英緬戦争
英緬戦争(えいめんせんそう、ビルマ語: အင်္ဂလိပ်-မြန်မာ စစ်ပွဲများ)は、19世紀に3度にわたって行われた、イギリスとコンバウン朝ビルマの戦争の総称である。イギリス=ビルマ戦争(イギリス=ビルマせんそう)、ビルマ戦争(ビルマせんそう)とも呼称する。
これらの戦争を通してコンバウン朝は滅亡し、ビルマはイギリス領インド帝国の一部として編入されることとなった。
経緯
編集第一次英緬戦争
編集コンバウン朝はボードーパヤー・バジードー王の時代に西方のアラカン・アーホームに勢力を伸ばし、イギリス領インド帝国と接触した[1]。1823年、インドとアラカンの国境に位置するナーフ川河口の島であるシンマピュー島を巡って両軍は衝突し[2]、これが第一次英緬戦争開戦の端緒となった[3]。
この戦争はイギリスの勝利に終わり、1826年のヤンダボー条約を通してビルマは多額の賠償金およびアラカン・テナセリムの割譲を余儀なくされた[1]。一方で、イギリスにとってもこの戦争は極めて大きな負担であり、インドに経済危機をもたらした[4]。
第二次英緬戦争
編集ビルマはヤンダボー条約を遵守せず、また、バジードー王の次代に当たるターヤーワディ、および次代のバガンの治世下、ビルマにおけるイギリス人の地位は保障されなかった[1]。
1951年に起きた、ビルマのハンターワディー知事がイギリス人船長を船員殺害の罪で拘禁し、罰金を科した事件を契機としてイギリスはビルマに宣戦布告し[5]、1952年にペグー地方を占領した。第一次英緬戦争で獲得した領土を含め、下ビルマは完全にイギリスの領土となった[1]。
第三次英緬戦争
編集1878年にティーボーが王位についた後、ビルマはイギリスの牽制のためインドシナの植民地化を進めていたフランスに接近しはじめた[6]。ビルマ政府がイギリス企業であるボンベイ・バーマ貿易会社に対して罰金を科していたことを口実として、イギリスは上ビルマに侵攻し、1885年11月28日にコンバウン朝の王都であるマンダレーを陥落させた[7]。
これによりコンバウン朝は滅亡した。1886年1月をもってビルマはイギリスに併合され、イギリス領インド帝国の一部となった[1]。
脚注
編集- ^ a b c d e 四宮宏貴「ビルマ戦争」『改訂新版 世界大百科事典』 。コトバンクより2025年10月3日閲覧。
- ^ “The Somerset Light Infantry: A History”. 2016年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月1日閲覧。
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 295–296.
- ^ Webster, Anthony (1998). Gentlemen Capitalists: British Imperialism in South East Asia, 1770–1890. I.B. Tauris. pp. 142–145. ISBN 978-1-86064-171-8
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 297.
- ^ 根本 2014, pp. 63–64.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 301–302.
参考文献
編集- 石井米雄、桜井由躬雄 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年。ISBN 4-634-41350-7。
- 根本敬『物語 ビルマの歴史 - 王朝時代から現代まで』中央公論新社、2014年。ISBN 978-4-12-102249-3。