乾坤院
乾坤院(けんこんいん)は、愛知県知多郡東浦町緒川沙弥田4にある曹洞宗の寺院。寺格は中本山別格地。山号は宇宙山(うちゅうざん)。緒川城主・刈谷城主である水野家の菩提寺[1]。四国直伝弘法八十八ヶ所霊場第15番札所。於大公園の隣接地にある。
乾坤院 | |
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![]() 本堂 | |
所在地 | 愛知県知多郡東浦町緒川沙弥田4 |
位置 | 北緯34度58分38.4秒 東経136度57分38.5秒 / 北緯34.977333度 東経136.960694度座標: 北緯34度58分38.4秒 東経136度57分38.5秒 / 北緯34.977333度 東経136.960694度 |
山号 | 宇宙山 |
宗派 | 曹洞宗 |
寺格 | 中本山別格地 |
本尊 | 大通智勝如来 |
創建年 | 文明7年(1475年) |
開基 | 水野貞守 |
正式名 | 宇宙山 乾坤院 |
札所等 | 四国直伝弘法15番 |
文化財 |
絹本著色弁財天像、絹本著色諸尊集会図、正法眼蔵写本(県指定) 山門、総門、水野家四代墓所(町指定) |
公式サイト | 曹洞宗「宇宙山 乾坤院」 |
法人番号 | 9180005012130 |

寺号の由来
編集乾坤とは八卦で言う所の西北と南西の方位を表し、緒川城から見て西方(乾と坤の間)に造られた事からその名が付けられたと伝えられている。また、乾坤が「天と地」をも意味することから、山号を「宇宙山」としたと由来される。
歴史
編集中世
編集室町時代中期の文明7年(1475年)、緒川城初代城主水野貞守によって水野家の菩提寺として建立された[2]。貞守は親交のあった逆翁宗順を乾坤院の開山に迎えたが、逆翁は自らの師であり漢学者としても知られた川僧慧済を勧請開山として自らは二世となった[2]。川僧は開山の2か月後に没し、実際には乾坤院に来ることはなかった。乾坤院は曹洞宗川僧学派の根本道場となり、尾張国・三河国・遠江国などに61の末寺を有する大寺院となった[2]。逆翁宗順は東光寺も創建している[3]。
快翁龍喜は乾坤院3世の芝岡宗田和尚について得度し、曹源寺草創に参画して2世住職となった[3]。乾坤院4世の周鼎中易和尚は増福寺を創建した[4]。
近世
編集慶長7年(1606年)に緒川城が廃城となった後、門が乾坤院に移築されて総門となった。寛文10年(1670年)、岡崎城主の水野忠善が堅雄堂を建立した[1]。
徳川家康の生母である伝通院が4代水野忠政の娘であり、同寺でも供養されている事から、江戸時代には尾張徳川家の庇護を受けた。
近代
編集江戸時代末期には乾坤院一帯で磨砂(みがきずな)の採掘が行われた[5][6]。その後は東浦町の複数地域で採掘が行われ、ピークの1918年(大正7年)から1919年(大正8年)には年間3万俵に達すると、静岡県・岡山県・四国などにも出荷された[5][6]。
緒川では競馬熱が高く、1909年(明治42年)には乾坤院の門前で競馬大会が行われた[7]。
現代
編集2016年(平成28年)3月4日に火災が発生し、本堂と座禅堂が全焼し、玄関棟、山門、堅雄堂の一部が焼失した[8]。人的被害はなかったものの、町文化財5点のうち建物2件と座像1件の計3件が被害を受けた[8]。なお、当寺院が保有する愛知県指定有形文化財については名古屋市博物館に預けてあったため、被害を免れている[8]。
2019年(令和元年)5月11日に本堂の再建工事が完了して落慶式が行われた[9]。
境内
編集- 本堂
- 書院
- 庫裏
- 座禅堂
- 堅雄堂
- 鐘楼門
- 山門
- 総門
- 放生池
宇宙稲荷大明神
編集明応年間(1492年~1501年)、出陣時の必勝祈願のために、伏見から緒川城内に稲荷神が勧請された。現在は乾坤院の隣接地にある。なお、知多民話「狐の嫁入り」の発祥の元となったとも伝わる。
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堅雄堂
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鐘楼門
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総門
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放生池
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2016年に焼失した本堂
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東浦町郷土資料館に展示された堅雄堂模型や復元宝珠瓦
文化財
編集愛知県指定有形文化財
編集- 絹本著色弁財天像(絵画) - 1954年(昭和29年)2月指定[10]。
- 絹本著色諸尊集会図(絵画) - 1954年(昭和29年)2月指定[10]。
- 紙本墨書正法眼蔵写本(書跡) - 1954年(昭和29年)2月指定[10]。
東浦町指定有形文化財
編集- 山門(建造物) - 1979年(昭和54年)3月指定[10]。
- 総門(建造物) - 慶長7年(1606年)の緒川城廃城後に移築された門。現存する緒川城の唯一の遺構であると伝えられている。2005年(平成17年)8月指定[10]。
東浦町指定史跡
編集交通アクセス
編集関連項目
編集脚注
編集- ^ a b 東浦町誌編纂委員会『東浦町誌』東浦町教育委員会、1968年、pp.685-686
- ^ a b c 東浦町誌編纂委員会『東浦町誌』東浦町教育委員会、1968年、pp.57-59
- ^ a b 東浦町誌編纂委員会『東浦町誌』東浦町教育委員会、1968年、p.683
- ^ 東浦町誌編纂委員会『東浦町誌』東浦町教育委員会、1968年、p.686
- ^ a b 東浦町誌編纂委員会『東浦町誌』東浦町教育委員会、1968年、p.615
- ^ a b 東浦町誌編纂委員会『東浦町誌』東浦町教育委員会、1968年、p.615
- ^ 東浦町誌編纂委員会『東浦町誌』東浦町教育委員会、1968年、pp.685-646
- ^ a b c 「徳川家ゆかりの寺、本堂と座禅堂全焼 東浦の乾坤院」『中日新聞』2016年3月4日。オリジナルの2016年3月7日時点におけるアーカイブ。2016年3月6日閲覧。
- ^ 乾坤院の本堂 再建を祝う メディアスチャンネル、2019年5月13日
- ^ a b c d e f g “東浦町の指定文化財”. 東浦町. 2025年8月20日閲覧。
- ^ a b 「鶴竜、苦しんだ地で初の歓喜 大相撲名古屋場所」『産経新聞』2019年7月21日。2025年8月20日閲覧。
参考文献
編集- 東浦町誌編纂委員会『東浦町誌』東浦町教育委員会、1968年