天野 貞省(あまの ていしょう)は、日本の武士幕臣)、旗本陸軍軍人。最終階級は陸軍工兵中佐静岡県士族[注 1](のち東京府士族[注 2])。

 
天野 貞省
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 天保6年7月26日1835年8月21日
死没 明治39年(1906年)3月
享年72(満70歳没)
別名 釣之丞、釣
墓所 勝専寺別院[1]
幕府 江戸幕府 両番歩兵差図役頭取勤方、歩兵頭並、砲兵頭並[2][3]、鉄砲玉薬奉行[2][4]
氏族 藤原南家為憲流天野氏
父母 父:雄之助貞一[5]
兄弟 貞省、恒之助[6][7]
つな(間宮将監信成の娘)[8][9][7]
綱一[7]、長女[7]儀平[7][10]
テンプレートを表示
天野 貞省
あまの ていしょう
生誕 天保6年7月26日1835年8月21日
江戸幕府武蔵国江戸 四谷内藤宿新屋敷大名小路(現:東京都渋谷区千駄ヶ谷
死没 明治39年(1906年)3月
享年72(満70歳没)
大日本帝国の旗 日本東京府(現:東京都
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1872年 - 1895年
最終階級 陸軍工兵中佐
勲章 勲四等旭日小授章
出身校 昌平坂学問所講武所[2]
テンプレートを表示

経歴

編集

天保6年(1835年)7月26日、江戸四谷内藤宿新屋敷大名小路(現在の東京都渋谷区千駄ヶ谷新宿御苑内)に幕臣天野雄之助貞一の長男として生まれた。通称釣之丞。明治2年(1869年)7月から4、5年(18711872年)頃までを名乗る[注 3][11]。天野家は岡崎五人衆天野貞有の子孫で三河譜代安祥譜代)の旗本家禄200石)[12][13]

幕臣として

編集

講武所で専ら砲術を修め、文久3年(1863年)2月に部屋住より召し出され両番歩兵差図役並勤方、同8月には歩兵差図役勤方を仰せ付けられる。慶応元年(1865年)5月には歩兵差図役頭取勤方、同2年(1866年)11月には歩兵差図役頭取改役兼勤となり、同3年(1867年)5月、歩兵頭並となる[注 4][2]。これにより足高が800俵付き、家禄と合わせて1000石となった。同年9月、祖父より跡式相続[注 4]。同年11月に砲兵頭並、同4年(1868年)正月には鉄砲玉薬奉行兼勤を命ぜられ[2]鳥羽・伏見の戦いでは大坂城の守城砲であったことが『復古記』に見える[14]。貞省は当時の守城砲の権威であった[15]

4月には江戸開城により江戸を脱出、翌閏4月にかけ市川・船橋戦争に加わる。徳川公用方が征東軍総督府に提出した届書(4月17日付)に、貞省と間宮帯刀、江原鑄三郎上総木更津方面へ脱走した兵隊の取り鎮めとして出張させたい旨が記されている[注 5][16][17]。木更津付近の海岸に備え付けられていた大砲のうち、運搬の容易な物を取り外して別の所に据えたのは貞省率いる城砲兵の仕業と認められるが、それらを使用して防戦した記録は見当たらず、貞省ら砲兵隊は戦闘には出なかったらしい[15][18]。貞省らの一隊は、真里谷(現木更津市)の本陣後退後、大多喜を経て夷隅郡若山村(現いすみ市)へ逃げるが、若山村を知行した阿部邦之助の説得により城砲兵たちは閏4月24日・25日に江戸へ帰着した。貞省と義兄である間宮銕太郎[注 6]望陀郡中郷の某家に匿われた後、密かに江戸へ戻った[2]

9月には徳川家に従い静岡藩へ移住し[注 7]沼津兵学校三等教授方となる[注 8]。4年(1871年)1月25日、二等教授方に昇進し[2][19]、12月(1872年1月)に沼津兵学校が沼津出張兵学寮と改称された際、陸軍大尉兵学大助教を拝命。この時には名前は貞省となっている[注 9]。5年(1872年)、沼津出張兵学寮は陸軍兵学寮(東京・和田倉門外)と統合され、貞省も沼津から東京へ戻る[2]

新政府出仕後

編集

明治5年(1872年)6月には工兵附、8月には伝習中教導団附、6年(1873年)に教導団附兼務となり、7年(1874年)7月30日、陸軍少佐に任ぜられ[注 10]、8月12日には陸軍兵学少教授を兼任[注 11]。沼津兵学校の教授から陸軍軍人となった者の多くは砲兵科に進んでおり、工兵に進んだのは貞省のみであった[20]。12月26日、市ヶ谷台陸軍士官学校が開校されるに当たって教導団附兼務を免ぜられ、士官学校附兼勤となる[注 12]。8年(1875年)には習志野原測量に参加し、1万分の1「習志野原及周回邨落図」を作成している[21][注 13]

12年(1879年)、明治天皇の命により宮内省主導のもと大蔵省印刷局が撮影や制作を担当した『人物写真帖』が作られた。現存する写真帖の総冊数は39冊、皇族15方、諸官省の高等官ら4531名が収められているが、その中に数え46歳(明治13年1月付)の貞省の写真がある[注 14]。13年1月29日までに陸軍現役将校の撮影が終了していることから、陸軍工兵少佐である貞省の写真も早くて12年(1879年)12月、遅くとも13年(1880年)1月に大蔵省印刷局にて撮影されたとみられる[22]

14年(1881年)7月には関定暉と編纂した『迅速測図教方』が出版される。『迅速測図教方』は地理図学の教程で、緒言に「本篇ハ仏国工兵大佐グーリエー氏著述ノ迅速測図教方に原キ地理図学教官天野貞省、関定暉ヲシテ編纂セシメ以テ本校迅速測図教方ニ充ツル者ナリ」とある[23]。1875年のフランス軍事顧問団報告書の中には士官学校の職員表があり、貞省は地形学・築城学の教授であったようだ[24]。16年(1883年)1月31日、工兵会議設置に伴い工兵会議議員を兼任[注 15]。同年、士官学校工兵学教官(兼工兵会議議員)。

長らく教官職にあった貞省だが、17年(1884年)6月2日には参謀本部海防局員(兼工兵会議議員)となり[注 16]、10月25日には工兵中佐に任じられる[注 17]。この間、10月3日付の文書では海防局長代理となっている[注 18]。海防局では海岸防御に必要な測量図の調整や砲台建設地の測量に当たっていたらしく、猿島富津岬室蘭小樽函館等に出張している[注 19]。19年(1886年)3月18日に陸海軍統合参謀部門として「参謀本部」が設立されたことに伴い、3月19日に参謀本部陸軍部第三局長兼工兵会議議員[注 20][注 21]。第三局は陸地、海岸防御の方法に係る事項を規画し、全国地理、政誌を詳悉し、運輸の便否方法を調査することを任とした部局である。5月29日、勲四等旭日小綬章を叙勲[注 22]、6月11日に御陪食を賜った[注 23]。21年(1888年)5月21日には臨時砲台建設部事務官に補され[注 24]、6月9日には再び工兵会議議員を兼任[注 25]

22年(1889年)7月24日、後備役となり[注 26]、28年(1895年)7月に退役[2]。退役後は病床に伏すも静養して快復、茶道や生け花、和歌をたしなみ、茶道と華道は人に教えるようにまでなった[7]。持病が再発して39年(1906年)3月に没した[7]。享年72。

人物

編集

「資性剛直廉潔、体躯強壮偉大、学を好んで博覧強記、漢数蘭英を修め又弓馬槍剣砲術を能くす」「諸生を愛し撫育至らざるなく門下食客を絶つことなし」と石橋絢彦が貞省の略伝に述べている[25]

栄典

編集
位階
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1886年(明治19年)5月29日   勲四等旭日小綬章[注 30]
1889年(明治22年)11月29日   大日本帝国憲法発布記念章[注 31]
1890年(明治23年)7月1日 褒状[注 32]
1892年(明治25年)4月8日 褒状[注 33]
1905年(明治38年)4月12日 木杯一組[注 34]

編集、翻訳、校正

編集

明治8年(1875年)年には小菅智淵らと共に『工兵操典』巻之九・十「測地之部」を、9年(1876年)には『工兵陣中必携』を訳出[注 35]。14年(1881年)には関定暉と編纂した『迅速測図教方』が士官学校学科部より出版される[23]。9年(1876年)に刊行された『地理図学教程』(クレットマンフランス語版編、原胤親訳、陸軍士官学校刊)、11年(1878年)に刊行された『建築学教程』(ガロパン編、原胤親訳、陸軍士官学校刊)の校正も担当している[26]

家族・親族

編集
  • 父:雄之助貞一[5] - 慶応3年(1867年)時点で部屋住のまま亡くなっていることが貞省の明細短冊で確認できる[注 4]
  • 祖父:三郎右衛門利貞[1] - 旗本(御小性組)。
  • 弟:恒之助(1851-1920[27] - 明治の初めより半襟商を営む[10]
  • 妻:つな - 旗本・間宮将監信成の娘[9]
  • 長男:綱一 - 早世[7]
  • 長女 - 依田正忠(陸軍歩兵大佐)の妻[7]
  • 大甥:儀平 - 恒之助の孫。貞省没後、親族会議により貞省家を相続した[7][10]
  • 義父:間宮将監信成 - 旗本(鉄砲玉薬奉行)。
  • 義兄:間宮銕太郎信行(1834-?) - 旗本(砲兵頭並)。沼津兵学校教授方。陸軍砲兵中佐。沼津兵学校や参謀本部海防局で貞省とは同僚。

備考

編集
  • 御使番天野民七郎(民翁)の子・天野釤之丞は別人[注 36]
  • 国立公文書館所蔵の明細短冊を翻刻した『江戸幕臣人名辞典』では天野駒之丞となっているが誤読であり、国立公文書館の目録も天野駒之丞となっていたものが2019年8月に天野釣之丞に訂正された[30][31][注 4]

脚注

編集
  1. ^ 『陸軍武官録』、明治8年。
  2. ^ 『官報』第6339号「軍資献納金」、明治37年8月16日。
  3. ^ 静岡御役人附”. 静岡県立中央図書館 (1869年). 2025年8月10日閲覧。
  4. ^ a b c d 『歩兵頭並天野釣之丞 明細短冊』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ。
  5. ^ この時の貞省の肩書きは砲兵組頭並とある。
  6. ^ 間宮兵庫の養子・間宮鐡太郎とは別人。
  7. ^ 『駿河表召連候家来姓名』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ。
  8. ^ 『沼津兵学校名簿』
  9. ^ 『史話まぼろしの陸軍兵学寮』『職員録・明治五年二月・官員録改』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ。
  10. ^ 太政官日誌明治7年第111号」 アジア歴史資料センター Ref.C07040178200 。
  11. ^ 「太政官日誌 明治7年 第64-119号」
  12. ^ 第104号12月26、27、28、30日」 アジア歴史資料センター Ref.C08010412400 。
  13. ^ 『日本書籍分類総目録 第1巻 (明治編 1)』に「製図者 陸軍少佐天野貞省外二十六名」とあり、地図の製作に中心的役割を果たしたようである。
  14. ^ 天野貞省”. 収蔵品. 皇居三の丸尚蔵館. 2025年8月7日閲覧。
  15. ^ 『改正官員録 明治16年5月』
  16. ^ 『官報』第283号「官庁彙報」、明治17年6月10日。
  17. ^ 『官報』第411号「叙任」、明治17年11月10日。
  18. ^ 参水第1539号」 アジア歴史資料センター Ref.C07081133200 。
  19. ^ 『官報』第437号「官庁彙報」、明治17年12月10日、新室蘭市史 第4巻『官報』第611号、明治18年7月15日。
  20. ^ 『官報』第816号「官庁事項」、明治19年3月25日。
  21. ^ 官報には第三局長と記されているが、「参貞第502号第1」には第三局第二課長とある。
  22. ^ 『官報』第880号「叙任」、明治19年6月9日。
  23. ^ 『官報』第883号「宮廷録事」、明治19年6月12日。『明治軍事史 : 明治天皇御伝記史料 上 (明治百年史叢書)』
  24. ^ 『官報』第1468号「叙任及辞令」、明治21年5月24日。
  25. ^ 『官報』第1485号「叙任及辞令」、明治21年6月13日。
  26. ^ 『官報』第1822号「叙任及辞令」、明治22年7月26日。
  27. ^ 太政官日誌明治7年第37号」 アジア歴史資料センター Ref.C07040170700 。
  28. ^ 『明治新史 7』
  29. ^ 『官報』第426号「叙任」、明治17年11月27日。
  30. ^ 『官報』第880号「叙任」、明治19年6月9日。
  31. ^ 『官報』第1936号「辞令」、明治22年12月10日。
  32. ^ 『官報』第2335号「彙報」、明治24年4月16日。
  33. ^ 『官報』第2794号「彙報」、明治25年10月19日。
  34. ^ 『官報』第6722号「褒賞」、明治38年11月25日。
  35. ^ 『陸軍文庫図書目録 明治27年9月刊』
  36. ^ 釤之丞は慶応3年5月4日に両番上席歩兵差図役頭取勤方より歩兵差図役頭取に任ぜられ、10月晦日に御使番となり民七郎に改名している[28][29]

出典

編集
  1. ^ a b 宮平 2021, p. 68.
  2. ^ a b c d e f g h i 石橋 1918, p. 44.
  3. ^ 沼津市明治史料館 1986, p. 2.
  4. ^ 沼津市明治史料館 1996, p. 4.
  5. ^ a b 石橋 1918, p. 43.
  6. ^ 宮平 2021, p. 71.
  7. ^ a b c d e f g h i j 石橋 1918, p. 45.
  8. ^ 宮平 2021, p. 72.
  9. ^ a b 沼津市明治史料館 1990, p. 2.
  10. ^ a b c 宮平 2021, p. 63.
  11. ^ 樋口 2001, p. 2.
  12. ^ 高柳 1965, pp. 181–191.
  13. ^ 宮平 2021, p. 64.
  14. ^ 太政官 1930, p. 437.
  15. ^ a b 大山 1968, p. 265.
  16. ^ 山形 1983, p. 168.
  17. ^ 千葉県君津郡教育会 1927, p. 736.
  18. ^ 山形 1983, p. 123.
  19. ^ 樋口 2005, p. 55.
  20. ^ 沼津市明治史料館 1991, p. 2.
  21. ^ 関口 1970, p. 13.
  22. ^ 宮内庁三の丸尚蔵館 2013.
  23. ^ a b 水尾 1976, p. 26.
  24. ^ 篠原 1983, p. 384-385.
  25. ^ 石橋 1918, pp. 43, 45.
  26. ^ 沼津市明治史料館 2014, p. 36.
  27. ^ 宮平 2021, pp. 71, 73.
  28. ^ 熊井 & 大賀 1989, p. 66.
  29. ^ 根岸 1965, p. 236.
  30. ^ 小西, 熊井 & 大賀 1989, p. 65.
  31. ^ 宮平 2021, p. 70.

参考文献

編集
  • 『新訂寛政重修諸家譜』 14巻、高柳光寿監修、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0218-5 
  • 根岸衛奮 編『柳営補任』 五、東京大学出版会〈大日本近世史料〉、1965年。 
  • 石橋絢彦「沼津兵學校職員傳(二)天野貞省君略傳」『同方会誌』第47号、同方会、1918年、43-45頁。 
  • 宮平佳奈「天野家 空白の六十年を埋める」『柳営』33・34、柳営会、2021年、63-73頁。 
  • シリーズ沼津兵学校とその人材6 幕府陸軍と沼津兵学校」(PDF)『沼津市明治史料館通信』第7号、沼津市明治史料館、1986年。 
  • シリーズ沼津兵学校とその人材22 姻戚関係にみる沼津兵学校の人物」(PDF)『沼津市明治史料館通信』第23号、沼津市明治史料館、1990年。 
  • シリーズ沼津兵学校とその人材24 沼津兵学校と工兵」(PDF)『沼津市明治史料館通信』第25号、沼津市明治史料館、1991年。 
  • シリーズ沼津兵学校とその人材41 沼津兵学校と造兵」(PDF)『沼津市明治史料館通信』第44号、沼津市明治史料館、1996年。 
  • 樋口雄彦シリーズ沼津兵学校とその人材60 沼津兵学校にみる明治二年の改名」(PDF)『沼津市明治史料館通信』第65号、沼津市明治史料館、2001年。 
  • 太政官 編『復古記』 第1冊、内外書籍、1930年。NDLJP:1148133/1 
  • 大山柏『戊辰役戦史』 上、時事通信社、1968年。 
  • 山形紘『市川・船橋戦争―幕府陸軍撒兵始末―』崙書房、1983年。 
  • 内田宣人『「遺聞」市川・船橋戊辰戦争:若き日の江原素六・江戸・船橋・沼津』崙書房、1999年。ISBN 4-8455-1062-6 
  • 篠原宏『陸軍創設史:フランス軍事顧問団の影』リブロポート、1983年。 
  • 千葉県君津郡教育会 編『千葉県君津郡誌 上編』千葉県君津郡教育会、1927年。NDLJP:1190679 
  • 宮内庁三の丸尚蔵館 編『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」―四五〇〇人の肖像』(PDF)公益財田法人菊葉文化協会〈三の丸尚蔵館展覧会図録No.61〉、2013年https://shozokan.nich.go.jp/research/exhibition-catalogues/61meijijuninenmeijitenno_fullpage.pdf 
  • ニコラ・フィエヴェ、松崎碩子『ルイ・コレットマン・コレクション フランス士官が見た近代日本のあけぼの』アイアールディー企画、2005年。ISBN 4-901061-10-0 
  • 関口正雄「明治8年 測量 「習志野原及周回邨落図」をめぐって」(PDF)『地図』第8巻第3号、日本地図学会、1970年、13-17頁、doi:10.11212/jjca1963.8.3_13 
  • 水尾藤久「平板測量雑記」『測量 : 地理空間情報の科学と技術』第26巻第11号、日本測量協会、1976年、26-30頁。 
  • 熊井保、大賀妙子 編『江戸幕臣人名辞典』 一、小西四郎 監修、新人物往来社、1989年。 
  • 沼津市明治史料館 編『図説沼津兵学校』沼津市明治史料館、2009年。 
  • 沼津市明治史料館 編『沼津兵学校とその時代』沼津市明治史料館、2014年。 

関連項目

編集

外部リンク

編集