伊藤小左衛門 (5代目)
三重県四日市市の企業家
5代目 伊藤 小左衛門(ごだいめ いとう こざえもん、1819年1月13日(文政元年12月18日)[1] - 1879年(明治12年)5月21日)は、三重県四日市市の企業家。幕末期から明治初期にかけて四日市地域に近代産業を浸透させて、工業都市・四日市市の基礎を作り、貿易を重視して産業の近代化を推進した[2]。幼名は伊藤小四郎、伊藤小平治、諱は伊藤尚長である。六代目伊藤小左衛門は息子で伊藤家の後継者であった。
年譜
編集- 伊藤家は伊勢国三重郡室山村(現・三重県四日市市四郷地区)に在住しており、5代小左衛門の祖父の3代小左衛門が副業として味噌の醸造業を創業した[3]。
- 5代小左衛門は室山村で代々農業を経営する豪農・伊藤家の長男だった。幕末の開国で生糸と茶の輸出が盛んになり、1861年(文久元年)に茶の輸出事業、桑苗の植え付け、養蚕業を行い巨大な利益を得る。さらに、翌年には手繰り製糸工場を建設して製糸産業の経営に乗り出し、明治初期に伊藤製糸を起業、1874年(明治7年)には器械製糸所を開業した。長男の伊藤小十郎、長女の伊藤りき、伊藤小十郎の妻・つうと共に富岡製糸場を訪問して、りきとつうを伝習生として、貿易用の生糸生産に向けて日夜試行錯誤した。
実業家
編集- 幼少時から読書・習字を学んだ。5世伊藤小左衛門尚長(幼名は伊藤小四郎、後に伊藤小平治を名乗った)[5]は、14歳から中野村(現在の四日市市保々地区の中野町)で一色正芳流の珠算を習い、1834年(天保5年)から伊藤家の家業に就いた[6]。この後の20年間に祖母・長男・父・妻と死別する家庭の不幸があったが、醸造業は繁栄して「室山の味噌」・「ヤマコ味噌」の名は広く世間に知れ渡った。1851年(嘉永4年)からは苗字帯刀御免となり、伊藤家の家名を上げたが、1855年(安政2年)の安政の大地震により蔵や家屋は壊滅状態となった。弟3人と協力して短期間で復興して、忍藩の大矢知陣屋の役職や御蔵米払問屋に就任した。以降は代官格上席となり、しばしば東海道を上って見聞を広めた[7]。事業も軌道に乗り、酒造業や茶の作付けなどにも事業を拡大した。従来禁止されていた荷車に使用を許可を得たり、寄進して法蔵寺本堂の建築を完成させるなどして、郷民からは伊藤小左衛門の善行が評判となった。5代小左衛門は味噌を生産する事業や醤油業の他、清酒事業・製茶業・製薬業・製糸業を経営した。
- 「日本国を裕福にするには外国との商売・貿易を推進すべきである。海外の西洋製品に対応するためには機械化が必要である」と考えた。洋式紡績機の政府払下げが民間人である伊藤家に決定したのも、紡績技術習得の熱意と国益を重視する考え方が受け入れられたからである。
- 四日市銀行(その後の三重銀行、現在の三十三銀行)も創立した。東海電線(後の住友電装)の初代社長となった。
- 1928年(昭和3年)に発生した昭和経済恐慌の影響で、味噌業・醤油業・清酒業を除き、その他の業種は廃業した。清酒業は現在、別会社の神楽酒造となり、味噌醤油業はヤマコ醤油となった。
- 祖父が創業した味噌の醸造高事業は、伊藤小左衛門の代には大豆2500石まで増加した。父や伊藤傳七と共に江戸時代の代官所に出仕して、代官格の大庄屋となった。1862年(文久2年)に製糸事業を開始した。1874年(明治7年)に機械製糸事業を開始した。1876年(明治9年)に三重県最初の蒸気缶を導入した。伊藤小左衛門は、郷土四日市の近代産業の祖と評価されている。 自分の店で開業した私塾の笹川学校がもとなった公立小学校(現在の四日市市立四郷小学校)を開設した。四郷小学校に銅像と顕彰碑がある。
伊藤小左衛門之碑
編集参考文献
編集- のびゆく四日市
- 四日市市制111周年記念出版本「四日市の礎111人のドラマとその横顔」
- 『大樹育つ百年』四日市市制100周年記念誌