ザウディトゥ
ザウディトゥ(Zaoditou, 1876年4月29日 - 1930年4月2日)は、エチオピア帝国の女帝(在位:1916年 - 1930年)。生涯で4人との結婚をしたが、子はなさなかった。
ザウディトゥ ዘውዲቱ | |
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エチオピア皇帝 | |
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在位 | 1916年9月27日 - 1930年4月2日 |
出生 |
1876年4月29日 ハラリ州イジェルサ・ゴロ |
死去 |
1930年4月2日(53歳没) |
次代 | ハイレ・セラシエ1世 |
王朝 | ソロモン朝 |
父親 | メネリク2世 |
母親 | ウェジロ・アベチ |
宗教 | エチオピア正教 |
生涯
編集生い立ち
編集メネリク2世の皇女として1876年に生まれる。母ウェジロ・アベチは早くにメネリク2世と離婚し、ザウディトゥは父の新たな后であるバファナによって育てられた。
1886年、ザウディトゥはヨハネス4世の息子であるラス・アラヤ・セラシエ・ヨハネスと10歳で結婚した。彼は1888年に病没した。
その後、ザウディトゥはグァングル・セゲド、ウーベ・アナフ・セゲドの2人と短い結婚をした。1900年にググサ・ヴェレと結婚し、生涯を共にした。
治世
編集1916年にイスラム教寄りの甥のイヤス5世がエチオピア正教会によって破門され、廃位された。貴族たちの推挙によって、ザウディトゥは実質的な皇帝として振る舞った。
翌年には正式に即位。ザウディトゥの公式称号は「王の中の女王」(Negiste Negest)で、伝統的な称号「王の中の王」(Nəgusä Nägäst)を修正したものだった。
遠縁のラス・タファリ・マコンネン(後のハイレ・セラシエ1世)が摂政兼皇太子となって政治を行った。ザウディトゥの治世下、ラス・タファリの急進的な近代化政策に、貴族たちはしばしば権力喪失への懸念を示した。ザウディトゥ自身は1928年に政治の表舞台から身を引いた。
1930年、夫の死の報せを聞き、発熱が悪化して崩御。ラス・タファリが皇位を継承した。ザウディトゥの死の1年後、エチオピア1931年憲法が公布された。
ギャラリー
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ザウディトゥの御真影(1910年代)
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ザウディトゥ
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礼装姿のザウディトゥ。