京の大仏
京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏(毘盧遮那仏像)。当時(桃山時代・江戸時代)は単に大仏、もしくは新大仏(東大寺大仏に対して)、京の大仏、東山大仏、京東大仏、洛東大仏、方広寺大仏(方広寺の呼称は江戸時代中期以降)などと呼称されていた。現代では京都大仏とも呼ばれる。




豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。そのため江戸時代には(3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは)日本三大大仏の一つに数えられた[3]。3代目大仏の焼失後に規模が縮小されつつも再建された、江戸時代後期に造立の4代目大仏は、昭和48年(1973年)まで存続していたが、失火により焼失し、ついに方広寺大仏は京都から姿を消した。
豊臣家との開戦の口実作りのため、徳川家康により方広寺の鐘銘が槍玉に挙げられ(方広寺鐘銘事件)、また造立のたびに、
地震(文禄5年(1596年)の慶長伏見地震、寛文2年(1662年)の寛文近江・若狭地震)
火事(寛政10年(1798年)の落雷による火災、昭和48年(1973年)の失火による火災)
の被害に見舞われ、損壊(滅失)を繰り返したことから、「悲劇の大仏」として紹介されることもある。日本では恐ろしいもののたとえとして、地震・雷・火事・親父を挙げられることがあるが、京都ではかつてその全ての災難を受けた存在として、京の大仏が引き合いに出されることもあったという[4](ここでの「親父」は、方広寺鐘銘事件を引き起こし、「狸親父」と渾名された徳川家康を指す[4])。
本項では、大仏を主題に、大仏殿(方広寺大仏殿)についても述べる。「方広寺」の記事も参照のこと。
なお先述のように、「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れない[5][6]。方広寺命名の経緯・時期は不明だが、経典(大方広経)もしくは方広会から採ったといわれ[6]、またそれらにかこつけて豊臣秀吉の尊称「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。
大仏の造営とその後の顛末(通史)
秀吉による造営と滅失 (初代大仏・初代大仏殿)
豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願[8]。当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で[9]、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止され、遣迎院の移転も途中で中止された(遣迎院は南北に分立されてしまった)。のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開した[10]。佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転させられた。秀吉は大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた[11][12]。大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五条大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。
小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。秀吉によって造立された初代大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという(愚子見記)。また、刀狩で没収した武器を再利用して釘にしたものも使われた。なお、造営期間短縮のため(既に50代になっていた秀吉が、自身の生前に落慶を間に合わせるためか)、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造乾漆造り(木造で躯体を作り,漆喰で固めた上,さらに漆を塗って金箔を貼る)で造られた(太閤記)[12]。初代大仏の造立には、仏師の宗貞・宗印兄弟が製作に当たったという[13][14]。彼らが製作に当たった他の仏像には、同じく豊臣秀吉が造立に関与した金峯山寺蔵王堂の木造蔵王権現立像3躯がある[14]。並立する3躯のうち、中央の像は最も高さがあり約7mもあるが、彼らはこうした巨像の造立を得意としていたようである。また奈良の伝香寺には宗貞の作の釈迦如来座像が安置されるが、それは方広寺大仏の試みの仏像との伝承がある。
初代大仏殿は南北45間(約88m)、東西27間(約55m)の規模であろうと考えられている。これは大仏殿跡の発掘調査の結果、後述の秀頼再建の2代目大仏殿は創建時の礎石をそのまま使用しているとみられ柱位置は同じと思われること、『愚子見記』に再建大仏殿の規模について、上記寸法が記載されていることによる。初代大仏殿は資料が少なく建物構造などの全貌の把握が困難であるが[注釈 1]、建築史学者の黒田龍二監修の下、大林組が広報誌「季刊大林」にて、各種文献史料・考古学的知見・建築学的知見から復原案を提示している(『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』)。また絵図資料として、慶長11年(1606年)作とされる豊臣家御用絵師の狩野内膳による『豊国祭礼図屏風』がある。この屏風には方広寺大仏殿が描かれているが、現存する後述の2代目大仏殿指図(設計図)や大仏殿を描いた江戸期の他の絵図と、破風の形状が異なっている。方広寺大仏殿には観相窓(堂外から大仏を拝顔できるようにする窓)があり、その上部に破風があるのが特徴であるが、他の絵図では唐破風なのに対し、本屏風では切り上げ破風となっている。これについて絵師のミスでなければ、本屏風は初代大仏殿の造形を描いたものであり、初代大仏殿と2代目大仏殿は細部意匠が異なっていたのだろうとされている[15][16]。なお東寺の金堂は、方広寺初代大仏殿を模して造立されたとの伝承がある[17]。東寺の金堂は豊臣秀頼の寄進で造立されたものであるが、『豊国祭礼図屏風』で描かれた大仏殿の外観と東寺金堂の外観は極めて類似している。豊臣秀頼は生前に100程の寺社に建造物の寄進を行ったとされるが[18]、指図(設計図)の流用があったのかもしれない。東寺金堂の観相窓の高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用の代物になってしまっているという [17]。ただし明かり取り窓としては機能しているという [17]。これは本来この建物のデザインは、大仏を安置するために意匠されたもので、丈六の薬師如来像を安置するために意匠されたものではない(東寺のために意匠されたものではない)ためとされている[19]。
文禄4年(1595年)9月25日には、秀吉自身の亡父母や先祖の菩提を弔うため寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行った[20]。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗(一向宗)の僧が出仕を要請された(日蓮宗不受不施派は出仕を拒否した[21])。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院に残る。当時の敷地は広大なもので、妙法院はもとより、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重要文化財)や南大門(重要文化財・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。なお、東寺の南大門(重要文化財)は方広寺西門(境内に組み込まれていた三十三間堂の西門も兼ねる)として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである[22]。
文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の初代大仏は損壊した[23][20]。醍醐寺座主の義演が著した『義演准后日記』によると、大仏の胸が崩れ、左手が落ち、全身にひび割れが入ったという[23][24]。ただし大仏の光背は無傷で残ったという[25]。工期短縮のために銅製ではなく、木造としたことが裏目に出た。秀吉は憤り、『義演准后日記』には「本尊御覧、早々崩しかえしのよし仰す (秀吉公が(損壊した)大仏を御覧になり、早く取り壊せと命じた)[26]」と、宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた[27]」と記録されている。また一説には、秀吉は怒りのあまり、大仏の眉間に矢を放ったと伝わる。このような態度を取った原因について、秀吉は大仏を信仰の対象としてではなく、自らの権力を誇示するための道具としか見なしていなかったためとする説もある[28]。なお初代大仏殿は地震による損壊を免れた[25][20]。秀吉は、夢のお告げと称して、損壊した大仏に代わり、由緒ある信濃善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)(善光寺如来は大名の意向で各地を流転し、当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎え、開眼法要を行うことを計画[24]。木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された(義演准后日記)。善光寺如来は、大仏を取り壊した台座の上に宝塔(厨子のようなものか?)が造られ、そこに安置されたという[29]。無傷であった光背もそのまま残されていたという[29]。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(義演准后日記)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった[30]。ただ巨大な大仏殿に小ぶりな善光寺如来は不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという[24]。秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国の善光寺へ戻されることとなった[24]。しかし秀吉は8月18日に死去した。秀吉の死は外部に伏せられ、8月22日には本尊の無い大仏殿で、大仏殿の完成を祝う大仏堂供養が行われた[31]。
秀吉の子豊臣秀頼が遺志を継ぐ形で、豊臣家家臣の片桐且元を担当者として今度は耐震性のある銅製で大仏の再建を行ったが、慶長7年(1602年)11月、鋳物師(いも-じ)の過失により大仏の膝上部の鋳造を行っている際に出火し、大仏殿に引火して大火となる[32]。これにより初代大仏のみならず初代大仏殿も滅失し、大仏・大仏殿の造立は振り出しに戻った。通常銅造の大仏と大仏殿を造立する場合、まず大仏を完成させた後に、大仏殿を築くものだか、この工事の際は大仏殿は既にあったので、既設の大仏殿の内部で大仏の鋳造工事を行っていたようである(鹿苑日録)。木造建築物の内部で鋳造工事を行うのは危険極まりない行為であり、起こるべくして起きた事故とも言える。醍醐寺座主の義演が著した『義演准后日記』には、「日本六十余州の山木、ただ三時のあいだに相果ておわんぬ。太閤数年の御労功ほどなく滅しおわんぬ。(柱材は日本各地から取り寄せたが、わずか6時間で焼失した。秀吉公の数年の苦労も水の泡となった)」と記録されている。また日記の中で義演は、そもそもこのような事態になったのは、初めから耐震性のある銅造で大仏を造立しなかったためだと批判している[32]。なお『義演准后日記』によれば、この時の未完成の大仏は東大寺大仏のように全身純銅造でなく、頭部と腕は木造とした、銅造と木造の混構造で造立される予定であったという[33]。
秀頼による造営から寛文2年(1662年)の損壊まで(2代目大仏・2代目大仏殿)
慶長13年(1608年)10月には徳川家康の勧めもあり、豊臣秀頼により再び銅製大仏および大仏殿の再建が企図された[32]。住友財閥の業祖とされる蘇我理右衛門は「南蛮吹き」という金銀の精錬技術を確立したことで知られるが、銅山経営や銅貿易も行っており、彼が大仏や梵鐘に使用する銅材の納入に大きく貢献したとされる。大仏殿の創建は慶長15年(1610年)から行われた。徳川家康も諸大名に負担その他を命じ、自身も米の供与を行い、大仏に貼られる金の板金は江戸で鋳造されている(当代記)[34]。また大工・中井正清を派遣している。2代目大仏殿の指図(設計図)が中井家に伝来しており、発掘調査の成果等も合わせて、(初代大仏殿と異なり)2代目大仏殿はおおよその全貌の把握が可能である。また中井家の配下として活躍した平政隆が著した『愚子見記』にも2代目大仏及び大仏殿についての記述があり、2代目大仏の模式図も掲載されている[35]。なお江戸中期の作と思われる『京都大仏殿絵図(東京国立博物館所蔵)』にも2代目大仏殿及び仁王門の断面図・立面図が記録されている[注釈 2]。
2代目大仏殿と銅造の2代目大仏は慶長17年(1612年)に完成した。2代目大仏は銅造であるとするのが定説であるが、東大寺大仏のように全身純銅造であったのか、もしくは事故で未完成のまま焼失した従前の大仏の計画のように、銅造と木造の混構造であったのかは定かでない[36]。2代目大仏殿の平面規模については、現存する指図(設計図)や『愚子見記』の記述によれば南北45間(約88m)・東西27間(約55m)・柱92本とされる。上記寸法は発掘調査による考古学的見地からも正しいと見なされているが、現在の奈良東大寺の大仏殿(約57m×約55m)を凌ぐ平面規模であった[6]。
慶長19年(1614年)4月には、梵鐘も完成し、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ、落慶法要を行おうとしたところ、7月に徳川家康より梵鐘の銘文について「不吉な語句がある」との異議が唱えられ、法要中止の求めがあった[37]。これが、豊臣家と徳川の争いに発展し、両大坂の陣を経て豊臣家の滅亡に繋がる、世に言う「方広寺鐘銘事件」である。大坂の陣の後も方広寺は残されたが、方広寺境内に組み込まれていた三十三間堂共々、妙法院の管理下に置かれた[38]。妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)の妙法院門主常胤法親王の代からで、これは大坂の陣で豊臣氏が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である。三十三間堂については、現代に至るまで妙法院の所属(飛び地)となっている。なお「国家安康」の鐘について、江戸時代においては懲罰的措置として、鐘楼を撤去の上、地面に置かれ鳴らないようにされていたとの俗説があるが[39]、それは誤りである。方広寺大仏殿は四方を回廊に囲まれていたが、鐘楼は南側の回廊外(現在の京都国立博物館 の噴水の近辺)にあった。このことは名所図会や[40]、花洛一覧図などの江戸時代の方広寺境内を描いた絵図からも確認できる。「国家安康」の鐘が地面に置かれていたのは、明治時代の前半期のみで、これは明治新政府の廃仏毀釈の政策(恭明宮造立の為とも)により方広寺寺領の大半が没収され[22]、没収地にあった鐘楼が取り壊され[22]、残った方広寺寺領に鐘が移設された為である。その後しばらくは地面に置かれ、雨ざらしとなっていたが、明治17年(1884年)に鐘楼が再建され[41]、今日に至っている。
大坂の陣ののち、しばらく2代目大仏は何事もなく平穏に存立し続けていたが、寛文2年(1662年)に地震が方広寺を襲う。5月1日(新暦では6月16日)に寛文近江・若狭地震が発生し、京都全域に大きな被害をもたらしたが、この地震で2代目大仏が損壊したとするのが通説である[28]。2代目大仏から3代目大仏への建て替えの経緯については、何があったのかの記録史料が非常に混乱、錯綜しており、不明確な点が多い。大仏の損傷の程度について記した史料には、地震が原因とは明言していないが、以下がある。江戸の牢屋奉行で国学者でもある石出帯刀(常軒)は、地震から約2年後の寛文4年(1664年)3月に京都を訪問した折の日記に「仏は古はてて御くし落けに侍りけれは、あらためつくられけるか、新仏はいまた出来す、只堂のみ有」と記し、方広寺大仏は頭部が落下したので、建て替えられることになったとする(所歴日記)[42]。浅井了意が著したとされる読み物『出来斎京土産』(主人公出来斎が京都の寺社、名所を巡る名所記)では「寛文の年にあたりて、仏の肩やぶれ裂けたりければ、是を補修すべき事はかなふまじき旨、鋳師仏工皆申すによって古仏は取りのけ、木像に作らせらる」という記述があり、大仏の肩から亀裂が入り、仏師が修復できないと回答をするほどの損傷であったので、建て替えられることになったとする[43]。上述のように(損壊の部位や程度は諸説あるが)大仏は破損したため、取り壊しの上で、新しく木造で造り直されることになった(3代目大仏)[28]。
浅井了意が著したとされる寛文近江・若狭地震のルポルタージュ的な書物(仮名草子)である『かなめいし』には、当該地震の際の方広寺の様子が描写されているが、それは以下の通りである。なお『かなめいし』は読み物として出版された書物であり、売上を伸ばすため実話に潤色した部分が多々あることが指摘されており、その点は留意が必要である[44]。「当時、方広寺大仏及び大仏殿の工事が行われており、労働者達は大仏の頭部を取り外して、大仏の銅製の躯体を玄翁・金床をもってかち砕き、打ち壊していた。その際に地震の揺れが発生したため、労働者達は、大仏の罰が当たったものと考え、狼狽し、「我々は雇われて、監督者の命令で大仏の御体を打ち砕いているにすぎず、我々に非はない」として大仏に許しを請うた。彼らは大仏殿から逃げ出し(周囲の光景を見て)大仏の罰でなく地震であったと理解したという。(大仏殿修造并日用のもの、うろたへし事)[45]」。『かなめいし』の記述(描写)について、一般には大仏の修繕工事をしていた際に地震が発生した場面と解釈されるが[46]、工事内容について(曲解せず素直に原文を読むと労働者達が大仏を破壊していたようにしか読み取れないので)大仏の修繕ではなく破壊(取り壊し)をしていたとの見方もある。
先述のように2代目大仏は5月1日の寛文近江・若狭地震で損壊したというのが通説であるが、それ以前に大仏は既に何らかの理由で建て替えが決まっており、既存の大仏を取り壊す工事の最中に寛文近江・若狭地震が発生したとする異説もある。関東学院大学教授で仮名草子研究者の井上和人と、歴史学者で建築学者の丸山俊明は、上記の『かなめいし』で描かれている場面について、大仏建て替えのための、2代目大仏の取り壊し工事の場面であるとしている[43][47]。両氏の説では、『出来斎京土産』の「寛文の年にあたりて、仏の肩やぶれ裂けたりければ、是を補修すべき事はかなふまじき旨、鋳師仏工皆申すによって古仏は取りのけ、木像に作らせらる」という記述を、5日1日以前の事と考える。理由は定かではないが、経年劣化等で大仏に亀裂が入り、仏師達が修繕できないというので、木造で大仏を再建することが決まり、2代目大仏を取り壊している最中に、5月1日の寛文近江・若狭地震を迎えたとする。井上は方広寺大仏の解体工事を行ったことで、仏の罰として5月の寛文近江・若狭地震を招いたとする風説が、京都民衆の間で広まっていたことを指摘しており[48]、井上はその証左として『玉滴隠見』に「京都にて、彼大仏を崩して、銭に鋳させ候とて、町人どもに被仰付、入札に被成、其の落札の族、仏の金箔をこそげ落とし、御頭をば斧鉄を以て打ち砕く。其音地響して夥しかりつるか、若可様の義抔を、地神とがめたまひての事やらん」という記述があることを挙げている[48]。なお上記説の欠点としては、時の妙法院門主尭恕法親王の日記との不整合があり、日記によれば地震から2年後の寛文4年(1664年)3月29日に武家(京都所司代か?)より大仏を鋳造(銅造)から木造に改めるよう命令があったとされ、それにより大仏の木造での再建が決まったとする[49]。また「大仏殿修造并日用のもの、うろたへし事」の話自体の信憑性を疑問視し、5月1日段階で何らかの工事が方広寺で行われていたようではある[50]ことから、『かなめいし』の作者が「大仏の修繕工事中に地震が発生し、大仏の頭部が落下した」ないしは「大仏の頭部が落下したので、修繕工事を行っていた際に地震に遭遇した」事を潤色し、「工事のため大仏の頭部を人為的に取り外し、大仏躯体を打ち壊していた所に地震が発生し、労働者達が罰と勘違いして恐れおののいた」とドラマ仕立てな話に作り替えたとする見方もある。(補注:2代目大仏は銅造であるというのが定説であるが、先述のように全身純銅造か、頭部など一部を木造とした、銅造と木造の混構造であったかは定かではない[51]。仮に後者の混構造で頭部が木造の場合に、頭部と胴体は別構造であるので、大仏躯体内部の工事の為に、大仏の頭部を人為的に取り外すことはさほど難しいことではない。)
なお5月1日以前に2代目大仏に異常が生じていたことを示唆する史料には以下がある。『落穂雑談一言集』には寛文2年(1662年)3月24日に、方広寺大仏は地震のため七尺傾き、大仏の胎内に七寸角の材木を千本も立てて補修したとの記述がある。この記述について『大日本地震史料』では、3月に地震があったことを記録する史料は少ないので、5月1日の地震(寛文近江・若狭地震)と混同したものではないかとしている[52]。仮に上記の『落穂雑談一言集』の記述が正しいとすれば、あまり他の史料では記録されることのなかった規模の小さな地震で、2代目大仏に異常が生じたことになり、巨大さゆえ耐震性に問題があったことになる。なお郷土史家の田中緑紅は、「3月に大仏に傾きが生じ、補正工事を行った」事は正ではないかとしている[53]。
先述のように損壊の経緯や損壊の程度については諸説あるものの、2代目大仏は取り壊されることになった。それについて、豊臣氏の遺産である銅造の2代目大仏の存在を快く思わない江戸幕府が、修繕計画すら立てずに既存大仏の解体と木造での再建を決定し[54]、それが実行され、大仏躯体の銅材は亀戸銭座に運び込まれ、寛永通宝(文銭)鋳造の原料に用いられたのだという風説が大衆に流布した。「大仏躯体の銅材を銭貨にする」という案は知恵伊豆とも称される松平信綱の発案によるもので、上記案は通貨量の不足を解消するための公益上必要な措置であると時の将軍徳川家綱に建議し、それが了承され実行されたのだとも噂された[55][56](新寛永(文銭)項目も参照)。大仏躯体の銅材は現存していないので、何らかの形で再利用されたとも思われるが、真相は不明である。ただし上記風説のうち、「松平信綱の建議による」という話については、彼が寛文2年(1662年)3月に死去しているので真実とは考えにくい。経済学者・貨幣史研究者の三上隆三は、「大仏躯体の銅材を銭貨にした」話については、真実であるとしている[54]。ただし三上は、大仏躯体の銅材を貨幣鋳造の原料に再利用されたとしても、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかったとしており、寛永通宝(文銭)の原料は全て大仏躯体の銅材で賄われたとする風説は誤りとしている[57]。日本銀行金融研究所は上記風説の真偽について、寛永通宝(文銭)の原材料の化学的な成分分析の結果、2代目大仏の鋳造がなされた秀頼期のものとは原材料の産出地が異なるとして、「たとえ鋳銭の原料に大仏を用いたとしても、それは(生産された文銭全体の割合からみれば)ごく一部に過ぎなかったと判断できる」との結論を出している[58]。
「大仏躯体の銅材を銭貨にした」か否かについては諸説あり真偽は不明である。ただし真偽は別として、この風説は人々に広く知られており、文銭は大仏の化身であるとしてお守りとしても使用されたほか[59]、文銭を鋳潰して、仏像・仏具にすることも行われたという[57]。
なお「大仏躯体の銅材を銭貨にした」とされる行為は、後年に同様の政策が取られるにあたり、引き合いに出されることがあった。天保年間の水戸藩では、藩主の徳川斉昭が尊皇攘夷・廃仏毀釈の政策から、藩内の寺院に対し、金銅仏や梵鐘などの金属製の仏具を供出させ、それを海防のための大砲鋳造の原料に充てた。当然こうした政策に対し、仏教を冒涜(ぼうとく)しているとの批判が上がったが、徳川斉昭は「かつて江戸幕府が公益上の必要から、方広寺大仏を鋳潰して銭貨にした」ことを先例に挙げ、自身の政策も国防上必要なもので、やむを得ない政策であると弁明を行っている[60]。供出に応じた寺院には、水戸藩から代替となる木製の仏具が贈られたという。
先述のように損壊した2代目大仏は取り壊され、スクラップにされ外部へ搬出されたが、銅材スクラップの一部は、将来何らかの利用を想定してか、方広寺に残してあったようである。寛保3年(1743年)には上記銅材を利用して、仏像の鋳造が行われている[61]。現在、往時の大仏の遺物として、銅製の蓮座肉片が残されているが、上記の保存していた2代目大仏のスクラップ片が、今日まで伝世したとも考えられる(1798年に落雷で焼失した3代目大仏は木造であり、3代目大仏の遺物とは考えにくい為)。
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国家安康の梵鐘(重要文化財)とその銘文
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寛永通宝(文銭) 2代目大仏を鋳潰して鋳造されたとの風説から「大仏銭」「毀仏鋳銭」とも称される。
寛文年間の再建から寛政10年(1798年)の焼失まで(3代目大仏・2代目大仏殿)
先述のように損壊した2代目大仏にかわり、新しく3代目大仏が造立されることになった。時の妙法院門主尭恕法親王の日記によれば、寛文4年(1664年)3月29日に武家(京都所司代か?)より大仏を鋳造(銅造)から木造に改めるよう命令があり、同日夜に仏師康祐が訪問してきたという[49]。歴史地震研究者の西山昭仁は、2代目大仏が解体され、境外に運び出されたのは寛文4年(1664年)4月としている[50]。新しい木造の3代目大仏は寛文7年(1667年)に落慶した[28]。大仏再建時に、地震で損壊を免れた大仏殿の補修工事も行われた。妙法院が大仏再建の経緯を綴った『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』[注釈 3]によれば江戸幕府が大仏再建に関与し、京都所司代の牧野親成の指示のもと、仏師玄信が大仏再建にあたったという[28]。
再建された3代目大仏の高さは「都名所図会」によれば従前の大仏と同じく六丈三尺(約19m)で、東大寺大仏(14m)よりもかなり大きかった。3代目大仏造立にあたり先行して藤村忠円により作られたとされる大仏の雛形(京都大仏雛形)が現存しており、東京国立博物館が所蔵している。3代目大仏及び京都大仏雛形の造立の経緯については堺市博物館学芸員で仏像研究者の張洋一の考察がある[64]。3代目大仏は七条仏師が造立したことは確実とされる。誰が造立したかについては、仏師の系統を記した『本朝大仏師正統系図並末流』によれば康祐とされ、妙法院の公的見解である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』では玄信とされている[65]。このような相違が発生した理由について張の説では、玄信は康祐の配下であったとし、名義上の造立担当者は康祐であったが、実際の3代目大仏の製作は玄信に委任した為ではないかとしている[66]。「京都大仏雛形」については玄信の製作によるもので、弟子の藤村忠円に譲られ、伝世されるうちに藤村忠円作と誤認されたのではないかとする[66]。なお『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』によると、玄信は3代目大仏製作の前に試作の仏像を作ったとされているが、それは現在大徳寺の本尊となっている釈迦如来像とされる。『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』及び大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、現在大徳寺仏殿に安置されている本尊釈迦如来像は、玄信により試作品として製作された、方広寺3代目大仏を模した像で、大仏造立後に寄進されたものとする。『竜宝塔頭位次』では、玄信製作の釈迦如来像を、時の将軍徳川家綱より寄進されたとし、方広寺3代目大仏の1/10のサイズであるという[66]。なお後述のように現在の方広寺本尊は、3代目大仏の1/10サイズの模像とされるが、両者の像容は趣を異にしている。
康祐、玄信ら七条仏師が造立した3代目大仏の容姿について、彼らの持つ作風で造立したので、2代目大仏とは異なっていたという[67]。相国寺の僧侶鳳林承章は自著『隔蓂記』に3代目大仏を拝した感想を記しており、「世間風聞之通、最前之像與相違也(世間の風聞の通り、新しく造られた大仏は印象が異なっている)」としている[67]。このように大仏再建の際に、旧像の作風に倣わず、仏師達の持つ作風で造立してしまうケースは過去にもあった。方広寺大仏が造立される以前の京都には、高さ4丈(約12m)の雲居寺大仏があり、それは東大寺大仏と並び称されていた(応仁の乱で焼失してからは再建されていない)。永享8年(1436年)に火災で雲居寺大仏が焼失したので、時の室町幕府将軍足利義教は、大仏の再建を命じた[68]。永享12年(1440年)に大仏は一旦完成するも、足利義教は一目見るや否や「先規と異なるので不相応」とし、造り替えを命じたという[68]。先述のように方広寺3代目大仏は、先規に倣わず仏師達の持つ作風で造立してしまい、旧像と容姿が異なっていたが、雲居寺大仏のように発注者より造り替えを命じられることはなかった。
1690年から92年に来日したドイツ出身の医師エンゲルベルト・ケンペルは方広寺に立ち寄りそれを日記に記録する。内容は以下のとおりである。
大仏殿の周囲は、道に沿った高い場所で、一番前の広場は、高さに合わせて、ほとんど二間ばかり、四角の大きな石で方形に囲まれていた。また寺を取り巻いている回廊からは外は見えないが、内側は開いている。その屋根は約三間の高さで、どの側も長さいっぱいに二十五本の丸い柱と、横は全て三本ずつ並んだ柱で支えられている。入口の門は高い支柱と立派な二重屋根を持った建物である。その両側にある高さ一間の台座の上に、ただひらひらする布を腰に巻き付けた、黒く太った裸の、獅子のような姿をした身長四間もある勇士の立像 [金剛力士像] が見えた。それらの一つ一つにはそれぞれ特別な意味があるが、名匠は肢体の部分の釣合を大変上手く造り上げていた。この門のすぐ向かいの敷地の真ん中に寺の建物 [大仏殿] が立っていた。それは高さでは京都の町にある他の全ての建物をしのいでいたし、それだけでなく私がこれまでに日本中で見た最高のものであった。この建物には二重の屋根があり、92本の柱を用いて建てられている。第一の屋根の下まで続いている細長い幾つかの扉があって、ほとんどどこからでも出入りできる。内部は一番上の屋根の所まで吹抜になっていて、その屋根はたくさんの梁を変わったやり方で繋ぎ合わせて固定してあり、梁は朱色に塗ってあった。高くて上の方は光が差さないので、ほとんど真っ暗である。寺の床は、これまでの普通の方法とは異なって、四角形の石が敷き詰めてあったが、支柱 [金剛柵] はこれに反して木製で、何本かの角材を寄せ合わせ、太さは二間半あり、他の全ての木部と同様に朱色に塗ってあった。信じがたいくらいの大きさで全身金張りした一体の仏像の他には、内部に何一つ飾りはなかった。非常に大きく平らな手のひらには、畳三枚が敷けるほどである。この仏像は牛のような長い耳をしていて、縮れ毛で額の前に黄金を塗っていないほくろ [白毫] があり、頭には黄金の冠 [他の文献記録に大仏の冠の記述はないので詳細不明] をかぶっていたが、それは第一の屋根の上方の窓 [観相窓] を通して見ることができた。肩口はあらわで、胸と腹はひらひらする布で覆うようになっていた。右手は少し高く挙げ、左手は体の前で開いていて、インド風に蓮の花の中に座っていた。この蓮の花は、葉と一緒に地中から伸びている石膏細工のもう一つの花に囲まれていたが、両方とも床から二間ばかり高くなっていた。背後は丈の高い長方形の葉型の装飾 [光背] で覆われていて、その幅は四本の柱に渡っていた。光背には、蓮の花に座っている人間の形をした小さい仏像が数個付いていた。しかし大仏そのものは非常に肩幅が広く、肩が一本の柱からもう一本の柱まで及んでいて、我々が測った所では五間はあった。八角形の木の格子 [金剛柵] が、蓮の花や台座の回りを囲んでいたので、真ん中の所では四本の柱が省かれていた。一重の屋根のあるもう一つの門を出て、すぐそばにあった広場に出たが、そこで驚くばかりの大きな鐘 [国家安康の鐘] を見せられた。その鐘は低い木の櫓 [鐘楼] の中に架かっていて、厚さはたっぷり一指尺、高さは番所役人の持つ槍ほどあり、しかも周囲は21フィートもあった。[69]
ケンペルの遺稿をもとに編さんされた『日本誌』に、2代目大仏殿の絵が掲載されるほか、3代目大仏の全身を描いたケンペルのスケッチも現存しており、大英博物館に所蔵されている[70]。ケンペルの描いた3代目大仏のスケッチについて、彼の遺した手稿や収集品は大部分が大英博物館に所蔵されているが、歴史学者のボダルト=ベイリーが、膨大な所蔵品の中から発見したものである[70]。スケッチには『日本誌』に3代目大仏の図を掲載するとの覚書があるが、(理由は定かでないが)結局掲載されることはなかった[70]。
方広寺大仏は、江戸時代中頃には人気の観光地となった[71]。天下泰平の世が続き、(現代程ではないにせよ)旅行に行きやすくなったこともそれを後押しした。『東海道中膝栗毛』では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写されている [72]。なお初版刊行の1802年には、後述のように大仏・大仏殿は既に焼失している[72]。また先述のケンペルのように長崎出島の外国人も、江戸参府のおりに訪れる者が多かった。朝鮮通信使一行も江戸幕府の案内で当寺を訪問しているが、「秀吉の寺」として、また秀吉の朝鮮出兵における朝鮮の戦死者の耳鼻を埋葬した耳塚が門前にあることから、訪問を拒絶されるケースもあり、トラブルに発展してしまうこともあった(海游録)。方広寺訪問を拒絶した第9回朝鮮通信使一行に対し、一行に随行していた雨森芳洲は「現在の方広寺は徳川の世(江戸幕府成立後)に再建されたもので、豊臣秀吉とは無関係である」との弁明を行ったが、詭弁だとして一蹴されてしまった[73]。
戦国時代に兵火で損壊していた東大寺大仏も江戸時代中期に再建が行われた。貞享元年(1685年)、公慶は江戸幕府から勧進(資金集め)の許可を得て、東大寺大仏再興に尽力し、元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養が行われ、宝永6年(1709年)東大寺大仏殿が落慶した。江戸時代再建の東大寺大仏殿の特徴として、観相窓(堂外から大仏を拝顔できるようにする窓)が 採用された点がある。大仏の頭部の位置に合わせて観相窓があり、その上部に唐破風が設けられている。この建築意匠は豊臣秀頼造立の2代目方広寺大仏殿で確立されたもので、江戸時代に再建にあたり、東大寺大仏殿にも取り入れられたとされる[18]。それ以前の東大寺大仏殿には観相窓は設けられていないとするのが通説である。また東大寺大仏殿の柱材について、寄木材(鉄輪で固定した集成材)となっているが、この技法も2代目方広寺大仏殿で確立されたものとされ[6]、東大寺大仏殿にも取り入れられたとされる。豊臣秀吉による方広寺初代大仏殿造営時に、日本各地の柱材に適した巨木を伐採しつくしたため、森林資源が枯渇したようであり、苦肉の策と言える[6]。かつての2代目大仏殿の遺物として、寄木柱を束ねていた鉄輪は、方広寺の鐘楼や京都国立博物館の庭園に保存されている。
宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していた。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、感想を日記に残している(在京日記)。方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也[74]」、東大寺大仏・大仏殿については「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う[75]」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[75][東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也[75]」としている。また両者の相違点として、東大寺には大仏の脇に脇侍が安置されている点を挙げており、方広寺大仏には脇侍はなかったようである。
京都史上最悪の大火とされる、天明8年(1788年)の天明の大火では焼失を免れたが、寛政10年(1798年)の旧暦7月1日 (新暦では8月12日)の夜に大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、2代目大仏殿と3代目大仏は灰燼(かいじん)に帰した[76]。火災による大仏殿からの火の粉で類焼も発生し、仁王門・回廊も焼失した[76]。なお「国家安康」の梵鐘や、方広寺境内に組み込まれていた三十三間堂は類焼を免れた。大仏殿はその巨大さゆえに落雷の被害に遭う確率が高く、安永4年(1775年)にも落雷を受けたが、全焼は免れていた(続史愚抄)[71]。
落雷による焼失の過程は大田南畝著とされる『半日閑話(街談録)』や平戸藩藩主の松浦清が著した甲子夜話に記述されるほか、『洛東大仏殿出火図(国際日本文化研究センター所蔵)』に絵図で記録されている[注釈 4]。その絵図では火消し達が懸命に消火活動にあたる姿も描かれているが、当時は竜吐水など性能の低い放水設備しかなく、破壊消火も不可能なため、初期消火に失敗し、大火となった。大規模に燃え広がってしまったので、自身の所有する放水設備のみならず、本願寺より大水鉄砲の貸与を受け、放水を試みたとされるが[77]、先述のように当時の放水設備には性能に限界があり、焼け石に水であった。2日には大仏殿より炎が高く立ち登って京都市街からも確認でき[78]、日中は火災による黒煙で太陽光が遮られ、暗闇のようであったという。火事を知らせる早鐘が乱打され、再び天明の大火のような大火になるのではと、京都の人びとを震撼させたが[78]、不幸中の幸いか2日は無風のため、敷地外に火の粉は飛び散らず、市街へ燃え広がらなかった[78]。「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也[79]」「衆口斉唱南無(毘盧遮那)仏[80]」などと記録した文献類もあり、それらによれば、焼けた柱棟が堂内に落下して3代目大仏像に寄りかかり、大仏は鼻から出火[81]。火災現場に集まった僧侶・火消・京都民衆達は、焼け落ちゆく大仏を前に、悲涙を流し、合掌をし、「南無(毘盧遮那)仏」と何度も唱えながら、3代目大仏の最期を見届けた[81]。なお治承4年(1181年)の平家による南都焼討での東大寺大仏殿火災では、大仏殿に取り残された者や、東大寺大仏に殉じて炎に飛び込んだ者が落命したとするが[82]、方広寺大仏殿の火災では幸いなことに、そのような人的被害(死者)は記録されていない。ただし消火活動中に高所から落下して、負傷した者があったという[78]。
先述の方広寺大火について、方広寺を管理する妙法院の、有事の際の防火管理体制の不備が原因ではないかとする見解がある。前述のように大田南畝作とされる『半日閑話(街談録)』には、伝聞ではあるが、方広寺焼失時の出来事が記述されており、それによれば概略は以下の通りである。「7月1日の夜は大雨で、大仏殿北東隅に落雷があり、堂守が落雷箇所に火のくすぶっているのを確認し、太鼓を鳴らして火消を召集した。竜吐水の放水が届かない高所のため即席の足場を組み、火を打ち消した。その後外を見廻り、火の手はないように見えたので火消は引き上げた。しかし火は完全に消えておらず棟木が燃え始めた。そのため再び太鼓を鳴らして火消を召集したが、屋根板の裏面へ火が廻ってしまい、消火を諦め退避した。[83][78][注釈 5]」「仁王門に安置されていた巨大な仁王像について、火の手が回る前に持ち出そうと試みたが、地震対策のため鎖で仁王門に緊結されており、鎖を取り外すそうと、もたもたとしている間に仁王像は火に飲み込まれた。[83][78]」上記について、見方によれば大仏殿の消火は可能であったと考えられるし、仁王像の搬出も可能であったとも考えられる。歴史学者で妙法院史料研究者の村山修一は、方広寺大仏殿の当時の防火管理体制について「(半日閑話等の記述が正しいとすれば)平素より火災への対策が皆無に等しく、せめて屋根裏へ登る階段や足場を用意しておけば屋根裏の火を見逃すことはなかったのではなかろうか。また仏像搬出も多少は可能であったろう。当時の消火技術が大災害に追付けなかったことは認められるとしても被害を最小限に抑える工夫が足りなかったのは失態というほかはない。(補注:現存する設計図及び各種文献記録から、方広寺大仏殿に天井板は張られておらず屋根板現しで、屋根裏空間は存在しないとされる。その点については村山の誤認と思われる)」と批判している[84]。一方で村山は、方広寺大仏殿は経年劣化で修繕に多額の費用を要するようになり、その捻出に妙法院が四苦八苦していたこと、妙法院が江戸幕府(京都所司代)に対し大仏殿修繕の工事費用の融資を度々依頼していたことから、皇族が門主を務める門跡寺院とはいえ、一民間寺院である妙法院が、方広寺大仏殿のような巨大建造物を維持管理するのは大変な困難を極めていたともしている。江戸期の寺社の知行(領地)について興福寺・増上寺など1万石を越える寺社もあるなか、妙法院の知行は約1,600石であった[85]。これは東大寺の知行約2,000石をも下回る。
先述のように甲子夜話にも方広寺大火についての記述がある。それは東福寺の僧印宗より聞いた話としている[86]。概略は以下の通りであるが、『半日閑話』の記述と相反する部分もある。甲子夜話では大仏殿の北西隅に落雷があったとする。大火の原因については、『半日閑話』の記述のような、火消の火の消し漏れではなく、出火点が高所のため簡単に消火できず、足場を設けたころには火が他所へも移ってしまったためとする。2日の朝六つ半過頃、屋上瓦の一部落ち、火の勢いがますます盛んになったが、組物や垂木は落ちなかった。しかし屋根材の落下が起こり始め、この頃大仏は燃えたとする。この時の方広寺大仏殿から立ち上る炎は東福寺からも見えたという。『半日閑話』の記述と同じく7月1日の夜は雨であったとし、翌2日は朝五つ時頃に雨が小降りになり、四つ時頃に雨が止んだとする。四つ半頃に大仏殿の屋根が焼け落ち、九つ半過には大仏殿が崩れ去ったとしている。仁王像が地震対策のため鎖で仁王門に緊結されており、搬出できなかった話は甲子夜話にも記録されている。甲子夜話では、1日夜の出火から、翌2日の日中過まで大仏殿が崩壊しなかったのは、柱一本毎に数個の鉄輪で固め、横架材も巨大なかすがいで頑丈に固定してあったため、容易に焼け落ちなかったためであろうとしている。
なお方広寺大火の原因について、先述の有事の際の防火管理体制の不備のほか、7月1日の夜は新月であったことも、消火活動をするにあたり不利になったと考えられる。旧暦は月の満ち欠けを基準とする太陰太陽暦であり、新月を1日(朔日)とする。そのため火災の発生した寛政10年(1798年)7月1日の夜は新月であり、暗闇が消火活動の妨げになった可能性がある。
時の妙法院門主の真仁法親王は、方広寺大仏を焼失させてしまったことに、管理者として罪悪感を抱いていたとされ、焼失の翌日より毎日大仏の焼跡に参詣して供養を行い、大仏再建の御祈祷を行い、自身の食事量も減じて、大仏に対し懺悔の意を表した[1]。
当時京都のランドマークになっていた大仏の焼失は、人びとに大きな衝撃を与えた。焼失後も往時の大仏に郷愁を覚える者が多く、横山華山作の花洛一覧図(木版摺)は、大仏焼失後の文化5年(1808年)に出版の京都の鳥瞰図であるが、巨大な方広寺大仏殿があえて描かれている[注釈 6]。文久2年(1862年)刊行の東山名所図会も、大仏焼失後の刊行であるが、こちらも往時の方広寺大仏殿絵図があえて掲載されており、絵図中に「寛政中回禄の後、唯礎石のみ存るといへども、帝畿第一の壮観の廃れたるを慨歎に堪ず。故に旧図の侭を挙るなり。」との注記書がある。水木しげるの「幽霊画談」では、大仏の焼失後、大阪の寺町の松の茂みが、往時の大仏を彷彿とさせると、大仏を懐かしむ京都民衆の間で口こみが広がり、当地は訪問者で連日賑わったとの逸話が紹介されている (「仏の幽霊」ただし出典が明記されていないため、文献記録に残る逸話か、もしくは水木が伝聞した口承の逸話を描いたものかは不明)。また京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」というわらべ歌はこの時の火災のことを歌っている[87][88][89]。
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3代目大仏を記録したエンゲルベルト・ケンペルの肖像画。
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[参考イメージ] 長楽寺 (兵庫県香美町)の但馬大仏 高さ15mの木造坐像。平成年間の落慶であるが、現存するものでは国内最大の木造坐像とされ、往時の3代目木造大仏に比肩する規模を誇る。
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東大寺大仏殿の観相窓と唐破風
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都名所図会 大仏御餅所 門前の餅屋が売っていた「大仏餅」は「大仏」の文字を型押しした餅で、大仏を訪れた人々のよい土産となった。
天保年間の再建から昭和48年(1973年)の焼失まで(4代目大仏・3代目大仏殿)
寛政10年(1798年)7月2日の方広寺大仏及び大仏殿全焼後、まず灰塵の清掃作業が行われた。平戸藩藩主の松浦清が著した甲子夜話には火災現場を訪れた東福寺の僧印宗の話が記録されている[92]。7月16日に印宗が火災現場を訪れた所、灰塵の清掃作業が行われていた。仮屋が2棟建てられ、そこに大仏殿の柱の鉄輪、その他諸々の巨金物が運び込まれたという。積まれたものは丘陵のようであったという。またかつて大仏があったと思われる場所に、台座(石座)が表れた。その仕様について「縦横十間ばかりと見ゆる円形なる石垣の、高さ二間ほどづゝなるを三段に築たり」としている。後述のように大仏の台座(石座)は何らかの他の部材(漆喰細工の木製蓮弁?)で蓮弁の装飾が施されていたと考えられているが、それで石座は覆い隠され、焼失前は人目に触れることがなかった。そのため印宗は「堂跡の灰塵を除けたれば、平坦と覚しきに是はいかに」と現場の者に質問した所、「ここは仏坐の下、蓮台の中の地形」との回答を受けたという。
文化元年(1804年)には現在の方広寺本尊である、往時の3代目大仏の1/10サイズの模像とされる盧舎那仏坐像が造られ(座高約2m)、開眼法要が行われた[1]。時同じくして仮本堂も落慶し、そこに上記の盧舎那仏坐像が安置された[1]。この時の仮本堂は現存していない。
方広寺大仏焼失の事実は、江戸(関東地方)の一般大衆にはあまり知られていなかったようで、 江戸在住の滝沢馬琴が上方(関西地方)を旅行した折、焼失の事実を知らずに享和2年(1802年)に方広寺へ訪問し、大仏殿の礎石と、大仏の台座しかないという、変わり果てた姿になっているのを目撃し衝撃を受けたと旅行記に記している(羇旅漫録)。また先述のように東海道中膝栗毛は大仏焼失後に刊行されているが、作中で一行は方広寺大仏殿を訪問し、 弥次喜多が大仏を見物して威容に驚く場面が描写されている。これは作者の十返舎一九が江戸在住で京都は未見で、大仏焼失の事実を知らずに「都名所図会」「花洛一覧図」などを元にして物語を描写したためとも言われる。
天保元年(1830年)は3代目大仏の三十三回忌に当たるので、忌月の7月に遠忌供養が行われた[93]。
江戸時代後期には方広寺大仏再建の機運が高まり、方広寺を管理していた妙法院により大仏・大仏殿の再建が企図され、宝物の開帳を行い資金集めを行うなどするものの、巨大建造物を再建するだけの充分な資金が集まらず、往時と同様の規模のものが再建されることはなかった。こうした事態を憂い、尾張国(現在の愛知県西部)の商人を中心とする有志が、上半身のみの木造の仮大仏像(4代目大仏)を造り、寄進した[94]。落慶は天保14年(1843年)とされる[94]。尾張商人による寄進の経緯は以下の通りである。名古屋方面より三木棟工郎、水谷清八、伊藤与八、花屋利八、尾張屋市蔵の5名が、方広寺を管理する妙法院に挨拶のため参上し、講が結成された[94]。その後大仏造立の申し出があり、資金調達のため名古屋の栄国寺で、妙法院より宝物の貸与を受け、天保12年(1841年)に出開帳を行うことになった [94]。天保造立の4代目大仏の頭部は名古屋で先行して作られ、栄国寺で公開されたという[94]。出開帳を知らせる立札は、尾張国に29ヶ所、三河国・伊勢国・遠江国・駿河国に各18ヶ所も立てられ宣伝されたほか、出開帳の期間も当初より会期延長が図られた[94]。尾張商人が方広寺大仏再建に積極的だったのは、尾張国が、大仏を発願した豊臣秀吉 の故地(出身地)ゆえとも言われる。出開帳等の結果、仮大仏造立の用材を調達でき、先行して作られた大仏頭部と合わせて、船で大坂を経由して、方広寺へ運び込まれた[94]。なお落慶した4代目大仏の像容(容姿)について、従前の大仏と異なり、民衆の手で造立され、著名な仏師が造立に参加しなかったためか、お世辞にも容姿端麗な美仏とは言い難く、拝観者におどろおどろしいとの印象を持たれることが多かった。郷土史家の田中緑紅は「グロテスクな木像半身像」 と評している[87]。
4代目大仏の造立と時を同じくして、4代目大仏を安置する仮大仏殿(3代目大仏殿)も造立された[95]。仮大仏殿の建設資材(材木)の調達について、東海地方や四国地方から調達が行われた。東海地方では伊勢国(現在の三重県)の度会郡に用材買付を行い、用材は宮川を流して運搬された[95]。また三河国(現在の愛知県東部)の油屋増蔵より用材寄進の申し入れもあったという[95]。四国地方は白髪山山麓の材木の買付がなされ、用材は筏にして吉野川を流して運搬したという[95]。仮大仏殿も仮大仏と同じく、往時のものよりも規模が縮小されて造立された。
上述の天保造立の大仏・大仏殿は、将来大仏・大仏殿を再建するまでの仮のものという扱いである[95]。造立された場所も従前のものとは異なり、現在の方広寺大黒天堂の東側の駐車場になっている場所に造立されていた[96]。なお4代目大仏は仮のものとはいえ高さが約14mあり、東大寺大仏に比肩する高さを有していた [97]。
文久元年(1861年)出版の名所図会「淀川両岸一覧」には「(方広寺大仏は)寛政十年七月に雷火にかかりて焼亡し、今その礎石のみ存す。百分一(十分一の誤記か?)の尊像再建あり。また、近年大像の半身成就し仮堂に安ず。」という記述がある。(補注:「3代目大仏の1/10の大きさの模像と伝わる、座高約2mの現在の方広寺本尊座像」と「有志の寄進で造立された高さ約14mの4代目大仏」は、混同して同一のものかのように紹介されることもあるが、上記の記述からも分かる通り、別のものである。前者は現存しているが、後者は昭和48年(1973年)に焼失した。)
明治時代になると、新政府の廃仏毀釈の政策から、明治3年(1870年)に方広寺境内の大部分は収公され、現在の敷地規模となった[98][22]。「国家安康」の梵鐘を安置する鐘楼は取り壊され[98](後に再建)[22]、方広寺西門は東寺へ移築された[22]。収公地には方広寺を管理下に置いた妙法院の脇寺の日厳院もあったが、こちらも廃され、日厳院客殿であった建物は方広寺へ移設された[99]。現在の方広寺本堂は、かつての日厳院客殿である[99]。移築にあたり、1/10の盧舎那仏座像(現在の方広寺本尊)が当該建物に安置(移座)されることになり、建物の改造がなされた。仏間等を打ち抜いて空間を広げ、天井高も改変し、座高約2mの盧舎那仏座像を安置できるようにした[99]。この建物の造立時期について、妙法院門主尭恕法親王の日記に、寛文10年(1670年)10月11日条で、日厳院の客殿指図(図面)があり、これが現在の方広寺本堂の構造と一致することから、寛文10年(1670年)には存在したことが分かる[99]。京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』では、「日厳院の建物が方広寺と関連するとすれば、秀頼による大仏殿造営の時期、すなわち慶長19年(1614年)前後という可能性も考えられる」としている[99]。
2代目大仏殿の基壇と3代目大仏の台座については、寛政10年(1798年)の大仏焼失後も、将来の再建を見越して、この頃(明治初頭)まで残されていたようであるが[90]、それに使われていた花崗岩の石材の多くは、1873年(明治6年)に京都市の内外に築造された6基の石造アーチ橋(堀川第一橋など)の建材として転用されたと伝わる[100]。石材を剥がされたのち、土地の整地も行われたとされ[90]、これにより往時の基壇と台座は完全に消失した[90]。なお収公された方広寺旧境内には、歴代天皇や皇族の位牌等を安置する恭明宮(数年で廃絶)や[101]、豊国神社の社殿が建てられた[22]。
経緯は明らかでないが、明治期に方広寺は妙法院の管理下から脱し、独立したとされている。
昭和期に入り、太平洋戦争での戦災を方広寺は免れた。「国家安康」の梵鐘も金属類回収令による供出を免れた。
戦後、高度経済成長期に入り国民の生活水準が向上、昭和39年(1964年)に東海道新幹線が開通したこともあり、京都に多くの観光客が訪れるようになった。しかしながら造立されてからまだ歴史が浅かったためか、4代目大仏の知名度はいまひとつであったようであり、拝観者もさほど多くなかった。大正から昭和期にかけて活躍した郷土史家の田中緑紅は拝観者数の伸び悩みの原因について、バス路線網の拡充も原因ではないかとしている。田中によれば、かつては三十三間堂を参拝したのち、豊国神社、方広寺へ参拝するという順路が確立していたが、車社会の到来で 観光用のバス路線網も整備され、三十三間堂から清水寺へ直接観光客が移動するようになり、方広寺を素通りされるようになったのが原因なのだという[102]。現在は特別拝観時にしか方広寺の堂内は拝観できないが、この頃(4代目大仏焼失前)は堂内の通年の拝観が可能であり、大仏殿に往時の大仏に関する遺物の一部を展示していたという[96]。
天保造立の4代目大仏・3代目大仏殿は昭和48年(1973年)3月27日深夜の失火によって焼失した[95]。京都市消防局は見分の結果、その原因について「大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢の不始末。練炭火鉢の底に欠けた部分があり、そこから熱が伝わり、下に敷いてあった板が過熱してくすぶり出火。自動火災報知設備が設置されておらず,手動の設備も故障していたなど,いくつもの不運が重なって大火となった」としている(京都市消防局公式HP・『朝日新聞』1973年3月30日)。
昭和48年(1973年)に焼失した大仏・大仏殿は比較的最近まで存続していたにも関わらず、資料(図面・写真など)が極めて少ない。天保造営の大仏の記録が失われることを危惧したある男性が、かつて趣味で撮影した4代目大仏の複数枚の写真を方広寺へ寄贈している(京都新聞2005/01/05の記事)。また京都市消防局のホームページには、かつて発生した火災の記録として、焼失した大仏殿の写真と、焼失した大仏及びその前で実況見分にあたる職員の写真が掲載されている[注釈 7]。
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堀川第一橋。明治初頭まで残存していた大仏殿の基壇と大仏の台座に使用されていた石材を建材として転用し造られたと伝わる。
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明治刊行の「The guide to the celebrated places in Kiyoto & the surrounding places for the foreign visitors」の挿絵。
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方広寺発行の絵葉書。3代目大仏殿(右)と鐘楼(左)が写る。
現在(昭和48年(1973年)の焼失後)
大仏がかつてそこにあったことの名残として今日、方広寺鐘銘事件のもとになった「国家安康」の鐘が吊られた鐘楼や、諸将の銘が刻まれた石塁を見ることができる。
本堂には前述の3代目大仏の1/10の大きさで造られたと伝わる盧舎那仏坐像が安置されているほか、焼失を免れた方広寺遺物として、京都市指定有形文化財の「方広寺大仏殿遺物9点」も保存されている。上記遺物は大仏殿関連が銅製風鐸・銅製舌各1点、鉄製金輪4点で、大仏関連が銅製蓮肉片・銅製蓮弁・鉄製光背金具各1点からなる。風鐸と舌には銘文が刻まれており、「国家安康」の鐘を製作した三条釜座の鋳物師名越三昌らによって、慶長17年(1612年)に製作されたことが分かる。他の7点についても、風鐸や舌と前後する時期の製作と考えられている[103]。上記遺物の一部は鐘楼に置かれており、それについては通年見ることが可能である。柱の金輪については京都国立博物館の庭園にも展示されている。
大仏殿の台座があったと考えられる場所は、大仏殿跡緑地として整備されている。
大和大路七条にある「大仏前交番」[104] や「京都大仏前郵便局」[105] など、周辺のいくつかの施設名に「大仏」の名を留めている。また瓦の産地としても知られ「大仏瓦」の名が今に残る。かつては門前で名物「大仏餅」も売られていた。東西の通りである正面通は、この大仏殿の「正面」につながる通りであることに由来している。
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鐘楼に保存されている2代目大仏殿の遺物。寄木柱を束ねていた「金輪」と、軒先に吊るされていた「風鐸」。
大仏・大仏殿の概略・存立期間
大仏についての概略
- 種類:毘盧遮那仏(びるしゃな-ぶつ)
- 形式:木製漆塗金張坐像(初代)、銅製金張坐像(2代目)、木製漆塗金張坐像(3代目)、木製胸像(4代目)
- 高さ:6丈3尺 約19m (初代~3代目)、4丈7尺 約14m(4代目) [97]
- 像の存続期間:誤差を考慮しても、少なくとも、延べ300年以上は存在していた。創建以来、昭和後期の焼失までの間で、存在しなかったのは、50年より若干長い程度の期間でしかない(ただし、天保年間に造立の4代目大仏は上半身のみの大仏で高さが低い)。
大仏殿についての概略
- 建物の存続期間
- 初代:1595年 - 1602年(約7年間):失火で焼失
- 2代目:1612年 - 1798年(約186年間):落雷で焼失
- 3代目:1843年 - 1973年 (約130年間):失火で焼失
先述のように大仏と同じく天保年間に造立のものは規模が縮小されている。あくまで将来に大仏・大仏殿を再建するまでの仮堂という扱いである。造立された場所も従前のものとは異なり、現在の方広寺大黒天堂の東側の駐車場になっている場所に造立されていた。
初代~3代目大仏の詳細
初代~3代目大仏についての資料
大仏についての文献記録は『愚子見記』が最も詳しい[6]。先述のように豊臣秀頼が2代目大仏殿及び大仏を造立した際に、徳川家康は大工・中井正清を派遣したが、その配下に平政隆がおり、彼が記した文献記録が『愚子見記』である[35]。それには2代目大仏についての詳細な記述があり、2代目大仏の模式図も掲載されている。その他大仏について記録した文献には以下のものがある。初代大仏については、醍醐寺座主の義演の日記である『義演准后日記』[6]、ルイス・フロイスの『フロイス日本史』 [6]、鹿苑院の院主の日記である『鹿苑日録』にそれぞれ記述がある。2代目大仏についてはリチャード・コックスの『イギリス商館長日記』に、3代目大仏については、先述のようにエンゲルベルト・ケンペルの日記に記述がある。
大仏の造形を描いた絵図・模像には「『愚子見記』に掲載されている2代目大仏の模式図」、「ケンペルの3代目大仏のスケッチ[70]」、「3代目大仏の1/10の大きさの模像と伝わる、現在の方広寺本尊座像[1]」、「3代目大仏の1/10の大きさの模像と伝わる、大徳寺本尊座像」がある。大仏の台座の構造については発掘調査で考古学的見地から検討がなされている[106]。
なお初代~3代目大仏はいずれも、(銅造か木造かの相違はあるが)概ね同様の仕様であろうと考えられている[87] [98][6]。ただ先述のように、2代目大仏と3代目大仏では容姿が異なっていたという[67]。
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『愚子見記』に掲載されている2代目大仏の模式図。
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大徳寺本尊釈迦如来座像 3代目大仏の1/10の大きさの模像と伝わる
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[参考] 東大寺大仏像及びその光背
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[参考] 東大寺大仏の台座(石座)
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[参考] 鎌倉大仏の台座(石座)と放置された蓮弁
大仏像の印相(手印)
大仏像の印相(手印)は、東大寺大仏と同じく、右手は「施無畏印(せむいいん)」で、左手は「与願印(よがんいん)」であった。「『愚子見記』に掲載されている2代目大仏の模式図」、「ケンペルの3代目大仏のスケッチ」、「3代目大仏の1/10の大きさの模像と伝わる、現在の方広寺本尊座像」、「3代目大仏の1/10の大きさの模像と伝わる、大徳寺本尊座像」の四者で、印相(手印) はすべて一致している。
大仏座像の下廻りの構造
大仏座像の下廻り部分の構造についての文献記録には、2代目大仏について記述した『愚子見記』と、3代目大仏について記述したケンペルの日記がある。『愚子見記』には、蓮台が二段になっていたとする記述がある[35]。その材料について、「下二葉は木なり、上の段二葉は唐銅なり」とする[35]。「二葉」は蓮台の花弁とその下の反花の二つを指すと思われる。ケンペルの日記でも同様に、蓮台が二段になっていたとする記述がある[107]。「大仏は蓮の花の中に座っていた。この蓮の花は、葉と一緒に地中から伸びている石膏細工のもう一つの花に囲まれていたが、両方とも床から二間ばかり高くなっていた[107]」としている。上記等の文献史料及び発掘調査の成果によれば、大仏座像の下廻り部分の構造は床面から順に、(1)下の蓮台及び反花、(2)上の蓮台(『愚子見記』の模式図には上の蓮台の下に反花がある)、(3)大仏座像、ではないかと考えられている。蓮台が二段構造になっていたことは、「3代目大仏の1/10の大きさの模像と伝わる、現在の方広寺本尊座像」からも伺い知ることができる。
発掘調査では、大仏の台座が検出されており、外周に石を積み、その内側にこぶし大の礫と土を盛って高まりをつくっていると報告されている[108]。またそれは床石材との切り合い関係から、円形に近い多角形と判明している[2]。発掘調査報告書では検出された台座の径が、文献記録に残る下の蓮台の径とほぼ一致することから、「検出された台座 = (1)下の蓮台」が示唆されるとしている[109][2]。この説に基づくと(1)は東大寺大仏・鎌倉大仏の台座のような石座となるが、それでは文献記録と相反してしまう(下の蓮台の花弁の材料について、『愚子見記』では「木」、ケンペルの日記では「石膏細工」とされている為)。現存する指図(設計図)でも石座は描かれず、(1)下の蓮台及び反花が、床面に接して描かれている。報告書では台座の外側に蓮華の花先が位置していることは明らかであるとされており[2]、石座側部の表面に何らかの他の部材(漆喰細工の木製蓮弁など)で、装飾がなされていたと考えられている。先述のように甲子夜話には、寛政10年(1798年)の方広寺大仏・大仏殿焼失後に火災現場を訪れた東福寺の僧印宗の伝聞の話が記録されているが、印宗は表れた大仏の石座を見て「堂跡の灰塵を除けたれば、平坦と覚しきに是はいかに」と現場の者に質問した所、「ここは仏坐の下、蓮台の中の地形」との回答を受けたする[110]。これは「下の蓮台」は、石座の表面に蓮弁の装飾がなされていたことと、その装飾のため普段石座は人目に触れることがなかったことを示している。なお以下は余談であるが類例として挙げると、鎌倉大仏は石の台座の側面を銅製の蓮弁で装飾する(台座を装飾して蓮台にする)計画があった[111]。造立から数百年経過し傷みが目立ってきたので、江戸時代に改修工事の計画がなされたが、その際に上記計画が立案された[111]。鎌倉大仏の修繕工事はなされたが、その数年後の寛保3年(1743年)に伽藍(大仏を除く)を火災で焼失した[112]。そのためか台座の連弁装飾計画は途中で中止となり[112]、使い道のなくなった銅製蓮弁4枚は、大仏の台座近くに放置されている。
(1)と(2)の2つの蓮台について、別の材料で造られていたことは、文献記録から明白である。(2)については大仏躯体の材料と同材(銅造ないしは木造)と考えられている。また(1)と(2)では、(1)の方が径が大きく造られていた[2]。(1)の上面は『愚子見記』によれば「しきがわら」であったという[35][2]。発掘調査では粘土を乾燥焼成した「塼(せん)」が大量に出土しているが[2]、「しきがわら」とは「塼」を指すと見られ、(1)の上面は塼敷きだったと考えられている[6]。ケンペルの3代目大仏のスケッチでは、(1)の「下の蓮台」の上面(塼敷きと考えられている部分)に花瓶や燭台が描かれており、供物を置くスペースとして利用されていたようである。
大仏及びその台座の周囲については、拝観者がみだりに中へ進入しないようにするため(台座に蓮弁の装飾が施されているとすれば、それに安易に手を触れられないようにするため)、八角形に配された木製の金剛垣(柵)に取り囲まれていた[2]。方広寺大仏跡を紹介する書物などで、大仏の台座は八角形であったと紹介しているものもあるが、京都市埋蔵文化財研究所は、金剛垣(柵)が八角形に配されていたのであり、台座(下の蓮台)は先述のように円形に近い多角形で、八角形ではないとしている[2]。なお大仏緑地に掲示の現地案内板には、台座は八角形との記述があるが、京都市埋蔵文化財研究所発行の発掘調査報告書『法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡 2010年(2009-8)』では、当該現地案内板は、上記事実が判明する前に作られたもので、京都市埋蔵文化財研究所の誤認によるものとしている[113]。金剛垣(柵)は、ケンペルの大仏のスケッチにも記録されている。なお大仏正面には賽銭箱が置かれていたが、江戸時代に度々盗難(賽銭泥棒)の被害に遭ったことが記録されている[114]。
大仏像の光背
『愚子見記』の記述及び、またそれに掲載の2代目大仏の模式図から、光背の意匠を伺い知ることができる。『愚子見記』の模式図では、光背は大仏の中央(先端)でやや高く尖った形をしている。また『愚子見記』の記述および模式図によれば、現存する東大寺大仏の光背のように、化仏(小さな仏坐像)が取り付けられており、それは16体あったという。また16体の化仏を下から見上げた際に、同じ大きさに見えるよう、大きさの補正を施していたという[115]。ただし「愚子見記に掲載されている2代目大仏の模式図」、「ケンペルの3代目大仏のスケッチ」、「3代目大仏の1/10の大きさの模像と伝わる、現在の方広寺本尊座像」の三者で、それぞれ光背の意匠が弱冠異なっている。その理由については、(1)2代目大仏と3代目大仏で光背の意匠が異なっていた、(2)書き手(作り手)の描写ミス、などが考えられる。なお方広寺大仏の光背の意匠について、鎌倉時代再建の東大寺2代目大仏の光背を先例として、デザインされたものとする見解がある[115]。
初代・2代目大仏殿の詳細
初代・2代目大仏殿についての資料
2代目大仏殿については、指図(設計図)が現存している。こちらも先述のように、豊臣秀頼が2代目大仏殿及び大仏を造立した際に、徳川家康は大工・中井正清を派遣したが、指図(設計図)は中井家に伝来したものである。中井家配下の平政隆が著した『愚子見記』にも、2代目大仏殿についての詳細な記述があるほか、初代大仏殿についても言及している[35]。また江戸中期の作と思われる『京都大仏殿絵図(東京国立博物館所蔵)』にも2代目大仏殿及び仁王門の断面図・立面図が記録されている[注釈 8]。その他大仏殿について記録した文献には(先の大仏の項目とも重複するが)以下のものがある。初代大仏殿については、醍醐寺座主の義演の日記である『義演准后日記』[6]、ルイス・フロイスのフロイス日本史 [6]、鹿苑院の院主の日記である『鹿苑日録』にそれぞれ記述がある。2代目大仏殿については、エンゲルベルト・ケンペルの日記に記述がある。
大仏殿を描いた絵図資料について、2代目大仏殿については存立期間が長かったことから、建物外観が名所図会などに描かれ資料が多い。初代大仏殿については、慶長11年(1606年)作とされる豊臣家御用絵師の狩野内膳による『豊国祭礼図屏風』が唯一の作であろうとされる[16]。
初代大仏殿については、2代目大仏殿ほど資料が豊富でなく、建物構造などの全貌の把握が困難である。しかしながら各種文献史料・建築学的知見から初代大仏殿復元案を提示したもので代表的なものには、主に以下の二つがある。一つは内藤昌・中村利則共作による復元案(『ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿』)で、これは1982年に発表されたものである[117]。ただ方広寺大仏殿跡の発掘調査は2000年からなので、復元検討に考古学的知見は踏まえられていない。もう一つは建築史学者の黒田龍二監修の下、大林組が広報誌「季刊大林」で提示した復元案(『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』)である。こちらの発表は2016年で、考古学的知見も踏まえて復元検討がなされている。大林組復元案の特徴としては、初代大仏殿の架構構造を純大仏様構造であったと考え、同じく純大仏様構造の浄土寺浄土堂のように、屋根に反りがないものとして復元している点がある[6]。この点は、屋根に反りがあったとする内藤昌・中村利則による復元案と相違している[118]。
初代・2代目大仏殿は、いずれも細部意匠・細部構造を除いては、概ね同様の仕様であろうと考えられている[6]。
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初代大仏殿 (「豊国祭礼図屏風」)
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2代目大仏殿 (「東山名所図会」京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ)
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[参考] 東寺金堂 観相窓と切り上げ破風が特徴
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[参考] 東大寺大仏殿
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[参考] 東大寺大仏殿の観相窓と唐破風。
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[参考] 東大寺大仏殿の寄木柱と金輪(鉄輪)。
大仏殿の平面規模
- 初代・2代目:南北45間(約88m)、東西27間(約55m)、柱92本
『愚子見記』の2代目大仏殿についての記述による。ここでの「間」は柱間の数ではなく、長さの単位である。先述のように考古学的知見からも正しいと見なされている。発掘調査報告書に、2代目大仏殿再建時は、創建時の礎石をそのまま使用し、柱位置は同じであったとみられると報告されていることから、初代大仏殿も同様の平面規模であろうと考えられている[6]。
大仏殿の架構構造
初代・2代目大仏殿では架構構造については、貫を多用する大仏様を採用している。その根拠は、初代大仏殿は『愚子見記』の「京東ノ大仏殿、慶長三年の造リハ古奈良(重源の再建した2代目東大寺大仏殿)ノ造也」の記述[6]、2代目大仏殿は『愚子見記』の記述及び現存する中井家指図による[6]。『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』では、初代大仏殿復原案に対し、地震に対する構造計算(時刻歴応答解析)を行った結果が掲載されており、その架構構造が地震抵抗に極めて有益であり、また慶長伏見地震は直下型地震で、巨大建築物である大仏殿は共振現象が起きにくく(逆に小規模建築物ほど被害が大きい)、損壊を免れたとする。2代目大仏殿も寛文近江・若狭地震に遭うが、こちらも損壊を免れている。ただし先述のように、両地震で大仏(初代・2代目)自体はいずれも損壊して、取り壊されている。
大仏殿の柱材
- 初代:一木材?
- 2代目:寄木材
『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』では、初代大仏殿の柱は一木材であろうとの見解を提示している。2代目大仏殿の柱材は文献記録・現存する遺物等から寄木材(金輪で固定した集成材)とみられるが、初代大仏殿造営時にはそのような文献記録がなく、考古学的にも金輪材が出土していないことによる。2代目大仏殿が寄木材になった理由について、初代大仏殿造営時に、日本各地の柱材に適した巨木を伐採しつくしたため、森林資源が枯渇したためとする。2代目大仏殿落慶以降に、造営に着手した再建東大寺大仏殿も、柱材は寄木材となっており、すでに柱材に適した巨木が国内で枯渇していたことが伺える(東大寺大仏殿虹梁の記事も参照のこと)。
二重屋根のうち下重屋根の構造
- 初代:雨打(ゆた)造
- 2代目:下屋(げや)
初代大仏殿については、『愚子見記』の記載から二重屋根のうち、下重屋根を裳階とする雨打造であったと考えられている[119][6]。下重屋根より上重屋根の方が軒の出が深いことが史料より読み取れるとして、内藤昌・中村利則両氏の復元案及び、大林組の復元案ではいずれもそのように復元されている[119][6]。初代大仏殿を描いたとされる『豊国祭礼図屏風』でも、下重屋根は裳階で描かれている[120]。『愚子見記』によると、初代大仏殿が雨打造になったのは、鎌倉時代再建の2代目東大寺大仏殿に倣ったためであるとされる[120]。それに対して2代目大仏殿の現存する指図(設計図)では、当該部分は下屋構造となっており、上重屋根より下重屋根の方が軒の出が深くなっている。下屋にすることで、「隅柱」・「側柱」を「中柱」よりも柱長を削減できるので、相次ぐ大仏殿の造立により発生した建材(材木)不足への対応ではないかと考えられている。なお発掘調査では、大仏殿の基壇が2代目大仏殿造立時に拡張されていることが確認されているが、その理由について上記の屋根構造の変更で、軒の出の深さが変わったためでないかとされている[121]。
観相窓上部の破風の形状
- 初代:切り上げ破風
- 2代目:唐破風
方広寺大仏殿には観相窓(堂外から大仏を拝顔できるようにする窓)が設けられているのが特徴である。観相窓上部の破風の形状について、2代目大仏殿は、現存する指図(設計図)及び各種絵図記録から唐破風と分かる[122][6]。先述のように初代大仏殿を描いたとされる狩野内膳作の『豊国祭礼図屏風』[16]では、観相窓上部の破風が切り上げ破風となっている。これについて絵師のミスでなければ、初代大仏殿は切り上げ破風であったと考えられている[123][6]。
なお東寺の金堂は、方広寺初代大仏殿を模したものとの伝承がある [17]。東寺金堂は豊臣秀頼の寄進で造立されたものであるが、上述の屏風に描かれている方広寺大仏殿の外観と極めて類似している。豊臣秀頼は生前に100程の寺社に建造物の寄進を行ったとされるが[18]、指図(設計図)の流用があったのかもしれない。東寺金堂の観相窓の高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用の代物になってしまっているという [17]。ただ明かり取り窓としては機能しているという [17]。これは本来この建物のデザインは、大仏を安置するために意匠されたもので、丈六の薬師如来像を安置するために意匠されたものではない(東寺のために意匠されたものではない)ためとされている[19]。
天井板の有無
方広寺大仏殿は初代・2代目共、現存する指図(設計図)及び各種文献記録から、天井板は張られておらず、屋根板現しであったと考えられている。『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』では大仏様の特徴として、(浄土寺浄土堂のように)天井板を張らず小屋組を見せている点があり、方広寺大仏殿でも垂木まで見通すことのできる「化粧屋根裏(屋根板現し)」だったのだろうとしている。上記を裏付けるように、ケンペルの日記にも「大仏殿の内部は一番上の屋根の所まで吹抜になっていて、その屋根はたくさんの梁を変わったやり方で繋ぎ合わせて固定してある。高くて上の方は光が差さないので、ほとんど真っ暗である。」との記述が残されている[124]。
京の大仏(大仏殿)を描いた作品の一覧
既述。慶長11年(1606年) 作。方広寺大仏殿が描かれているが、現存する2代目大仏殿指図(設計図)や大仏殿を描いた江戸期の他の絵図と、破風等の大仏殿の細部の形状が異なることから、(絵師のミスでなければ)初代大仏殿の造形を描いたものとされる。
既述。2代目方広寺大仏殿が描かれている。大英博物館には、3代目大仏の全身を描いたケンペルのスケッチが所蔵されている。
五条大橋と市中の街並み、2代目大仏殿がそれぞれ描かれ、大仏殿の巨大さが分かる。観相窓から3代目大仏が顔を覗かせている[注釈 9]。
- 「大仏詣図」葛飾北斎(島根県立美術館所蔵)
- 「方広寺大仏殿炎上図」長沢芦雪(個人蔵)
- 「洛東大仏殿出火図」著者不詳(国際日本文化研究センター所蔵)
既述。2代目大仏殿が落雷で焼失する過程が絵図で克明に記録されている[注釈 10]。
- 「花洛一覧図(木版摺)」横山華山作
既述。2代目大仏殿焼失後の文化5年(1808年)の出版であるが、2代目大仏殿があえて描かれている[注釈 11]。
- 「再撰花洛名勝図会」
既述。1862年の作で、規模を縮小して再建された3代目大仏殿(1973年焼失)が描かれている。野ざらしの大仏殿基壇と台座(1798年焼失の3代目大仏のもの)が描かれており、この頃はまだ残されていたことが分かる。 [注釈 12]。
漫画、とりわけ戦国時代を扱った歴史物では、豊臣秀吉による方広寺大仏造営と地震による崩壊、徳川家康による方広寺鐘銘事件が描かれることが多い。
既述。仏の幽霊の項で、1798年落雷による大仏の焼失後、大阪の寺町の松の茂みが、往時の大仏を彷彿とさせると、大仏を懐かしむ京都民衆の間で口こみが広がり、当地は訪問者で連日賑わったとの逸話が紹介されている。
方広寺造営と地震による大仏の損壊、怒った秀吉が損壊した大仏に矢を放つ場面、方広寺鐘銘事件等、桃山時代から江戸時代初頭までの、一連の方広寺にまつわる事柄が描かれている。
注釈
- ^ 2代目大仏殿は指図(設計図)が残るほか、建物外観が名所図会などに描かれ資料が多い。ただし大仏自体を正確に記録した絵図はほぼない。
- ^ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/465333
- ^ 『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は武家の京都巡見にあたり提出された書物である[63]。方広寺は江戸時代に武家の京都巡見地の一つになっていたが、巡見に際しては事前に妙法院に方広寺の由緒を記した書物を提出するよう求められた[63]。そこに記された内容は妙法院の公式見解とされている。『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は稲垣重富の巡見に際して提出された書物とされ、大仏再建の経緯などが綴られている[63]。妙法院日次記の元禄16年5月27日条に、巡見にあたり提出した書物控があり、その中の「釈迦心柱ノ書付」が『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』と題されている[63]。上記は『妙法院日次記』2巻に収録されている[63]。
- ^ https://twitter.com/nichibunkenkoho/status/1303893942035832832/ 国際日本文化研究センター公式Twitter 蔵書紹介 洛東大仏殿出火図
- ^ 現代の火災においても、天井や屋根裏板に炎が廻ってしまった場合、もはや消火器等による初期消火は不可能で、強力な放水設備での放水か、酸素を遮断する窒息消火等によらなければ消火は不可能とされる。
- ^ https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/karaku/karaku.html 高解像度版 オンライン公開
- ^ https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000159532.html 京都市消防局:昭和48年3月27日 東山区方広寺大仏殿炎上(写真提供:京都新聞社)
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- ^ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/412635 文化遺産オンライン 高解像度版
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- ^ https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/karaku/karaku.html 高解像度版 オンライン公開
- ^ https://kyotokoteisa.hatenablog.jp/entry/daibutu-mound 「再撰花洛名勝図会」に分かりやすいよう一部着色の上、公開されている]
脚注・出典
- ^ a b c d e f 村山(2003) p.159
- ^ a b c d e f g h i 京都市埋蔵文化財研究所『法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡』2010年(2009-8) p.67
- ^ 薬師寺君子『写真・図解 日本の仏像 この一冊ですべてがわかる』西東社 2016年 p.170
- ^ a b 黒田正子 『京都の不思議』2002年 p.23
- ^ 河内(2008) p.56
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年
- ^ 内藤昌・中村利則 共著「ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿」『近世風俗図譜』9巻収録 1982年 p.144-145
- ^ 河内(2008) p.19
- ^ 張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して」(『Museum』554号、1998年6月) p.21
- ^ 河内(2008) p.26
- ^ 河内(2008) p.44
- ^ a b 村山(2003) p.113
- ^ 張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して」(『Museum』554号、1998年6月) p.21
- ^ a b 文化遺産データベース 木造蔵王権現立像
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- ^ a b c d e f 東寺『東寺の建造物 古建築からのメッセージ』1995年 p.60
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- ^ a b c 村山(2003) p.114
- ^ 河内(2008) p.104
- ^ a b c d e f g h 京都市埋蔵文化財研究所 上村和直『発掘調査で見つかった恭明宮』2016年
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- ^ a b c d 村山(2003) p.116
- ^ 張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して」(『Museum』554号、1998年6月) p.22
- ^ 後世の書では淀殿からの助力申し込みを家康が断ったという話があるが、実際は上記の通り、ある程度の助力はしている。
- ^ a b c d e f 内藤昌 校注『注釈愚子見記』1988年
- ^ 張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して」(『Museum』554号、1998年6月) p.23
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- ^ 西山昭仁「寛文2年(1662)近江・若狭地震における京都での被害と震災対応」(『京都歴史災害研究』5号、2006年)
- ^ 丸山俊明『京は大火!大地震‼そのとき京人は、どうふるまったのか』2019年 p.12-14
- ^ a b 井上和人『新編日本古典文学全集64 仮名草子集』1999年 p.24
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- ^ 張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月 収録) p.26-27
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- ^ 音声資料:「京の大仏さん」わらべ歌(京都・鬼遊び)
- ^ 資料によっては、このわらべ歌の「天火(てんび)」を「兵火(へいび)」とし、「戦さで焼けた」と解説しているものがあるが、そのような史実はなく、誤りである。
- ^ a b c d 京都市文化市民局『京都市内遺跡発掘調査概報』2003年 p.38
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- ^ “京都大仏前郵便局 (京都府)”. 2016年9月閲覧。 エラー: 閲覧日は年・月・日のすべてを記入してください。(説明)
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- ^ 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』2016年 掲載の復元建築パース参照
- ^ 内藤昌・中村利則 共著「ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿」『近世風俗図譜』9巻収録 1982年 p.141-146
- ^ 内藤昌・中村利則 共著「ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿」『近世風俗図譜』9巻収録 1982年 p.144 掲載の復元立面図参照
- ^ a b 内藤昌・中村利則 共著「ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿」『近世風俗図譜』9巻収録 1982年 p.144-145
- ^ a b 内藤昌・中村利則 共著「ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿」『近世風俗図譜』9巻収録 1982年 p.144
- ^ 京都市埋蔵文化財研究所『法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡』2010年(2009-8) p.69
- ^ 内藤昌・中村利則 共著「ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿」『近世風俗図譜』9巻収録 1982年 p.145
- ^ 内藤昌・中村利則 共著「ミヤコの変貌 聚楽第と大仏殿」『近世風俗図譜』9巻収録 1982年 p.145
- ^ ケンペル著 斎藤信訳『江戸参府旅行日記』平凡社、1977年 p.229
参考文献
- 『京都市の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1979年。
- 碓井小三郎編『京都坊目誌』平安古考学会、1915年
- 菅原信海; みうらじゅん『妙法院・三十三間堂』淡交社〈新版 古寺巡礼 京都18〉、2008年。
- 田中緑紅『京の京の大仏っあん』1957年。
- 内藤昌 校注『注釈愚子見記』1988年
- 三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年。ISBN 978-4-492-37082-7。
- 村山修一『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003年。
- 河内将芳『秀吉の大仏造立』法藏館、2008年。
- 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年。
季刊大林No.57初代大仏殿の復原案を提示した「秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元」がPDFで公開されている。
関連項目
外部リンク
- 幻の方広寺大仏 - 平安京探偵団
- 大佛殿方廣寺 - Schwarzschild Cafe 2014年8月15日付け - 波多利朗のFunky Goods内。失火前と失火翌日の大仏・大仏殿の写真や資料を掲載。2018年9月9日閲覧。
- 京都市消防局:昭和48年3月27日 東山区方広寺大仏殿炎上(写真提供:京都新聞社) 2019年6月19日閲覧。
座標: 北緯34度59分29.5秒 東経135度46分22.4秒 / 北緯34.991528度 東経135.772889度