堀川とんこう

日本の映画監督、テレビプロデューサー (1937-2020)

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堀川 とんこう(ほりかわ とんこう、本名・堀川 敦厚(ほりかわ あつたか)。1937年5月24日 - 2020年3月28日[1][2][3])は、日本のテレビドラマプロデューサー演出家ならびに映画監督である。群馬県吾妻郡中之条町出身。妻は脚本家ノンフィクション作家高木凛

堀川 とんこう
湯河原町にて
プロフィール
本名 堀川 敦厚(ほりかわ あつたか)
誕生日 (1937-05-24) 1937年5月24日
出身地 日本の旗 日本
群馬県の旗群馬県吾妻郡中之条町
死没日 (2020-03-28) 2020年3月28日(82歳没)
死没地 日本の旗 日本
神奈川県の旗神奈川県足柄下郡湯河原町
出身校 東京大学文学部英文科
主な作品
テレビドラマ 『加納大尉夫人』
(1961年)
七人の刑事
(1967年)
安ベエの海
(1969年)
愛子
(1973年)
グッドバイ・ママ
(1976年)
岸辺のアルバム
(1977年)
モモ子シリーズ1~8』
(1982年~1997年 )
松本清張
ゼロの焦点
(1983年)
『私を深く埋めて』
(1984年)
松本清張作家活動40周年記念
『西郷札』
(1991年)
松本清張一周忌特別企画
『或る『小倉日記』伝』
(1993年)
松本清張特別企画
『父系の指』
(1995年)
『いじわるばあさん1~3』
(2009年~2011年)
『五年目のひとり』
(2016年)
映画千年の恋 ひかる源氏物語
(2001年 配給東映
受賞
小説 『砂の投影』
銀杏並木文学賞受賞
東大教養学部時代)
その他
・定年までTBS東京放送)にて勤務。
随筆春秋の創設者、堀川としの長男。
・その随筆春秋の指導者を生涯務める。
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来歴

群馬県吾妻郡中之条町立中之条中学校から群馬県立高崎高等学校に進学。その後、東京大学に入学し文学部英文科へ進む。[4]また、少なくとも中学校時代は、第84代内閣総理大臣小渕恵三と同級生であった。[5]

東京大学に在学中、小説『砂の投影』で、「銀杏並木文学賞」[6]を受賞。主催は、同大学教養学部 学友会学生理事会である。作品は、 その学友会発刊の雑誌『学園』[7]に掲載された。大学卒業後は、TBSに入社(1961年4月、当時23歳)。その後は、アシスタントディレクター(略称:AD)を皮切りにディレクター(略称:D)となり、さらにはプロデューサー(略称:P)、演出家として活躍することになる。

入社4年目の1964年(当時27歳)で結婚。相手は学生時代からの知り合いの中学教師だった。[8]1971年(当時34歳)に1度だけ、団地9階にある2DKの自宅のベランダから飛び下りようとしたことがあった。連続ドラマの第1回の完成試写会を見て絶望していた。当時の堀川は仕事人間で、休む間もなく働いていた。[9]

プロデューサーとしての代表作は、『岸辺のアルバム』である。ただし、本人はそう言われるのを素直には喜べない、という[10]。堀川は、当時40歳だった。毎週金曜日、午後10時から全15回で放送されたTBSTVドラマだ。 期間は、1977年(昭52)6月24日から9月30日。台風シーズンに合わせた放送スケジュールとなっていた。当時では珍しかった辛口のホームドラマである。今(2022年)から44年前、この番組をリアルタイムで観た世代は、2022年現在、50代後半以降となっている。

原作脚本山田太一プロデューサーが堀川敦厚(あつたか)、監督鴨下信一などである。山田太一小説が採用され(当時としては異色の辛口ホームドラマであったため、堀川の英断で採用を決定した)、ドラマが滞りなく最終回まで放送された、という点で一番の立役者は、プロデューサーの堀川敦厚である。後の堀川とんこうだ。プロデューサーというのは、番組に対する全責任を負っている。第12回では、その堀川が自ら演出も手がけた。

オープニングの、マイホーム多摩川の濁流に飲み込まれていくシーンには、実際のニュース映像が使われた。これが、多くの視聴者に鮮烈な印象を与えた。この趣向は、当時の堀川敦厚(あつたか)プロデューサーが考え出したものである。そのことは、堀川とんこうの著書である『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)にも記されている。新人だった国広富之を起用し育て上げたのも、堀川である。[11]

1984年には、『ゼロの焦点』『聖母モモ子の受難』(小見出し2:プロデューサー時代 参照)が、第34回 芸術選奨文部科学大臣新人賞(放送部門)を受賞した。堀川はこの2作品とはプロデューサー演出として関わっている。1998年(当時60歳)、TBSを定年退職後は監督業もこなし、2001年に『千年の恋 ひかる源氏物語』(小見出し2:監督・演出家時代 参照)の監督を務めた。東映の配給で、興行収入は21億円に達した。日本映画では同年トップテンの6位に入る。先輩の大山勝美が代表を務める、テレビ制作会社『カズモ』に所属していたが、2006年に独立する。

堀川は、竹下景子小林薫蟹江敬三橋爪功市原悦子をたびたび自身の作品に起用している。うち4人との関係は、自著『ずっとドラマを作ってきた』に綴られている。[12] 市原悦子だが、TBSを定年退職後の堀川の作品に頻繁に出演している。(小見出し2:監督・演出家時代 参照

2020年3月28日肺癌のため、神奈川県足柄下郡湯河原町の自宅で逝去[2][3]。享年82歳[2][3]

エピソード

  • 岸辺のアルバム』初放送の3年前、1974年9月1日から3日にかけて、台風16号のもたらした豪雨で多摩川が増水した。狛江市では左岸の堤防が260メートルにわたって決壊し、宅地3000平方メートルが濁流にえぐり取られ、住宅など19戸が流された。幸いにも住民は避難を済ませており、死傷者は1人も出なかった。マイホームが庶民の夢であった当時、多摩川沿いのしゃれた住宅が次々と流されていく光景は、そんな人々の夢を壊す残酷なものだった。映像の中では、木造の賃貸アパートが、壊れずにそのままの形で流されていくところが、はっきりと見てとれた。その様子を、 毎週繰り返し、ドラマのオープニングで見せられた当時の視聴者が、この事実に注目しないわけがなかった。そのアパートは、木質系パネル工法の採用を売りにしていた、ミサワホームの手がけた物件だった。[13]このオープニングを考えたのは、TBSプロデューサーの堀川とんこうである。そのことは、堀川の著書『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)にも記されている。[14]
  • フジテレビプロデューサーの横澤彪は東大文学部の同級生で、大学時代からの友人である[15]。ただし、横澤は在学中に留年したため、堀川のTBS入社(1961年)から1年遅れてフジテレビに入社した。
  • 堀川とんこうはTBS時代、『安ベエの海』(1969年)、『愛子』(1973年)という佐藤愛子原作のテレビドラマと関わった。前者はプロデューサー助手として、後者ではプロデューサーだった。『安ベエの海』は、佐藤愛子の初期の短編小説芥川賞候補ともなった『加納大尉夫人』が原作だ。『愛子』は、やはり佐藤愛子の自伝的小説である。堀川は、佐藤愛子の自宅を時々訪れては、取材などを行うようになっていた。堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)の58ページ以降に、上記事実が綴られている。
  • 実母の堀川とし(実業家)が、1993年に同人誌 随筆春秋を創設した。エッセイが専門の純文学同人である。[16]長男である堀川とんこう(随筆春秋創設当時、56歳)は、その後生涯にわたって、随筆春秋の指導者を務める。[17]随筆春秋に文章を掲載するほか、毎年開催される随筆春秋賞の選考委員も、長く務めた。[18][19]

主な作品

  TBS時代

 
TBS「赤坂メディアビル」。堀川の入社と同じ1961年竣工1994年まで「TBS本館」と呼ばれた。地上7階地下2階、塔屋3階。2003年まで。

AD時代(1961年4月、23歳。TBSへ入社)

  • 七人の刑事(1967年、堀川が担当した。[4]詳細は不明。番組自体は、TBS地上波で1958年〜69年の長期にわたり放送された)

ディレクター時代(1967年5月、30歳となる)

堀川は、プロデューサーとなるべく、『安ベエの海』で事前教育を受けた。そのとき堀川は、不本意にもプロデューサー助手を務めなければならなかった。『愛子』『グッドバイママ』ではいよいよ、プロデューサーとして看板を掲げることになる。そして次の『岸辺のアルバム』(小見出し2:プロデューサー時代 参照)からは、プロデューサーとして本格的な仕事をこなすようになる。堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)の55ページから56ページ、69ページ以降に、それらが記されている。

その『安ベエの海』であるが、原作は作家 佐藤愛子の『加納大尉夫人』(芥川賞候補作品)である。実は堀川はAD時代、同名のドラマを担当している。(小見出し2:AD時代 参照東芝日曜劇場枠だった。そのとき演出を務めたTBSの蟻川茂男(堀川の遠い親戚)が、「あれは連続ドラマになる」といって、テレビ小説の企画になった。それが『安ベエの海』である。堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)の55ページに当該事実が記されている。

 
竹脇無我(俳優)。TBSドラマ『岸辺のアルバムで、中流家庭の専業主婦・則子(八千草薫)と不倫関係になる。当時のホームドラマのタブーを破るストーリー展開である。

プロデューサー時代(1977年5月、40歳となる)

 
八千草薫(女優)。TBSドラマ岸辺のアルバム』で、中流家庭の専業主婦・則子を演じる。画像は23歳当時。八千草がこの役を演じたのは42歳のときである。
 
多摩川決壊の碑東京都狛江市)。1974年9月1日、台風による増水で堤防が決壊し、マイホームなど19戸が流された。この出来事が、TBSドラマ岸辺のアルバムのモチーフとなっている。

東京郊外の多摩川沿いに暮らす中流家庭を舞台に、当時のホームドラマではタブーとされていたエピソードが次々と展開される。幸せそうに見える4人家族。実はそれぞれが問題を抱えていた。母・則子(八千草薫)は、典型的な良妻賢母で専業主婦。その則子に、見知らぬ男(竹脇無我)から電話がかかってくるようになった。はじめは無視していたが、やがてふたりは会うようになり、不倫へと発展する。父・謙作(杉浦直樹)は一流商社のサラリーマン。だが倒産寸前の状態で、会社は金のため違法な商売を行っていた。娘・律子(中田喜子)は大学生。優秀で入試も容易に突破したが、この一年は家族に対して心を閉ざしていた。そんな彼女は白人男性と交際するようになり、やがて抜き差しならない事態を招いてしまう。息子・繁(国広富之)は大学受験を控えた高校生である。決して勉強のできる方ではないが優しい性格の持主だ。両親や姉の異変に気づき、思い悩む日々を送ることに……。TBSチャンネルの『岸辺のアルバム[20]より抜粋、その後修正加筆。

「あかね弁当」という弁当屋を舞台に、夫亡き後店を切り盛りする茜と、そこで働くことになった保護観察処分を受けている不良少年たちとの交流を描く。

大原麗子扮する27歳の薫は鉄を使ったアートを作る現代彫刻家である。結婚を考え始めた彼女の前に、魅力的な2人の独身男性が現れた。

「ソープランド」に改称した直後の放送で、冒頭にトルコ風呂の看板を付け替えるシーンがある。

女教師が、中学校の職員室に潜む教師同士の軋轢や生徒のいじめ問題など、教育現場を蝕むさまざまな現実に挑む。

  TBS退職後

監督・演出家時代(1998年、60歳。定年退職)

テレビ朝日系列の土曜ナイトドラマで放送された日本のテレビドラマ。原作は乃南アサの小説「パラダイス・サーティー」。ドランスジェンダーつまり性同一性障害を題材としている。

なかにし礼直木賞受賞作『長崎ぶらぶら節』が原作。

光源氏という男役に扮した天海祐希と、紫の上を演じる常盤貴子とが話題となった。出演者らの衣装や映像技術にも高い評価を得た。興行収入21億円。2002年度の日本映画では、トップテンの6位に入る。

突然、薫が電話で別れ話を切り出してきた。フリーのデザイナーになったばかりの薫にとって、今は結婚を考えられない。裕輔は早く結婚したがっている。薫には、そんな裕輔が苦痛で重荷だった。

どんな事にも満足できない元OLが「旅館の女将」を目指し修行中? 長所は「体力」、短所は「お節介」。実際に存在する、女将養成学校……。

花山美代(市原悦子)は、訪問看護師として、死を間近に意識した患者たちの自宅療養を支えている。一度倒れて以来、妻が口をきいてくれなく……。

出張で、ある南の島を訪れた商社マン・小野寺(上川隆也)が出会った現地人パイロット・レオ(マコ岩松)。3ヵ月後、小野寺を訪ねて来日したレオは能登へ行くと言い残し姿を消す。彼の真実の姿は……。

彼女の名は「李香蘭」。日本人・山口淑子として生まれたが中国で育ち、中国人女優・歌手の李香蘭として活躍した。……

石橋を叩き割るほど慎重な姉・雪緒(長谷川京子)と、自由奔放な妹(京野ことみ)。祖母・音羽(岸恵子)は、母・篠(壇ふみ)とともに金沢で小料理屋を営む。実はこの4人誰一人として血が繋がっていない……。

市原悦子主演の『いじわるばあさん』は、2009年から2011年に、フジテレビ系「金曜プレステージ」枠で、毎年1作ずつ、3作が放送された。それぞれ3話、2話、2話で構成。

老人の死は本当に自殺だったのか? 定年間近の保険調査員(柄本明)が解き明かす、老人の死の背後に隠された驚愕の事実とは? 老人には、移植手術が必要な心臓病を患う孫娘がいた。

生命保険の勧誘員 須村さと子は、夫殺しで自首した。1年半後、さと子には執行猶予の判決が下る。さと子の恋人 岡村は、プロポーズのしたときに、彼女から、「1年半待って」と言われたことを思い出した。

  • いじわるばあさん3 - 第2話「こんにちはモンスター」(2011年、フジテレビ、主演・市原悦子) - 脚本:井上由美子、演出:堀川とんこう

子供同士の結婚で一緒になるはずの2組の家族を、東日本大震災津波が襲った。西郷家は被害を免れ、浜口家は津波で家と家族を失う。2組の家族の運命の歯車が大きく狂い始める。

パン屋で働く中年 木崎秀次(渡辺謙)は、東日本大震災の大津波で家族8人を1度に失った。あることで木崎と顔見知りになった中学生の美松永亜は、その木崎の過去を知りまだ癒えぬその心の傷に触れていく。

著書

  • 『今夜も、ばれ飯』1995年、平凡社(サブタイトル:テレビのことば ドラマの風景)
  • 『ずっとドラマを作ってきた』1998年、新潮社

脚注

  1. ^ “堀川とんこう氏が死去 テレビプロデューサー”. 日本経済新聞. (2020年4月3日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57642490T00C20A4CC1000/ 2022年3月22日閲覧。 
  2. ^ a b c “堀川とんこうさん死去”. 朝日新聞. (2020年4月3日). https://www.asahi.com/articles/DA3S14427749.html 2022年3月21日閲覧。 
  3. ^ a b c “悼む:テレビ演出家・堀川とんこうさん=3月28日死去・82歳”. 毎日新聞. (2020年4月27日). https://mainichi.jp/articles/20200427/ddm/005/070/002000c 2022年3月21日閲覧。 
  4. ^ a b 堀川とんこう著『今夜も、ばれ飯』(1995年平凡社)の巻末に、以下の記載がある。――堀川とんこう(ほりかわ とんこう)TBSプロデューサー/ディレクター。1937年5月生まれ。東大文学部英文科卒業。1961年東京放送入社。手がけたドラマに『七人の刑事』(1967)、『グッドバイ・ママ』(76)、『岸辺のアルバム』(77)、『モモ子シリーズ』(82~90)、『私を深く埋めて』(84)、『或る「小倉日記」伝』(93)、『ボクの就職』(94)、『父系の指』(95)などがある。――以上
  5. ^ ◆同人誌 随筆春秋 旧公式HPの中の、以下URLにあるページに、この事実が記載されている。【堀川とんこう先生】https://zuishun.jp/99_blank022.htm 現在は閉鎖されてアクセスできない。 ◆ https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/084.html 左記は、首相官邸の運営する小淵恵三のウェブページである。ここに小渕恵三の生年月日が、1937年6月25日であることが記されている。 ◆https://www.pref.gunma.jp/01/a0700192.html 左記は、群馬県が運営する小渕恵三のウェブページである。タイトルは、――【名誉県民】小渕 恵三――。冒頭には、略歴として以下の記述がある。――昭和12(1937)年6月に群馬県吾妻郡中之条町で小渕光平、ちよ夫妻の二男として生まれ、中之条中学在学中に学習院中等科に編入するまで、幼少年時代を地元で過ごす。その後、都立北高等学校を経て、昭和37(1962)年3月早稲田大学第一文学部を卒業、同年4月早稲田大学大学院へ進学。―― ◆https://eiga.fandom.com/ja/wiki/%E5%A0%80%E5%B7%9D%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%93%E3%81%86 左記は、「映画ペディア」の堀川とんこう、のページ。以下に抜粋した。――堀川 とんこう(ほりかわ とんこう、本名・堀川 敦厚(読みは同じ)。1937年5月24日 - )は、日本のテレビドラマの演出家・プロデューサー並びに映画監督である。群馬県吾妻郡中之条町出身。中之条町立中之条中学校、群馬県立高崎高等学校、東京大学文学部卒業。―― ◆堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年、新潮文庫)のカバーを裏表紙に挟み込んだ部分に、堀川とんこうの略歴が記されている。それによると、堀川とんこうの誕生日は、1937年5月である。 ◆https://jimbutsu.jitenon.jp/cat/kentown10.php?town=495 左記は、人物事典オンライン。群馬県中之条町出身の有名人の一覧が掲載されている。そこに、小渕恵三と堀川とんこうの名前が見つかる。二人の生年は同じである。 ◆つまり、小渕恵三と堀川とんこうは、同じ群馬県吾妻郡中之条町の出身であり、生年は同じで、誕生月は、それぞれ6月と5月である。そして、少なくとも中学校では同級生である。
  6. ^ 第32回銀杏並木文学賞 - 東京大学教養学部学友会学生理事会
  7. ^ 書誌情報 - 国立国会図書館サーチ
  8. ^ 堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)の52ページに、このあたりのことが綴られている。
  9. ^ 堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)の54ページにこのあたりのことが綴られている。
  10. ^ 堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)〔四〕ウィル・ユー・ダンス? 『岸辺のアルバム』のこと――の70ページで、堀川は、「そういう訳で、せっかくの『岸辺のアルバム』については書きにくいところがある。なにをいっても俺が俺がの自慢話になるかもしれない。それで無理して自分の経歴から『岸辺のアルバム』を消していた時期もあったが、それはそれで、この番組に対する自分の素直な愛着を押し殺しているようで気持が悪かった」と述懐している。
  11. ^ 堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)の――[四]ウィル・ユー・ダンス? 『岸辺のアルバムのこと』――の章には、69ページから75ページにかけて、このあたりのことが、写真入りで、綴られている。
  12. ^ 堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)に、このあたりに関しての記述がある。 ◆カバーの裏表紙に織り込まれた部分には堀川とんこうの略歴が記述されていて、そこに㈱カズモのプロデューサー兼ディレクターであったことが記されている。 ◆以下は、[六]俳優たちへの片思い~四通の恋文、という章の中の4つの節である。片思い、恋文という言葉からも分かるとおり、堀川とんこうは、これらの俳優を自分が関わった作品の中で頻繁に起用している。 ・97ページから102ページにの「モモ子に子供を産めと迫った夜――竹下景子さんのこと」には、堀川とんこうと竹下景子との関係性が綴られている。 ・102ページから107ページの「花束とキッス――橋爪功さんとのこと」には、堀川とんこうと橋爪功との関係性が綴られている。 ・108ページから114ページの「写真集『ヴェルーシュカ』の思い出――蟹江敬三さんとのこと」には、堀川とんこうと蟹江敬三との関係性が綴られている。 ・「となり駅のアパート――小林薫さんとのこと」には、堀川とんこうと小林薫との関係性が綴られている。
  13. ^ https://www.misawa.co.jp/kodate/technology/mokusitu/safety/kouho/ 左記は、ミサワホームのウェブページである。ここに、当該事実に関する技術的な説明と写真が公開されている。また、ネット上からページ内を閲覧することはできないが、ミサワホームが出版公開している『ミサワホーム テクノロジー』という冊子にも、このあたりの技術的説明や画像が掲載されている。これらをまとめると以下のようになる。――木質系パネルというのは、木製の芯材を縦横に組み、それを両側から合板でサンドし、中の空間にはグラスウール(断熱材)を詰め込んだものである。そのパネルを使い現地で組み立てる工法を、木質系パネル工法という。在来工法とは異なり、柱を立てない。壁自体が、構造体(耐力壁)となっているのだ。発想は、ツーバイフォーとも似ている。その意味で、木質系パネル工法というのは、現地で施行を行うツーバイフォーをプレハ化したもの、ということもできる。木質系パネルは、予め、工場で生産される。つまり、これがプレハブという意味である。 なお、木質系パネル工法による住宅は、強固なモノコック構造となる。モノコック構造とは、切れ目のない箱型ということだ。乗用車のボディーなども、板金による箱型となっていることから、モノコックボティーと呼ばれている。それと同じだ。どちらも軽量で、とても頑丈である。ミサワホームの社員研修では、いまだに、『岸辺のアルバム』のオープニング映像が使われることがある、という。折しも1976年(昭51)9月、ミサワホームからは、この木質系パネル工法を採用した、O型という企画住宅が発売となっていた。価格帯は、当時のサラリーマンにも手が届く設定だった。O型は、その後十数年間にわたり販売され続け、累計5万戸も売れている。驚くべき数字である。 このO型は、実は日本では初めてのLDKを取り入れた間取りとなっていた。LDKというのは、リビング、ダイニング、キッチンとが一体となった間取りだ。現在では、日本全国に普及している。それらの陰には、ドラマの影響があった。つまり、『岸辺のアルバム』以降、木質系パネル工法を得意とするミサワホームや、大手住宅メーカーのツーバイフォーの住宅が注目されるようになった。そしてミサワホームO型の出現により、そのLDKという間取りも日本中に伝播した。こうして堀川とんこうは、図らずも、日本の住宅文化に影響を与えることになった。―― 以上
  14. ^ 堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年、新潮社)には、以下のように記されている。79ページより抜粋した。――ドラマのタイトルバックの画面はディレクターが作るのが普通だが、『岸辺のアルバム』ではどういう事情だったか私が作った。人から指摘されたことはないが、プロデューサーとしては視聴率対策をたっぷり施した画面である。そのことを再放送のたびに思い出す。つまり、多摩川の堤防決壊のニュース・フィルムが最初についていて、そのあとで平和な川岸の風景になって、タイトルの文字が入る。更に途中でも短く家族が暴風のなかで叫ぶスチール映像が入る。しかし、ドラマで堤防の決壊が起こるのが最終回だ。少しでもドラマチックな印象を与えようとしているのだが、最終回のクライマックスを冒頭で明かすのは実は変なものなのだ。―― 以上
  15. ^ 【横澤彪のチャンネルGメン69】李香蘭になりきれなかった「上戸彩」
  16. ^ https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000007703166-00 左記は、国立国会図書館オンラインの、検索結果ページである。ここに、随筆春秋 創刊号に関しての詳細情報がある。当該冊子に、このあたりの事情が記述されている。――嬉しい仲間たち…序にかえて…(『随筆春秋』講師 齋藤信也)――という序文がそれである。なお、随筆春秋創刊号に関しては、Amazonで復刻版が販売されている。以下である。https://www.amazon.co.jp/dp/B08CF1CJFZ/
  17. ^ このあたりのことは、一般社団法人 随筆春秋が春と秋に発刊している随筆春秋(同人誌)を閲覧すると、その事実が理解できる。例えば、2020年の第53号の巻頭に、「僕たちの秋(10)」という堀川とんこうの文章が掲載されている。巻頭には指導者の文章が掲載されるようだ。随筆春秋は、国立国会図書館オンラインで、その創刊号についての詳細を閲覧することができる。以下である。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000007703166-00 そこに、「刊行状態:継続刊行中」との記述がある(2022.05.29現在)。
  18. ^ https://zuishun.themedia.jp/ 左記は、随筆春秋公式HPである。この「沿革」セクションに、堀川とんこうが生涯、随筆春秋と関わりを持ったことについて理解できる記述がある。
  19. ^ 同人誌 随筆春秋 旧公式HPの中の、以下URLにあるページに、この事実が記載されている。【堀川とんこう先生】https://web.archive.org/web/20210926085242/https://zuishun.jp/99_blank022.html 現在は閉鎖されてアクセスできない。随筆春秋は、一般社団法人という法人格を有している。
  20. ^ https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d0038/ 左記は、TBSチャンネルのウェブページで、ここにTBSドラマ『岸辺のアルバム』についてのさまざまな番組データが記載されている。

関連項目

外部リンク