ルドルフ・ヒルファディング
ルドルフ・ヒルファディング(Rudolf Hilferding、1877年8月10日 - 1941年2月10日)は、オーストリア出身のドイツの政治家、マルクス経済学者。ドイツ社会民主党の理論的指導者。ウィーン大学医学部を出た医師であり、医業も生涯行っていた。
ルドルフ・ヒルファディング Rudolf Hilferding | |
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![]() 1931年頃 | |
生年月日 | 1877年8月10日 |
出生地 |
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没年月日 | 1941年2月10日(63歳没) |
死没地 |
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出身校 | ウィーン大学 |
所属政党 | ドイツ社会民主党 |
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内閣 | グスタフ・シュトレーゼマン内閣 |
在任期間 | 1923年8月13日 - 1923年10月 |
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内閣 | ヘルマン・ミュラー内閣 |
在任期間 | 1928年7月29日 - 1929年12月21日 |
経歴
編集オーストリア・ハンガリー帝国はウィーンのレオポルトシュタット でユダヤ人豪商に生を享けた。ウィーン大学医学部に進学する傍ら、社会主義学生同盟のメンバーとなり社会科学(特に経済学と金融論)に関心をいだくようになった。
1902年にドイツ社会民主党の理論誌『ノイエ・ツァイト』に寄稿し、社民党の理論的指導者カウツキーから注目される。以来『ノイエ・ツァイト』誌に『保護関税の機能変化』(1903年)、『貨幣と商品』(1911年)など多数の論文を発表し、社民党の党学校講師や機関紙『フォアヴェルツ』編集者を務めた。
第一次世界大戦では軍医として従軍するも、その末期には独立社会民主党に加わり早期終戦を主張。ワイマール共和国が成立暫くして社民党に復帰し、経済政策面での指導的理論家として迎えられる。シュトレーゼマン内閣で財務大臣となりレンテンマルクの導入を決定[1] するも更迭され、その後は拡張的な金融政策や財政政策などを訴えた[2]。1924年に国会議員に当選し、1928年に成立したミュラー内閣で再度財務大臣。しかし自らの国債の増発案、部下のヨハネス・ポーピッツの外債の発行案が租税の増税に拘るヒャルマル・シャハトの反発を受けて再度辞職[3]。
アドルフ・ヒトラーがによる権力掌握以降はナチス党から逃れるためフランス・パリへと亡命するが、1940年6月 フランス軍がドイツ軍に敗れてドイツ占領下となるとマルセイユでヴィシー政府の警察によって逮捕。ドイツの国家秘密警察(ゲシュタポ)に身柄を移され収容されるも、翌1941年2月に収容先のフランスの刑務所で死体となって発見された。
主な業績
編集著書
編集参考文献
編集関連項目
編集脚注
編集外部リンク
編集- Rudolf Hilferdingに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- ルドルフ・ヒルファディングの著作およびルドルフ・ヒルファディングを主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。
- ルドルフ・ヒルファディング - ドイツ電子図書館
- ルドルフ・ヒルファディング - Datenbank der Reichstagsabgeordneten
- WorldCat
- Schriften Rudolf Hilferdings - Marxists Internet Archive
- Kurzbiografie der Gedenkstätte Deutscher Widerstand