天皇訪中

1992年に天皇明仁が中国を訪問した出来事

天皇訪中(てんのうほうちゅう、天皇の中国訪問[1])は、1992年平成4年)10月23日から28日にかけて当時天皇だった上皇明仁が天皇として歴史上初めて中国大陸中華人民共和国)を訪問した出来事[2]

概要

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1975年に『タイム』誌のインタビューで昭和天皇は中華人民共和国訪問の希望を語っており[3]鄧小平1978年の訪日以来天皇訪中を度々要請し[4]、これに対して1984年4月には昭和天皇も「中国へはもし行けたら」と述べて訪中に前向きだったものの日本政府は沖縄訪問を優先したことで見送られた[3][5]

1989年の6月の天安門事件民主化運動を弾圧して西側諸国から経済制裁を受けていた中華人民共和国は、1992年が日中国交正常化20周年を機会に事態の打開を図るために日本政府に天皇訪中を繰り返し要請していた[6]。1992年1月に訪中した副総理外相渡辺美智雄は、中国外相銭其琛に対し、「10月22日から27日、5泊6日。極秘裏に検討を」と伝えた[7]

しかし、天皇の政治利用になりかねないと政権与党の自由民主党には慎重意見もあった[3]。1992年2月21日には駐日中国大使の楊振亜が講演時の質疑で、訪中時の「おことば」について、「かつて両国の一時期起こった不幸な歴史に対し、何らかの態度表明が行われるのが自然なことだと思う」と過去への謝罪を期待する発言し、さらには同月25日には中国が尖閣諸島を中国領と明記した「領海法」を公布したことで、日本で訪中反対論が盛り上がった[8][7]自民党副総裁であった金丸信は外務官僚に対し、陛下の訪中については、中国と島の問題をちゃんと詰めて、その上でのことだと述べている[4]

4月、宮澤喜一首相は一時帰国した橋本恕駐中国大使に「党内や国民の間に亀裂が生ずるような形で実施したくない」と不安を明かし、橋本に対中工作を命じた[7]。結果として、中国側は対立をあおる言動を控えるようになった[7]

また、小和田恒事務次官以下の当時の外務省官僚が政界工作やマスコミ工作などを行い主導して実現させていたことが2023年12月20日に公開された外交文書で明らかになった[9]。水面下の働きかけが奏功して、自民党内の反対論は徐々に収まり、8月25日に訪中が閣議決定された[4][2]

天皇は北京で行われた楊尚昆中国国家主席(党内序列は江沢民中国共産党総書記鄧小平軍事委員会主席に次ぐ第3位であった)主催の晩餐会において日中戦争などの過去の両国の歴史問題について「わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」との「おことば」を述べた[10]。当時、中国大使館公使であった槙田邦彦は「おことばができあがったということで僕のところに送られてきた。それは外務省が起案したものとはちょっと違っていた。天皇陛下がみずから手を入れられたところがあると聞きました。過去の戦争、それによって中国の人たちに与えた被害、そういうことを、かえりみて天皇陛下が自分のことばで手を入れられたということです」と述べている[4]

日程

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出典:[2][11][12]

10月23日(金)
10月24日(土)

<天皇陛下>

<皇后陛下>

  • 北京北海幼稚園ご訪問

<天皇皇后両陛下>

10月25日(日)
10月26日(月)
  • 大雁塔ご視察
  • 唐華賓館ご覧
  • 陝西省博物館ご覧
  • 西安在留邦人拝謁(ハイアット・ホテル)
  • 陝西歴史博物館ご覧
  • 西大門城壁ご視察
  • 白清才陝西省長主催歓迎晩餐会(ハイアット・ホテル)
  • 文芸の夕べ(ハイアット・ホテル)
  • ハイアット・ホテル 泊
10月27日(火)
  • 西安(西安咸陽空港) 御発
  • 上海上海虹橋空港) 御着
  • 実験室ご視察及び学者・学生とご歓談(上海交通大学)
  • 上海学者文化人等とのご歓談(西郊賓館)
  • 黄菊上海市長主催歓迎晩餐会(新錦江飯店)
  • 上海市内(外灘南京路)ご視察
  • 西郊賓館
10月28日(水)
  • 南浦大橋ご視察
  • 農村ご視察(周浦郷)
  • 在留邦人拝謁(ガーデン・ホテル)
  • 上海(上海虹橋空港) 御発
  • 東京(羽田空港) 御着

評価

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外務省アジア局は天皇訪中をきっかけに日中関係がますます盛り上がり、中国にとっての日本の重要性が増すと見込んでいたが、実際には中国はこれ以降ますます反日スタンスを強め対日賠償請求運動や歴史問題は悪化し、中国は民主化することもなく、中国共産党による一党独裁が継続し、天皇訪中の事実は中国の公式記録すら記されていない。時事通信解説委員の西村哲也は、日本の外務省の見通しは全くはずれだったと酷評している[13]

笹川平和財団上席フェローの小原凡司は、天皇訪中の実現は評価しつつ、「今顧みれば、日本政府は権威主義国家の中国を見誤っていた」と指摘している[14]

主要人物(日本側)

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随員

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(一部抜粋)[15]

関連人物

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 「天皇の中国訪問」は何をもたらしたのか? 国際社会から孤立した中国と、天安門事件への不信を抱いた日本… 「皇室外交」の歴史をふりかえる | 歴史人”. 歴史人. 2025年10月13日閲覧。
  2. ^ a b c 中華人民共和国ご訪問(平成4年) - 宮内庁”. www.kunaicho.go.jp. 2025年10月13日閲覧。
  3. ^ a b c “「なぜ官僚の私が…」天皇訪中、大使は保守派を説得した”. 朝日新聞. 22 December 2018. 2018年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2019年9月12日閲覧.
  4. ^ a b c d 「総理がぐらぐらしている」初の“天皇中国訪問”の内幕」『NHK政治マガジン』NHK、2023年12月20日。オリジナルの2025年7月20日時点におけるアーカイブ。2025年8月7日閲覧。
  5. ^ 城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』、8頁(文春新書)
  6. ^ 平成4年の天皇ご訪中に外務省がマスコミ工作 「反対か賛成か」共同通信社長に詰め寄る - 産経新聞 2023/12/20 10:00
  7. ^ a b c d Inc, Nikkei (2023年12月20日). “宮沢喜一首相、天皇訪中へ工作命じる 1992年外交文書”. 日本経済新聞. 2025年10月13日閲覧。
  8. ^ 産経新聞 (2023年12月20日). “外交文書公開 「宮沢は度胸ない」天皇陛下ご訪中をめぐり渡辺美智雄外相が首相に不満”. 産経新聞:産経ニュース. 2025年10月13日閲覧。
  9. ^ 産経新聞 (2022年12月21日). “中国「天皇訪中」繰り返し要請、外務省は訪韓も検討 平成3年の外交文書公開”. 産経新聞:産経ニュース. 2025年10月13日閲覧。
  10. ^ 天皇皇后両陛下 中華人民共和国ご訪問時のおことば - 宮内庁”. www.kunaicho.go.jp. 2025年10月13日閲覧。
  11. ^ 外務省外交文書(天皇皇后両陛下中国御訪問)「御動静」(p.52-92)
  12. ^ 外務省外交文書(天皇皇后両陛下中国御訪問)「天皇皇后両陛下 中国御訪問日程(案)」(p.399-400)
  13. ^ 消えた天皇訪中 中国の公式歴史書に記載なし【中国ウオッチ】:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2025年10月13日閲覧。
  14. ^ 中国の「領海法」対応か天皇訪中交渉か、首相だった宮沢喜一氏が半年間しゅん巡”. 読売新聞オンライン (2023年12月21日). 2025年10月13日閲覧。
  15. ^ 外務省外交文書(天皇皇后両陛下中国御訪問)「天皇皇后両陛下 中国御訪問日程(案)」(p.397-398)

外部リンク

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