ウィリアム・フィッツロバート (第2代グロスター伯)
第2代グロスター伯ウィリアム・フィッツロバート(William FitzRobert, 2nd Earl of Gloucester, 1116年1月22日 - 1183年11月23日)は、初代グロスター伯ロバート・ド・カーンと、ロバート・フィッツハモンの娘であるグロスターのメイベル・フィッツロバートの息子で相続人。マティルダ皇后の甥にあたる。
ウィリアム・フィッツロバート William FitzRobert | |
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第2代グロスター伯 | |
テュークスベリー修道院に特許状を授与するグロスター伯ウィリアム(テュークスベリー修道院創建の書、ボドリアン図書館所蔵、1500年から1525年頃テュークスベリーで制作)。グロスター伯の陣羽織には、4分割された紋章が描かれている。第1と第4の紋章は赤地に3つの金のクラリオン、第2と第3の紋章は青地に金のライオン、インエスカッシャンは金地に3本の赤のシェブロン。これらは、ロバート・フィッツハモンの紋章と、グロスター伯クレア家の実際の紋章を模倣したものである。 | |
在位 | 1147年10月31日 - 1183年11月23日 |
出生 |
1116年1月22日 |
死去 |
1183年11月23日(67歳没) |
埋葬 |
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配偶者 | ホウィーズ・ド・ボーモント |
子女 |
ロバート メイベル アミス イザベル |
家名 | ノルマンディー家 |
父親 | 初代グロスター伯ロバート |
母親 | メイベル・オブ・グロスター |
出自
編集ウィリアム・フィッツロバートは、イングランド王ヘンリー1世の庶子である初代グロスター伯ロバートの息子であり、ウィリアムはヘンリー1世の治世中に生まれた。したがって、ウィリアムはイングランド無政府時代の主役であったマティルダ皇后の甥、スティーブン王の従兄弟にあたる。また、ウィリアムはウィリアム征服王の曾孫でもあった。
経歴
編集1141年10月、父がウィンチェスターで反乱分子の手に落ちた後、ウィリアムは領地の管理を任された。父はスティーブン王と交換され、1144年に父がノルマンディーを留守にしていた間、ウィリアムはウェアハム総督を務めた[1]。1147年にはキャッスル・キャリーでヘンリー・ド・トレイシーを倒した[1]。
1154年、ウィリアムは第2代ハートフォード伯ロジャー・ド・クレアと同盟を結び、イングランド王ヘンリー2世を除く全ての敵に対して互いに協力することで合意した[1]。
ウィリアムはグラモーガンの町ニースに特許状を与えた。ウィリアムはグラモーガンとカーリーオンの荘園領主となり、主にカーディフ城に居住した[1]。そこで1158年に、ウィリアムと妻と息子はウェールズのセンヘニズ領主イフォル・バッハ(「小イヴォル」)に捕らえられ、森へ連れ去られ、ウィリアムがイヴォルの恨みを晴らすまで囚人として拘留された[1]。
ヘンリー2世との関係
編集1173年、ウィリアムは息子たちと対立していたヘンリー2世の側に立ったが、その後、疑惑の目を向けられるようになったとみられ、翌年にはヘンリー2世に服従し、1175年にはブリストル城をヘンリー2世に明け渡している[2]。唯一の息子であり後継者であったロバートが1166年に亡くなったため、ウィリアムはヘンリー2世の末息子であるジョンを伯位の継承者にした。これは、教会が許せばジョンがウィリアムの娘の一人と結婚するという国王の約束に従ったもので、二人は三親等にあたる[2]。
ウィリアムは、1177年3月、ヘンリー2世がカスティーリャ王とナバラ王の仲裁を行った際に同席し、1178年にはヘンリー2世によるウォルサム修道院の特許状に署名した[2]。しかし、ヘンリー2世が息子たちと争っていたとき、忠誠心が疑わしい人物を何人か投獄したが、その中にはウィリアムも含まれていた[2]。
結婚と子女
編集ウィリアムは、第2代レスター伯ロバート・ド・ボーモントとアミス・ド・ゲールの娘ホウィーズ・ド・ボーモント(1197年4月24日没)と結婚し、子供をもうけた。
- ロバート(1151年 - 1166年)
- メイベル - エヴルー伯アモーリー3世と結婚し、息子アモーリー4世は一時グロスター伯となった
- アミス(1220年没) - 第3代ハートフォード伯リチャード・ド・クレアと結婚。2人の子孫が最終的にグロスター伯位を継承した。
- イザベル(1173年 - 1217年) - 三度結婚した[3]。最初にイングランド王ジョンと結婚、2度目に第2代エセックス伯ジェフリー・フィッツジェフリー・ド・マンデヴィルと結婚、3度目に初代ケント伯ヒューバート・ド・バラと結婚
ウィリアムは1183年に亡くなったが、妻のホウィーズは夫より長生きした。唯一の息子であるロバートが先に亡くなったため、娘たちはグロスター領の共同相続人となった。
脚注
編集- ^ a b c d e Cokayne 1926, p. 687.
- ^ a b c d Cokayne 1926, p. 688.
- ^ Cannon 2009, p. 204.
参考文献
編集- Crouch, David (1 October 1999). “Robert of Gloucester's Mother and Sexual Politics in Norman Oxfordshire”. Historical Research 72 (179): 323–333. doi:10.1111/1468-2281.00087.
- Cannon, John; Hargreaves, Anne (26 March 2009) (英語). The Kings and Queens of Britain. OUP Oxford. p. 204. ISBN 978-0-19-158028-4 2024年11月5日閲覧。
- Cokayne, G. E. (1926). The complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct, or dormant. Volume 5. pp. 687ff
イングランドの爵位 | ||
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グロスター伯 1147年 - 1183年 |
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