曾我廼家十吾

日本の俳優

曾我廼家 十吾(そがのや じゅうご、1891年(明治29年)12月4日 - 1974年(昭和49年)4月7日)は、上方喜劇役者、喜劇作家、演出家。本名は西海文吾。ペンネームは「茂林寺文福」。橘小学校中退。

そがのや じゅうご
曾我廼家 十吾
曾我廼家 十吾
1952年ごろ
本名 西海文吾
別名義 茂林寺文福
生年月日 (1891-12-04) 1891年12月4日
没年月日 (1974-04-07) 1974年4月7日(82歳没)
職業 喜劇役者、喜劇作家、演出家
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そがのや とうご”の読み方をさせたこともある[注釈 1]

来歴・人物

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1891年、兵庫県神戸市に生まれる。1899年大門亭大蝶の門下で大門亭文蝶の名で神戸橘座で初舞台。1902年に来阪、1906年曾我廼家十郎に再入門し曾我廼家文福と改名、1912年に娯楽会の頭取やったりするなど以降劇団を転々としたり一座を作ったりする。1924年永井茶釜とのコンビで文福茶釜一座を結成し主に九州一体で活動、1927年に曾我廼家十吾と改名し、翌1928年松竹家庭劇を設立した。1948年には松竹新喜劇の設立に参加。その後は一度再び松竹家庭劇を結成したが、解散後松竹新喜劇にゲスト出演した。1974年4月7日、82歳で死去。

老婆役を得意としていた。

現役の弟子に曾我廼家文童がいる。

ギャラリー

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主な受賞

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脚注

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注釈

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  1. ^ 本人によれば、もともとの読みは「とうご」で、戦時中に「銃後」と掛けて「じゅうご」を名乗った[1]。戦後になると、自ら意図して「とうご」を名乗ったが、戦時中の活躍のイメージから高齢者の客には受け入れられず、「じゅうご」の読みが定着してしまったという[1]

出典

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  1. ^ a b 「アナは年中苦悩する②」『中部日本新聞』1963年8月29日付朝刊、8頁

参考文献

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外部リンク

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