尼子清定
尼子 清定(あまご きよさだ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。出雲国守護代、月山富田城主[1]。尼子氏3代当主。
尼子清定(右)経久父子の墓(洞光寺墓地) | |
時代 | 室町時代中期 - 後期 |
生誕 | 応永17年(1410年) |
死没 | 長享元年12月21日(1488年2月12日) |
改名 | 又四郎(幼名)→清定 |
別名 | 清貞、無塵全賀庵主(法名) |
戒名 | 洞光寺殿華山常金大居士[1] |
官位 | 刑部少輔[2][1] |
主君 | 京極持清 |
氏族 | 尼子氏 |
父母 | 父:尼子持久 |
妻 | 真木朝親[3]娘[1]、馬木上野介娘 |
子 | 経久[1]、源四郎、久幸[1] |
生涯
編集尼子氏は佐々木氏の傍流にあたる京極氏の分家。応永17年(1410年)、尼子持久の子として誕生[1]。主君・京極持清より偏諱を受けて清定[4]と名乗る。
父から出雲守護代を引き継いだのは応仁元年(1467年)頃とみられる。応仁の乱勃発により守護・東軍に味方した京極持清が京都へ出陣したため、京極氏の支配が急速に衰退した[5]。
応仁2年(1468年)、十神山城の松田備前守(松田公順?)が伯耆の山名六郎や三沢氏の後押しを受けて反乱を起こし、月山富田城を目指して富田内庄堺村に進軍した[5]。それに対し、清定は迎撃に向かい、松田勢を撃退した。さらに、10日後の7月1日には、清定は反転に転じ、十神山城を攻撃し、敵勢100余りを撃ち取った。しかし、この時は十神山城を落とすまでには至らなかった[5]。同月28日、岩坂城・外波城(松江市八雲村)に立てこもっていた敵勢を撃破し、三沢氏の代官であった福頼十郎左衛門を撃ち取った。しかし、下河原宗左衛門の籠る春日城(松江市東出雲町出雲郷)の攻略に失敗した[5]。ついで8月1日、再び十神山城を攻め、その支城の八幡城と富尾城(安来市)を攻め落とした[5]。9月18日には大原郡に一軍を派遣し、馬田豊前守の籠る馬田城(雲南市大東町)を攻略し、自身は再び春日城を攻め、攻略した[5]。翌19日には岩屋城(松江市玉湯町)も攻め落とし、みたび、十神山城を攻め、追い散らすことに成功した。さらに、25日には美保関で松田氏への山名氏の援軍を打ち破り、この反乱の鎮圧に成功した[5]。これらの功績に対し、持清は、恩賞として飯石郡多久和庄知行分・松江市生馬郷、能義郡利弘庄・中次(中須・中津?)の所分(領主が追放された所領)・舎人保内松田備前守買得田畠屋敷・松田備前守買得分などを与えた[5]。さらに、清定は9月には能義郡奉行職に就任し、年末までには美保関および安来領家代官職に任命されている。美保関の代官就任については出雲の国人からの反発があったが、持清の腹心であった多賀高忠の進言で清定の美保関の代官職は認められた[5]。11月7日付けで東軍の総大将細川勝元は清定にあて「今年の総劇につき、雲州において忠節の由、此を以て神妙に候」と感状を送っている[5]。
文明元年(1469年)7月、牛尾庄を拠点とする牛尾氏とともに伯耆山名氏に呼応した出雲の勢力を攻めるため、大東の草尾に進軍したが敗北した[5]。この合戦に対し、清持は感状を下している。同月29日、再び大東を攻め、大東野田原で合戦を行った[5]。さらに同年8月4日、中城進山での合戦では下河原宗左衛門を打ち取るなどして勝利した。その働きに持清はさらに感状を下した[5]。
文明2年(1470年)6月2日、三沢為信が国一揆を起こした。これに対し、清定は三沢党の知行差し押さえを持清に要望し、その結果、三沢対馬守や多胡俊英をはじめとする者たちの所領が差し押さえられた[5]。同年、石見の反京極勢力が出雲に攻め入った。清定は関門神西湊で合戦をするも、被官36名が討ち死にするなど苦戦した。持清の跡を継いだ京極政高はこれに対し、感状を発給して戦功を労った。また、勝元は山名九郎を出雲に派遣している[5]。
文明3年(1471年)8月21日、清定は西軍の山名氏の領国であった伯耆に攻め入り、境松で合戦に至った。また。閏8月16日、山名氏が美保関に攻め入り、合戦に至った[5]。清定は家臣の堀江三郎を失いながらも山名勢の撃退に成功した[5]。同年9月には山名氏が出雲に攻め入り、難波城(雛並城)に立てこもったが、清定はこれ攻め落とし、村上民部や一条出雲を討ち取った[5]。
文明6年(1474年)、嫡男の又四郎が上洛し、守護の政高に美保関の公用銭の上納について、美保関の公用銭5万疋のうち1万疋を5年間免除するよう請い、認められる[6]など、清定は独立の動きを見せるようになる[5]。
文明8年(1476年)4月、清定は美保関の公用銭の上納を怠るようになったようで、政高は美保関の代官職を安堵するので公用銭を上納するように命じている[5]。同年4月14日、清定が奉行人となっていた義能郡で土一揆が発生した(義能郡土一揆)[5]。これは、旧領主の松田氏一族であった松田三河守や領地差し押さえを食らった三沢氏や下笠氏が手引きして起こしたとされている。土一揆軍は14日には冨田庄堺、16日には植田・古川に進軍し、19日に桜崎方面で合戦が行われた[5]。同年5月2日に、土一揆軍は三日市まで進出し、同月5月13日の富田庄での合戦では土一揆軍は富田城に攻め込んだ。清定軍は思うように軍勢が集まらず、手勢のみで応戦したようで、13日の富田庄での合戦では清定は馬にのって出陣し、自ら敵兵の首級15を打ち取った[5]。最終的に清定は土一揆軍撃退することに成功した[5]。
文明9年(1477年)、嫡男の又四郎が民部少輔に任じられ、経久と称した。このころ経久に家督が譲られたとみられる[5]。
晩年の記録は少ないが、『雲陽軍実記』には「牢人の身となり、漂泊流浪のうちに病死す」とある。
脚注
編集参考文献
編集- 今井尭『日本史総覧』 3(中世 2)、新人物往来社、1984年。 NCID BN00172373。
- 米原正義『出雲尼子一族』、吉川弘文館、2015年。ISBN 9784642065917
外部リンク
編集- 東京大学史料編纂所 大日本史料データベース