小原流
概要
1895年(明治28年)に池坊の門弟であった小原雲心(おはらうんしん)によって創始された(流のはじまりには諸説あるが、当欄では小原流により公式発表されている「雲心が盛花様式を考案した年」1895年を起点とする[1])。1910年(明治43年)大阪府立博物場で花会をして『小原式国風(こくふう)盛花』を名乗り事実上池坊から独立した。流派が世に知られることとなったのは、1912年(大正元年/明治45年)、第1回小原式国風盛花展を大阪・三越において開いたことに始まる。雲心が生み出した盛花(もりばな)は口の広い水盤に、剣山を置き、花を盛るようにいけるもので、これにより、従来の線的な表現のみならず、面を活かした多様な表現が可能となった。当時の伝統的ないけばな界の人々からは雲心独流、雲心流と風評され認められず、床の間に盛花をいけるのは長襦袢で人前にでるようなものであると辛辣な評価をするものもあった[2]。しかし、伝統的ないけばな界が受け入れなかった洋花を取り入れたり、雲心の盛花は日本の洋風化した生活には適し大衆には急速に受け入れられることとなる。1916年(大正5年)正式に小原流と名乗る[3]。小原雲心の跡を継いだ長男の二世家元小原光雲(おはらこううん)はデパートなど、あらゆる会場を使って展覧会を開き、当時の一般大衆に小原流いけばなを浸透させることに努めた[4]。また、伝統的いけばな界では個人対象に伝授する方法がとられていたが、集団的教授をする方法を取り入れ効率化をすすめ、男性が独占していた教授職を女性にも開放し近代化した。商人を志していたこともある光雲[5]は、経営の才覚に優れ、「いけばなはソロバンなり」との名言を残した[6]。現在、一般財団法人小原流の形態をとり、日本全国に146支部、国外に64支部を有する。