松田直樹
松田 直樹(まつだ なおき、1977年3月14日 - )は、群馬県桐生市出身のサッカー選手でポジションはDF(CB)。身長1m83cm、体重78kg。
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名前 | ||||||
愛称 | マツ | |||||
カタカナ | マツダ ナオキ | |||||
ラテン文字 | MATSUDA Naoki | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1977年3月14日 | |||||
出身地 | 群馬県桐生市 | |||||
身長 | 183cm | |||||
体重 | 78kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 横浜F・マリノス | |||||
ポジション | DF | |||||
背番号 | 3 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ルーキーシーズンであった1995年にはいきなり開幕スタメンに抜擢。その翌年のアトランタオリンピックのメンバーに選出される。4年後のシドニーオリンピックにも選出され、数少ない2大会連続出場選手となっている。
トルシエジャパン時代はフラット3と呼ばれる3バックの右サイドで不動のレギュラーであり、2002年の日韓W杯ではベスト16入りに貢献した。ジーコジャパンになってからも当初は代表に呼ばれていたが、2005年3月30日のドイツW杯アジア最終予選バーレーン戦以降、代表には呼ばれていない。しかし、ジーコ監督時代は代表の守備陣で180cm以上の選手が少なく(スタメンは中澤佑二のみ)、高さとフィジカル、経験という点で国際試合で心配だという声もあり、日本代表復帰を望む声も根強かった。また、中田英寿と幼い頃から共に日本代表でプレーし、中田の数少ない理解者であり「ヒデを殴れるのは俺だけ」と松田は語っている(「その松田を殴れるのは俺だけ」とチームメイトの栗原勇蔵が語ってもいる)。2002年W杯のドキュメンタリー『6月の勝利の歌を忘れない』においても、二人の仲の良さが現れている(松田が中田コールをして、みんなでプールに落とすなど)。そのためか、今回のドイツW杯代表に松田を招集するように中田がジーコに直談判したという噂もある。もちろんDFとしての実力を買ってということもあるだろう。同じようにマリノスでチームメイトである中澤も松田の代表招集を要求していたといわれるが、ジーコに再召集されることはなかった。
プレースタイル
183cmの体躯と類稀なる運動神経を持ち、フィジカルが強く、海外の選手にも当たり負けしない。時折見せる攻撃参加にも定評があり、コーナーキックではヘディングで得点も奪う。
しかし、もともと攻撃型のプレイヤーなので、一度前線に出て行くと最終ラインになかなか戻ってこないことが欠点として挙げられる。2005年ナビスコカップ準々決勝第2戦・対大宮アルディージャ戦では、マリノスの岡田監督からハーフタイムに「お前のポジションはどこなんだ」と説教された(ちなみに、この試合では決勝点となる1得点を挙げている)。
最近では大人になり、岡田監督にも「今の松田なら大丈夫だ」と信頼されているものの、マリノスサポーターからは『松田は前に上がって行く選手』と認識されている。
一方、ジーコジャパンでは初期の怪我による離脱以来長い間控えに甘んじ、同じポジションであった田中誠がスタメン落ちしたときでも使われなかった(+自分の子供が生まれたために帰国した)ことで無断離脱するなど、精神面での課題も指摘される(以前にも韓国から無断で帰国し、一時トルシエと衝突した事がある。それでも、トルシエは松田の実力を認めて召集した)。
「出さなきゃ殺すというオーラがある」(トルシエ)、「マツさんは『なんだテメー』って言いながら上がってく」(稲本潤一)といわれているように熱いプレーが特徴。
エピソード
- いつも嫁さんに髪を切ってもらっている。
- 失敗すると坊主頭になるらしい。
- 昔キャプテンマークに憧れていた。練習後に内緒でキャプテンマークをつけていたのを監督に見つかり怒られた。しかし、見かねたスタッフが急遽ガムテープでキャプテンマークを作ってあげた。2006年、念願のキャプテン就任。
- 2003年ナビスコ杯磐田戦で言い放った「やるよ、やっちゃうよ」は後世に語り継がれる名文句となった。
経歴
Jリーグ通算成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||||
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J・J1 | J2 | ||||||||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1995年 | 横浜マ | J | - | - | - | ||||||
1996年 | 横浜マ | J | - | - | |||||||
1997年 | 横浜マ | J | 14 | - | |||||||
1998年 | 横浜マ | J | 14 | 12 | 0 | - | |||||
1999年 | 横浜Fマ | J1 | 3 | 27 | 0 | - | |||||
2000年 | 横浜Fマ | J1 | 3 | 24 | 2 | - | |||||
2001年 | 横浜Fマ | J1 | 3 | 29 | 0 | - | |||||
2002年 | 横浜Fマ | J1 | 3 | 25 | 2 | - | |||||
2003年 | 横浜Fマ | J1 | 3 | 20 | 0 | - | |||||
2004年 | 横浜Fマ | J1 | 3 | 24 | 1 | - | |||||
2005年 | 横浜Fマ | J1 | 3 | 27 | 1 | - | |||||
2006年 | 横浜Fマ | J1 | 3 | - | |||||||
通算 | 268 | 9 | - |
タイトル
代表歴
- 1995年 世界ユース出場
- 1996年 アトランタオリンピック出場
- 2000年 シドニーオリンピック出場
- 2002年 日韓ワールドカップ出場
A代表歴
年 | 出場試合数 | 得点 |
---|---|---|
2000年 | 14 | 0 |
2001年 | 10 | 0 |
2002年 | 12 | 0 |
2003年 | 0 | 0 |
2004年 | 3 | 0 |
2005年 | 1 | 1 |