徳本政敬

日本の元プロ野球選手 (1972-)

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徳本 政敬(とくもと まさのり、1973年6月22日 - )は、三重県熊野市出身の元プロ野球選手内野手[1]。右投右打[3]

徳本 政敬
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県熊野市[1]
生年月日 (1973-06-22) 1973年6月22日(52歳)[1]
身長
体重
188[2] cm
90[2] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1991年 ドラフト2位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

1991年プロ野球ドラフト会議広島東洋カープから2位指名を受けて入団し[4]1992年から1997年までは広島で、1998年オリックス・ブルーウェーブでそれぞれプレーしたが、一軍公式戦への出場を果たせないまま現役を引退した[5]

来歴

プロ入り前

熊野市大泊町出身[4][6]。幼少期から大柄で、小学校ではソフトボール、中学校では軟式野球に熱中した[5]

熊野市立木本中学校を経て木本高校に進学[3]。木本高校時代は甲子園出場を果たすことはできなかったが、高校通算打率.376、39本塁打を記録[5]安打8本のうち1本が本塁打という割合で[1]、超高校級スラッガーとして[7]、中央球界から注目されていた[3]。1年生だった1989年夏の三重県大会ではベンチ入りを果たし、パンチ力抜群の大型新人として取り上げられていた[8]。2年生だった1990年夏の三重県大会では3番打者を打った[9]。同年秋には選手18人で三重県大会ベスト4入りを果たし[10]明治神宮大会に出場[3]。同大会ではで2本塁打を放ち[3][11]、チームは決勝戦で国士舘高校に敗れたものの準優勝を果たした[10]。3年生だった1991年5月の第38回春季東海地区高校野球三重県大会予選の準決勝では、井手元健一朗を擁する四日市工業高校相手に14対4で5回コールド負けした[12]。同年夏の三重大会では4番打者を打ち[13]、監督の松崎敏祐が「監督就任15年目で最強のチーム」と自負したチームで「黒潮打線」の中心を担っていたが[14]、3回戦で三重高校に6対9で逆転負けした[15]。本来は三塁手だが、同大会ではチーム事情から遊撃手、1991年春には二塁手としてそれぞれプレーしていた[3]

3年時の主将だった橋屋順二は[14]、同期の徳本が高校時代に飛躍したことから「高校3年間で生徒たちは大きく成長する」という考えを持つようになり、2022年時点でも木本高校野球部の指導を行っている[10]

プロ選手時代

広島からドラフト2位指名

1991年度のプロ野球ドラフト会議前には身長188 cm、体重90 kgの大型内野手として、全国的に注目されていた[3]。また当時ドラフト候補だった内野手で長距離打者の素質を持つ打者は少ないとされていたことから[3]東海地区の高校生としては愛工大名電高校の鈴木一朗こと後のイチローオリックス・ブルーウェーブから4位指名)や井手元(中日ドラゴンズから5位指名)らを差し置いて最も注目されており[3][16]横浜大洋ホエールズ以外のNPB 11球団が徳本に接触していた[3]。本人は好きな球団としてヤクルトスワローズ西武ライオンズを挙げていたが、「ドラフトで名前を挙げてもらえるだけで十分」とコメントしており、2位指名が有力視されていた[3]。また西武は1位候補にも挙げており[17]、管理部長の根本陸夫は交渉権獲得を逃した際に無念さを見せていたという[1]

そして迎えたドラフト会議当日、徳本は西武と広島東洋カープの2球団からそれぞれ2位指名を受け、抽選の結果広島が交渉権を獲得[16]。同年12月6日に契約金5,000万円・年俸500万円(いずれも推定)という条件で広島と仮契約した[18]。木本高校出身のプロ野球選手は、高見昌宏に次いで2人目だった[19]。ドラフト同期には1位の町田公二郎専修大学)、4位の金本知憲広陵高校)がいた[17]同年の広島は通算6回目のセントラル・リーグ優勝こそ達成したものの、チーム本塁打は88本、チーム打率も.254と打撃成績が大きく低迷しており、野手の補強が急務になっていたことから、町田・徳本・金本と長打力のある野手を複数指名していた[17]。担当スカウト龍憲一[20]、当時の広島には山本浩二(当時の監督)や衣笠祥雄が引退して以来、クリーンアップを打てる右打者が不在だったことから、龍は徳本に大きな期待を寄せていた[4]。また本人も当面の目標として一軍入りを掲げ、高校時代に対戦した井手元とプロでも勝負したいという抱負を語っていた[4]背番号は46[21]

入団後

1992年から1997年まで6シーズンにわたり広島でプレーした[5]

プロ1年目である1992年春のキャンプは一軍で迎えたが、最初の春季キャンプで一軍入りした広島の高卒野手は徳本以降、27年後の2019年に入団した小園海斗までいなかった[22][23]。このキャンプでは1位の町田以上に注目されており、紅白戦にも出場して紀藤真琴から本塁打を放っていた[1]

同年は一軍(セントラル・リーグ)公式戦への出場機会はなく、二軍ウエスタン・リーグ)でのみプレーした。5月21日の対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場)で、同期の町田とともに初本塁打を記録、6月9日の対福岡ダイエーホークス戦(平和台野球場)で2号本塁打を打つが、その後は伸び悩み、8月16日時点で28試合に出場して50打数7安打、打率.140という成績であり、二軍打撃コーチの内田順三からは「すべてにスピード不足」と評されていたが、経験を積ませるため出場機会を与えられ続けていた[1]。同シーズンの最終的な成績は、50試合に出場して134打席、122打数、12得点、23安打、打率.189、5本塁打、13打点、0盗塁、8四球、3死球、39三振、14失策だった[24]

1993年はウ・リーグで60試合に出場して155打数30安打(5二塁打)、打率.194、4本塁打、17打点、2盗塁、11四死球、39三振の成績だった[25]

1994年二軍監督安仁屋宗八から「結果はどうであれ、四番で押し通す」と期待を受け、一塁手のレギュラーとして起用され、本人も6月に一軍に昇格したいと意欲を見せていた[26]。同年はウ・リーグで59試合に出場して174打数24安打(7二塁打・1三塁打)、打率.138、2本塁打、11打点、3盗塁、7四死球、53三振の成績だった[27]

入団4年目の1995年にはウ・リーグで72試合に出場して規定打席に到達[注 1]、230打数45安打(7二塁打・3三塁打)、打率.196(規定打席到達者数中25位)、13本塁打、43打点、2盗塁、31四死球、60三振の成績を残し[29]中村良二近鉄バファローズ)とともにウ・リーグの本塁打王を獲得した[30]

1996年はウ・リーグで72試合に出場して216打数60安打(11二塁打・1三塁打)、打率.278、8本塁打、38打点、0盗塁、17四死球、53三振の成績だった[31]

1997年はウ・リーグで77試合に出場して205打数、22得点、36安打(8二塁打・0三塁打)、打率.176、5本塁打、59塁打、22打点、4盗塁、1盗塁死、5犠打、3犠飛、21四球、5死球、53三振、1併殺打の成績だった[32]。課題とされた攻守の粗さが克服できなかったことから一軍出場を果たせず[5]、同年10月1日に戦力外通告を受け[33]、同年12月2日付で自由契約選手となった[34]。一方でオリックスの入団テストを受験し、同年11月19日に入団が発表された[35]

1998年はウ・リーグで40試合に出場して45打数、2得点、2安打(1二塁打・0三塁打)、打率.044、0本塁打、3塁打、2打点、0盗塁、0盗塁死、0犠打、0犠飛、4四球、1死球、13三振、2併殺打の成績で[36]、同年9月24日にオリックスから戦力外通告を受けた[37]。一軍出場を果たせないまま、同年限りで現役を引退した[5]

引退後

引退後は地元の熊野市に帰り[38]、整体師を目指した時期もあったが、2001年に大泊町の自宅の倉庫を改造して韓国料理店「KAN」を回転した[5]。店を開いた動機は、子供のころに自宅で母が開いていたや料理教室に集まった主婦らの笑い声と、その味を思い出したからだという[5]。また2004年2月からは小学生を対象にした硬式野球教室のコーチを始めていた[5]

2014年時点では防犯パトロールボランティア「子ども見守り隊」御浜支部の隊員として活動している[39]

選手としての特徴・人物

高校時代はその長打力に加え、大柄ながら守備面も器用であり、小柄な選手にも劣らない俊敏さを有することも評価されていた[3]

プロ入り当初は、目標とする選手に西武の秋山幸二を挙げ、将来の夢は名球会入りであると語っていた[1]。また当時の監督である山本浩二からは、当時西武で活躍していた清原和博に近いタイプであると評されていた[40]

3歳年上の兄である徳本春敬(あつのり)も弟・政敬と同じく身長185 cm、体重91 kgと恵まれた体格の持ち主で、地元の木本中学校・木本高校を経て、スポーツ特待生として愛知学院大学に進学した[41]。春敬は俊足・強肩・強打の外野手として大学でも注目されていたが、故障に泣かされ一度はプロを断念、ノンプロを目指していたものの、1992年11月に韓国プロ野球三星ライオンズと契約した[41]。契約金は2,000万韓国ウォンで、登録名姜 春敬(강춘경)だった[42]。サムスン入団後、春敬は土井正博の指導を受けつつ、将来は日本に戻って弟と対決することを目標にしていたが[41]、芳しい成績を残すことができず1994年限りで退団している[注 2][42]

詳細情報

年度別打撃成績

  • 一軍公式戦出場なし[5]

背番号

  • 46 (1992年 - 1997年)
  • 65 (1998年)[2]

脚注

注釈

  1. ^ 同年の広島の規定打席数は245[28]
  2. ^ 1994年は一軍昇格できなかった[43]

出典

  1. ^ a b c d e f g h 「好評連載 ファーム・ホットライン 徳本政敬(広島) 高校で39本塁打の大砲 開花まで練習あるのみ」『週刊ベースボール』第47巻第38号、ベースボール・マガジン社、1992年9月7日、108頁、NDLJP:7909774/1/55  - 通巻:第1957号(1992年9月7日号)。
  2. ^ a b c (解説)江川卓、(制作)二宮清純、(データ監修)宇佐美徹也、(データ提供)社団法人 日本野球機構 IBM BIS・株式会社アソボウズ 著、(編集)株式会社デポルテ、(編集担当)飯田健之・松本恵 編『プロ野球スカウティングレポート'98』(第1刷発行)ザ・マサダ、1998年3月25日、268頁。ISBN 978-4915977572NCID BA39920827国立国会図書館書誌ID:000002686913全国書誌番号:98078201 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 中日スポーツ』1991年11月20日第5版4頁「中部のドラフト候補生 徳本(木本高) 2位で消えそう 守備も抜群のスラッガー 11球団があいさつ済み(阿知波)」「林(東邦鈴木名電)も高評価(浩)」(中日新聞社
  4. ^ a b c d 『中日新聞』1991年12月7日朝刊三重版「【三重県】こちら“若ゴイ”誕生 広島と契約の木本高徳本君 「目標は一軍入り」」(中日新聞社)
  5. ^ a b c d e f g h i j 読売新聞』2004年4月11日中部朝刊第三社会面28頁「[あしたがある](138)バットから包丁転身スラッガー」(読売新聞中部支社 村田幸次)
  6. ^ 『中日新聞』1991年12月30日朝刊三重版「【三重県】ことしの頑張り さる年も負けずに 自覚を持って、体づくり精励 プロ野球ドラフト会議で広島東洋カープに二位指名され、同球団に入団した木本高三年徳本政敬選手(18)」(中日新聞社)
  7. ^ 『中日新聞』1991年7月19日朝刊三重版「【三重県】高校野球三重大会 球児の夏あす火ぶた 67校の頂点はどこに 行方探る 満を持す3強豪・Cゾーン」(中日新聞社)
  8. ^ 『中日新聞』1989年7月4日朝刊三重総合版「【三重県】甲子園めざして 66チームの横顔(10)」(中日新聞社)
  9. ^ 『中日新聞』1990年7月11日朝刊三重総合版15頁「【三重県】甲子園めざして 66チームの横顔(17) 木本 上位打線は俊足ぞろい」(中日新聞社)
  10. ^ a b c 中日新聞』2022年12月9日朝刊三重総合版17頁「みえ人模様 木本高野球部を支えるOB 橋屋順二さん 後輩に託す聖地の夢」(中日新聞社・森雅貴)
  11. ^ 明治神宮野球場(編集)『明治神宮野球大会二十年誌』ベースボール・マガジン社製作、1990年。
  12. ^ 『中日新聞』1991年5月5日朝刊三重総合版15頁「【三重県】四日市工と明野がきょう決勝で激突 春季高校野球県予選」(中日新聞社)
  13. ^ 『中日新聞』1991年7月17日朝刊三重版「【三重県】甲子園めざして 67チームの横顔(17) 剛腕エース大崎が安定 木本」(中日新聞社)
  14. ^ a b 『中日新聞』1991年7月14日朝刊三重版「【三重県】高校野球三重大会 展望 甲子園へピタリ照準 強豪ひしめくCゾーン できた最強チーム木本の松崎監督」(中日新聞社)
  15. ^ 『中日新聞』2023年7月7日朝刊くろしお版16頁「全国高校野球三重大会(下) 木本高 統合まで夏あと2回 親子2代で狙う初出場 「OBや地域に恩返ししたい」」(中日新聞社・森雅貴)
  16. ^ a b 『中日スポーツ』1991年11月23日第5版4頁「徳本、広島2位 中部からは12選手 東邦・林が指名もれ」(中日新聞社 阿知波)
  17. ^ a b c 『中国新聞』2019年12月11日付「カープドラフト史 第3部<7>1991年 金本、予想超える大成功」(中国新聞社)
  18. ^ 『中日新聞』1991年12月7日朝刊運動1面27頁「【広島】ドラフトだより 6日」(中日新聞社)
  19. ^ 安倍昌彦「マスクの窓から野球を見れば > 16歳の大谷翔平に衝撃を受けた地。「晩秋のセンバツ」で熊野が燃える! - 高校野球」『Number Web文藝春秋、2017年12月3日、1面。オリジナルの2024年2月18日時点におけるアーカイブ。2024年2月18日閲覧。
  20. ^ 『中日新聞』1991年11月29日朝刊三重総合三紀「【三重県】和やかムード初の入団交渉 ドラフト指名の広島 木本高の徳本選手宅を訪問」(中日新聞社)
  21. ^ 『中日新聞』1991年12月25日朝刊運動1面19頁「広島が新入団発表 12球団の最後」(中日新聞社)
  22. ^ 市尻達拡「【野球】広島・ドラ1小園、あるさ~沖縄1軍キャンプ 課題の打撃も迎コーチ高評価」『デイリースポーツ神戸新聞社、2019年2月9日。オリジナルの2024年2月19日時点におけるアーカイブ。2024年2月18日閲覧。
  23. ^ 福嶌弘「春季キャンプで一軍メンバーに入った高卒ルーキーの“1年目”は…?」『BASEBALL KING』株式会社シーソーゲーム、2019年1月28日。オリジナルの2024年2月18日時点におけるアーカイブ。2024年2月18日閲覧。
  24. ^ 『週刊ベースボール』1992年12月14日号(第47巻第55号、通巻:第1974号)97頁「保存版 記録の手帳 92年プロ野球ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人成績 広島東洋カープ」(ベースボール・マガジン社)
  25. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1994』ベースボール・マガジン社、1993年12月25日第1版第1刷発行、630頁。
  26. ^ 『週刊ベースボール』1994年5月2日号(第49巻第19号、通巻:第2085号)106頁「ファーム・ホットライン ウエスタン・リーグ 広島に不動の四番登場」(ベースボール・マガジン社)
  27. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1995』ベースボール・マガジン社、1994年12月25日第1版第1刷発行、520頁。
  28. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1996』ベースボール・マガジン社、1995年12月25日第1版第1刷発行、637頁。ISBN 978-4583032719
  29. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1996』ベースボール・マガジン社、1995年12月25日第1版第1刷発行、638頁。ISBN 978-4583032719
  30. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1996』ベースボール・マガジン社、1995年12月25日第1版第1刷発行、734頁。ISBN 978-4583032719
  31. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1997』ベースボール・マガジン社、1996年12月25日第1版第1刷発行、545頁。
  32. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1998』ベースボール・マガジン社、1997年12月25日第1版第1刷発行、679頁。
  33. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1998』ベースボール・マガジン社、1997年12月25日第1版第1刷発行、63頁。
  34. ^ 毎日新聞』1997年12月11日東京朝刊スポーツ面21頁「プロ野球 自由契約選手は「宝の山」!?――「野村方式」、他球団でも 大金不要の補強源」(毎日新聞東京本社【荒木功】)
  35. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1999』ベースボール・マガジン社、1998年12月25日第1版第1刷発行、34頁。
  36. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1999』ベースボール・マガジン社、1998年12月25日第1版第1刷発行、673頁。
  37. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1999』ベースボール・マガジン社、1998年12月25日第1版第1刷発行、63頁。
  38. ^ 『中日新聞』2004年1月17日朝刊牟婁版24頁「小学生対象の硬式高校野球 熊野、20日から募集」(中日新聞社 河北直行)
  39. ^ 安全安心へ積極的に 子ども見守り隊 御浜支部が発足式」『吉野熊野新聞』(PDF)、吉野熊野新聞社、2014年7月29日。オリジナルの2024年2月18日時点におけるアーカイブ。2024年2月18日閲覧。
  40. ^ 中国新聞』2020年9月10日「球団70年を彩った男たち【1992年連載「CARPルーキー頑張ってます」】 <2> 徳本政敬(内野手)=ドラフト2位」(中国新聞社
  41. ^ a b c 『中日新聞』1992年11月7日朝刊三重総合面三紀「【三重県】徳本兄選手(木本高校野球部出身)韓国プロ入り夢は日本に戻り、弟と対決」(中日新聞社)
  42. ^ a b 히스토리 > 삼성라이온즈21” (朝鮮語). サムスン・ライオンズ. 2024年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年2月19日閲覧。
  43. ^ 『週刊ベースボール』1994年11月7日号(第49巻第49号、通巻:第2084号)102頁「気になる隣国のプロ野球事情 韓国プロ野球リポート」(ベースボール・マガジン社)

関連項目