保科孝一
保科 孝一(ほしな こういち、明治5年9月20日(1872年10月22日) - 昭和30年(1955年)7月2日)は、日本の国語学者、文部官僚。
![]() 明治39年(1906年) | |
人物情報 | |
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生誕 |
1872年10月22日![]() |
死没 |
1955年7月2日(82歳没)![]() |
国籍 |
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出身校 | 帝国大学 |
両親 | 父:保科忠次郎 |
学問 | |
時代 | 明治・大正・昭和 |
研究分野 | 国語学 |
研究機関 |
東京帝国大学 東京高等師範学校 東京文理科大学 |
指導教員 | 上田萬年 |
主要な作品 | #著書 |
経歴
編集前列右から小倉進平、伊波普猷、神田城太郎。中列右から保科孝一、八杉貞利、上田万年、藤岡勝二、新村出。後列右から橋本進吉、徳沢(徳沢健三?)、後藤朝太郎、金田一京助。
伊波普猷生誕百年記念会編『伊波普猷 : 1876-1947 生誕百年記念アルバム』1976年、19頁。
1872年、置賜県米沢(現・山形県米沢市)に米沢藩士の保科忠次郎の子として生まれた。第一高等学校を経て、1897年(明治30年)に帝国大学国文科を卒業。卒業後は、上田萬年の創設した国語研究室の助手となった。
1898年(明治31年)に文部省図書課嘱託となり、国語国字問題の研究調査に当たる。以来1947年(昭和22年)まで50年にわたって国語政策に関わった。1901年(明治34年)に国語調査委員会設置にあたり補助委員。1902年(明治35年)に東京帝国大学助教授。1904年(明治37年)に教科書の国定化に伴い編修委員。
1911年(明治44年)に文部省命令により国語教育・国語政策の調査のためドイツとフランスに調査・研究出張し、1913年(大正2年)に帰国。1916年(大正5年)に雑誌『國語敎育』を創刊[注釈 1]。1927年(昭和2年)に教授に昇進して退職した。その後は、東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授として教鞭をとり、研究を続けた[注釈 2]。
研究内容・業績
編集アメリカ合衆国の言語学者であるウィリアム・ドワイト・ホイットニーの研究の紹介者として言語学者としてのキャリアを出発させた[3]。そして研究にあたっては国内初の方言採集簿を作り、八丈方言の文法研究に先鞭をつけた。
一貫して表音式仮名遣い、漢字廃止を最終目標とする漢字制限、公的機関での口語文の採用を主張し続けた。小学校令(明治33年勅令)策定に先だって、発音主義の假名遣い(いわゆる棒引假名遣い)を上申している。八紘一宇が国是とされた戦中は、民族固有の精神が融け込んでいる国語を他の民族に移植し文化を普及するため、標準語統一の必要性を同化政策の観点から主張し、その一環として国語審議会で「標準漢字表」を制定したが、山田孝雄をはじめとした国粋主義的な国語学者から激しい反発を招いた。戦後は漢字制限、仮名遣い改定を実現させ、国語改革の原型を作った。
『国語学小史』は「国語学史の最初の刊行書」として注目される[4][5]。しかし、肝心の内容は上田萬年の指導によるところが多く、保科自身の独創性を指摘することは難しいという[注釈 3]。また、同書における研究史の捉え方に対しては、時枝誠記のほかに[7][8]、山田孝雄などが批判している[9][10]。
家族・親族
編集- 父:保科忠次郎は米沢藩士。
- 伯父:宮島誠一郎は明治時代にかけて活躍した官僚・政治家。
著書
編集単著
編集- 『言語発達論』(ホイトニー 抄訳)冨山房、1899年 。
- 『国語学小史』大日本図書、1899年 。
- 『言語学大意』国語伝習所、1900年 。
- 『国語教授法指針』宝永館書店、1901年 。
- 『言語学講話』宝永館、1902年 。
- 『言語学』 早稲田大学出版部, 1902
- 『改定仮名遣要義』 弘道館, 1907
- 『国語学史』 早稲田大学出版部, 1907
- 『国語学精義』 同文館, 1910
- 『日本口語法』 同文館, 1911
- 『独逸国内各都市の小学校に於ける国語教育に関する報告』 文部省, 1913
- 『国語教育及教授の新潮』 第1 弘道館, 1914
- 『伯林と巴里』 冨山房, 1914
- 『最近国語教授上の諸問題』 教育新潮研究会, 1915
- 『最近綴り方教授の新潮』 同文館, 1915
- 『国語教授法精義』 育英書院, 1916
- 『大正日本文法』 育英書院, 1917
- 『実用口語法』 育英書院, 1917
- 『国語教育を語る』 育英書院, 1932
- 『国語政策』 刀江書院, 1936
- 『国語と日本精神』 実業之日本社, 1936
- 『新編女子日本文法教授要領』 光風館書店, 1937
- 『大東亜共栄圏と国語政策』 統正社, 1942
- 『和字正濫抄と仮名遣問題』 日本放送出版協会, 1942 (ラジオ新書)
- 『国語問題五十年』 三養書房, 1949
- 『ある国語学者の回想』朝日新聞社、1952年 。
共編著
編集- 『大正漢和字典』 湯沢幸吉郎共編 育英書院, 1922
- 『詳解漢和新辞典』 塚田芳太郎共編 健文社, 1926
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 浮田真弓 (2015), p. 63.
- ^ 川瀬一馬 (1980), p. 41(初出:川瀬一馬 1973)
- ^ 浮田真弓 (2015), pp. 67–68.
- ^ 猿田知之 (1993), p. 14.
- ^ 山東功 (2002), pp. 17–19.
- ^ 伊藤正雄 (1973)(足立巻一『やちまた』「第20章」よりの孫引き)
- ^ 猿田知之 (1993), pp. 58–59.
- ^ 山東功 (2002), pp. 27–33.
- ^ 猿田知之 (1993), pp. 83–84.
- ^ 山東功 (2002), pp. 21–27.
参考文献
編集- 伊藤正雄『忘れ得ぬ国文学者たち』右文書院、1973年。
- 山東功『明治前期日本文典の研究』和泉書院〈研究叢書〉、2002年。ISBN 4-7576-0131-X。
- 猿田知之『日本言語思想史』笠間書院〈笠間叢書〉、1993年。ISBN 4-305-10260-9。
- 川瀬一馬「日本書誌学と国語国文学」『青山學院女子短期大學紀要』第27号、青山学院女子短期大学、1973年、1-25頁。
- 川瀬一馬『日本書誌学之研究 続』雄松堂書店、1980年 。
- 浮田真弓「保科孝一の国語教育研究における国家主義と「国語」の民主化」『研究集録』第158号、岡山大学大学院教育学研究科、2015年、63-70頁、doi:10.18926/bgeou/53151、ISSN 1883-2423、NAID 120005553921。
- イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2012年(原著1996年)。ISBN 978-4006002633。