佐治 日向守(さじ ひゅうがのかみ、生年不詳 - 天正13年(1585年1月)は、安土桃山時代武士豊臣秀吉の妹で徳川家康の正室となった朝日姫の前夫とされる人物だが、その実在性には疑義がある。

人物

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天正13年(1585年)朝日姫は兄・秀吉の命によって、徳川家康の正室として嫁いだ。朝日姫は既婚者であり、『朝野旧聞裒藁』が引く「古老聞書」や江戸時代中期に尾張藩士によって作成された『塩尻』『士林泝洄』によれば、それは秀吉の家臣だった副田吉成(甚兵衛、与左衛門)だったという[注釈 1][4][5]。一方でほぼ同時期に編纂された『武徳編年集成』は、朝日姫の夫の名を佐治日向守として以下の記事を載せる[6]

秀吉は徳川家康を上洛させるために、自分の妹を既に夫のある身である妹の朝日姫を家康に嫁がせることを考え、また「佐治日向守は思慮深い人物なので、朝日姫を返さなければ天下が治まらないと言えば断らないだろう」と持論を述べ、婚姻を進めるよう織田信雄以下に命じた。佐治日向守の元へは生駒親正堀尾吉晴を派遣して秀吉の命令を伝えさせた。それを聞いた日向守は「私たち夫婦が拒否すれば国家の害となる。朝日姫を返して天下が治まるならばどうして断ることがあるだろうか」と了承したが、「私が生きていてはよくないこともあるだろう」と言ってそのまま自害してしまった。朝日姫との間に子は無かった[6]

同時代の『御年譜微考』もほぼ同様の内容である[4]。また成島司直は『三河後風土記』を校訂する際にこの記述を継承し[7]、幕末に成立した『大日本野史』も同様の記述をしている[8]。ただし「佐治日向守」の名は史料や他書には見られず、福田千鶴浅井長政の三女・佐治一成と結婚した後に離縁させられた話が混同されたものではないかとしている[9]

登場作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 吉成は天正8年推定の4月26日付け羽柴秀吉播磨国中城割り覚(「一柳家文書」)にも名の見える実在の人物[1]。なお『武家事紀』も副田吉成が朝日姫の夫とするが、天正13年当時には既に離縁していたとしている[2]。黒田基樹は『武家事記』に記された副田吉成の事績は史料から確定できる事実と大きく矛盾したものがないため、本能寺の変直後に起こした失態で秀吉の怒りを買って離縁させられたとする話も事実とみてよいのではないかとしている[3]

出典

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  1. ^ 今井 1999b, 神吉城跡.
  2. ^ 『武家事紀』, p. 311.
  3. ^ 黒田基樹「秀吉の出自と父母・きょうだい」『羽柴秀吉とその一族』KADOKAWA〈角川選書〉、2025年、52-62頁。ISBN 9784047037397 
  4. ^ a b 『岡崎市史』, p. 218.
  5. ^ 横地 1983, p. 127.
  6. ^ a b 『武徳編年集成』, p. 385.
  7. ^ 『三河後風土記』, p. 175.
  8. ^ 『大日本野史』, pp. 174–175.
  9. ^ 福田 2010, p. [要ページ番号].

参考文献

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