれている。
- 第1集の文正元年(1466年)には将軍・足利義政の弟で後継者・足利義視の後見人を務めており、「文正の政変」では舅・山名宗全とともに、義視を切腹させようと讒訴した伊勢貞親の排斥に動いたが、政変後は貞親無き伊勢一門と手を結んだ。勝元は幕府の主導権を握ろうとする宗全と対立を深め「応仁の乱」へと発展していく。乱は文正2年(1467年)1月、畠山家の内紛を直接的な契機とした上御霊社の戦いで開始され、大乱にしたくない御所(義政)は各勢力に畠山家の私闘への参戦を禁止する。しかし山名宗全や斯波義廉がこれを無視し公然と畠山義就を支援するのに対し、勝元は畠山政長を支援出来ず面目を失い、政長は戦いに破れるが、自害を装い逃亡した政長を勝元は密かに匿う。年号が変わり応仁元年(1467年)5月、勝元派(東軍)の武田信賢が宗全派(西軍)の一色義直を急襲し本格的な乱が始まる。勝元は中立を保とうとした御所を囲い込み、東軍の実質的なリーダーとなると共に次期将軍・義視を総大将に担ぐ。やがて戦局が東軍に不利になると発石木、足軽の活用といった新機軸の戦術を導入し状況を打開していくが、その勝利のためには手段を択ばない姿勢に新九郎は恐れを抱く。また義視が東軍内で立場を失い追い詰められていくことを理解していながら、比叡山に出奔するとあっさりと見限っている。
- 文明3年(1471年)乱が膠着状態に陥ると、将軍・義政の命で犬猿の仲であるはずの伊勢貞親と協調し西軍の主力である斯波義廉の重臣朝倉孝景を東軍に寝返らせ、西軍を骨抜きにし東軍を優勢にする工作を行った。また関東政策では幕府に反抗した古河公方・足利成氏に対し、幕府に従い古河公方と戦う関東管領側を支援する手立てを打つが、こちらは膠着状態が続いている。
- 勝元は武将として東軍を率いるリーダー、政治家として幕府の重鎮である一方で、食通で鯉を自ら調理し[注釈 65]、茶の湯を好み[注釈 66]、明の医学書を読み自ら薬を調合[注釈 67]など、超一流の文化人としても描かれている。
- 新九郎は元服前に従兄の伊勢貞宗の命で伊勢家と勝元の間の使い走りをしたが、勝元は礼法の伊勢家で教育され頭も良い千代丸(新九郎)を気に入り勝元正室・亜々子の話し相手を任せ、また新九郎の元服後も新九郎が荏原から上洛するたびに面会を許し助言など与えている。またこの縁で新九郎の弟弥次郎も細川家に出入りすることとなった。
- 勝元には長年嫡子がおらず、分家の細川下野守家(野州家)生まれの勝之を養子に取り継嗣とした。しかしその後、山名宗全の養女で山名の血を引く勝元の正室亜々子との間に男子が生まれ聡明丸と名付けると、勝元は自らの後継者をどちらにするか結論を先延ばしにした。文明4年(1472年)勝元は東軍のリーダーとして応仁の乱が収束しない責任を取り髷(まげ)を切り幕府管領職を辞任する騒動が起き、勝之を含む細川京兆家の一門、家臣も一斉にそれに続いて髷を切ったが、勝之が髷を切ったことで家督の継承権も放棄することとなり、後継者の座は聡明丸に転がり込むこととなった。
- 文明5年(1473年)5月、西軍のリーダー山名宗全が3月に死去したのに続き、勝元は数日前に義政との酒宴に出席していたにも関わらず、応仁の乱の終焉を見ずに42歳で急死した。
- 細川聡明丸(ほそかわ そうめいまる)
- 勝元の嫡子。母は山名一門の生まれだが山名宗全の養女であるため、名目上は宗全の外孫で、細川と山名両方の血を受け継ぐ。美しき神童。文正元年(1466年)生まれ。非常に目鼻立ちがはっきりしている。勝元にとっては待望の嫡子で、誕生の一報を聞いたときは普段「笑っていても目が笑わない」と言われる勝元が心からの笑顔を見せた[注釈 68]。
- 成長し少年となった聡明丸は、細川家の女房達が美しい聡明丸をいじって遊ぼうとするのを煩わしく思い、父・勝元に女房たちが自分をあまり構わないよう申し付けてくれと依頼した(のちに妻帯せず修験道にのめり込む前振りが描かれている)[注釈 69]。
- 父・勝元は長年男子がいなかったため分家の細川下野守家(野州家)から勝之を養子に取り継嗣とし、その後聡明丸が生まれた。これは家督争いになりかねなかったが、勝之が相続権を失ったことで聡明丸が嫡子となり京兆家の家督を継ぐことが決まった。のちに管領となり幕府や新九郎を振り回す[注釈 70]。
- 亜々子(ああこ)
- 勝元の正室。聡明丸の母。山名宗全の養女。実父は嘉吉の乱の赤松邸で将軍足利義教と共に殺害された山名熙貴。
- 庄伊豆守元資(しょう いずのかみ もとすけ)
- 細川京兆家被官。一族の所領は備中国荏原荘の東隣にある草壁荘。猿掛城を備中での所領経営の拠点とする。
- 新九郎が元服前に伊勢家と細川京兆家の間の使い走りをしていた頃、元資は細川被官として京兆家の邸におり新九郎と顔見知りになった(話中での描写は無いが、第4集第23話で以前からの顔見知りとの台詞がある)。
- 西荏原の所領の境界をめぐり伊勢掃部助家と那須家が戦になりかけた際、新九郎の依頼で備中国守護代としてこれを仲裁した。仕切り屋で依頼主の新九郎に「よくぞ頼ってくださった。困り事があればまた相談してくだされよ」と今後の仲裁依頼をも歓迎した[注釈 71]
山名家
山名家は足利家のライバル新田家から鎌倉時代初期に分家した新田一門であるが、早い時期から新田本宗家を離れ、鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱では新田宗家当主の新田義貞ではなく足利宗家当主の足利尊氏に従い、南朝方の勢力の根強い山陰地方の守護に任じられて最前線で戦い、山陰地方の各国の守護大名として大勢を張ると共に室町幕府から信任を得た。室町幕府では将軍に次ぐナンバーツーの管領職に就くことが出来る足利一門の三家(細川家、斯波家、畠山家)より家格が下がるが侍所の長官(所司)職に就くことが出来る四家(赤松家、一色家、京極家、山名家)の一角を占める家柄である。 本作品の時代、山陰地方の但馬国、備後国、安芸国、石見国の守護大名であり、これに加え第6代将軍足利義教を暗殺した赤松家を滅ぼした功でかつての赤松家の領国備前国、美作国、播磨国の守護も一門で担い一大勢力を誇った。インテリな細川家と異なり、山名家は当主の山名宗全の性格とも相まみえ武闘派の家柄である。
- 山名宗全(やまな そうぜん)
- 山名家当主。出家し宗全を名乗るが、出家前の名は山名左衛門佑持豊(やまな さえもんのすけ もちとよ)。但馬国・備後国・安芸国・伊賀国4か国の守護。細川勝元正室の亜々子の養父。「赤入道」の異名で知られる。声の大きい人物として描かれ、殆どの台詞の末尾に「!」が付けられている。
- 嘉吉の乱平定で武功を挙げ、凋落していた山名家の勢威をかつて「六分の一殿」と呼ばれた時代に匹敵するまでに取り戻した大人物。また豪放磊落な性格のため人望も高い。反対に勝利のためなら武士の作法に外れた戦法も辞さない勝元には怒りを露にしている(その後、西軍も同じ戦法をとったが)。
- 反伊勢派の大名たちに担がれ文正の政変を起こしたため、新九郎にとっては「親の敵」であるが、前述の性格のため文正の政変直後に細川邸で宗全と碁を打つことになった新九郎(千代丸)[注釈 72]も悪い感情は持っていない。また宗全も媚びを売らず頭の回転が早い新九郎を気に入り、改めて応仁の乱の最中の西軍山名邸で新九郎と碁を打つ申し出を承諾した[注釈 73]。
- 当初は娘婿の細川勝元と協調路線をとっていたが、幕府の主導権をめぐって対立を深めて決裂。応仁の乱を引き起こし西軍の実質的なリーダーとなると共に、足利義視を東軍から離反させ招き入れ、本来の幕府(東幕府)に対抗し西幕府を設立した。
- 乱が長引くことは豪放な性格で西軍のリーダーを務める宗全にも精神的に堪えたようで、大酒などの不摂生もたたり、晩年は中風で半身不随となり新九郎の前に現れる宗全が描かれている[注釈 74]。また文明4年(1472年)には切腹未遂を起こし以降寝たきりとなり、文明5年(1473年)3月乱の終わりを見ぬまま死去する。
- 山名左衛門佐政豊(やまな さえもんのすけ まさとよ)
- 第51話に登場。山名宗全の嫡孫で、父・教豊が早世していたため祖父・宗全の死去により山名家当主となる。細川聡明九郎(細川政元)と応仁の乱の和睦交渉を行う。
今川家
今川家は鎌倉時代初期に足利家から分家した足利一門。南北朝の動乱では足利宗家の足利尊氏に従い戦い、中先代の乱では長男・頼国、次男・範満、三男・頼周が相次いで戦死、四男は出家していたため五男・範国が家督を継ぐこととなり、以降の今川家の男子は中興の祖・範国にあやかり長男次男関係無く○五郎(彦五郎、新五郎など)の仮名を名乗るようになった[注釈 75]。また範国は室町幕府から駿河国、遠江国の二国を賜り守護大名となったが、その後応永11年(1404年)以降遠江国の守護職は斯波家のものとなり、本作品の時代今川家では遠江国の守護職と権益の奪還が悲願となっていた[注釈 76]
- 今川治部大輔義忠(いまがわ じぶのだゆう よしただ)
- 今川家当主。駿河国守護。仮名は彦五郎。官職名は治部大輔、上総介。新九郎の姉の伊都からは「黙っていれば、いい男」と評される性格の明るい若干お調子者の美男子。
- 享徳の乱では鎌倉を攻め落とした英雄。伊勢盛定に請われ、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468年)将軍御所警護を名目に上洛。その実は東軍に味方することで、かつて失われた分国・遠江国の守護職を今川家に取り戻すことにあった。
- 上洛の際に盛定の娘で新九郎の姉の伊都(のちの北川殿)を見初め、盛定の取りなしもあり正室に迎え結婚する。駿河へ帰国後の文明2年(1470年)女児が、文明5年(1473年)男児・龍王丸(のちの氏親)が生まれた[注釈 77]。
- 義忠は享徳の乱で鎌倉公方・足利成氏の本拠地である鎌倉を攻め落とし(これにより成氏は本拠地を古河へ移し、古河公方と名乗るようになる)、鎌倉に5年駐留したが、成氏と関東管領・上杉氏は戦いを継続したため、義忠の労に対し恩賞があった訳では無く、まして享徳の乱が終わった訳でも無かった。そのため義忠はグダグダと戦いが続く関東情勢に加担することに非常に冷淡であり、幕府からの関東派兵命令には名代として今川一門の小鹿新五郎を派遣するに留まり、自らは今川家の宿願である遠江国の権益回復に関心を抱いていた。
- 文明5年(1473年)、幕府は将軍御料地である遠江国懸革(かけかわ)荘の代官に駿河国守護の義忠を任じ、併せて三河国守護・細川成之の支援を命じる。その実は関東派兵を軽視し遠江国の守護職をしつこくねだる義忠の真意を見届けようという裏があった。また斯波家が守護を務める遠江国では、応仁の乱の西軍に属する斯波義廉の勢力はこの時期ですでに没落し、幕府側の東軍に属する斯波義敏・義良親子の勢力圏となっていた。しかし義忠はこの代官任命に乗じて遠江国に点在する今川家の旧領の回復と残留している一門の保護を狙い遠江に派兵を行い、遠江守護所・見附の城に立てこもる斯波家の被官・狩野宮内少輔を攻め自害させるなど幕府の意に反する行動を行うようになった。また義忠が堀越郷に入部させた遠江今川氏の当主・堀越貞延が斯波家配下の国人・横地氏、勝田氏に攻められ敗死すると、文明7年(1475年)7月、義忠は報復のため遠江国に攻め込み、勝田氏の本拠地勝間田城を攻め落とし、続けて狩野宮内少輔に代わり見附の守護所を守る斯波家被官の甲斐敏光を追放。返す刀で横地氏の本拠地横地城に攻めかかった。
- 文明8年(1476年)2月18日、義忠の軍は横地城を落城させるが、その夜、今川方の勢力がいる遠江国相良へ撤兵中、横地の残党からしつこい襲撃を受ける。横地城での勝ち戦の後で義忠が横地の残党を甘く見たこともあり、塩買坂の細い山道で受けた矢が義忠に中たる。矢は急所に中っており、義忠は開けた場所にある破れ寺を仮の陣として運び込まれ、夜明け頃まで息があったが間もなく息を引き取った。
- 義忠の戦死により、今川家では家督の継承をめぐり争いが発生し、嫡子の龍王丸とその母で義忠正室の伊都は、龍王丸が嫡子にも関わらず義忠従弟の小鹿範満と今川家家督を争うことになっていく。
- 今川龍王丸(いまがわ たつおうまる)
- 文明5年(1473年)生まれ。駿河国守護で今川家当主・今川義忠とその正室で新九郎の姉である伊都(北川殿)の間に嫡子として生まれる。新九郎の甥にあたる。
- 4歳の時、父・義忠が遠江国攻略において戦死。今川家では遠江侵攻が幕命に反したものであったとして幕府に恭順の意を示すため、義忠の嫡子の龍王丸ではなく、義忠の従弟の小鹿新五郎範満を家督に据えるべきと主張する家臣達がおり、龍王丸は嫡子に生まれながら家督争いに巻き込まれることとなる。
- 小鹿(今川)新五郎範満(おしか(いまがわ) しんごろう のりみつ)
- 今川家の一門衆。義忠の従弟。扇谷上杉家と血縁がある。野心家で武勇に優れた人物。関東での関東管領と古河公方の戦いに対し、幕府は駿河国の今川家、甲斐国の武田家など周辺国の守護大名に関東管領を支援し出兵するよう命令していたが、今川家では義忠の命で範満が当主の名代として最前線の五十子陣に出陣した。
- 範満の父・範頼は、義忠の父・範忠と兄弟であるが、今川家当主の家督を争ったことがある。その因果か、義忠は範満の武勇は評価するものの、自分に楯突く人間であると評しており[注釈 78]、範満も心苦しいながら物事に楽天的過ぎる主君・義忠の考えに付いて行けないと思っている。
- 範満は「御屋形様(義忠)は遠江のこととなると気が早すぎ、かつての分国を取り戻したい気持ちは理解らぬではないが、現在遠江は斯波家の分国で、(応仁の乱・西軍の)斯波義廉の勢力を追い出せば、(幕府側の東軍の)斯波義敏殿か御子息(義良)の勢力に戻るだけ(なので今川家の介入が正当化される余地は無い)。大御所様(義政)は何を考えて懸革荘の代官職など御屋形様(義忠)に下さったのか、あれですっかり遠江を手に入れた気になっている」「(遠江が今川家に)転がり込んでくるならそれは嬉しうござるが、しかしそうではあるまい。自力で取り戻そうとすれば戦になる」との考えを新九郎に述べ、義忠とは正反対に遠江への介入に慎重な姿勢を示した。
- 文明8年(1476年)2月、遠江国横地城からの撤兵中に義忠が戦死すると、義忠による遠江国攻略は幕命に反したものであったこと、弔い合戦をするなら龍王丸が当主で構わないが幕府に恭順の意を示すためには義忠嫡子の龍王丸ではなく、龍王丸以外で義忠に近い血縁として従弟の小鹿範満を当主に立てるべきとの意見があり、当初範満にはその気が無かったが、龍王丸を推す今川家臣たちと家督争いとなっていく[注釈 79]
- 柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう)
- 義忠の近習。
- 連歌や詩歌に長けており、応仁の乱で主君の今川義忠に従い上洛した際、宗長は伊勢家で新九郎の姉の伊都を見初めた義忠から伊都に贈るために一首詠んでくれと依頼されるが、それに対して宗長は「それは御自分で詠まなければ意味がありません」と義忠に自ら作ることを促した[注釈 80]
- 戦においても義忠近衆として同行し、遠江国横地城からの撤兵戦で義忠の最期を看取ったことを伊都に語るところが描かれている[注釈 81]。
- 堀越源五郎義秀(ほりこし げんごろう よしひで)
- 今川家家臣、今川一門の遠江今川家。のちに瀬名郷を賜り瀬名一秀と名乗る。父は今川義忠の遠江侵攻の際、義忠の命で堀越郷に入部したものの遠江国の斯波家勢力に攻められ戦死した堀越貞延。義忠戦死による龍王丸と小鹿範満の家督争いの際は龍王丸派として動く。
- 朝比奈丹波守(あさひな たんばのかみ)
- 今川家家臣。応仁の乱で主君の今川義忠に従い上洛した際、義忠が新九郎の姉の伊都を娶ろうとしていることに対し、朝比奈丹波守は「(伊勢家とは言っても)宗家の姫君ではございませぬ」「御当家ならばもっと良い縁組もできようかと」と異議を申していたが、義忠は「家格の高い家が当家に何もしてくれる?」と返し、幕府申次衆で将軍直臣の伊勢備前守盛定の娘を娶ることで、盛定を義父として味方に付け今川家の要望を将軍に通しやすくできると家臣たちを説得した[注釈 82]。義忠戦死による龍王丸と小鹿範満の家督争いの際は龍王丸派として動く。
斯波家
斯波家は鎌倉時代中期に足利家から分家した足利一門。南北朝時代の動乱では足利尊氏を支え尊氏の最大の宿敵新田義貞を越前国で討ち取り、奥州も平定するなど活躍し、室町幕府では将軍に次ぐナンバーツーの管領職を細川家、畠山家と交代で務める家柄である。 本作品の時代より少し前、斯波宗家である斯波武衛家では当主の早世が続き、享徳元年(1452年)当主の斯波義健に子がいない状態で18歳で死去すると分家の(斯波)大野家から義敏が斯波武衛家に養子入りし宗家の家督を継いだ。しかし宗家宿老の甲斐常治・敏光親子と分家上がりの義敏は折り合いが悪く、長禄3年(1459年)将軍・足利義政が堀越公方を支援のため下した古河公方討伐の関東出兵命令に強力な軍団を持ち関東に近い遠江国を分国とする斯波家は主力としての貢献を期待されながら越前国の内紛で義敏と甲斐親子が争い将軍の命に従えず、出兵が頓挫し面目を潰された義政は義敏を家督から追放し義敏は周防国の大内教弘のもとへ落ちのびた。斯波家家督は一旦義敏の3歳の嫡子が継いだが、寛正2年(1461年)義政は義敏の嫡子を出家させた上で、斯波武衛家家督に堀越公方執事・渋川義鏡の子・義廉を養子入りさせ家督を継がせ、堀越公方と斯波家の連携を目論む。しかし奥州の斯波一門が渋川家出身の義廉に従わず北からの古河公方攻撃が難しくなり、また義廉の実父・渋川義鏡が関東管領の上杉氏と争い失脚、堀越公方と斯波家の連携構想は破綻し義廉の立場が悪くなると、義敏の評価も再考されるようになった。寛正4年(1463年)義政の生母日野重子の死去に伴う恩赦で義敏は赦免され、義廉は危機感から母が山名氏の娘であることを通じ山名宗全と手を結ぶが、義敏は妾の妹が伊勢貞親の継室になると将軍への口添など貞親の支援を得ていった。
- 斯波左兵衛督義敏(しば さひょうえのかみ よしとし)
- 官職名は左兵衛督。越前国・尾張国・遠江国3か国の守護。
- 一度斯波家当主の座につきながら将軍・義政から追放され義廉にその座を奪われていたが、義敏の妾の妹が伊勢貞親の継室になると将軍への口添など貞親の支援を得る。文正元年(1466年)7月斯波家当主の座に復帰するが、その直後9月文正の政変で身の危険を感じ貞親と同時期に逐電する。応仁の乱が始まり義廉が山名宗全と共に西軍に属すと、義敏は東軍に属し義政から赦免され、斯波家家督は義敏の嫡子・松王丸=元服後の義良(よしすけ)に返還された。
- 本作品では、伊勢貞親は義敏の家督復帰を支援したが本音は義敏を家中をまとめられぬふつつか者と評している[注釈 83]。
- 斯波左兵衛佐義廉(しば さひょうえのすけ よしかど)
- 官職名は治部大輔→左兵衛佐。幕府管領職も一時務める。斯波家と同じ足利一門・渋川家出身で、堀越公方の執事・渋川義鏡の実子。斯波家に養子入りし家督を義敏と争う。
- 義敏の追放後、寛正2年(1461年)義廉は渋川家から養子入りし斯波家家督を継ぐ。義廉は母が山名氏の娘であることを通じ山名宗全と手を結ぶが、伊勢貞親と結んだ義敏の前に文正元年(1466年)7月家督を失う。9月の文正の政変で義敏の逐電により義廉が斯波家家督に復帰、幕府管領職にも就く。しかし再度関東政策で義政の怒りを買い[注釈 84]、応仁2年(1468年)7月義政から斯波家家督と管領職を剥奪されるが、応仁の乱で宗全とともに西軍に属し西幕府では以降も斯波家家督を維持し西幕府の管領を名乗り続けた。
- 応仁の乱では畠山義就、大内政弘と共に西軍の主力として活躍するが、その軍事的原動力であった重臣で猛将の朝倉孝景が将軍・義政の指示のもと細川勝元や伊勢貞親からの調略を受け東軍に寝返ると、次第に軍事力と共に政治的立場も失った。
畠山家
畠山家(源姓畠山家)は鎌倉時代初期に足利家から分家した足利一門。南北朝時代の動乱では足利尊氏を支え畿内の平定などに活躍し、室町幕府では将軍に次ぐナンバーツーの管領職を細川家、斯波家と交代で務める家柄である。 本作品の時代の少し前、畠山宗家である畠山金吾家の先代当主畠山持国には嫡子がおらず、弟の持富を一旦後継者としたが、持国は文安5年(1448年)石清水八幡宮の社僧になる予定だった庶子だが実子で12歳の義就を新たに後継者とし、義就は将軍・足利義政から偏諱(「義」の字)を受けて元服、持国はまもなく死去した。しかし畠山の家臣の一部は義就の母の身分が低いことなどを理由に義就の家督相続に反対し、持富、持富死後は持富の子弥三郎政久、弥三郎死後はその弟の政長を支持し畠山家中は分裂、弥三郎政久・政長派は義就を襲撃し大和国で争乱となった。義就派は当初優勢であったが、義政の上意を偽っての大和国人の所領横領や細川勝元の山城国木津領を攻撃したことで義政の信頼を失い、長禄4年(1460年)義就は綸旨により朝敵とされ紀伊次いで吉野へ落ちのびた。一方政長は家督相続を公認され寛正5年(1464年)細川勝元に次いで幕府管領職に就いた。
- 畠山尾張守政長(はたけやま おわりのかみ まさなが)
- 官職名は尾張守、左衛門督。河内国、紀伊国、越中国、山城国の守護。幕府管領職も一時務める。
- 畠山家の家督とともに幕府管領の任を大過なく務めていたが、従兄弟の畠山義就が赦免され山名宗全と手を結び文正元年(1466年)上洛すると「強そうな方につく」将軍・義政に管領職を罷免され家督を剥奪された。文正2年(1467年)1月上御霊社の戦いに敗れ戦死したと思われていたが細川勝元に匿われていた。6月幕府から赦免され復帰、応仁の乱では勝元と共に東軍として戦った。
- 本作品の第1集第5話では義就が上洛したことが波乱のきっかけとなり、政長が義政に管領職と畠山の家督を剥奪されたことで自らの屋敷に火をつけ破却し上御領神社に布陣、これにより応仁の乱が始まるところを千代丸の伊勢家目線で描いている。また応仁元年(1467年)10月の相国寺の戦いに出撃する前の政長が伊勢貞宗を訪ね新九郎を交えて情勢を語らうシーンが描かれている[注釈 85]
- 畠山右衛門佐義就(はたけやま うえもんのすけ よしひろ)
- 政長の従兄弟。政長との家督争いに敗れて京を追われていたが、寛正4年(1463年)将軍・義政の生母日野重子の死去に伴う恩赦で斯波義敏と共に赦免されると山名宗全と手を結び、文正元年(1466年)再び上洛し「強そうな方につく」義政に再度畠山家の家督を与えられた。応仁の乱では宗全と共に西軍として戦った。戦にはめっぽう強く、本作品で細川勝元は義就を襲いかかられてはたまらぬ猛犬と評し乱下で洛中の細川京兆家邸の要塞化を進めた。
大内家
- 大内周防介政弘(おおうち すおうのすけ まさひろ)
- 官職名は周防介。周防国・長門国の守護だが最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し強勢を誇った。
- 母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘(細川勝元正室の姉)。しかし日明貿易(勘合貿易)などをめぐり細川勝元と対立し、応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。
荏原
備中那須家
備中那須家は平安時代末期に源平の合戦の屋島の戦いで波間に浮かぶ船上の扇を射落とした下野国那須の住人那須与一宗隆が鎌倉幕府から恩賞として備中国荏原荘を与えられ那須一族の一部が移住した子孫。源頼朝公の直筆の下し文を持っていると吹聴している。その後室町幕府から荏原を与えられた伊勢家に従う形となったが、プライドが高く伊勢家からすると扱いづらい存在。この時代には西荏原の戸倉に当主の資氏が居を構えそこから北の山間に永祥寺や小菅城を抱え込み一族の多くの者がそちらに住まい威をふるっている[注釈 86]。
- 那須修理亮資氏(なす しゅうりのすけ すけうじ)
- 備中那須家当主。伊勢掃部助家の九郎盛頼は資氏を損得の計算が出来る男と評している。伊勢家に従わざるを得ない荏原で、西の領主の伊勢掃部助家と東の領主の伊勢備前守家を両天秤にかけることで那須家の存在感を高めようとしている[注釈 87]。
- 弦姫(つるひめ)
- 資氏の従妹。他家に嫁に行っていたことがあり[注釈 88]、石女[注釈 89]で後家[注釈 90]として出戻ってきた。普段は男装で4歳のころから毎日稽古する弓馬を得意とし、伊勢家の者として弓馬に自信を持つ新九郎に流鏑馬で勝負し競い勝った[注釈 91]。新九郎は弦姫に次第に心を惹かれていく。
- 西荏原の所領の境界をめぐり伊勢掃部助家と那須家が戦になりかねない一触即発の状態になった際、新九郎の奔走もあり備中国守護代・庄伊豆守元資の仲裁で掃部助家と和解に至ったが、和解の総仕上げとして従兄で那須家当主・那須修理亮資氏と伊勢掃部助家盛景の話し合いで、弦姫は盛景の嫡子盛頼に側室として嫁ぐことになった。またこれで新九郎は失恋することとなった。弦姫はこの結婚を受け入れる代わりに、この話を決めてきた資氏に対し、弦姫の弟を嫡子のいない資氏に養子入りさせ継嗣として次期那須家当主と認めさせるしたたかさを発揮した[注釈 92]。
関東
室町幕府の出先機関で関東と周辺国の12ヶ国を統治する鎌倉府は、長官の鎌倉公方を幕府初代将軍・足利尊氏の子で2代将軍・義詮の同母弟の基氏の子孫が継承、副長官の関東管領は上杉家が継承していた。その後幕府と鎌倉公方が対立、関東管領は鎌倉公方を諫める立場であったが幕府に従ったため次第に鎌倉公方と関東管領の戦いとなり、鎌倉公方・足利成氏の北関東出陣中に幕府から命令を受けた駿河守護・今川範忠(実際はその名代で嫡子の今川義忠)が鎌倉を占領し成氏は鎌倉を放棄、上杉家に不信感を持つ北関東の諸侯の支持のもと水運が盛んな利根川・渡良瀬川沿いで北関東の交通の要衝として栄える下総国古河に本拠地を移し、古河公方と名乗り関東管領との戦いを続けた。
上杉家
- 上杉顕定(うえすぎ あきさだ)
- 山内上杉家当主。関東管領。幼名は龍若(たつわか)。第1集で元服前の13歳の上杉龍若が、前管領の病死により将軍の指名で室町幕府の関東管領職を歴任する山内上杉家の家督を相続するところが挿話的に描かれており、後にほぼ同じ年齢の新九郎(早雲)と関わりを持つことが蜷川新右衛門による解説ページでメタフィクション的に指摘されている。その後元服し顕定を名乗り、16歳で関東管領に就任、古河公方との28年戦争享徳の乱を引き継いで戦っていくことになる。
- 顕定は生まれが山内上杉家の分家である越後上杉家で、山内上杉本家に養子入りの上、家督相続のため越後国から武蔵国の五十子陣にやってきた。この時山内上杉家の家宰には長尾景信が就いており景信が若い顕定を補佐し支えていた。古河公方との戦いである享徳の乱では景信の嫡子・長尾景春が数々の戦功をあげているものの、顕定は奢ったふるまいや発言を見せる景春を信頼していなかった。そのため景信が病死した際、顕定は山内上杉家の家宰職を景信嫡子の景春に継がせず、景信弟の忠景に継がせたところ、景春が五十子陣への兵糧搬入の妨害などを開始、やがて大規模な反乱を起こし(長尾景春の乱)、顕定はその鎮圧に頭を悩ませることになる。
- 長尾左衛門尉景信(ながお さえもんのじょう かげのぶ)
- 山内上杉家の家宰。長尾景春の父。若き主君 上杉顕定を支え、享徳の乱では関東管領軍の総大将を務め、古河を包囲した際は古河公方足利成氏を取り逃がすなど失態はあったが[注釈 93]、総じて人望はあり優れた大将であった。が、文明5年(1473年)6月、五十子陣で病没[注釈 94]。
- 長尾四郎左衛門尉景春(ながお しろう さえもんのじょう かげはる)
- 長尾景信の嫡子。通称・孫四郎。もともと享徳の乱で数々の戦功をあげながら主君・上杉顕定(龍若)が評価しないことに不満を持つ。主君・顕定は父・長尾景信の死により山内上杉家家宰の座を父の弟で叔父の長尾忠景に指名[注釈 95]したため景春は激怒。五十子陣への兵糧搬入の妨害など反抗を開始する(長尾景春の乱)。
- 長尾尾張守忠景(ながお おわりのかみ ただかげ)
- 長尾景信の弟で景春の叔父。武蔵国守護代。兄・景信の臨終の際、鎧姿のまま駆けつけた景信嫡子で忠景の甥にあたる景春に苦言を呈し、叔父と甥の間に確執があることが伺われる。兄・景信の死により主君・上杉顕定は山内上杉家の家宰職に忠景を指名し、家宰に就任した。
- 上杉五郎修理大夫定正(うえすぎ ごろう しゅうりのだいふ さだまさ)
- 山内上杉家の分家扇谷上杉家で、若い当主の扇谷上杉政真を支える叔父。政真が古河公方との戦で戦死すると扇谷上杉家の当主となる。
- 太田六郎左衛門大夫資長(おおた ろくろう さえもんのだいふ すけなが)
- 扇谷上杉家の家宰。通称・六左。
- 幼少のころから鎌倉五山や足利学校で学び英才で知られ、成人してからも戦上手な武将として知られる。頭は非常にキレるが奢った発言をすることもある。享徳の乱では利根川を境に古河公方と対峙した関東管領側の最前線のひとつとして、当時江戸湾(東京湾)に流れ込んでいた利根川河口の江戸に江戸城を築城し居城とする。本作では長尾景春が太田資長の軍勢を「江戸勢」と呼んでいる[注釈 96]。
- また第8集第49話では、小鹿範満に連れられ堀越公方・足利政知への謁見に伊豆を訪れた新九郎が、同じく堀越公方を新年の謁見に訪ねた資長と、修善寺の湯で会話するところが描かれている(お互い正式な名乗りをしないので、この時点では相互の身元を正しく認識しなかった。また資長はここで自らの若いころの逸話とされる「蓑の代わりに山吹を差し出された話」を新九郎に語っている)。
- 第52話~の文明8年(1476年)今川義忠戦死による義忠嫡子・龍王丸と義忠従弟・小鹿新五郎範満の今川家家督争いへの介入では、剃髪し太田道灌と名を改め、今川家が関東管領の影響下となるよう意を受け兵を率いて駿河国駿府へ赴く。扇谷上杉家の家宰として、扇谷上杉家の縁者でもある家督争いの一方の当事者・小鹿新五郎範満の代理人になり、幕府からの調停の特使・摂津之親の配下として駿府にやってきた新九郎と交渉を行うことになる。
足利堀越公方家
- 足利左馬頭政知(あしかが さまのかみ まさとも)
- 室町幕府第6代将軍足利義教の子。第8代将軍足利義政の庶兄。義政弟の足利義視同様仏門に入っていたが、将軍を継いだ義政に求められ還俗する。
- 享徳3年(1455年)関東を統治する室町幕府出先機関鎌倉府では長官である鎌倉公方(関東公方)足利成氏がナンバーツーの関東管領上杉憲忠を誅殺、成氏と上杉一門の戦いが開始され(享徳の乱)、幕府は関東管領上杉氏を支持、成氏は鎌倉から逃亡し下総国古河に本拠地を移し古河公方と名乗り関東管領との戦いを継続した。長禄2年(1458年)幕府は成氏を廃し代わり新たな鎌倉公方として将軍・足利義政の庶兄・足利政知を関東に送り込む。しかし政知には幕府から軍事力や実権を与えられず、騒乱の影響や鎌倉府ナンバーツー関東管領上杉氏との利害が一致しなかった[注釈 97]こともあり鎌倉に入れず伊豆国堀越に留まり堀越公方を名乗った。本作で描かれる第8集第49話の文明7年(1475年)頃には今川義忠が新九郎に堀越公方の実情を説明する台詞の通り「(堀越様は)いてもいなくてもよい存在になり果てている」「関東管領がありがたがっているのは(古河公方と戦う上で)堀越様が携えてきた官軍の証の錦旗と将軍旗」「旗さえあれば堀越様は木彫りの人形でもかまわないのではないか」と誰もが心の中で思っているような状況であった[注釈 98]。
- 上杉治部少輔政憲(うえすぎ じぶのしょう まさのり)
- 幕府から公式に認められた「鎌倉公方(関東公方)」である堀越公方に仕える執事。本来であれば堀越公方が鎌倉入りし名実共に正式な鎌倉公方となる運びであったが、鎌倉府で公方に次いでナンバーツーになるのが関東管領・山内上杉家なのか、堀越公方執事なのかはっきり決められておらず、その点がナアナアにされたまま堀越公方は鎌倉入りを許されず伊豆に足止めされていた。
- 第56話では、隣国駿河国・今川家の家督争いの際、堀越公方・足利政知をなえがしろにし続けた先代・今川義忠の嫡子・龍王丸ではなく、堀越公方を重んじ関東に幾度も出兵している小鹿新五郎範満を今川家当主とすべく、政知の命を受け兵300を率いて駿府に出兵する。
その他
- 横井掃部助時任(よこい かもんのすけ ときとう)
- 新九郎、弥次郎、大道寺太郎の母方の祖父。堀越公方被官。尾張国の国衆で、京都にも屋敷を構える。盛定は横井家の取次を務めていた(文正の政変後、取次は貞藤に引き継がれる)。
- 応仁の乱で京都の屋敷を焼かれたため、娘婿の伊勢貞藤の邸に避難していた。西軍斯波義廉(尾張守護)と通じたという嫌疑を幕府・東軍からかけられ、一度は切腹も考えたが思いとどまり、国許の息子に家督を譲って剃髪し、裁きを待つ身となった。本作では第2集第7、9話に登場する。
- 第7集第43話で家人の多米権兵衛が登場する文明3年(1471年)頃には息子の横井掃部助時利が家督を相続していることが描かれている。尾張国蟹江郷を国許の本拠とする。
- 骨皮道賢(ほねかわ どうけん)
- 出自がはっきりしない階層の出で応仁の乱で東軍の足軽大将として活躍した。
- 元は侍所所司代多賀豊後守高忠の下で目付を務め盗賊の追捕をしており、盗賊の挙動や人脈に詳しい。応仁の乱の混乱のさなか自らも盗賊として活動し、盗賊、土一揆に加わっていた者、職にあぶれた武家の中間(ちゅうげん)や小者(こもの、下男とも)などを糾合し火事場泥棒など働いていたところ、その機動力に目を付けた細川勝元から多賀高忠を介して金で雇われ、西軍の陣地や食糧を焼いたり強奪し甚大な被害を与えた。その手法は応仁の乱下の京の街にあふれる乞食や田畑を捨て生活に困窮した百姓と変わらぬ風体で敵を油断させ、敵の守りが薄いと集団で一気に襲いかかり、敵が強ければ恥も外聞も無く逃げるといった正規軍の武士ではあり得ないものであった。
- 応仁2年(1468年)3月、東軍の足軽の襲撃に手を焼いた西軍は、骨皮道賢ら一味300人が布陣し拠点とする伏見稲荷社を大軍で包囲、道賢は女装し包囲網を脱出しようとしたところを討ち取られた。
- 本作では第2集第11、12話、および蜷川新右衛門の室町コラム(6)に登場。
- 日野勝光(ひの かつみつ)
- 公家・日野家の当主で、幕府将軍・足利義政の正室である日野富子の兄。朝廷では内大臣を務め、公家なので幕府での公式な役目は無いが、将軍正室の兄という立場を活かして義政の側近に収まっている。
- 日野家は藤原北家の分家だが、鎌倉時代中期まで中納言止まりの家で、同じ藤原北家でも五摂家の近衛家や九条家などより低い家柄だったが、院や天皇家、室町幕府の足利家に接近し家格を上げた。日野家の家紋は現代の日本航空の社章に似た鶴丸(つるのまる)で、第3集第13話では日野家の鶴の紋に「OJAL(おじゃる)」と、「JAL」と公家言葉を合わせた作者のギャグが描かれている。
- 文明3年(1471年)、新九郎の義母・須磨が亡くなった京での疱瘡やはしかの流行の際には、日野勝光も嫡子を亡くした。
- 文明5年(1473年)年末から翌文明6年(1474年)年始にかけ、足利義政の将軍退任と嫡子・足利義尚の新将軍就任の儀式が行われた際、細川勝元退任以降空位となっていた幕府管領職に畠山政長が就任(再任)するが、儀式が終了すると政長は畠山義就との家督争いのためとして管領を辞任、管領職は再び空位となった。ここで将軍縁戚の日野勝光(前将軍・義政の義兄、現将軍・義尚の伯父)は幕府を支えるため、管領の職位には就かずに実質的に管領の職務を代行した[注釈 99]。その結果、御所(将軍)義尚や大御所(前将軍)義政への上奏は日野勝光を通すことが必要となり、新九郎が関与する今川家の家督争いでも、龍王丸派と小鹿派の双方が日野勝光に賄賂を送り将軍から自派に有利な相続命令を得ようとした。
- しかし文明8年(1476年)6月、3月から体調を崩していた日野勝光は病で死去。これにより今川家家督争いでの龍王丸派、小鹿派それぞれの思惑と工作も水泡に帰すこととなった。
- 万里小路春房(までのこうじ はるふさ)
- 公家。官職は右大弁、参議。
- 文明3年(1471年)4月、伊勢貞親と共に日野勝光の追い落とし工作をしていたところ、帝に伝わりそこから将軍義政にも計画が露呈した。貞親と共に出家し、妹婿である近江国の朽木貞綱の許に出奔する。第5集第27話に登場。
- 摂津修理大夫之親(せっつ しゅうりのだいふ ゆきちか)
- 幕府評定衆。京での評定衆の役目と共に駿河国益頭庄(ましずしょう、現在の藤枝市)に所領を持つ。
- 文明8年(1476年)、今川義忠死去に伴う今川家家督争いでは、評定衆で駿河国に所領を持つ之親が幕府からの仲裁者として派遣された。新九郎は駿河の仲裁の件では之親に従うよう命が出ていたが、龍王丸派、小鹿派とも一触即発の危険な状態に之親は早く京に帰りたいとつぶやくばかりで自領に籠り駿府に近づこうとせず、姉(伊都)や姪甥(亀、龍王)の身の安全に気を揉んだ新九郎が之親を説得し代理として今川家の駿府館にのりこみ小鹿派代理人の太田道灌と交渉を行うこととなる。
- 狐(きつね)
- 物語冒頭で新九郎が出会った風来坊。第1集第1話での千代丸(新九郎)との出会いでは、千代丸が敬愛する父・盛定の悪口を散々放言し、激怒した千代丸に斬りかかられ斜面を滑落するが、斜面下の草むらから狐が飛び出てきたため、千代丸と大道寺右馬介は狐に化かされたと考え以降狐と呼ぶようになった。また骨皮道賢が布陣した伏見稲荷社を山名の軍勢に破壊されたことで住処を失ったとほのめかしたことから伏見稲荷社の神位である正一位とも呼ばれる。新九郎が備中下向前に再会した際には鎧師をしており、鎧(八郎の形見)の仕立直しを引き受けるが、仕立直しの腕は良いものの六貫文とかなりの高額を請求し、所領東荏原の収入が目減りしていた新九郎には痛い出費となった。
- 第1集では昼間も登場したが、第4集以降では、本人曰く「朝起きられない」とのことで夜に現れる。夜目が効き普通の人間が行動出来ない夜道でも自由に移動することが出来る。
- 第1集第1、2話、第4集第18話、第5集第27話、第6集第33話、第7集第38話に登場する。
書誌情報
- ゆうきまさみ 『新九郎、奔る!』 小学館〈ビッグコミックススペシャル〉、既刊8巻(2021年9月10日現在)
- 2018年8月14日発行(同年8月9日発売[7])、ISBN 978-4-09-860001-4
- 2019年4月17日発行(同年4月12日発売[8])、ISBN 978-4-09-860334-3
- 2020年1月15日発行(同年1月10日発売[9])、ISBN 978-4-09-860521-7
- 2020年6月16日発行(同年6月11日発売[10])、ISBN 978-4-09-860671-9
- 2020年10月17日発行(同年10月12日発売[11])、ISBN 978-4-09-860810-2
- 2020年12月16日発行(同年12月11日発売[12])、ISBN 978-4-09-860829-4
- 2021年5月17日発行(同年5月12日発売[13])、ISBN 978-4-09-861088-4
- 2021年9月15日発行(同年9月10日発売[14])、ISBN 978-4-09-861165-2
脚注
注釈
- ^ 尾張国国衆の横井氏にはその出自を鎌倉執権北条氏の末裔とする伝承があり、これと生母が横井氏の娘であることを合わせると、伊勢新九郎盛時とその子孫後北条氏は鎌倉執権北条氏の血をひくことになる、というネタが仕組まれている。なお江戸時代に執筆された北条五代記は新九郎の諱(いみな)を伊勢盛時ではなく伊勢長氏とし享年88歳説(1432年生)で記載しているため、本作品では生母が横井氏であることのみを引用していることとなる。
- ^ 生母が京都に暮らす人物でその実家(の屋敷)も京都にあり、父も将軍に近侍する仕事に多忙で滅多に京都を離れられないことから、その子供の生誕・成長の地を京都としたと考えられる。
- ^ 千代丸(新九郎)の父・盛定は日に陰に貞親を支える役割を担っており、貞親が足利義視を追い落とそうとして行った将軍・足利義政への讒言の裏には、盛定が貞親を支える工作をしたと見做されたため。
- ^ 盛頼は、弟・珠龍からの内通で、叔父の荏原政所頭人・珠厳が東荏原に加え、掃部助家の所領・西荏原の年貢もかすめ取り不正蓄財をしていたことを知った。盛頼は珠厳に「俺は優しいから叔父上(珠厳)を殺そうとまでは思わない(が、盛頼の父で掃部助家当主・盛景が知ったらそれでは済まない)」「叔父上が病を得て執務出来なくなり退任ということにするから同意せよ(さもなければ父・盛景に通報し殺されかねない事態になるぞ)」と反論を許さない圧力を掛け、珠厳を荏原政所頭人から強制退任させた。
- ^ 文正の政変の時と同様、盛定は貞親の工作を支える活動をしていた。今回盛定は将軍・義政から直接咎められた訳ではないが、貞親に下った沙汰からそれを支える活動をした盛定も当面謹慎するよう、新たに伊勢宗家の当主となった貞宗に申し付けられ蟄居することとなった。
- ^ 珠厳の不正により、西荏原・掃部助家と東荏原・備前守家は程度の差こそあれ年貢を掠め取られ、また備前守家や那須家は納めたはずの年貢が足りないとケチを付けられ追加で収めなければならなかったことがあり、不正の再発は困るというのが三家共通の認識となっていた。盛頼には掃部助家こそが荏原全体の領主という感覚がありお互いを対等に監視する新九郎の提案には内心腹立たしかったが、那須修理亮資氏や備前守家宿老の笠原まであんな不正はもうまっぴら御免でござると抗議する状況に、不正監視の仕組みをやってみようと合意せざるを得なかった。一方、新九郎にはこの仕組みが機能すれば東荏原・備前守家の収入を台帳通りに回復出来るとの考えがあった。
- ^ 当時、公的文書などへの格式張った署名として本姓で記すことがあった。この場合、伊勢家は平氏の末裔を自認しているので、新九郎は伊勢新九郎平盛時(いせ しんくろう たいら の もりとき)、または平盛時となる。
- ^ 幕府申次衆の仕事の初歩は将軍や幕府上層部への単なる伝奏だが、熟練すると自らの裁量の幅が広く、上奏する内容の選択、将軍・幕府の意に沿った結論に落とすため関係者の説得や調整、場合によっては贈答品や賄賂を使うこともあり、その費用は申次の自腹で賄われることがほとんどで、出費が多い役目という側面もあった。
- ^ 第7集第38話で、盛頼には京に正室(正妻)と嫡男(長男)がいると説明されており、弦は側室で荏原での「現地妻」となる。
- ^ 犬神人または坂非人は大社に属し河原に住む人々とされ、もともとは大社境内で死んだ鳥獣や行き倒れの人間の遺体の処理と清掃などの死穢の除去に始まり、室町時代は葬送法師として京市中の遺体の搬送と火葬を行ったとされる。
- ^ 京市中は応仁の乱の大規模な戦闘は収まったものの小規模な小競り合いは依然発生しかねない状態で、東軍西軍それぞれ関を設け通行する者を監視していたので、東軍・伊勢宗家邸と西軍・伊勢貞藤邸の両方に出入りし伊勢家が信頼出来る商人などに内密な手紙の受け渡しを頼んだり、格好を扮し商人一行に同行することと思われる。
- ^ 第1集第4話、5話で、伊勢宗家と細川京兆家の間の使い走りをしていた元服前の千代丸(新九郎)が、細川邸にて勝元正室で宗全の娘(養女)の亜々子を訪ねてきた宗全と碁を打つことになったが、この時は対局の途中で終了となり勝負が付かなかったものの、宗全は物怖じしない千代丸を気に入ったようだった。
- ^ 本作品では第2集で東軍の足軽・骨皮道賢が描かれたが、ここではこの西軍の足軽がどのような者か書かれていない。しかし例えば西軍の足軽としては山城国の地侍出身とされ畠山義就に仕官した御厨子某(みずし なにがし)などが知られており、この場面でも西軍の足軽たちのリーダーは下級の地侍風の様相で畠山義就の命令で動いたと考えられ、御厨子某を意識したと思われる描き方がされている。
- ^ しかし古河公方・足利成氏は幕府から廃されたことなど知らぬとばかり北関東の支配地域で君臨し、幕府方の関東管領(および堀越公方)との戦いを継続するのであった
- ^ 実は関東管領は自分に命令を下す存在の「鎌倉公方」は不要と思っており、言葉と裏腹に鎌倉に入らせずに伊豆に足止めしていたに等しい状況であった
- ^ 伊勢平氏の祖となる平維衡(平貞盛の子)は、桓武平氏で初めて伊勢守を任官し国司として伊勢国へ赴任、伊勢国で勢力基盤を築くきっかけとなったと考えられている。
- ^ 第1集第3話、伊勢貞親と蜷川新右衛門との会話で貞親が自らの出奔を平家物語に書かれる平家の都落ちになぞらえ、記憶力抜群な新右衛門は283年ぶりと即答するが、貞親が自らを伊勢平氏の末裔と認識していることが描かれている。
- ^ 第3集「【外伝】新左衛門、励む!」でそのように説明され本作品の見解となっている。
- ^ 第1集第3話、細川勝元の台詞。
- ^ 新九郎は父から家督を相続したが、将軍・足利義政の気まぐれから官位官職を許されていないため、『伊勢備前守』を名乗れず仮名(けみょう)である伊勢新九郎で通しているが、家の名前としては父の興した『伊勢備前守家』のままとしている。
- ^ 北条早雲の幼名は不詳のため、ゆうきが早雲の息子・北条氏綱と孫・北条氏康の幼名が同じ「伊豆千代丸」であることに着目し、当時の長男は父親の幼名・仮名を受け継ぐことが多かった事実から類推して創作した[5]。
- ^ 第1集第1話P28、父・盛定が「伊勢家一門の子弟としてすべきことを学んでもらわねば」と言っている。
- ^ 第1集第2、3話。これは命令が出る前に逃亡してしまことでうやむやになり命令は出なくなることを狙ったもの。
- ^ 第1集第4、5話。細川邸への使い走りの際に、勝元が伊勢家への返信の書状を完成させるまでの間、勝元正室の話し相手を任された千代丸は、ちょうど細川邸を酒宴のため訪ねた宗全から「伊勢家の子弟なら(礼儀正しく教養もあるので、宗全の養女で勝元正室の)話し相手には十分じゃろう」と評され「碁は打てるかな?」と持ちかけられ囲碁の対戦をすることとなった。
- ^ 第2集第8話に将軍の弟・今出川殿(足利義視)に仕える新九郎の兄・八郎に代わり新九郎が有事の際は備前守家の家臣を率いて細川淡路守が番頭の奉公衆一番組に参加することになる旨が描かれている。
- ^ 第3集に収録の「【外伝】新左衛門、励む!」にて明かされている。
- ^ 第3集第16話、兄八郎が死んだ夜、雨のなか備前守家の若手の家臣達が庭に集い、悲しむ新九郎を励ますところが描かれている。
- ^ 第4集第18話、新九郎が兄八郎の形見の鎧を荏原に持っていきたい希望を義母須磨に話す場面で伊都の出産が明かされている。
- ^ 第8集第47話、嫡子の誕生を喜ぶ義忠と伊都が描かれている。
- ^ 第1集第2、3話、文正の政変には応仁の乱の経緯などと同様様々な解釈があるが、ここでは本作品での文正の政変の解釈でストーリーが形作られている。
- ^ 第5集第27話では、貞親の2回目の失脚の経緯が語られている。
- ^ 第8集第45話では、貞親死去の経緯が語られている。
- ^ 早雲の出自をめぐってかつて提唱され有力視された説の一つに貞藤の子とする説がある。本作品では新九郎は貞藤の子では無いが、実母の再婚相手が貞藤という義理の父子関係として描くことで、その説への本作品での解釈としている。
- ^ 第7集第43話、新九郎は応仁の乱が膠着状態で長引く最中、実母の浅芽に会いたいという理由で従兄で東幕府・政所執事の貞宗から許しを得て西軍・貞藤の屋敷に潜り込む。
- ^ 第7集第38話、幕府への申し出は上洛後になるが、荏原では明日からそのように振る舞えと盛景は盛頼に申し付けた。
- ^ 第6集第36話、新九郎の祝宴で、盛頼が子供の頃から弦姫が馬から振り落とされたり木から落ちるのを見て知っているという台詞がある。
- ^ 第5集第27話、都にいる盛景から西荏原の盛頼への手紙。
- ^ 第5集第28話、新九郎が珠龍、盛景、資氏らにそのように提案する場面がある。
- ^ 第6集第37話、馬で外出した際の盛頼と新九郎の会話。
- ^ 第8集第45話、伊勢宗家の前当主・貞親の死去で急ぎ上洛し伊勢一門が大勢集まる中で何らかの利益を得ようとする盛頼と、49日の法要に間に合えば良いと考えている新九郎が荏原で立ち話をするところで、農民の子供からそのように呼ばれる場面がある。
- ^ 第7集第38話、弦姫の盛頼への輿入れの描写で盛頼には京に正室と長男がいることが説明されている。
- ^ 第5集第25話、荏原政所で盛頼が珠厳を追求する場面がある。
- ^ 第5集第25話、珠龍の兄で西荏原の領主名代である盛頼がそのように宣言している。
- ^ 第6集第35話では、登場人物に珠徹が名前付きで直接描かれていないが、祝宴に招待客が次々到着するシーンで「祥雲寺従持・珠徹」の名前が出ていること、また祝宴の最中に新九郎が僧侶から叔父らしき会話を話しかけられる場面が描かれており、立場上これが珠徹と考えられる。
- ^ 本作品中では描写されていないが、この他に越後国頸城郡松山保(現在の新潟県十日町市松之山)など他にも所領があったと考えられる。なおこの越後国の所領は後に越後長尾氏に横領されている。
- ^ 第8集第45話、法要の席で、2年前の盛定隠居に伴う新九郎による相続の際に新九郎は挨拶にも来なかったと盛富(肥前入道)は盛定、新九郎を叱りつけた。だが、貞宗によると過去の政変で盛定の近親という理由で連座させられるのではないかと冷や冷やさせられた意趣返しとのこと。
- ^ アニメ一休さんでは少年の一休に対し親元の父新右衛門親当(ちかまさ)は室町幕府の寺社奉行職を務める大人として登場するが、実際は親当は一休宗純より年下で、交流はあったがアニメのような関係ではなく一休が壮年になってからの連歌の弟子としての関係であった。
- ^ 第7集第40話
- ^ 第2集第8話、この当時(生前)備前守家の惣領・嫡子であった八郎に、荏原から上京した荒川と在竹が旅の途中、西軍に加勢すべく瀬戸内海を移動する大内周防介の大船団を目撃したことを報告している。
- ^ 第4集第22話、荏原に馴染むため散歩をしていた新九郎と大道寺太郎が、畑を耕している在竹三郎を見つけた時の会話で三郎がそのように語っている。
- ^ 第7集第44話、新九郎が「蛇の道」を用いて伯父で西軍の伊勢貞藤邸に潜り込んだ際に荒木彦次郎はその警護として同行し、その帰り道に西軍の足軽に襲撃され彦次郎は主君・新九郎を守るべく奮戦し、多米権兵衛たちの支援もあり難局から切り抜けたが、多米権兵衛からは彦次郎の戦い方が適切で無いと指摘を受けた。
- ^ 第4集第20話で、行方がわからなくなった新九郎と駒若丸を探す家人達の会話で「駒若は父がこちら(荏原)の出だが本人は山城から出たことも無いのだぞ」との台詞がある。
- ^ 第6集第37話。
- ^ 第4集第19話の荒川又次郎の台詞で平井が志摩利荘から引きあげたことが説明されている。
- ^ 第7集第43、44話
- ^ 元服した新九郎と始めて対面した際は、「右近衛大将 源義政」と本姓を名乗っている。
- ^ 第1集第3話の伊勢宗家邸の矢場での貞親と千代丸(新九郎)の会話。
- ^ 第1集第3話の伊勢宗家邸の矢場での貞親と千代丸(新九郎)の会話。
- ^ 第8集第47話、畠山政長が貞宗を訪ね、新九郎を交えて御所(義政)が将軍位を春王に譲る式典のため政長が細川勝元辞任後に空位だった管領職に就任することを話している。また第8集第49話冒頭で義尚の将軍就任が描かれている。
- ^ 滋賀県大津市田上地区の記録にも「応仁2年(1468年)足利義視の軍勢が田上の里を焼き払う」とある。
- ^ 足利義尚の幼名は不詳のため、同時代を描いた大河ドラマ『花の乱』の設定を借用した[5]。
- ^ 第8集第49話、冒頭で義尚の将軍就任が描かれている。
- ^ 第7集第41話。
- ^ 平安時代末期の足利宗家・足利義兼の庶兄・足利義清の子孫が、鎌倉時代に承久の乱の恩賞として宗家・足利義氏が三河国守護を賜った際、一族として三河国に移住、足利義季は三河国細川郷(現在の岡崎市細川町)に住み細川義季を名乗るようになった。なお義季の兄の足利実国は隣の仁木郷(現在の岡崎市仁木町)に住み仁木実国を名乗り、義氏の庶長子・足利長氏は吉良郷(現在の西尾市)の住み吉良長氏を名乗り(今川家は後に吉良家から分家)、いずれも三河国に在国する足利宗家の被官となった。
- ^ 第8集第45話、細川勝元が新九郎と亡くなった山名宗全について語る中で、宗全に鯉料理を振る舞った、と語っている。第1集第5話で勝元が袖をたくし上げた姿で宗全の前に登場した際のことと思われる。史実では細川勝元が鯉を自ら料理したか不明だが、口にした鯉を「これは淀川の鯉ではない」と言い当て好んで食したことは記録に残っており、また後年、分家で細川和泉上守護家の細川藤孝(幽斎)は自ら包丁で鯉をさばき料理したという。
- ^ 第7集第42話で、勝元を訪ねてきた新九郎に勝元が茶の湯を立てている。
- ^ 第8集第45話で、勝元を訪ねてきた新九郎の前で勝元が生薬を粉砕する薬研(やげん)を用いて薬の調合をしているところが描かれている。
- ^ 第1集第5話、千代丸(新九郎)が伊勢家からの使い走りとして細川京兆家を訪ね、勝元から貞宗宛の書状を託された時、勝元は家臣から嫡子誕生を知らされ、普段笑わない勝元が千代丸の前で笑顔を見せた。
- ^ 第5集第29話、聡明丸、将来の政元は、女嫌いのため子供の頃に細川家の女房たちから構われるのを嫌い、また元服してからは妻帯せず修験道にのめり込む、ということになる。
- ^ 第8集第45話の扉ページでの細川聡明丸の人物紹介で、「のちに管領となり幕府や新九郎を振り回す」とある。
- ^ 第6集33話、庄元資を仕切り屋でリーダーシップが強い人間に描いている。史実でも後年、細川京張家と細川備中守護家が対立した際には庄元資は細川京兆家の意を受け備中国の国人たちを糾合し(おそらく備中伊勢家などにも自分の軍への参陣要請を出し)、備中国守護の細川勝久と合戦に及ぶほどアクが強い人物である(→細川勝久#備中大合戦を参照)。
- ^ 第1集第4話、5話。伊勢宗家と細川京兆家の間の使い走りをしていた元服前の千代丸(新九郎)は、勝元が伊勢家からの書状の返信などを書く間、宗全の娘(養女)で勝元正室の亜々子の話し相手を任されていたが、宗全が酒宴のため細川邸を訪ね亜々子に面会した際、その場にいた千代丸は宗全から「碁は打てるかな?」と持ちかけられ囲碁の対戦をすることとなった。
- ^ 第7集第42話、43話。西軍・伊勢貞藤邸を訪ねた新九郎が、以前の囲碁の勝負が付いていない、と再戦を希望し、宗全は承諾した。
- ^ 第8集第42話、43話。宗全に直接会って話すことで応仁の乱終結の糸口を見出したい新九郎は、西軍に属する伯父・伊勢貞藤を介し宗全に囲碁の対戦をしたい旨を申し出、宗全もそれを承諾し新九郎は山名邸を訪問するが、宗全は中風で介護が必要な状態となっていた。
- ^ 第2集第10話「蜷川新右衛門の室町コラム(5)」で「今川家の五郎のインフレ」について説明されている。
- ^ 第51話、今川義忠と小鹿範満の会話で義忠が「遠江を取り戻さねば父祖らに申し訳が立たぬ」と述べている。
- ^ 第一子の女児は第4集第18話で新九郎の義母須磨が新九郎の鎧を新調せずに八郎の形見の鎧を用いる理由を伊都に女児が誕生した祝いで物入りのためと説明している。また嫡子・龍王丸の誕生は第8集第46、47話で描かれている。
- ^ 第8集第48話、義忠の新九郎の訪問を歓迎する宴席での台詞で「(義忠の父と範満の父が争った)その因果か知らぬが、俺が西へ行きたいと言えば(範満は)東に行けと申す」と言っている。
- ^ 第52話、今川家宿老の福島氏が小鹿範満を推し、また龍王丸派の朝比奈丹波守の縁者で義忠小姓の多慶丸が範満に切りかかったところ範満の家人に成敗されるなど、騒動が拡大していくところが描かれている。
- ^ 第2集第12話。その後伊都は義忠に正室として嫁ぐことになる。
- ^ 第52話、駿府に戻った宗長が伊都に義忠戦死の状況を説明している。
- ^ 義忠は「というのはタテマエで、実はあの娘を一目見た時からすっかり惚れてしまったのだ」とオチを付け、朝比奈らは納得した。
- ^ 第1集第1話、伊勢宗家の内輪の酒宴で貞親が貞宗や盛定、貞藤らにそのようにを話している。
- ^ 第2集第12話で義政が古河の左兵衛督(古河公方)と幕府の和睦に取り組もうとした義廉に激怒している。
- ^ 第2集第9話、畠山政長と伊勢貞宗は旧知の間柄として描かれている。実際年齢も2歳違いで非常に近い。
- ^ 第4集第21話、荒川又次郎の新九郎への説明で語られている。
- ^ 第4集第22話、珠厳と盛頼の会話で珠厳が資氏の思惑を推測している。
- ^ 第5集第26話、狩での弦姫と新九郎の会話。
- ^ 第7集第38話、盛頼に輿入りした弦姫の会話。
- ^ 第5集第26話、在竹三郎と家臣達との会話。
- ^ 第4集第22、23話、新九郎は那須家の先祖が源頼朝公から賜ったという下し文を見たがっていたが、弦姫は新九郎が勝負に勝ったらこれを見せる条件で新九郎を流鏑馬の勝負に誘った。おそらく弦姫は勝負に必ず勝ち下し文を見せるつもりは無かったと思われるが(下文が本当に存在するかも不明)、弦姫の予想に反し新九郎が最初の2射を外すも健闘し、弦姫の勝ちとなるが弦姫は新九郎の勝負に対する姿勢とその人柄を評価することとなった。
- ^ 第7集第38話、掃部助家の盛頼と、輿入れした弦姫の会話でこの経緯が語られている。
- ^ 第6集第36話、第37話。古河城を包囲し陥落寸前まで追い込んでおきながら古河公方・足利成氏(古河殿)が夜陰にまぎれ舟で脱出し千葉氏のもとへ逃れるのを許し、そのうえ古河城を陥落させずに撤兵する決定を下したことに対し、太田資長、長尾景春が総大将の景信に対し異議を唱えている。
- ^ 第8集第46話、亡くなった景信のもとへ鎧姿のまま駆けつけた嫡子・景春に、景信の弟・忠景(景春の叔父)が注意を促す言葉を述べ、後の確執の前振りが描かれている。
- ^ この時代の通常の相続では父の死に際し嫡子が幼少などでない限り嫡子が相続するが、嫡子が幼少または死去でいない場合などは庶子や弟が継ぐ場合もあった。
- ^ 第6集第34話、局地戦で連戦連勝し古河公方を追い込んでいた景春が、誇らしげに「敵は総崩れぞ、江戸勢(太田資長)の応援は無用と伝えろ」と語り、もともと太田資長が関東管領軍で頼りにされていた存在であることが解かる。
- ^ 例えば、京から伊豆入りした堀越公方はそのナンバーツーに「執事」を従えており、堀越公方が正式な鎌倉公方として鎌倉入りする際には関東管領・上杉氏と堀越公方執事どちらが本当の鎌倉府ナンバーツーかといったことが未決で混乱を起こす要因となり得た。実際、堀越公方執事・渋川義鏡は上杉氏と争い失脚している。
- ^ 第8集第49話、今川義忠の新九郎への堀越公方の実情の説明。
- ^ 幕府管領職に就任出来るのは足利一門の三家、細川家、斯波家、畠山家の当主のみだが、細川勝元死去後の細川家は当主がまだ9歳の細川聡明丸で将軍の補佐には役不足、斯波家と畠山家は応仁の乱の原因ともなった両家の家督争いが続いており、三家はいずれも管領の職務を出来る状況ではなく、それもあって日野勝光は管領職には就かずに職務を代行した。幕府政所執事の伊勢貞宗も新将軍・足利義尚の傅役であり立場的には日野勝光に近かったが、余計な権力争いに関与した父・伊勢貞親の二の舞になるのを避けたいとのことで管領の役割に関与することはなく、日野勝光による管領職務の補佐に留まった。
出典
- ^ a b “月スピでゆうきまさみが戦国時代描く新連載、次号「あげくの果てのカノン」完結”. コミックナタリー (2018年1月29日). 2018年8月9日閲覧。
- ^ a b “新九郎、奔る!:ゆうきまさみの新連載は歴史マンガ 「月刊!スピリッツ」で伊勢新九郎を描く”. MANTANWEB (2017年12月27日). 2018年8月9日閲覧。
- ^ “今週の新刊:「究極超人あ~る」31年ぶりの新刊 話題の「名探偵コナン ゼロの日常」も”. MANTANWEB (2018年8月5日). 2018年8月9日閲覧。
- ^ “井原市の文化財 法泉寺文書 附 伊勢盛時禁制札”. 2021年8月9日閲覧。
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- ^ “自然と歴史と文化のまち 上田上”. 2021年5月23日閲覧。
- ^ “新九郎、奔る! 第1集”. ビッグコミックブロス. 小学館. 2020年2月12日閲覧。
- ^ “新九郎、奔る! 第2集”. ビッグコミックブロス. 小学館. 2020年2月12日閲覧。
- ^ “新九郎、奔る! 第3集”. ビッグコミックブロス. 小学館. 2020年2月12日閲覧。
- ^ “新九郎、奔る! 第4集”. ビッグコミックブロス. 小学館. 2020年6月19日閲覧。
- ^ “新九郎、奔る! 第5集”. ビッグコミックブロス. 小学館. 2020年10月12日閲覧。
- ^ “新九郎、奔る! 第6集”. ビッグコミックブロス. 小学館. 2020年12月11日閲覧。
- ^ “新九郎、奔る! 第7集”. ビッグコミックブロス. 小学館. 2021年5月12日閲覧。
- ^ “新九郎、奔る! 第8集”. ビッグコミックブロス. 小学館. 2021年9月10日閲覧。