ニシオカナヲト

日本のシンガーソングライター

これはこのページの過去の版です。まえだありさ (会話 | 投稿記録) による 2022年8月20日 (土) 11:29個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (画像の変更)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ニシオカナヲト1967年昭和42年)1月8日 - ) は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、ボイストレーナー、YouTuber、ニシオカナヲト音楽事務所代表取締役社長。兵庫県神戸市灘区出身。

ニシオカ ナヲト
ファイル:ニシオカナヲトWikipedia.jpg
2022年4月27日リリース 「CHERRY」CDジャケット
基本情報
生誕 (1967-01-08) 1967年1月8日(58歳)
出身地 日本の旗 日本兵庫県神戸市灘区
学歴 東京音楽大学作曲指揮専攻中退
報徳学園高等学校卒業
ジャンル 歌謡曲
フォーク
カントリー
洋楽
ジャズ
職業 シンガー
作曲家
作詞家
ボイストレーナー
音楽プロデューサー
演出家
MC
担当楽器 ボーカル
ギター
コーラス
活動期間 1990年 - 現在
レーベル 1990年-1992年
テイチクエンタテインメント
1992年-1993年
Sound Works(現:ナッシュスタジオ)
1998年-1999年
UMC innovation
2000年-2013年
UTA UTAI BIG ENTERTAINMENT
2014年
ユニバーサルミュージック
2014年-2022年
UTA UTAI BIG ENTERTAINMENT
2022年-
ラッツパックレコード
事務所 ニシオカナヲト音楽事務所
公式サイト ニシオカナヲトWeb Site
テンプレートを表示
ニシオカナヲト
YouTube
チャンネル
活動期間 2010年1月4日 -
ジャンル 音楽
登録者数 約1431人
総再生回数 約129,954回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2022年8月20日時点。
テンプレートを表示

経歴

生い立ち

1967年1月8日午前10時35分、大雪が降る寒い日の朝、兵庫県神戸市灘区の田辺病院で産まれる。その後すぐに、西宮市に引っ越し4歳まで阪神甲子園球場の近くにある父 務(つとむ)の仕事先の日本電信電話公社(現NTT)の社宅で育つ。その頃、妹が産まれる予定だったが、母 順子の容態が悪くなり、妹は生まれてくる事が出来なかった。

その後、父が転職し神戸市灘区の六甲バターの社員食堂に入社。同時に、神戸市立稗田幼稚園に入園した。家賃が無料という理由から、社員食堂の隅にある5畳ほどの一部屋に家族住み込みで暮らす事になる。その後、神戸市立稗田小学校に入学する。

小学4年生になる頃に父が脱サラし、中華料理店「神香園」を灘区原田通りに開業する。同時に電気屋の物置の2階に引っ越しをする。この家にはお風呂が無かったため近所の銭湯の白井温泉か、みやこ温泉に行っていた。この家は玄関のドアを開けるとすぐに階段があり、急勾配だったため何度も転げ落ちた。

その後、神戸市立上野中学校に入学し剣道部へ入部。中学3年の夏に、全日本剣道連盟の灘区の大会で個人戦で優勝。選手宣誓も努めた。その後の神戸市の大会で個人戦で準優勝した。このことがきっかけで、神戸市の中学生代表に選ばれ、3都市大会(神戸市、大阪市、京都市)に出場した。また、全日本剣道連盟兵庫県大会個人戦で3位に入賞。これらの成績を収めた事がきっかけで、報徳学園高等学校の推薦を受ける事になる。中学3年生が終わる頃、近所の共同住宅に引っ越した。これが神戸時代では最後の引っ越しとなる。

1982年、報徳学園高等学校に剣道で推薦入学をする。小学2年生から憧れていた高校だったため入学が決まった時、家族全員で大喜びをした。[1]

報徳学園は私立のため、学費が物凄く高い。ニシオカの実家は貧乏だったため、到底通えるような家柄では無かった。でも、父がラーメン屋で1杯400円のラーメンを、何杯も何杯も売ってくれた事で、報徳学園に通う事が出来た。母もそんな父を側で支え、お店の力になってくれた。この事をニシオカは両親にとても感謝している。

この時から、のちにニシオカナヲトの代表曲となる愛犬"チェリー"を飼い始める。ここから、父、母、ニシオカナヲト、チェリーの4人暮らしがスタートする。

報徳学園時代は毎日毎日、朝から晩まで厳しい剣道部の練習に取り組んだ。辛い練習から帰ってきた時、いつもチェリーが疲れた心と身体を癒してくれた。

1985年、報徳学園高等学校を卒業。その後は、大阪府の金井大道具に正社員として入社。音響を担当する。吉本興業の漫才、ジュディ・オングのミュージカル、加藤登紀子のミュージカルなど錚々たる芸能人の舞台創りに携わった。松山千春のコンサートには、内緒で先輩に袖幕に入れてもらった。松山千春の歌に感動し、袖幕で泣きながら聴いた。この時、裏方ではなく自分が"表舞台に立ちたい"と思うようになり、1年半で金井大道具を退社。ここから、ニシオカナヲトの歌手としての修行が始まる。

 1986年 - 1989年の活動 

19歳からアルバイトのかけもち生活が始まる。昼は神戸市三宮の「サンローレ」というお好み焼き&焼きそば店に勤め、夕方から三宮の北野坂の「オリアナ」というカラオケパブに勤め、朝から夜まで働いた。

この時、『京阪神エルマガジン』に掲載されていた大阪市西天満の芸能事務所 株式会社原田エンタープライズのオーディションを受ける。 事務所代表の原田信夫は、1970年に結成されたムードコーラスグループ「ザ・キャラクターズ」のリーダーとして活躍。日本コロムビアより『港町シャンソン』でデビュー。[2]この楽曲は、まだ駆け出しの阿久悠の作品であった。その後、コロムビアからシングル5枚を発売後[3]、1977年までキングレコードポニーキャニオン徳間ジャパンと渡り歩き、合計12枚のシングル盤(EP)を発売した。キングレコードではスキャットボサ『ラブ・サウンズ』、ディープ歌謡『恋の人魚姫』、ポニーキャニオンではジャニーズ顔負けのアイドル歌謡『白い羽根の勇士』など、コーラスグループとしての実力を発揮した。 ニシオカは代表の原田信夫に「歌手になりたい!」と伝えた。そしてオーディションで谷村新司の「群青」を歌い、見事合格した。

この時から、週1で大阪までレッスンに通いながらアルバイトを続ける。20歳の時に、原田が番組企画・制作・出演した朝日放送の音楽番組「夜はオンリー・ユー」が始まり、メインホストにやしきたかじんが起用される。そこで、ニシオカはやしきたかじんの下働きを約半年間、経験させて貰う。楽屋でお茶を用意したり、衣装の準備をしたり、やしきたかじんの話相手となったりした。

半年後、メインホストが中村泰士に代わった。この時に、原田がワンコーナーをもうけてニシオカ本人も出演し「想い出のサンフランシスコ」を歌った。中村泰士に歌を絶賛され、ご本人のコンサートの前歌としても出演させて頂いた。この時、ゲストだったアンリ菅野にも気に入られ、色紙へのサイン、更にほっぺにキッスのサービスまで受けた。

また下働きとして、漫才師はな寛太・いま寛大の運転手も経験した。当時、はな寛太・いま寛大が担当していたラジオ関西のゲストとして、八代亜紀が登場する。番組終了後に八代亜紀とスタッフみんなで蕎麦屋に行った。ニシオカは有難い事に八代亜紀の目の前に座らせて貰った。当時は下っ端なので、先輩より早く食べ終えなければならなかったので、かけそばだけを注文した。それを八代亜紀が見て「あなた具が無いじゃない。私の海老天あげるわね」と仰って、自分の海老天をニシオカに分けてくれた。

その八代亜紀の優しさに、心から感動した。歌手を目指している事を八代亜紀に伝えたら「がんばってね」と言って下さった。ニシオカは絶対に成功するぞ!と誓った。

1988年、21歳の時大阪パークホテルのバイキング&ディナーショーのオーディションに合格。懐かしのグループ・サウンズを歌うという企画のメインボーカルに選ばれた。1回90分のステージで18曲を熱唱。1ヶ月間で40公演(土日は2ステージ)をこなした。主に歌った曲は君だけに愛を花の首飾りブルーシャトー夕陽が泣いている想い出の渚亜麻色の髪の乙女など。中でもエメラルドの伝説は大好評だった。

 1990年代の活動 

1990年、23歳の時に事務所の原田から楽曲を進呈される。この曲にニシオカが歌詞を書き「愛があるから」をレコーディングをする。また、同じ時期に師匠の原田信夫がポニーキャニオンからニューシングル「壁」をリリース。[4]その際に、原田信夫を取り上げるという事で、事務所にフジテレビが取材に来る。そこで、原田信夫の一番弟子としてニシオカが紹介され、フジテレビおはよう!ナイスデイという番組でレコーディングしていた「愛があるから」を披露した。

そして「愛があるから」をレコーディングをしたスタッフが、テイチクエンタテインメントとの繋がりがあり、この「愛があるから」の音源をテイチク関係者に渡してくれた。この事がきっかけで、テイチクの音多ボーカルオーディションを受ける事になった。指定された楽曲は、矢沢永吉時間よ止まれだった。4次審査まで勝ち残り、見事合格した。この時にプロデューサーである中西雄一氏と出会い、テイチクでの歌手活動がスタートする。

音多カラオケリリースで発売した楽曲は9曲ある。時間よ止まれ(矢沢永吉)、もう涙はいらない(鈴木雅之)、ガラスのメモリーズ(TUBE)、少年時代(井上陽水)、償いの日々(財津和夫with原みどり)、Last Christmas Eve(矢沢永吉)、バラッドをお前に(THE MODS)、ベイサイド・セレナーデ(鈴木雅之)、FIRST LOVE(鈴木雅之)をリリースした。ここで、プロの厳しさを初めて体感した。特に一曲目の「時間よ止まれ」のレコーディングは大変厳しいものだった。一生懸命に魂を込めて歌っても、なかなかOKが出ず何回も何回もフラフラになりながら歌った。レコーディングが終わり、発売は難しいのかもしれない...と落ち込んでいた時、プロデューサーの中西雄一氏が「発売するかからな」と仰って下さり、とても嬉しかった。そして何より嬉しかった言葉は「ニシオカは、声に力がある。諦めずに頑張れよ」というものだった。

1992年、サウンドワークス(現:ナッシュスタジオ)から"原正彦"という名前で8センチシングルCD「ラストオーダー(作詞作曲/楠本清輝)」を発売する。カップリング曲は「素敵な夢を(作詞作曲/楠本清輝)」。プロモーションでラジオ関西の番組で楽曲が使用されたり、サンチカサテライトでイベントやゲストとしてラジオ番組に出演していた。有線放送でも好評で、リクエストが多かった。また、演歌歌手の香田晋とも共演した。その他に、神戸国際会館で行われた歌謡祭にも出演した。

その後、原田信夫プロデュース「トゥー・キャラクターズ」を結成。メンバーはヴォーカル&ギター 原正彦(ニシオカナヲト)、ヴォーカル&ピアノ 黒古陽子、サポートドラム 柳原優作の3名。月1回の3ステージを高級レストラン 宝塚サラブレッド・ドゥーで行う。宝塚劇場の近くのレストランだったため、当時のタカラジェンヌも多く来店し、華のあるパフォーマンスを行った。披露していた曲は想い出のサンフランシスコルート66好きにならずにいられないフライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン明るい表通りでなど。この現場で、MCやパフォーマンスを磨いた。

1993年、所属事務所である株式会社原田エンタープライズから株式会社グレースに移籍し、俳優活動を始める。仮面の忍者 赤影で知られる東映の名監督の小野登氏に出会い、東映京都撮影所に出入りすることになる。出演したドラマは銭形平次水戸黄門暴れん坊将軍三匹が斬る!新・部長刑事 アーバンポリス24に出演。映画では極道の妻たちわが愛の譜 滝廉太郎物語に出演。お正月の日本テレビのスペシャルドラマ鶴姫伝奇にも出演した。

"暴れん坊将軍"の撮影では、監督である降旗康男氏に突然「ちょっと君!こっちへ来てみなさい」と沢山の俳優の中からニシオカだけが呼ばれて、あるシーンの悪役に任命された。その役では、屋台で酒を呑んでいる所を岡っ引に、引き摺り回される激しい役だった。その撮影で初めて単独でメイクさんや衣装さんが付き、ニシオカのセッティング待ちで撮影が20分止まった。撮影の後は大雨が降っており、降旗監督が自ら傘をさしてくれて相合傘で俳優会館まで歩いた。その際に「お前、いい役者だから辞めずに頑張れ。成功するから頑張れよ!」と激励を貰った。 "極道の妻たち"の撮影では、極道役だった清水宏次朗を取っ捕まえる警察官の役で出演した。ビルのひと部屋で逃げ回る清水宏次朗を押さえ込む演技では、本気の力で取っ組み合いをした。 "わが愛の譜 滝廉太郎物語"では、生徒役で出演。風間トオルが音楽教師の滝廉太郎役だった。そして憧れの女優渡辺典子も生徒役で出演しており、教室での授業のシーンで約5時間隣の席で撮影があり、共演できた事が本当に嬉しかった。 "鶴姫伝奇"では主役後藤久美子と奇跡的に仲良くなり、休憩時間にお弁当を一緒に食べた。だが、支給されたお弁当が後藤久美子とニシオカでは全く違った。後藤久美子はお重に入った立派なお弁当で、ニシオカは普通のお弁当だった。後藤久美子はニシオカのお弁当の中身を見て、「そっちの方が美味しそうね」と言うので、おかずを交換したりして休憩時間を楽しんだ。超売れっ子の主役女優と仲良くなれた事が本当に嬉しかった。

温かいエピソードとしては、"わが愛の譜 滝廉太郎物語"の撮影が終わった後、女優檀ふみと俳優会館の中にある公衆電話を譲り合った事がある。1台しかない公衆電話の前に同時に来てしまい、「どうぞどうぞ!」のやりとりがお互い5回くらい続いて、2人で笑い合った。ニシオカが「檀さん、先輩なのでお先にどうぞ!」と念押しで言ったことで、先に公衆電話を使ってもらう事になった。電話が終わったあと、檀ふみに「ありがとうね!」と言ってもらった。そしてニシオカも事務所に電話するために受話器を握った。その時、直前まで電話していた檀ふみの手の温もりが受話器から伝わってきた。その温もりに檀ふみの優しさを感じた。

またCMはオートバックスの空気清浄機や、「宝塚アイスアリーナ」にも出演した。

舞台では、大阪テイジンホールで行われた小野登演出による舞台守銭奴ラ・フレーシュ役で出演。劇中歌"昭和枯れすすき"を熱唱し、演技も歌も大好評を得た。

1994年、事務所をグレースから株式会社チャンスネットワークシステムに移籍し、関西の所属アーティストとなる。この会社は作詞家作曲家を目指している人を育成する会社であり、アーティストと作家を結ぶネットワークを作り、当時全国に4万人の会員が在籍していた。南野陽子の"秋からも、そばにいて"がヒットする。また、歌手の米屋純が所属していた。

そして同年の12月に、関西のチャンスアーティストによるグランプリコンサート行われ、グランプリを受賞した。この事がきっかけで、澤井社長のサポートを受けながら関西から東京への上京が決まった。

1995年1月8日、ニシオカナヲトの誕生日に澤井社長からプレゼントが届いた。それは1枚のFAXだった。そこには新しいアーティスト名が書かれていた。その名前は"西岡直人"。この名前が現在のニシオカナヲトの原型になっている。直感が優れていたため"直人"という名前になったそうだ。

同月の15・16日の2日間、東京の恵比寿で会社の会議と新年会があり関西から出席させて貰った。会議では、ニシオカの発言に澤井社長が腹を立てて一時騒然となった。だが、某メジャーレコード会社のディレクターが「ニシオカ君の発言は正しい」とフォローして下さり、アーティストのクビが繋がった。そのディレクターが澤井社長に説得して下さり、社長がニシオカを本社(東京)のチャンスアーティストとして認めて下さり、アーティストとして給料を頂けるようになった。そしてその16日の夜、神戸に戻る。

そして翌日1月17日の朝。1995年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災が発生する。神戸市灘区に住んでいたニシオカの実家は大打撃を受け、全壊した。着の身着のまま家族全員で、近所の母校である稗田小学校に向かい、避難生活が始まる。

電気、ガス、水道、交通は全てストップしていたため、大変不便な生活を送った。小学校の教室には10人〜20人程の被災者が肩を寄せ合い、真冬の寒さを乗り切った。余震が起きるたびに、恐怖に怯えて暮らした。その震災の日の夜、教室から夜空を見上げた時に満月がポッカリと浮かんでいた。「何で皆んなこんな思いをせなあかんのや、、、」悔しくて悔しくて腹が立った。だけど、ニシオカはすぐに気持ちを前向きに切り替えた。「よし。絶対に神戸の皆んなが喜べる街に戻すぞ。俺の歌で皆んなを幸せにするぞ」と心に誓った。 被災して10日ほど過ぎた頃から、ようやく電気が復旧した。その時に、東京から澤井社長が父の中華料理店に電話を下さった。何度も何度もかけて下さっていたそうで、ようやく繋がって安心した。澤井社長は「僕に出来ることがあれば何でもさせて貰うから、遠慮なく言ってくれ」と仰ってくださり、ニシオカは電話越しで泣き崩れた。ようやく東京で歌手活動が出来るという時にこの震災に遭い、明るい未来を失いかけていた。もう東京に行く事も無理なのではないかと思っていた。

だが澤井社長は、ずっとニシオカの事を気にかけて下さっていた。「また東京に来れるようになったら来い!頑張れニシオカ・・・」そんな、澤井社長の想いがとても嬉しかった。真冬の被災地にいるニシオカの心を、澤井社長の1本の電話が安心させてくれた。

小学校での避難生活にも限界が近づてきた頃、母親の姉が声をかけてくれて、少し離れた姉の家に10日ほど泊まらせて貰うことになった。お風呂に入れること、家があること、明るい部屋にみんながいることにとても安心した。母親の姉のお陰で、冷え切っていた心がホッと温まった。

だが、そんな生活もずっと続けるわけにはいかず悩んでいた時、澤井社長のご厚意でニシオカは新大阪にあるチャンスネットワークの会社のオフィスで寝泊まりすることになった。一方で、父は自分の店で寝泊まりするようになる。母はまだしばらくは姉の家にいたのだが、ニシオカが神戸から大阪まで歩いて向かい、母と愛犬チェリーが暮らす家を探しに、不動産屋に乗り込んだ。だが門前払いもいいところ、何回も何回も断られ、ニシオカはだんだん腹が立っていき、不動産屋のスタッフに「震災で家が全壊したんや!何で貸してくれへんねん!」と半分怒りながら思いをぶつけたところ、やっと物件を紹介してくれて、母とチェリーは避難所生活から抜け出せることになった。

また、ニシオカはこの時期から仕事を始めることになる。澤井社長が立ち上げて下さった「HOTONレーベル」でCDを販売したり、チャンスネットワークに登録している会員様に配布する冊子の大阪ページを担当させて貰った。 そして、同年6月に心斎橋にあるアメリカ村三角公園で「美少女伝説」というコンテストを開催。キリンビバレッジ様にスポンサーになって頂き、大きなイベントを企画・制作し大成功をおさめた。そんな日々を過ごしていたが、いよいよ上京する日が近づいてくる。

被災中、ニシオカは母に「夢を諦めずに東京に行きなさい」と背中を押してもらい、上京すること決断したのだ。

1995年6月29日、ニシオカは新神戸駅から東京駅行きの新幹線に乗り、夢を追いかけて上京した。東京に着き、ニシオカはチャンスネットワークの本社がある恵比寿に向かった。会社では、澤井社長や他のスタッフ皆が歓迎して下さり、とても嬉しかった。その日の夜、吉祥寺でステーキを食べさせて貰った。会社の寮が府中市の中河原にあり、社員の男3人で暮らし始める。会社の事務作業などを手伝いながら、チャンスネットワークの会員様から送られてくる楽曲を聴いて、自身の作品選びに励んでいた。

同年10月14日、母の誕生日の日にライブハウスの恵比寿GUILTY(現:渋谷GUILTY)にて、チャンスアーティストによる「HOTONライブ」に出演が決まる。震災後上京して初めてのステージで、トリに選ばれた。ライブでは5曲披露し、最後に歌った西岡直人オリジナル曲「月〜1995年1月17日神戸の夜〜」(作詞/わらびさこじゅんや、作曲/宮井英行)を聴いた観客は、西岡直人の想いに惹きつけられ、西岡直人のファンになった。ライブが終わり会社の寮に帰るとき、夜空に震災の日に見たような満月が空に浮かんでいて、それを見た途端、神戸への思いが溢れ、今日を迎えられた事が嬉しくて涙が止まらなかった。

その後、西岡直人はチャンスアーティストとして人気が出始めた。同じ事務所内のロックバンド「ビー・トリップ」も人気が出始め、ニシオカとライバルになる。そしてすぐに「ビー・トリップvs西岡直人」が恵比寿GUILTYにて開催される。

この日のステージにそなえて、毎日朝から晩までトレーニングをし、万全の体制でライブに挑んだ。当日は、全国のチャンス会員がビー・トリップ対西岡直人の音楽試合を目に焼き付けに来場した。西岡直人のステージは、泣かせる曲や盛り上がる曲など様々な楽曲を披露して会場を沸かせた。まるで宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘のようだった。魂を込めたステージで、ライブは大成功をおさめた。

その後、日々の業務に戻り作曲に取り組んだり、澤井社長が開催していた作詞セミナーのサポート業務に携わる毎日だった。楽しい毎日を過ごしていた。だがしかし、会社の業績が悪くなり始め、会社の規模を縮小して恵比寿から渋谷の小さなオフィスに引っ越した。何とか続けていこうと社長も社員も努力したが、残念ながら倒産に追い込まれた。澤井社長の奥様には、いつもお弁当を作ってきて頂いたり、困った時に助けて頂いていたため、倒産になることは本当に辛かった。

1995年12月23日、最後に澤井社長と夜ご飯を食べることになった。「会社はうまく行かなかったけど、西岡は音楽頑張れよ・・・」と仰って頂いた。渋谷の吉野家で牛丼の並盛りをご馳走になった。そして最後にご挨拶をして、澤井社長と別々の道を進んだ。ここから、ニシオカナヲトの壮絶な生活が始まる。

会社が倒産してしまったため、寮からは出なくてはならなかった。震災後、着替えだけが入ったカバン1つで上京したため身の回りのものは殆どなく、カバンひとつで寮を最後にした。もちろん、行くあてなど無かった。12月24日クリスマスイヴの寒い日、ニシオカナヲトはホームレスになった。

故郷は阪神・淡路大震災で潰れてしまったため、帰る事は出来ない。というか、どちらにしても家が全壊したため、実家もホームレスなのである。ましてや、歌手になると決意して上京したのだから、夢を叶えるまで帰る事は出来なかった。実家も東京も家が無くなったため、「叶えるまで帰るな」という神様からのメッセージだとニシオカは受け止めた。ここから、ニシオカナヲトの路上生活が始まる。

寮を出てからはあまり記憶がなく、2,3日はフラフラと東京を彷徨った。こんな生活では手持ちのお金も無くなってしまうので、引っ越し屋の日払いのバイトの面接に行った。この時、"住所不定無職"という肩書きの状態だったため面接官に驚かれたが、事情を話して免許証を見せて身分を証明すると、ありがたいことに次の日から働かせてもらえる事になった。 そこから毎日毎日、引っ越し屋で働いた。一般家庭だけではなくオフィスや学校の引っ越し依頼があったため、週6日働かせて貰った。平均1日7,000円〜8,000円ほど日払いで稼ぐことが出来た。ただ辛かったのは、仕事が終わった後に帰る家が無かったことだ。ニシオカはホームレスだということを仕事仲間には打ち明けていなかったため、お疲れ様〜!と言いながら家に帰るふりをしていた。打ち明けなかったのは家が無いということが恥ずかしかったからだ。仕事が終わると、引っ越し屋の事務所があった水道橋付近のサウナやカプセルホテルに寝泊まりする生活を、2ヶ月ほど続けた。

心細くて惨めで、辛くて辛くて仕方なかった。ましてや1月で真冬だったため心も身体も凍えきった。とにかく家に住みたい・・・そう考えていた時、ふと過去の記憶が蘇りチャンスネットワークでお世話になっていた、渋谷の不動産屋を思い出して店に向かった。訪ねてみると、運良くお店に顔見知りのスタッフの方がおり、現在の事情を話すとすぐに物件を探してくれた。とにかくどこでもいいから家が欲しかった。そこで提案されたのが練馬区桜台のワンルームだった。内見もせず、入らせてくれ!と頼んだ。 そしてありがたいことに賃貸契約を交わすことができ、2ヶ月のホームレス生活に別れを告げた。家の鍵を貰ったときは本当に嬉しかった。家に着いてすぐに床に大の字になって寝そべり、天井を見上げた。 「あぁ・・・天井がある。壁もある・・・。」そう呟きながらニシオカは泣いた。その日は、近所のコンビニでお弁当と鯖寿司とお茶を買い、家具も何もない家で食べた。家で食べるご飯は、格別に美味しかった。 その後、お世話になった引っ越し屋のバイトは辞めて、家の近所で仕事を探そうと思い、近所を歩いていたら暇そうなカレー屋を見つけた。丁度、壁にアルバイト募集の張り紙があったのでそのまま店に入り、バイトさせて下さい!と申し込んだ。履歴書も無かったのに快く受け入れてもらい、明日から来て良いよ!と言って貰えた。そのカレー屋が、当時大人気だった「牛友チェーン」の本店である。

人物

学生時代

幼い頃、身体が弱かったことを両親が心配し、小学1年生から剣道を習うことになる。小学2年生まで、神戸市灘区の剣修会という道場に入っていた。最初は剣道がとても弱く、相手の面を打つことすらできなかった。 小学3年の時、第二回全日本剣道連盟主催大会"全日本選手権大会"で準優勝を収めた中尾巌先生[5]が主幹する、巌剣修会[6]に入る。入ったその年に、和歌山の弘道館が主催する近畿大会が行われ、団体戦のメンバーとして出場し優勝した。高学年になるにつれて、兵庫県の県大会や、日本武道館で行われた全日本剣道道場連盟主催の全国大会に出場し、上位の成績を収めるようになった。実家には数々の賞状やトロフィー、メダルなどが飾ってあった。

1982年3月、入学を控えていた兵庫県の名門高校である報徳学園高等学校剣道部の毎年恒例の岐阜合宿に1週間参加。そこで50戦し勝敗成績で二位に入り、レギュラーを獲得した。 1年生でレギュラーを獲得できたのは稀であった。 1982年4月、報徳学園高等学校に剣道で推薦入学し、剣道部に入部。高校1年のデビュー戦は西宮市剣道連盟主催の阪神大会高校の部に出場し団体戦で優勝。高校3年まで毎年出場し、3年連続で優勝をおさめる。 同年、兵庫県剣道連盟主催の兵庫県新人戦大会に団体戦 先鋒で出場し3位入賞。 1983年、公益財団法人全日本剣道連盟の昇段審査にて二段を修得。同年、兵庫県剣道連盟主催の兵庫県インターハイ予選の団体の部にて3位入賞。また、近畿高等学校剣道選抜大会に出場し、報徳学園の学校長より表彰される。 1984年、兵庫県私立中高等学校剣道大会に団体戦で出場し優勝。同年9月、公益財団法人全日本剣道連盟の昇段審査にて三段を修得。高校3年生までで三段を修得した者は、この年は兵庫県で4名しかいなかった。その4名の中に入っていた。

芸能界への道

小学2年生の頃から、芸能界に興味を持ち始める。 日本テレビで放映されていた太陽にほえろ!松田優作演じるジーパン刑事の最終話「ジーパン・シンコその愛と死」のジーパン刑事の殉職シーンを観て感動し、芸能界に入ることを決めた。 小学5年生の頃、音楽番組夜のヒットスタジオを何気なく観ていた時、谷村新司率いるアリスが登場し冬の稲妻を演奏。その時、今までに感じた事がない衝撃が身体に走る。アリスがキッカケで、将来は歌手になることを決めた。

愛犬チェリーとの絆

チェリーとの出会いは、ある新聞記事がキッカケとなる。1982年神戸新聞の記事に、"子犬、譲ります"の文字を母親が見つけ、井上さんというお宅から譲り受ける事になった。高校1年生だったニシオカは、井上さんへのお礼の品としてコンフェクショナリーコトブキという洋菓子店で、1000円のチョコレートを買い、待ち合わせ場所である近所の映画館の駐車場へ向かった。そして、子犬を抱きかかえる井上さんと対面し、人生で初めて子犬を抱っこした。雑種の雌犬で目がクリクリしており、うす茶色の毛並みがとても可愛かった。まだ小さかったためコロコロしていて愛くるしく、両耳が垂れていたため本当に可愛かった。桜が咲く、春の季節に我が家にやってきたということで、ニシオカが"チェリー"と名付けた。 いつもニシオカは、チェリーの事を人間のように可愛がってきた。

脚注

  1. ^ ニシオカナヲトプロフィール”. ニシオカナヲトファンサイト. 2022年8月7日閲覧。
  2. ^ 「ザ・キャラクターズ」プロフィール”. 日本コロムビア. 2022年8月10日閲覧。
  3. ^ ザ・キャラクターズ-コンプリートシングルズ”. タワーレコードオンライン. 2022年8月10日閲覧。
  4. ^ 原田信夫 シングル「壁」1990年05月21日リリース”. オリコンニュース. 2022年8月10日閲覧。
  5. ^ 全日本選手権大会”. 公益社団法人. 2022年8月8日閲覧。
  6. ^ 巌剣修会HP”. 巌剣修会. 2022年8月8日閲覧。