宗教的迫害(しゅうきょうてきはくがい)とはある個人もしくは集団がもつ信仰を理由に、その個人や集団を差別することに始まり、社会権の制限などの軽微なものから、強制改宗虐殺などを加えることである。迫害の対象となる信仰の内容は、諸宗教無神論、その他の無宗教的有神論など多様で、多岐にわたっている。

近代に至って世界の各国で信教の自由が保障されるに至り、宗教的迫害は許されないものであるという合意が出来上がっているが、現在でも発展途上国社会主義国家イスラム国家などでの宗教的迫害が問題になっている。近代と比較して穏健化したキリスト教諸国においても散発的に迫害が起きており、宗教的迫害の解決策は見えていない。

厳密性の高い学術誌「政治に対する観点」に掲載された2020年の研究によると、宗教的マイノリティに対する認識が宗教的差別の引き金になるという[1]

世界宗教に対する迫害

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キリスト教

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イエス・キリストは、伝道中に様々な迫害にあい、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活する。このような超自然的であるイエスの奇跡は、キリスト教の根幹的な教義をなしている。また、キリスト教には複数の教派が存在し、一方の宗派が他方の宗派を異端と認定し迫害するという現象も起こっている。

325年のキリスト教会公会議ニカイア公会議三位一体説が正統と決定されたため、キリストに人格を認めるネストリウス派431年エフェソス公会議において異端認定された。そのため、ネストリウス派は海外への布教をすすめ、教えを継承したアッシリア東方教会とカルデアカトリック教会が、現在は中東アフリカで活動をしている。

キリスト教の盛んな布教は土着宗教との摩擦を産み、激しい迫害が起こった。ローマ帝国による弾圧、ベトナム王朝における弾圧、中国による弾圧、朝鮮半島における弾圧(丙寅教獄)、日本における隠れキリシタンへの弾圧などがあげられる。

ユダヤ教

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ユダヤ教ユダヤ民族民族宗教であり、一神教の一つである。歴史を通じてユダヤ教徒やユダヤ人は宗教的理由および民族的理由による迫害の対象となってきた。

ローマ帝国におけるユダヤ教迫害

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4世紀末、キリスト教がローマ帝国の国教として確立される以前から、ユダヤ教徒は宗教的な理由でローマ支配下の社会で疎外されていたが、その背景には、ユダヤ教の厳格な一神教信仰とローマ帝国の多神教的国家観との根本的な相違、すなわち、ローマ帝国は原則として、多神教を認め、地域の伝統的な神々や皇帝の神格化(いわゆる皇帝崇拝)を国家的統一の象徴として重視したが、ユダヤ教徒は唯一絶対の神ヤハウェを信じ、それ以外の神々や皇帝崇拝を固く拒否したという信義上の争いがあるといわれる。

紀元70年のユダヤ戦争において、ローマ軍がエルサレムの第二神殿を破壊し、ユダヤ人の政治的独立は終焉を迎えた。この神殿破壊はユダヤ教徒の宗教的中心を奪い、その後も彼らは帝国内で離散(ディアスポラ)しながらも信仰共同体を維持し続けていた。

一方で、キリスト教は最初はユダヤ教の一派と見なされていたが、徐々に両者の教義は分岐した。特にパウロ使徒の布教活動は、キリスト教を非ユダヤ人にも広げる方向へ進め、これがユダヤ教内部との断絶を深めた。ローマ社会においてキリスト教徒は皇帝崇拝を拒否し、偶像礼拝も拒否したため、不敬の罪として弾圧されることが多かった。

375年頃、テオドシウス1世の治世下でキリスト教は国教化され、392年には異教(多神教)が禁止されるに至った。これによりユダヤ人も厳しい宗教的差別・制限を受けるようになり、特にユダヤ人がキリストの死に関与したとの誤解から、彼らは「神を殺した者(デウス・カディンドゥス)」と見なされ、社会的迫害・差別の根拠とされた。

例えば、11世紀以降の十字軍時代においては、十字軍兵士らが聖地奪還に熱狂する過程でヨーロッパ各地でユダヤ人共同体への襲撃や虐殺(ポグロム)が相次いだ。1096年の第1回十字軍の途中、ドイツのライン地方で起きた一連の暴動では、シュパイアーやヴォルムス、ケルン、プラハなどでユダヤ人が迫害され、数百名が殺害・強制改宗を強いられた。

加えて、13世紀以降は教会や国家による制度的差別が強化され、ユダヤ人に特定の衣装やバッジを着用させることが義務付けられた。1215年の第4回ラテラノ公会議では、教皇インノケンティウス3世がユダヤ人を含む異教徒に「差別バッジ」の着用を命じ、それにより社会からの分離と視覚的な識別を行なった。これらは後年のゲットー形成の法的・社会的基盤となった。

宗教改革期におけるユダヤ教迫害

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宗教改革の時代、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義は重要な転換期を迎えた。マルティン・ルターは当初、ユダヤ人がカトリック教会の腐敗のために改宗しなかったと考え、宗教改革によってユダヤ人のキリスト教への改宗が進むと期待していた。1523年の著作『イエス・キリストはユダヤ人として生まれた』(原題:"Daß Jesus Christus ein geborener Jude sei"、ドイツ語)では、ユダヤ人に対して比較的寛容な姿勢を示していた。

しかし、ユダヤ人の大規模な改宗が実現しないことに失望したルターは、晩年には極めて攻撃的な反ユダヤ主義的著作を残すことになる。1543年の『ユダヤ人と彼らの嘘について』(原題:"Von den Jüden und jren Lügen"、ドイツ語)では、シナゴーグや学校の焼却、ユダヤ人の家屋の破壊、祈祷書の没収、ラビの説教の禁止、移動の自由の剥奪、金融業の禁止、さらには追放や強制労働までを提言した。この著作は後世、特に20世紀のナチス・ドイツによって反ユダヤ主義のプロパガンダに利用されることになる。

近世ヨーロッパにおけるユダヤ教迫害

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中世から近世にかけて、ユダヤ人は多くのヨーロッパ諸国で土地所有や多くの職業ギルドへの参加を制限され、金融業や商業といった限られた経済活動に従事せざるを得なかった。特に高利貸し(金融業)は、キリスト教徒には宗教的に禁じられていたため、ユダヤ人が担う役割となった。

この経済的地位は二重の結果をもたらした。一方では、一部のユダヤ人は宮廷ユダヤ人として君主の財政顧問や徴税請負人として重要な役割を果たし、保護を受けた。他方では、一般大衆の間では「金貸し」「高利貸し」というイメージが定着し、経済的困難の際にはユダヤ人が標的とされる下地となった。ポグロム(組織的迫害)は、債務の帳消しと略奪という経済的動機と結びついていた。

17世紀から18世紀にかけて、一部のユダヤ人コミュニティは商業ネットワークを発展させ、国際貿易や金融において重要な役割を果たすようになった。アムステルダムやロンドンなどの商業都市では、比較的自由な経済活動が認められたユダヤ人商人が活躍した。しかし、大多数のユダヤ人は東欧のシュテットル(ユダヤ人居住区)で貧困のうちに暮らしており、経済的成功は少数に限られていた。

啓蒙時代におけるユダヤ教迫害

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啓蒙時代は、ユダヤ人の地位に関して矛盾した影響をもたらした。理性と普遍的人権を重視する啓蒙思想は、理論的にはユダヤ人の解放を支持する根拠となった。ヴォルテールやモンテスキューなどの啓蒙思想家は、宗教的寛容を説き、一部は伝統的な反ユダヤ主義的偏見を批判した。

しかし、啓蒙主義は同時に新たな形の反ユダヤ主義の種子も含んでいた。ヴォルテール自身が、ユダヤ教を非理性的で迷信的な宗教として激しく批判し、ユダヤ人を「人類の敵」とまで呼ぶことがあった。啓蒙主義の世俗的・合理主義的視点は、ユダヤ人を「遅れた」「前近代的」存在として描く新たな差別の言説を生み出した。

この時期、ユダヤ人の「市民的改善」(civic improvement)という概念が登場した。これは、ユダヤ人が「啓蒙」され、伝統的な宗教実践や生活様式を放棄し、ヨーロッパ社会に同化すれば、平等な権利を与えられるべきだという考え方であった。この条件付きの解放論は、ユダヤ人のアイデンティティそのものを問題視する視点を内包していた。

近代国民国家におけるユダヤ教迫害

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フランス革命(1789年)は、王侯貴族と市民の格差、とくにユダヤ人の法的地位に革命的変化をもたらし、1791年、フランス国民議会はユダヤ人に完全な市民権を付与した。これは西ヨーロッパにおける最初の本格的なユダヤ人解放であった。ナポレオン時代には、この解放政策がフランスの占領地域にも拡大された。

しかし、解放は完全でも無条件でもなかった。ナポレオンは1806年にユダヤ人代表者の「大サンヘドリン」を召集し、ユダヤ人がフランス国家への忠誠を誓い、宗教法よりも国家法を優先することを求めた。また、1808年には「恥ずべき法令」を発布し、ユダヤ人の金融活動や居住地を制限した。

19世紀を通じて、西ヨーロッパ諸国では段階的にユダヤ人の法的解放が進んだ。イギリスでは1858年にユダヤ人が議会議員になることが認められ、ドイツ諸邦でも1871年の統一後、法的平等が確立した。しかし、法的平等と社会的受容は別問題であった。多くの社会領域で、事実上の差別が続いた。大学教授職、軍の将校、官僚機構の上層部などへの参入は、改宗しない限り困難であった。

一方で東ヨーロッパ、特にロシア帝国では状況は全く異なっていた。世界最大のユダヤ人人口を抱えていたロシアでは、ユダヤ人は「定住地域」に居住を制限され、教育や職業に厳しい制限が課されていた。19世紀後半には、政府が黙認または煽動するポグロムが頻発し、数十万人のユダヤ人が西ヨーロッパや南北アメリカへ移住することになった。

人種主義的反ユダヤ主義とユダヤ教迫害

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19世紀後半、産業革命と資本主義の発展、急速な都市化と社会変動の中で、新たな形の反ユダヤ主義が台頭した。この「近代的反ユダヤ主義」は、伝統的な宗教的反ユダヤ主義とは質的に異なる特徴を持っていた。

最も重要な変化は、反ユダヤ主義が宗教的根拠から人種的・生物学的根拠へと移行したことである。伝統的には、ユダヤ人は改宗によってキリスト教社会に受け入れられる可能性があった(実際には困難であったが、前述のとおり理論上は可能とされていた)。しかし、人種主義的反ユダヤ主義では、ユダヤ人であることは変更不可能な生物学的特性とされた。したがってこの時点で宗教的迫害を超越し、民族としての迫害へと変遷したのである。

ここで、ユダヤ教に改宗した非ユダヤ人は理論上はあり得るが、中世以降は難しかった、少なくとも大衆派では無かったこと、 ユダヤ教は単なる信仰ではなく、ユダヤ人という人種に宿る「変更不可能な遺伝的特性」であると見なされたことを考えると、人種主義的反ユダヤ主義は、宗教的反ユダヤ主義を離れたとみるのではなく、むしろユダヤ人に対する伝統的な宗教的偏見を土台としつつ、それを人種的な枠組みで強化し、より広範囲で根深い憎悪へと発展させた結果と理解されている。

1879年、ドイツのジャーナリスト、ヴィルヘルム・マルが「反セミティズム」(Antisemitismus)という用語を造語した。この言葉は、ユダヤ人への敵意を「セム人種」への科学的・人種的反対として正当化しようとする試みであった。マルは「反セミティズム同盟」を結成し、ユダヤ人を生物学的に劣等で、ドイツ民族に有害な存在として描いた。

フランスでは、ゴビノー伯爵の『人種不平等論』(1853-1855)が人種理論の基礎を築き、後に人種的反ユダヤ主義の理論的根拠として利用された。このような疑似科学的人種理論は、当時の社会ダーウィニズムや優生学思想と結びつき、ユダヤ人を「劣等人種」「寄生的人種」として描く言説を生み出した。

大衆的反ユダヤ主義におけるユダヤ教迫害

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19世紀末、反ユダヤ主義は初めて組織的な政治運動となった。ドイツでは、宮廷説教師アドルフ・シュテッカーが「キリスト教社会党」を結成し、反ユダヤ主義を政治綱領に掲げた。1897年、オーストリア=ハンガリー帝国では、カール・ルエーガーが反ユダヤ主義を掲げてウィーン市長に選出された。

これらの政治運動は、近代化によって不安定化した中間層、例えば手工業者、小商人、下級官僚などの不満を、ユダヤ人への敵意に向けることで支持を獲得した。ユダヤ人は資本主義的近代化の象徴として、また同時に社会主義運動の背後にいる陰謀者として、二重に標的とされた。

その運動は次第に民衆の注目を集め始めることとなる。1894年の、当時フランス陸軍参謀本部の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件、通称ドレフュス事件は、近代的反ユダヤ主義が西欧の民主主義国家でいかに強力な政治的力となり得るかを示し、フランス社会を二分する政治的危機となった。エミール・ゾラの「私は弾劾する」(1898年)に代表される知識人の支援にもかかわらず、反ユダヤ主義的な大衆運動は激化し、街頭での暴力事件が頻発した。事件は最終的に1906年のドレフュスの名誉回復で終結したが、反ユダヤ主義が近代的なメディアと大衆政治の時代に、いかに動員力を持つイデオロギーとなり得るかを明らかにした。

この事件を目撃したテオドール・ヘルツルは、ユダヤ人が同化によってヨーロッパ社会に受け入れられることへの希望を失い、シオニズム運動(ユダヤ人の民族的故郷建設運動)を提唱することになった。

20世紀初頭、ロシアの秘密警察によって偽造された『シオン賢者の議定書』が出版された。この文書は、ユダヤ人の指導者たちが世界支配を目指して陰謀を企てているという内容で、完全な偽造であることが後に証明されたにもかかわらず、世界中に広まり、反ユダヤ主義のプロパガンダとして使用され続けた。この陰謀論は、近代世界の激動の時代を象徴する出来事、例えば経済危機、戦争、革命などを、単純な悪の陰謀として説明する、一般受けし、大衆にとって魅力的な物語であった。ユダヤ人は資本主義と共産主義の両方を操る秘密の勢力として描かれ、あらゆる社会問題の責任を負わされた。

ワイマール共和国におけるユダヤ教迫害

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第一次世界大戦の敗北後、ドイツで反ユダヤ主義が政治的に爆発的に高まった。戦争の敗北、過酷なヴェルサイユ条約、ハイパーインフレーション、大恐慌といった危機の中で、ユダヤ人は「背後からの一撃」(戦争中にドイツを裏切った勢力)の象徴として非難された。

この時期、多くの右翼政治組織や準軍事組織が反ユダヤ主義を中心的なイデオロギーとして採用した。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は、その中で最も過激で、最も組織的な反ユダヤ主義を展開した。

ヒトラーの『わが闘争』(1925年)では、ユダヤ人が人類の敵であり、ドイツ民族の「人種的純潔」を脅かす存在として描かれた。ナチスのイデオロギーでは、歴史は「アーリア人種」と「ユダヤ人種」の生存競争として理解され、ユダヤ人の完全な排除が「アーリア人種」の生存のために必要不可欠とされた。

1929年の世界恐慌後、ドイツの経済的・政治的危機が深刻化する中、ナチ党は選挙で急速に支持を拡大した。1933年1月、ヒトラーは合法的にドイツ首相に任命され、反ユダヤ主義は国家政策となった。

こうしてナチ党は、ドイツにおける糾弾指向の社会的な高まりの中に、反ユダヤ主義を抱えて一躍君臨し、それまで渦巻いていたユダヤ人に対する反感を一挙に吸い上げ、畢竟国家の第一義的となるまでに膨大な施策へと成し上げたのである。

ナチス政権下におけるユダヤ教迫害

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ナチス政権の成立後、ユダヤ人への迫害は段階的に、しかし急速に激化した。

1933年4月、ユダヤ人商店・企業のボイコットが組織され、公職からのユダヤ人の追放が始まった。同年中に、多くの職業—法曹、医療、教育、ジャーナリズムなど—からユダヤ人が排除された。

1935年、ニュルンベルク法が制定された。この法律は、ユダヤ人の定義を人種的基準によって行い(祖父母の宗教によって判定)、ユダヤ人とドイツ人の結婚や性的関係を犯罪化した。ユダヤ人はドイツ国籍を剥奪され、「国家に属する臣民」に格下げされた。

1938年11月9、10日の「水晶の夜」では、組織的なポグロムによって数百のシナゴーグが焼かれ、7,500以上のユダヤ人商店が破壊され、約30,000人のユダヤ人男性が強制収容所に送られ、少なくとも91人が殺害された。この事件後、ユダヤ人は破壊の賠償金を課され、公共生活から完全に排除された。

この時期、約半数のドイツ系ユダヤ人が国外への脱出に成功したが、多くの国が移民の受け入れを制限していたため、逃れることができなかったユダヤ人も多数いた。

第二次世界大戦の開始とともに、反ユダヤ主義政策は大量殺戮へとエスカレートした。1939年のポーランド侵攻後、占領地のユダヤ人は都市のゲットーに強制的に集められ、飢餓と病気の中で生活を強いられた。1941年のソ連侵攻後、移動殺戮部隊(アインザッツグルッペン)が東部戦線でユダヤ人の集団銃殺を開始し、1941年末までに約50万人が殺害された。

1941年から1942年にかけて、ナチス指導部は「ユダヤ人問題の最終的解決」、すなわちヨーロッパのすべてのユダヤ人の絶滅を決定した。1942年1月のヴァンゼー会議で、この政策の実行計画が具体化された。アウシュヴィッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、ソビボル、ベウジェツ、ヘウムノ、マイダネクといった絶滅収容所が建設され、ガス室による工業的規模の大量殺戮が実行された。ユダヤ人は、ヨーロッパ各地から貨物列車で輸送され、到着後すぐに大半がガス室に送られた。労働可能と判断された者も、過酷な強制労働、飢餓、病気、「選別」による殺害によって、多くが命を落とした。

ホロコーストでは、約600万人のユダヤ人が殺害された。これはヨーロッパのユダヤ人人口の約3分の2に相当する。ポーランドでは約300万人、ソ連では約150万人、ハンガリーでは約56万人、ルーマニアでは約28万人、ドイツとオーストリアでは約21万人が犠牲となった。

ホロコーストは、近代的な官僚制度、工業技術、交通インフラ、科学的人種理論が結びついて実行された、人類史上前例のない組織的大量殺戮であった。それは何世紀にもわたる、宗教的にとどまらない、経済的あるいは社会的反ユダヤ主義は、地球規模で情勢が変転する時代において、極端な人種主義的イデオロギー、全体主義国家の力と強固に結合した時、いかに歯止めの効かない殲滅的な結果へと突き詰める継続的な動機たり得るかを示す、最も凄惨な事例となった。

イスラム教

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仏教

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開祖の釈迦は、弟子の提婆達多や瞿伽利尊者、善星比丘らから憎まれ、様々な迫害を受けた。とくに、提婆達多からは、毒殺される寸前となったこともあるとされる。仏教では、釈迦は、これらの迫害を乗り越えることによって悟りを確立することが出来たと説かれている。

仏教は、インドから中国に伝来したが、中国では、度重なる大規模な弾圧(三武一宗の法難)が行われ、とくに、代の会昌の廃仏は大規模であった。中国ではほとんどの経典が失われたが、本格的な弾圧の前に、空海阿闍梨から胎蔵界金剛界灌頂を受け、日本に帰国した際に多くの経典を持ち帰った。

儒教

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の時代のB.C.213年、焚書坑儒により、中国三大宗教の一つである儒教への弾圧が行われた。国中から儒教の経典である『六経』(『詩経』、『書経』、『易経』、『春秋』、『礼記』、『楽経』)が集められて燃やされた。楽経は、このときに完全に消失し後世に内容が伝わっていない。これは、中国史における最初の儒教大弾圧である[2]

近代国家による迫害の実例

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イスラム国家

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社会主義国家

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ソビエト連邦

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中華人民共和国

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中国では、中央政権の意に沿わない団体を、邪教と批判したり、弾圧したりすることがたびたび繰り返されている。中華人民共和国は無神論を唱える中国共産党により、中国の伝統気功である法輪功チベット仏教ウイグルの宗教等が、邪教と位置づけられ、弾圧されている[3]。これについては、国際社会から、人権侵害であるという批判が起こっている。国外に脱出した修練者(学習者)や信徒により、人権侵害の訴えが各国でなされている。

  • 法輪功

法輪功は多くの愛好者がいたが、1999年の「中南海事件」以降「610弁公室」などにより弾圧されるようになった。

2007年2月に、カナダ議会において、死刑判決で死亡した法輪功修練者のみならず、生きたままの法輪功修練者からも臓器を摘出し、売買されているという報告が、カナダの独立調査団から立証された。2007年国連報告書においても、国連人権委員会拷問問題の特別調査官マンフレッド・ノーワックの最新報告内容により、生体臓器狩りの実態などが明らかにされた[4][5][6]

  • チベット仏教

中華人民共和国による、1951年の チベット侵略以降、チベット仏教への激しい宗教弾圧が行われた。弾圧前のチベット仏教の信者は、120万以上ともいわれている。チベット弾圧の際、その土地の在来宗教であるチベット仏教への弾圧が徹底的に行われた。寺院6,000箇所が破壊され、経典はすべて焼却された。チベット仏教の信者は捉えられ、拷問強姦暴行により弾圧され、それでもなお信仰を捨てない信徒は虐殺されるという。[7] このような弾圧は、2015年時点でも続いているとされるが、政府により情報が国外に漏れることのないように厳しい規制がされており、確かな事実関係は判明していない。これに対し、ダライ・ラマ法王が、国際社会において、チベットの実態を伝える運動を行っている。

  • ウイグル

中華人民共和国により、内モンゴル人民革命党粛清事件の一環として「中国共産党絶対化教育」が制定され、 固有の文化、歴史、言語等に加え、在来の宗教までもが弾圧された。ウイグル人にとっての宗教は、民族アイデンティティの根幹であり、中国によって民族浄化政策の効果的な手段として利用された[8]

アルバニア

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1967年に中国のプロレタリア文化大革命に刺激されて「無神国家」を宣言、一切の宗教活動を禁止した。

日本

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近代

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現代

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  • 2022年(令和4年)7月8日に安倍晋三元総理が銃撃を受けて暗殺されると、その犯人が旧統一協会二世であったことが注目され、読売テレビ放送情報ライブ ミヤネ屋』(チーフプロデューサー内田昌宏)などテレビワイドショーなどマスコミ各社が連日にわたって旧統一協会の問題を取り上げ始めた[9]。2022年8月25日には、統一協会信者女性が日本テレビ24時間テレビ」のボランティアに関わってきたことを非難されるような報道を受けて自殺未遂を起こしたと教団が発表した[10]。 2022年8月26日に河野太郎消費者担当相は霊感商法など悪質商法への対策検討会を立ち上げると発表し、同年10月17日、同検討会により「解散命令請求も視野に入れ、宗教法人法に基づく質問権などを行使する必要がある」との報告書が公表された。2022年10月19日には岸田文雄首相が国会において立憲民主党小西洋之氏への答弁で宗教法人法の解散命令を裁判所に請求する要件に「民法の不法行為も入り得る」と従来の解釈と異なる見解を述べた(18日の衆院予算委では、民法の不法行為は入らないとしていた)[11]。『サンデー毎日』11月6日号の誌上対談で日本共産党志位和夫委員長とジャーナリストの田原総一朗氏は「統一教会との最終戦争だ」と述べている [12] 。2022年11月24日には全国霊感商法対策弁護士連絡会山口広紀藤正樹らが参加する全国統一教会被害対策弁護団(団長村越進)が結成された[13] 。 2022年12月9日期限の文部科学省永岡桂子大臣)の質問権行使の回答には旧統一協会から段ボール8箱分の回答が届いた。以降、2023年6月12日には6回目の質問権行使の回答文書がレターパック1通と宅配袋2個の計三つに分けて文化庁に届いた。2023年8月22には7回目の質問権行使の回答が文化庁に届いたが、同年9月6日文部科学省は回答のない項目が100以上あったとして、教団側に「過料」を科すよう東京地裁に7日に通知することを決めたと発表した。
  • 統一教会の信者を拉致監禁して棄教を迫る、統一教会信徒の拉致監禁問題が継続して発生しており、国際人権NGOである 国境なき人権が独自の調査でその事実をつきとめ、日本政府に対応を勧告した [1]。大学における新宗教系サークル原理研究会(CARP)に対する対策が、世界日報など統一教会系のメディアに多く登場するジャーナリスト室生忠によって問題視され、「憲法違反も何のそのと信仰の個人情報を父兄に密告する広島大学職員」と題したレポートが月刊誌「財界にっぽん」に掲載された[14][15]
  • オウム真理教国土法違反事件の強制捜査などを宗教弾圧であると批判、事件の全容が発覚しなかった1990年代前半においては多くの著名人がその主張に賛同していた[16]。一連の事件発覚後においても、事件を起こした教団の関係者であるという事で、事件に直接関わっていない一般信者や信者の家族等に対して一般生活に必要となる水道や下水等のインフラの開栓拒否及び就学の拒否等まで行うのは宗教弾圧に該当するのではないかという見解も一部であった。また後継教団のAleph信者の転入拒否問題について、映画監督の森達也らが批判している[17]

脚注

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  1. ^ Korobkov, Andrei V. (2020-12). “Why Control Immigration? Strategic Uses of Migration Management in Russia. By Caress Schenk. Toronto: University of Toronto Press, 2018. 392p. $73.50 cloth.” (英語). Perspectives on Politics 18 (4): 1255–1257. doi:10.1017/S1537592720003217. ISSN 1537-5927. https://www.cambridge.org/core/product/identifier/S1537592720003217/type/journal_article. 
  2. ^ 世界史の目-Vol.238-儒教の世界・その4漢王朝の儒教
  3. ^ 秘密文書に邪教としてリストに掲載された団体に対する弾圧計画が詳述される - ニュース”. Bitter Winter (日本語) (2018年8月1日). 2019年1月29日閲覧。
  4. ^ 中国共産党の犯罪四 法輪功学習者に対する残虐行為、2015年5月5日閲覧。
  5. ^ 08年度国連報告書:中国当局による臓器狩りの責任追及、2015年5月5日閲覧。
  6. ^ 国連拷問特別調査官:生体臓器狩り、今も中国で...、2015年5月5日閲覧。
  7. ^ 櫻井よしこ著『国売りたもうことなかれ 論戦2005』、 2005年07月、ダイヤモンド社
  8. ^ 宗教弾圧、世界ウイグル会議、2015年5月5日閲覧。
  9. ^ 民法online【旧統一教会報道の現在地②】読売テレビ『情報ライブ ミヤネ屋』 被害を訴えている人々の声に耳を傾ける 内田 昌宏 2023/07/06 https://minpo.online/article/post-299.html
  10. ^ 世界平和統一家庭連合広報部2022年8月25日報道機関各位https://ffwpu.jp/news/3921.html
  11. ^ NHK NEWSWEB 2022年10月19日 18時11分
  12. ^ しんぶん赤旗電子版 2022年10月26日(水)https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-10-26/2022102602_04_0.html
  13. ^ 朝日新聞デジタル2022年11月24日 19時00分
  14. ^ 新着情報:『財界にっぽん』12月号/「憲法違反も何のそのと信仰の個人情報を父兄に密告する広島大学職員」 全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会 <統一教会信者への人権侵害の実態>
  15. ^ 全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会 <統一教会信者への人権侵害の実態>
  16. ^ (二) オウム真理教の宣伝に「文化人」「有名人」らが果たした役割 坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会公式サイト
  17. ^ オウム真理教事件から20年、学ぶべきだった「普遍性」とは 森達也さんに聞く ハフィントンポスト

参考資料

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  • ホーリネス・バンド弾圧史刊行会編『ホーリネス・バンドの軌跡:リバイバルとキリスト教弾圧』、新教出版社、1983年

関連項目

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