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イギリス太平洋艦隊
British Pacific Fleet
1945年頃のイギリス太平洋艦隊、6隻の空母のうち HMSインプラカブルを除く5隻。
創設 1944-1945
国籍

英国海軍

オーストラリア海軍カナダ海軍ニュージーランド海軍
軍種  イギリス海軍
任務

メリディアン作戦 沖縄戦

日本本土への艦砲射撃
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(図4) 英国太平洋艦隊は1945年3月15日に米国第5艦隊に加わり、第57任務部隊(タスクフォース57)に任じられた。TF57は沖縄侵攻作戦「アイスバーグ」の一環として八重山群島の日本軍飛行場を封じ込めるため、3月27日から空爆を開始した。

イギリス太平洋艦隊 (イギリスたいへいようかんたい) (British Pacific Fleet; BPF) は、第二次世界大戦太平洋戦争末期において、イギリス海軍 (Royal Navy) が対日本戦のために編成した艦隊。1944年11月、セイロンにて、イギリス海軍およびオーストラリア、ニュージーランド、カナダのイギリス連邦海軍の空母、戦艦、潜水艦、補給船などで編成された。艦隊は南洋諸島での日本の補給経路封鎖から始まり、1945年3月からは、石垣島宮古島の日本軍飛行場を無力化することで米軍の沖縄侵攻作戦 (アイスバーグ作戦) を背後から支援した。当然ながら日本のカミカゼによる激しい攻撃にさらされたが、装甲空母と最新の戦闘機で効果的に防御した。1945年7 月には日本本土への艦砲射撃に加わり、1945年8月に日本が降伏するまで、戦艦4隻、空母6隻、小型空母15隻、および750機以上の艦載機を有した。

イギリス太平洋艦隊の誕生

イギリス海軍は、北極、北大西洋、地中海、インド洋の戦域に広く展開し余裕がないことから、1942年から1943年にかけて司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング提督からの支援要請を繰り返し断っていた。しかし、イタリアとドイツの艦隊が無力化された後は、日本軍との戦いに参入し、極東の海域におけるイギリス海軍の存在を示す意味に意欲を向けるようになった。しかし米国太平洋艦隊司令官キング提督の返事は快いものではなかった。アメリカ海軍は英国の支援なくしても単独で日本艦隊に決定的な敗北をもたらす用意ができていたからである。またヨーロッパ戦線を第一と考えるイギリスのチャーチル首相も当初は太平洋艦隊の創設に難色を示していた。

しかしイギリスの太平洋におけるプレゼンスを示すためにも、極東に足を延ばす必要があるとされた。1944年9月28日、チャーチルは議会でこの「新しい局面」について演説した[1]

私は米国大統領に対し英国政府を代表して英国は全力と資源を尽くして最後まで対日戦争を遂行すると約束した。前回での議会演説で宣言したように、日本には米国が被った損害と少なくとも同等か、実際にはそれ以上の損害を修復し、返済してもらわなければならない借りがある。私たちはオーストラリアとニュージーランドに対して、彼らの国に対する日本の脅威を永久に取り除くために支援する義務がある。そして、彼らはドイツとの戦いにおいてあらゆる面で私たちを助けてくれたので、私たちは彼らに効果的な援助を与えることに決して後れをとってはならないのです。


重装甲空母とカミカゼ

(図3) 米軍が沖縄本島で鹵獲した日本海軍資料を米海軍が翻訳した資料の一部。
(図5) 北から南方向にむけて撮影された米海軍の空中写真。キャプションには「タスクユニット32.1.3. による連続的な空爆によって打ちのめされた石垣島の宮良飛行場」と記されている。
(図3) 米軍が沖縄本島で鹵獲した日本海軍資料を米海軍が翻訳した資料の一部。
(図4) 英国太平洋艦隊は1945年3月15日に米国第5艦隊に加わり、第57任務部隊(タスクフォース57)に任じられた。TF57は沖縄侵攻作戦「アイスバーグ」の一環として八重山群島の日本軍飛行場を封じ込めるため、3月27日から空爆を開始した。

漢那収容所

3月26-27日、米軍による空襲が激しくなり、漢那が集中攻撃を受ける。全戸数123戸のうち47戸が焼失し、豚や山羊の被害も推定50~60頭に及ぶ。

4月、山に避難していた城原の人々は飛行機から散布された投降のビラを確認し、3日後には米軍の民間人収容地に入る。

6月、護郷隊、漢那に駐屯する米軍に夜襲をかける。

6月25日、米軍によって漢那の人々が山間地の安仁堂から集落へ戻る。7月、ギン原初等学校が城原に移り、中川初等学校となる。

収容所 軍務管轄区域 将校 下士官
エンジェル島 9 24 71
アイオワ州クラリンダ 7 - 73
ウィスコンシン州マッコイ 6 3 10
メリーランド州ミード 3 1 -
テキサス州ケネディ 8 91 499
ワシントンD.C.マディガン・ジェネラル病院 9 3 -
戦時民間人管理局の集合所 軍務管轄区域 軍務管轄区域
フレズノ集合センター フレズノ郡 5-6-42から10-30-42
メアリーズビル集合センター (アルボガ集合センター) ユバ郡 5-8-42から6-29-42
メイヤー集合センター ヤバパイ郡 5-7-42から6-2-42
マーセド集合センター マーセド郡 5-6-42から9-15-42
パインデール集合センター フレズノ郡 5-7-42から7-23-42
ポモナ集合センター ロサンゼルス郡 5-7-42から8-24-42
ポートランド集合センター マルトノマ郡 5-2-42から9-10-42
プヤラップ集合センター (キャンプ・ハーモニー) ピアース郡 4-28-42から9-12-42
サクラメント集合センター (ワレルガ集合センター) サクラメント郡 5-6-42から6-26-42
サティナス集合センター モントレー郡 4-27-42から7-4-42
サンタアニタ集合センター ロサンゼルス郡 3-27-42から10-27-42
ストックトン集合センター サンホアキン郡 5-10-42から10-17-42
タンフォーラン集合センター サンマテオ郡サンブルーノ 4-28-42から10-13-42
トゥラレ集合センター トゥラレ郡 4-20-42から9-4-42
ターロック集合センター スタニスラウス郡 4-30-42から8-12-42
ジェローム アーカンソー 個人所有
ローワー アーカンソー 個人所有
WRA移転センター
ギラ川移転センター:

ビュートキャンプアンドカナルキャンプ

ピナル郡 7-10-42から11-10-45
グラナダ・リロケーション・センター、別名アマチェ プロイーズ郡 8-27-42から1-27-46
ハートマウンテンリロケーションセンター パーク郡 8-11-42から11-10-45
ジェローム・リロケーション・センター チコット郡とドリュー郡、AR 10-6-42から6-30-44
マンザナール移転センター,

もともとオーエンズバレー

レセプション/集合センター

インヨ郡 6-1-42から11-21-45

(レセプションセンターオープン3-22-42)

ミニドカ移転センター ジェローム郡、ID 8-10-42から10-28-45


アメリカ本土での日本人捕虜収容所

キャンプ・マッコイからエンジェル島を経由し日本に帰還する捕虜が書いたと思われるエンジェル島収容所の壁の書き込み 「昭和21年11月7日12時、母国横浜に向かう。マッコイ収容所のBとCクラスの700人がサンフランシスコを出発。」

1945年8月1日時点でのアメリカ本土での日本人捕虜収容所の収容人数[2]

収容所 軍務管轄区域 将校 下士官 兵士 合計
エンジェル島 9 24 71 312 407
アイオワ州クラリンダ 7 - 73 982 1,055
ウィスコンシン州マッコイ 6 3 10 2,749 2762
メリーランド州ミード 3 1 - 1 2
テキサス州ケネディ 8 91 499 - 590
ワシントンD.C.マディガン・ジェネラル病院 9 3 - 2 5

関連項目

外部リンク

生きているのに靖国に祀られ…捕虜となった凄腕零戦パイロットの葛藤

参考資料

  • Krammer, Arnold. “Japanese Prisoners of War in America.” Pacific Historical Review, vol. 52, no. 1, University of California Press, 1983, pp. 67–91.

脚注

収容所リスト 第二次世界大戦中、12万人以上の日系人が米国中のさまざまな収容所に収容された。これらの収容所は幾つかの異なる米国政府機関によって運営されていた。

  1. 強制収容所

日系アメリカ人を西海岸から強制退去させるために 戦争移住局 が運営する10の特別に建設された長期キャンプの1つで、 キャンプで生まれた人や後に移住した人を含めて合計12万人。人口密集地から遠く離れた荒涼とした地域に建設されたこれらの収容所は、1942年の夏に操業を開始し、婉曲的に「集会所」と呼ばれる短期収容所からほとんどの囚人が移送されました。一部の囚人は1942年末までに第三国定住のためにこれらの収容所を離れることができたが、ほとんどは1945年まで収容所に留まり、最後の強制収容所である トゥーリーレイク は1946年3月まで閉鎖されなかった。

野嵩収容所 (のだけしゅうようしょ) は沖縄戦のさなかに米軍沖縄県宜野湾市野嵩に設置した沖縄の民間人収容所のひとつ。普天間飛行場の北東角に隣接していた。

概要

1945年4月1日の米軍の沖縄島上陸の後、米軍は4月4日に宜野湾市の野嵩に民間人収容所を指定し、沖縄戦を生きのびた住民を送りこんだ。激戦地となった宜野湾市のなかにあって、この地域は比較的民家の破壊を免れており、また米軍も民間人収容所の設置のために当面、民家を破壊せず残した。次々と収容されていく住民は、この狭い地域に一万人を優に超え、民家の母屋に入りきらず、アサギ (離れ家) はもとより家畜小屋に至るまで収容施設として使用するほどの過密状態であったといわれている。

野嵩収容所
野嵩収容所
種類民間人収容所
施設情報
管理者琉球列島米国軍政府
歴史
使用期間1945-1946

6月中旬には普天間飛行場の建設が始まり、また北側には後にキャンプ瑞慶覧となる瑞慶覧飛行場も建設され、普天間飛行場の現在の第三ゲート (野嵩ゲート) に隣接する収容所の小さな一角は多くの収容者であふれかえった。位置する沖縄中部の基地化が進むと、多くの収容者は瀬高~漢那の北東海岸の収容所に次々と移送されるようになり、野嵩収容所は、その移送の中継地となった。

米軍は、基地建設がすすめられる中部で


米軍は住民を管理するために住居のヒンプン (風よけ壁) に「ハウスナンバー」を記したが、現在、野嵩にはそのうち「32」というハウスナンバーが記されたヒンプン (沖縄建築の目隠し塀) が残されている。MP (軍警察) の

また野嵩の集落内にはクシヌカーという豊富な湧き水を称えるガー (井戸) があり、収容所時代には、米軍の軍作業として、ここで女性たちが軍服などの洗濯の仕事をしていた。

野嵩は戦線が中南部へと移行していくなかで、中南部からの民間人捕虜を北部などの収容所に送りこむための中継点の役割をはたしており、人口の流動が激しかった。


金武ダム (きんだむ) とは、国頭郡金武町金武の億首川水にあるダム。旧金ダムは米軍統治下の1961年に米国陸軍工兵隊が建設した利水専用のダムであったが、2009年、規模や洪水調節などの点を改良した多目的ダムとして再開発され、世界初の台形CSGダムとして旧金武ダムの約120m下流に建設された。当初は「億首ダム」という名前であったが、その後、名称がから「金武ダム」に変更された。沖縄総合事務局が管理する北部9ダムのひとつとして、2014年から運用開始されている。

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河川 億首川水系億首川
ダム諸元
ダム型式 台形CISダム
堤高 39.0 m
堤頂長 461.5 m
堤体積 339,000 m3
総貯水容量 8,560,000 m3
有効貯水容量 7,860,000 m3
着手年 / 竣工年 1993年2014年
出典 内閣府沖縄総合事務局
備考 特定多目的ダム法指定
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旧・金武ダム

米軍が沖縄の占領統治を開始し、まず解決しなければならない問題の一つが水不足対策だった。沖縄島の1949年(昭和24年)11月、シーツ少将の米国軍政長官への就任を契機に、米軍政も本格化します。基地建設に拍車がかかる一方で、沖縄住民に対しては生活向上を重視する政策が打ち出されました。水道についても、米国統治機関である沖縄民政府が、市町村に補助金を出して簡易水道の布設を奨励し、これが戦後、沖縄の水道事業の幕開けとなりました。

旧金武ダム 新金武ダム
着工 1961年 2014年
施工 米国民政府 沖縄総合事務局
堤高 12.8m 39m
有効貯水容量 660,000 7,860,000

新・金武ダム

このページでは、沖縄戦当時の日本軍の拠点と飛行場を掲載しています。

司令部壕

旧陸軍32軍司令部壕 (南風原)

旧陸軍32軍司令部壕 (首里)

旧海軍司令部壕 (那覇)

旧日本軍が沖縄に建設した飛行場

沖縄のオスプレイ

通信隊

通信隊(つうしんたい)は、太平洋戦争末期の沖縄戦において、防衛召集により動員された学徒兵。上級生は鉄血勤皇隊へ、下級生は通信隊へと編成され戦場に送り出された。

概要

米軍の沖縄上陸を目前に、1944年12月、第32軍(沖縄守備軍)司令部は県の内政部教学課と協議し全中等学校生徒の動員を決定、翌年3月に組織された。上級生は日本軍の物資運搬や破壊された橋の補修などを担う鉄血勤皇隊へ、下級生は電話線の修理や電報配達などを担う通信隊に配属された。戦況の悪化に伴い、対戦車用急造爆雷を背負い体当たり攻撃する切り込みも強いられた。

脚注

  1. ^ WAR AND INTERNATIONAL SITUATION (Hansard, 28 September 1944)”. api.parliament.uk. 2024年3月11日閲覧。
  2. ^ "Semi-Monthly Report on Prisoners of War as of 1 August 1945," Marshal General's Office, "Prisoner of War Operations," TAB 11 from Arnold Krammer (1983), p. 76.