岩井文助
岩井 文助(いわい ぶんすけ)は、京都出身の実業家。岩井文助商店の創業者である。 岩井勝次郎の従兄・養父。
いわい ぶんすけ[1] 岩井 文助 | |
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![]() 肖像画像 | |
生誕 |
1842年(天保13年)3月3日![]() |
死没 |
1912年(大正元年)8月10日(71歳没)[2]![]() |
別名 | 岩井市郎、加賀屋文助、加賀文 |
活動期間 | 幕末 ― 明治時代 |
団体 | 岩井商店(現在の双日) |
配偶者 | キヌ(山田彦兵衞の長女)[3] |
子供 |
長男:岩井栄太郎 長女:エイ(栄子)[4] 二女:シズ 養子:岩井勝次郎(蔭山勝次郎) 養子:フミ(文子。勝次郎の二女)[2] |
親 |
父:岩井仁右衛門 母:梅 |
生涯
編集岩井文助は1842年(天保13年)3月3日、丹波国北桑田郡上平屋村(現在の京都府南丹市美山町上平屋)で、岩井仁右衛門と妻・梅の三男・市郎として生まれた。上平屋村は箪笥(たんす)作りが盛んな地域で、岩井家も農業や質屋を営みながら箪笥を製造していた[2]。
1850年(嘉永3年)、市郎は9歳の時に大坂浄覚寺町(現在の大阪市安土町四丁目)の加賀屋・井田徳兵衛に丁稚奉公に来た。徳兵衛より、文助の名が与えられた[2]。加賀屋は、長崎から輸入された舶来雑貨を扱う唐物問屋であった[5]。
1862年(文久2年)、文助は加賀屋から暖簾分けを受け、京町堀通羽子板橋東入北側に一戸を借り、加賀屋文助として西洋雑貨の小売(取引商)を始め、後に売雑貨類売買仲介業となった[6]。文助は「加賀文」と名乗り、舶来のガラス、毛糸、石油、洋酒、マッチ、薬品などを取り扱っていた[5]。
1875年(明治8年)、従弟(文助の母の妹・いとの息子)・蔭山勝次郎が岩井文助商店に奉公入店する。勝次郎は次第に台頭するようになる[5]。
1877年ごろ、西南戦争による軍事需要の高まりで岩崎弥太郎・大倉喜八郎・藤田伝三郎らが政府御用達で儲けていた。その中、文助は民間需要で儲けていった[7]。文助の商店は成長を遂げ、1878年(明治11年)ごろには大阪の有力舶来物品商の一人として数えられ、岩井文助、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事・丸紅創業者)、黒川幸七(あかつき証券創業者)の3人で中船場の三傑と呼ばれた[5]。
1889年(明治22年)、文助の長女・栄子と勝次郎が結婚。勝次郎は岩井勝次郎と改姓し、文助は勝次郎の養父となる。その後、加賀屋は文助と勝次郎の共同経営体制となった[5]。
文助と勝次郎の間には事業観に違いがあった[8]。養子である勝次郎は1896年(明治29年)、加賀屋岩井文助商店の商権を継承して独立[5]、岩井商店を設立した。勝次郎は、居留地での外国商館との不平等な取引慣習に不満を抱き、大阪で初めて海外の商社と直接取引を開始した[9]。
略歴表
編集年 | 月日 | 内容[2] |
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1842年(天保13年) | 3月3日 | 北桑田郡上平屋村で仁右衛門三男として出生 |
1850年(嘉永3年) | 時浄覚町の加賀屋に奉公。文助の名を与えられる(1853年という説もある) | |
1855年(安政 2年) | 20両を貯え一旦帰郷 | |
1862年(文久2年) | 京町堀通に一戸を借り、21歳で独立(岩井商店の創業) | |
1868年(慶応4年) | 2月24日 | 南久太郎町六丁目に家屋敷を購入 |
1868年(慶応4年) | 8月 | 「唐物仲間」人名に加賀屋文助・加賀屋徳兵衛が見える |
1870年(明治3年) | 6月28日 | 西洋形小車一輪を所有 |
1870年(明治3年) | 南久太郎町四丁目に雑貨商を開業 | |
1875年(明治8年) | 蔭山勝次郎13歳が奉公入店 | |
1879年(明治12年) | 舶来物品商の副総代、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)の議員 | |
1882年(明治15年) | 6月 | 丸三銀行の監査役に就任 |
1888年(明治21年) | 1月 | 土佐堀一丁目13番地に山文岩井石油店を開店 |
1889年(明治22年) | 9月 | 蔭山勝次郎が文助の養子となる |
1890年(明治23年) | 9月5日 | 文助の長男・栄太郎が死去 |
1891年(明治24年) | 4月 | 駒井らとランプ用硝子石笠類製造の会社を設立 |
1893年(明治26年) | 10月 | 文助が社員として出資し、大阪市東区淡路町四丁目九十二番屋敷に合資洋傘会社が設立 |
1896年(明治29年) | 7月7日 | 勝次郎が文助より資金20万円の貸与を受けて独立営業を開始 |
1912年(大正元年) | 8月10日 | 死去。享年71歳 |
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ “忍九郎と三石 加藤忍九郎翁物語 三石公民館 耐火煉瓦へと”. 加藤忍九郎翁物語. 備前市 (2023年4月1日). 2025年9月28日閲覧。
- ^ a b c d e f 『岩井百年史』岩井産業株式会社、1964年2月。 NCID BN03154469。
- ^ “岩井豐治(第4版 大正4(1915)年1月の情報)”. 人事興信録データベース. 名古屋大学大学院法学研究科 (1915年1月). 2025年9月28日閲覧。
- ^ “岩井家(岩井勝次郎・岩井靖の子孫・家系図)”. 閨閥学 (2023年4月1日). 2025年9月28日閲覧。
- ^ a b c d e f “ペリー来航3年前に、舶来雑貨商に丁稚奉公へ”. 双日歴史館. 双日株式会社. 2025年9月28日閲覧。
- ^ 川辺信雄『IPSHU研究報告シリーズ 研究報告7 総合商社の海外活動 日本型多国籍企業の経営戦略と組織 2史的展開 商館貿易から直貿易へ(1868―1913年)』広島大学平和科学研究センター、1983年3月。
- ^ 鍋島高明 (2012年6月16日). “戦後の需要増見込み買いまくった、岩井文助氏”. 日本経済新聞. 2025年9月28日閲覧。
- ^ “1860(安政6)年~1864年(元治元年) 岩井勝次郎(いわい かつじろう)”. 学者・文化人(生年順). 丸メガネ研究会. 2025年9月28日閲覧。
- ^ “輸入品の国産化をめざして生産事業を展開”. 双日歴史館. 双日株式会社. 2025年9月28日閲覧。