大木 親照(おおき ちかてる)は、安土桃山時代から江戸時代初期の前期。

 
大木 親照
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 慶安2年9月25日1649年10月30日[1]
別名 親信、初千代、才十郎、才兵衛[1]
戒名 日到[1]
墓所 戒行寺[1]
幕府 江戸幕府 膳奉行[1]
主君 徳川家康秀忠家光
氏族 三枝氏族大木氏[1]
父母 父:大木親忠[1]
飯室昌恒の娘[1]
親茂飯室昌吉忠吉親清[1]
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経歴

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甲斐国八代郡大木郷の武士大木親忠の子。大木氏は三枝氏の一族といい、親照の曾祖父の代より武田氏に従っていたという[1]天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると父・親忠は甲斐に入った徳川家康に従ったが、同年の天正壬午の乱信濃国佐久郡蘆田で後北条氏と戦って戦死した。当時、初千代と称していた親照は大木氏の家督を継ぎ、所領及びの座役など62貫500文の安堵を受けている[2][1]

天正19年(1591年)家康の関東移封に伴って武蔵国高麗郡男衾郡に所領替えとなる[1]。またこの頃、関東浪人平定のため川船改役を命じられたともいう[3]。後年、膳奉行を務めた。慶安2年(1649年)死去。家督は長男の親茂が継ぎ、他に二子が別家を立てている。また次男の昌吉は母の実家・飯室氏を継いでいる[1]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『寛政重修諸家譜』, p. 252.
  2. ^ 『甲府市史』, pp. 699–700.
  3. ^ 『浅草区誌』, p. 105.

参考文献

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  • 甲府市市史編さん委員会 編『甲府市史 通史編』 1巻、甲府市、1991年。 
  • 東京市浅草区 編『浅草区誌』 上巻、宗高書房、1968年。 
  • 寛政重修諸家譜』 8巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0212-3