凌柱(リンジュ、康熙4年8月21日1665年9月29日) – 乾隆12年1月26日1747年3月6日))は、役人外戚であり、鈕祜禄(ニオフル)氏の出身。もとは満洲鑲白旗に属していたが、のちに満洲鑲黄旗へと移された。彼は乾隆帝の生母・孝聖憲皇后の父である。

生涯

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凌柱の祖父は額宜騰、父は呉禄で、いずれも宝坻に駐屯していた旗人兵士(旗丁)だった。凌柱は呉祿の次男として康熙4年8月21日(1665年9月29日)の子の刻(深夜0時ごろ)に生まれ、地元宝坻の漢人女性・彭氏を妻に迎えた。

雍正帝が即位する前、「和碩雍親王」に封ぜられた時、その旗は鑲白旗に属していた。凌柱は満洲鑲白旗の佐領配下の者として、王府において四品典儀を務めていた。

彼の娘(のちの孝聖憲皇后)は康熙43年(1704年)に雍親王の王府に入嫁し、康熙50年(1711年)に弘暦(のちの乾隆帝)を出産した。

乾隆帝の即位後、雍正13年(1735年)11月13日に、凌柱は一等承恩公に封じられ、世襲可能の爵位を与えられた。また、妻の彭氏も公妻一品夫人に封じられた。乾隆元年(1736年)11月12日には、凌柱に対して紫禁城内での騎馬の特権が与えられた。

乾隆12年1月26日(1747年3月6日)、凌柱は死去。同年3月4日には朝廷より「故内大臣品級・承恩公凌柱」に対して、例に従って祭礼・葬儀を行うことが命じられ、諡号「良榮」が贈られた。

家族

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  • 妻:彭氏 - 康熙11年3月28日(1672年4月25日)の子の刻に生まれ、乾隆17年2月13日(1752年3月28日)の寅の刻(午前4時ごろ)に死去。宝坻県生員彭武の娘で、一等承恩公の妻・一品夫人に封ぜられた。
    • 長男:伊通阿 - 康熙38年(1699年)生まれ。雍正年間は護軍校を務め、乾隆初年には散秩大臣(無任所の高官)となる。乾隆12年12月17日に一等承恩公の爵位を継承。
    • 次男:伊松阿 - 康熙40年(1701年)生まれ。康熙年間に官学生となり、雍正年間には護軍校、乾隆初年には侍衛什長に任命。乾隆18年12月に一等承恩公を継承。
    • 三男:伊三泰 - 康熙46年(1707年)生まれ。乾隆初年には藍翎侍衛に就任。
    • 四男:伊申泰 - 康熙53年(1714年)生まれ。乾隆初年には藍翎侍衛に就任。
    • 長女:孝聖憲皇后 - 乾隆帝の母。
    • 次女 - 漢軍正藍旗の生員鄭廷輔に嫁ぐ。
    • 三女 - 満洲鑲白旗の刑部筆帖式馬金泰に嫁ぐ。

参考資料

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