今川泰範
今川 泰範(いまがわ やすのり)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、駿河・遠江守護。駿河今川氏の第3代当主[* 1]。今川範氏の次男。
時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
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生誕 | 建武元年(1334年)? |
死没 | 応永16年9月26日(1409年11月3日)? |
別名 | 仲高(号) |
戒名 | 長慶寺殿大山仲高大禅定門 |
墓所 | 静岡県藤枝市下之郷の長慶寺 |
官位 | 従四位下、宮内少輔、上総介、左馬助 |
幕府 | 室町幕府侍所頭人、駿河・遠江守護 |
主君 | 足利義詮→義満→義持 |
氏族 | 駿河今川氏 |
父母 | 父:今川範氏 |
兄弟 | 氏家、泰範 |
妻 | 正室:上杉朝顕の娘 |
子 | 範政、泰国、範信 |
花押 |
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生涯
編集建長寺に僧侶(喝食)として出家していたが、正平20年/貞治4年(1365年)に父が死去し、兄氏家も間もなく死去したため、叔父の今川貞世(了俊)の命で還俗し、家督を継ぐこととなった(従弟で了俊の子貞臣も後継者に挙がったが、却下されたといわれる)[* 2]。生年は建武元年(1334年)とされるが、家督を継いだ時に30代になるため、それまで喝食のままだったのかという点から疑問が上がっている[3]。
天授4年/永和4年(1378年)、3代将軍足利義満より侍所頭人に任じられて幕政に参与し、元中8年/明徳2年(1391年)の明徳の乱で幕府軍の一員として参戦し、武功を挙げた。応永2年(1395年)6月に義満が出家すると、叔父の今川仲秋や貞臣と共に出家した[4][5]。
しかし同年、九州探題を罷免された叔父了俊が遠江と駿河の半国守護に補任されたため、駿河を分割統治することとなった(遠江は仲秋と了俊が分割統治)。この年に泰範は鶴岡八幡宮や円覚寺の駿河国内の所領が押領されたことを口実に半国を取り上げられ、了俊に与えられたため、了俊が自ら所望して守護職を得た物と勘違いして恨みを抱いており、駿河半国返還を幕府に訴えた。了俊も義満のこの措置に不満を抱き、大内義弘や鎌倉公方足利満兼に密かに連絡を取ったとされる[6][7][8]。この任命は今川氏の内紛を画策した義満の策略が疑われている[9][10]。
応永6年(1399年)の応永の乱でも幕府軍に加わり、『今川記』には河内森口城を攻め落としたこと、大内義弘に呼応して丹波から攻め上った宮田時清の軍勢を撃破したこと、乱の終結で降参した義弘の弟大内弘茂(新介)を召し取るなどの武功を挙げたことが書かれている[11]。翌応永7年(1400年)1月10日には関東管領上杉憲定に対して了俊追討令が出されたが、憲定が了俊を説得している間に了俊の助命嘆願に奔走した結果許され、了俊が9月4日に上洛して翌5日に出仕し義満に詫びを入れたことで赦免された。ただし、了俊と仲秋の半国守護は取り上げられ、それらを与えられた泰範は駿河・遠江2ヶ国を領有した。これは了俊が助命嘆願と引き換えにかねてからの泰範の駿河半国返還要求を受け入れた結果だった[12][13][14][15]。
応永16年(1409年)9月26日、76歳で死去し、後を嫡男の範政が継いだ。没年には異説も多く、『今川家略記』・『寛政重修諸家譜』・『駿河記』に元中5年/嘉慶2年(1388年)6月24日に55歳で亡くなったという説があるが(『駿河国新風土記』は同年9月24日説)、応永14年(1407年)9月9日付の書状が最後に確認される泰範の発給文書であるため、否定されている。『今川家譜』・『今川記』は応永16年9月26日とするが、『慶寿寺過去帳』は2日前の9月24日とする。亡くなった場所も諸説あり、京都または駿河とされている[16]。
脚注
編集注釈
編集脚注
編集- ^ 大石泰史 2020, p. 34-35.
- ^ 小和田哲男 2015, p. 66-73.
- ^ 小和田哲男 2015, p. 72.
- ^ 大塚勲 2008, p. 35,37.
- ^ 小和田哲男 2015, p. 75.
- ^ 川添昭二 1964, p. 223-225.
- ^ 大塚勲 2008, p. 35-36.
- ^ 小和田哲男 2015, p. 81-83.
- ^ 小川剛生 2012, p. 191.
- ^ 平瀬直樹 2017, p. 179.
- ^ 小和田哲男 2015, p. 75-76.
- ^ 川添昭二 1964, p. 228-230.
- ^ 小川剛生 2012, p. 197-204.
- ^ 小和田哲男 2015, p. 77-80,83.
- ^ 平瀬直樹 2017, p. 178-180.
- ^ 小和田哲男 2015, p. 84-86.