戸部正直
生涯
編集秋田県雄勝郡横堀村出身である。通称は権三郎または清右衛門。出家して一憨斎と号する。法名信翁中興元一憨居士[1]。
若い頃から家を出て、故郷にいたのは25歳から31歳までと、死ぬ前の3・4年だけで、その間は全て諸国の遊歴にすごし、種々の奇談を知っていたと言われる。『奥羽永慶軍記』が成った元禄11年(1681年)は江戸にいたと思われる。『奥羽永慶軍記』を佐竹家の江戸屋敷に献上したと言われ、それは彼が54歳の時であった。『奥羽永慶軍記』は40巻、そのうちの6巻は異補であって世に伝わっていない。水戸光圀の知遇も得ていたという[1][2]。
一憨は書の証拠を探るために、水戸藩が秋田藩の旧藩領であったよしみもあって、不意に水戸藩を訪れ、水戸光圀と親しくし、夜間の伽に参加したこともある。著作の作業時には戸を閉じて人に合わずにしばらく水戸へ行かなかったので、水戸光圀は使者をよこし記録の補助になる数条を自書し、さらに「かなり音信が無いので、もしや病気になったのではないか」との書があり、引出を添えていたことがあった。秋田藩の藩主が戸部の名を知ったのは、水戸光圀が藩主に一憨は息災だろうかと尋ねたことからである。府の商人の近間某は一憨と縁があり書が残っていると聞き、私(人見蕉雨)が一覧したことがあった。半ば焼け崩れた戸部の系譜一巻や一憨が所持した古今の名筆や贈答の書などがあった。しかし、水戸光圀の書を発見することはできなかった。一憨は旧来豊かな郷士だったのだが、もの好きのため財産を費やし貧しくなってしまった。一憨の聞書は府の図書館にある[1]。