中村弘海

日本の政治家 (1925-2008)

中村 弘海(なかむら こうかい[1]1925年〈大正14年〉6月21日[2] - 2008年〈平成20年〉11月30日)は、昭和時代後期の日本の政治家、企業経営者。衆議院議員、西肥自動車顧問[2]

中村弘海
なかむら こうかい
生年月日 1925年6月21日
出生地 日本の旗 日本 長崎県北松浦郡江迎町
(現・長崎県佐世保市
没年月日 (2008-11-30) 2008年11月30日(83歳没)
死没地 日本の旗 日本 長崎県佐世保市
出身校 久留米医科大学中退
旧制長崎県立佐世保中学校卒業
(現・長崎県立佐世保南高等学校および長崎県立佐世保北高等学校
前職 西肥自動車社長
現職 西肥自動車社長
所属政党 自由民主党
称号 正四位
旭日重光章
選挙区 旧長崎2区
当選回数 5回
在任期間 1969年12月2日 - 1983年11月28日
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来歴

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長崎県北松浦郡江迎町出身。長崎県北部のバス会社である西肥自動車(西肥バス)の創業家に生まれる。少年時代は長く闘病生活を続ける[1]

長崎県立佐世保中学校(現長崎県立佐世保南高等学校長崎県立佐世保北高等学校の前身の一つ)を7年かけて卒業[1]。久留米医科大学(現久留米大学)を中退[2]

西肥自動車に入社、同社運輸課長を経て1954年(昭和29年)10月、前月に没した父の後任として同社代表取締役社長となる。

1969年(昭和44年)、第32回衆議院議員総選挙旧長崎県第2区から立候補し初当選、自由民主党に所属。以後、1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙で落選するまで5期14年務めた。党内では当初川島派→椎名派、同派消滅後は中川グループに属した。

政界では第2次田中角榮内閣第2次改造内閣三木内閣建設政務次官1974年11月 - 1976年9月)、三木内閣改造内閣防衛政務次官(1976年9月 - 同年12月)を歴任した。

1986年(昭和61年)には西肥自動車社長職を長男の中村克介(2008年退任、現同社顧問)に譲った。

2008年11月30日、老衰のため死去(83歳)[3]。死没日付をもって正四位に叙され、旭日重光章を追贈された[4]

人物

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モットーは「和をもって貴しとなす」、「政治は愛なり」[1]。「弘海さん」の名で親しまれ、弘海が小ぶとりな姿を現すだけで、「パッとその場の雰囲気がほぐれた」という[1]

社団法人日本ソムリエ協会よりソムリエ・ドヌール(名誉ソムリエ)の称号を受けた。1962年紺綬褒章受章[2]。住所は佐世保市島瀬町[2]、江迎町長坂免[3]

家族

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中村家
  • 妻(ドイツ人) - 弘海が西欧に短期遊学したころ、あるパーティーで知り合う[1]
  • 長男・克介[3]

著作

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  • 失礼 中村弘海です(対談集) - 1967年、九州公論社刊。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『現代政治家の素顔 衆議院全議員録』162頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年5月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e 『政治家人名事典』382頁。
  3. ^ a b c 元衆院議員・元西肥自動車社長、中村弘海さん死去”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社 (2008年12月1日). 2025年5月24日閲覧。
  4. ^ 『官報』第4985号10頁 平成21年1月7日

参考文献

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  • 現代政治機構研究会編『現代政治家の素顔 衆議院全議員録』住宅新報社、1977年。
  • 『政治家人名事典』日外アソシエーツ、1990年。
議会
先代
新設
  衆議院科学技術委員長 次代
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