出羽祐盛
出羽 祐盛(いずは すけもり)は、戦国時代の武将。石見国邑智郡出羽郷[注釈 1]の二ツ山城を本拠とした国人・出羽氏の当主で、大内氏に属し、毛利元就の与力となる。本拠地の在名から「二山 祐盛(ふたつやま すけもり)」とも名乗った[2]。
| 時代 | 戦国時代 |
|---|---|
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 不詳 |
| 改名 | 出羽宮鶴丸[1](幼名)→出羽祐盛 |
| 別名 |
二山祐盛[2] 通称:孫次郎[1] |
| 官位 | 民部大輔[1]、治部大輔[2] |
| 主君 | 大内義興→義隆 |
| 氏族 | 伴姓富永氏庶流出羽氏[3] |
| 父母 | 父:出羽光祐[1] |
| 兄弟 | 祐盛、元玄[1]、祐直[1]、祐真[1] |
| 妻 | 正室:昌雲妙永(吉川之経の長女)[4] |
| 子 | 元祐[1] |
生涯
編集石見国邑智郡出羽郷[注釈 1]の二ツ山城を本拠とした国人・出羽氏の当主である出羽光祐の嫡男として生まれる[1]。
父・光祐は、幕府奉行人の布施英基と飯尾為信の執達状に従い、文明10年(1478年)から畠山政長による畠山義就討伐に加わって河内国へ在陣していた[5]が、文明18年(1486年)に石見国へ帰国した[6][7]。
この事が幕府の不興を買い、延徳2年(1490年)8月30日には出羽氏の帰国を咎め、直ちに再び畠山義就討伐へ出陣するよう命じる旨の松田数秀と飯尾元連の執達状が、元服前で「出羽宮鶴丸」と名乗っていた祐盛に対して出され[6]、この他に足利義政からも同様の内容の御内書が出されるなど、度々畠山義就討伐の下知を受けたが、祐盛は請文を出しつつも出陣を渋った[8]。
永正5年(1508年)、大内義興が足利義稙を奉じて上洛した際に祐盛も従った。また、永正8年(1511年)8月24日の船岡山の戦いに加わって武功を挙げた。祐盛の功に対し、大内義興は「高名無比類」という旨の御内書を出し、同年10月5日には細川高国からも奉書を送られている[9]。
出羽氏の治める出羽郷700貫の内の450貫は、以前より出羽郷に隣接する阿須那郷の藤掛城主である石見高橋氏によって押領されていたが、享禄2年(1529年)頃に高橋興光が毛利元就によって滅ぼされると、高橋氏に押領されていた450貫は出羽氏へ返還された。この事から、享禄4年(1531年)には毛利氏の与力となる事を誓約する起請文を提出し、以後毛利氏に属した[10]。
天文11年(1542年)2月16日、高橋氏の遺領である石見国邑智郡雪田村も元就から与えられる[11]。
同年1月から始まった大内義隆の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)に従軍し、同年6月7日から7月27日にかけての赤穴城攻撃に参加した[12]。同年7月29日に祐盛は、7月27日に赤穴城を攻め落とした際に負傷した出羽氏家臣の名前と負傷内容を記した軍忠状を陶隆房(後の陶晴賢)に提出し、軍忠状には大内義隆の判を据えられている[注釈 2]。
祐盛の没年は不明であるが、天文18年(1549年)4月22日に嫡男・元祐の家督相続が大内義隆に認められており[13]、これ以前に祐盛が隠居、もしくは死去していることが分かる。
脚注
編集注釈
編集- ^ a b 現在の島根県邑智郡邑南町出羽。
- ^ この時の軍忠状で名前が挙げられている家臣と負傷内容は、小林新五郎(左膝、左肩、腰の3ヶ所に槍傷)、三戸又六(左脇に槍傷)、小谷次郎兵衛尉(左手に槍傷)、安国刑部丞(頭、腰、右膾に投石傷)、土屋宗兵衛尉(窗、腰、右足に投石傷)、安国新十郎(左肩に投石傷)、笠井助次郎(左腕、左足に投石傷)、小林孫左衛門尉(左肩、腰に矢傷)、藤田助五郎(左足に矢傷)、三戸与一左衛門尉(左腕に矢傷)、三郎右衛門(右手に矢傷)、又十郎(左腕に投石傷)、亀太郎(腰、右足に投石傷)、三郎五郎(窗に投石傷)、賀藤兵衛(左肩に投石傷)、神兵衛(窗、左肩、左髄に槍傷と投石傷)[12]。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i 萩藩諸家系譜 1983, p. 957.
- ^ a b c 『吉川家文書』第405号、年不詳6月9日付け、吉川殿宛て、二山治部太輔祐盛書状。
- ^ 萩藩諸家系譜 1983, pp. 951–955.
- ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 39.
- ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第74号、文明9年(1477年)12月21日付け、出羽孫次郎(光祐)殿宛て、弾正大夫忠(布施英基)・加賀守(飯尾為信)連署執達状。
- ^ a b 『閥閲録』巻43「出羽源八」第77号、延徳2年(1490年)8月30日付け、出羽宮鶴(祐盛)殿宛て、前對馬守(松田数秀)・沙彌(飯尾元連)連署執達状。
- ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第75号、年不詳8月10日付け、出羽掃部守(光祐)宛て、(畠山)尚順書状。
- ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第78号、年不詳10月7日付け、出羽宮鶴(祐盛)との宛て、足利義政御内書。
- ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第79号、永正8年(1511年)比定10月5日付け、出羽孫次郎(祐盛)殿宛て、(細川)高國書状。
- ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第1号、享禄4年(1531年)2月12日付け、出羽民部大輔(祐盛)殿宛て、(毛利)元就起請文。
- ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第2号、天文11年(1542年)2月16日付け、出羽民部大輔(祐盛)殿 御宿所宛て、(毛利)元就書状。
- ^ a b 『閥閲録』巻43「出羽源八」第80号、天文11年(1542年)7月29日付け、陶(隆房)殿宛て、出羽民部大輔祐盛軍忠状。
- ^ 『閥閲録』巻43「出羽源八」第81号、天文18年(1549年)4月22日付け、大内義隆判物。
参考文献
編集- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第九ノ一 吉川家文書之一』東京帝国大学、1925年12月。 国立国会図書館デジタルコレクション
- 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション
- 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。 国立国会図書館デジタルコレクション
- 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」河合正治編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年9月、243-286頁。 国立国会図書館デジタルコレクション
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻43「出羽源八」