大内晴持

周防の戦国大名

大内 晴持(おおうち はるもち)は、戦国時代武将周防国山口を本拠地とする戦国大名大内氏の当主である大内義隆の養嗣子。実父は土佐国中村、土佐一条氏一条房冬。記述によっては一条房家の四男で[1][2][3][4]、房冬の弟と記すものもある。母は房冬の側室であった大内義隆の姉[注釈 1]没後、養父の幕府への働きかけで将軍家から一字が追贈され、義房よしふさとなった。[要出典]

 
大内 晴持
時代 戦国時代
生誕 大永4年(1524年)?
死没 天文12年5月7日1543年6月9日
改名 太郎(幼名)→一条恒持→大内晴持
別名 通称:新介
官位 正五位下左衛門佐
氏族 土佐一条氏多々良姓大内氏
父母 父:一条房冬、母:大内義興の娘
養父:大内義隆
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生涯

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幼名は太郎元服して一条恒持つねもちと称し[5][4]、大内家の養子となると同時に足利義晴から偏諱を賜って大内晴持、新介を名乗った[6]

母方の叔父にあたる大内義隆にまだ男子がなかったため、3歳[4]にしてその養嗣子となる。容貌が美しく文武に秀で和歌管弦蹴鞠といった雅な教養にも明るく[2]、公家の名門一条家の血筋もあってか義隆に可愛がられたという。

天文7年(1538年2月25日に元服[7]

天文9年(1540年1月、父・義隆が防府口経由で安芸国に出陣するが晴持も同行する[3]

天文10年(1541年3月に安芸国に到着し、5月5日には厳島流鏑馬を観覧する[3]

天文10年11月、出雲国尼子経久が没すると、天文11年(1542年)1月に晴持は義隆とともに出雲に出陣し、天文12年(1543年)3月に尼子晴久が籠城する月山富田城を包囲したが、三刀屋久扶本城常光らの寝返りで大内軍は総崩れとなった(第一次月山富田城の戦い)。その結果、5月7日に晴持は義隆とともに出雲意宇郡出雲浦[注釈 2]へと落ち延びる。ここで晴持と義隆は別々のルートで周防に退却することになった。

尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島親弘右田弥四郎たちが防ぎ戦死、その間に晴持は乗船した。しかし、水中から船に乗り込もうとした兵を船上の人が棹で払い落とそうとしたため、船はバランスを崩して転覆、晴持は溺死した[1][2][6][3][5][4]享年20歳だった[注釈 3]

なお、晴持が溺死せずに揖屋西灘に漂着して吉儀惣右衛門に救助されたが、翌6月に17歳で病死したという伝承もある[8]

晴持の死後、義隆は幕府に働きかけて将軍家の通字である「義」の字を賜り、義房として弔った。[要出典]このため、後世の系図には義房とも記されている。

また、その死を哀れんだ人が晴持を社に祀り、島根県松江市東出雲町揖屋に大内権現(大内神社)として残っている[9]社格無格社で、祭日は11月24日[8]

経歴

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※日付=旧暦

※参考:系図纂要

画像集

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脚注

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注釈

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  1. ^ 大内晴持の母について、『大内義隆記』異本では「伏見宮の姫宮」。『房顕記』には「伏見殿ご息女、一条殿のつけ子」とある。
  2. ^ 『大内義隆記』異本、『房顕記』、『中国治乱記』は「出雲浦」。『大内系図』は「八杉浦」とする。
  3. ^ 『大内系図』では「あるいは15歳」。『治乱記』では19歳。
  4. ^ 『中国治乱記』には、「天文8年6月19日、16歳で正五位下 左兵衛佐に任じられた」とある。

出典

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  1. ^ a b 『大内義隆記』
  2. ^ a b c 『大内義隆記』異本
  3. ^ a b c d 『房顕記』
  4. ^ a b c d e f g h i 『大内系図』
  5. ^ a b c d e f 歴名土代
  6. ^ a b 『中国治乱記』
  7. ^ 『毛利家文書』第397号、「毛利隆元山口滞留日記」天文7年2月25日条。
  8. ^ a b 八束郡誌 1973, p. 141.
  9. ^ 大内神社 | 水の都松江 松江観光協会 公式サイト”. 松江観光協会. 2017年1月13日閲覧。
  10. ^ 歴名土代群書類従22巻390頁、内外書籍

参考文献

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  • 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345 NDLJP:780384 
  • 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-2 毛利家文書之二』東京帝国大学、1922年2月。  国立国会図書館デジタルコレクション
  • 奥原福市 編『八束郡誌』名著出版、1973年3月。  国立国会図書館デジタルコレクション

関連項目

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