木下公定

江戸時代前期から中期にかけての大名

木下 㒶定[1](きのした きんさだ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名備中国足守藩5代藩主。官位従五位下肥後守[2]。足守藩木下家6代。

 
木下㒶定
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 承応2年6月7日1653年7月1日
死没 享保15年12月24日1731年1月31日
改名 熊之助、㒶定
戒名 敬文院殿観翁慧定大居士
墓所 京都市東山区高台寺圓徳院
岡山市北区足守の大光寺
官位 従五位下肥後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
備中足守藩
氏族 木下氏
父母 木下利貞金森重頼
兄弟 㒶定藤栄利安平野長政継室、
遠山友貞継室ら
木下俊長
㒶福利潔浅野長恒正室
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略歴

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4代藩主・木下利貞の長男として誕生。幼名は熊之助。

延宝7年(1679年)8月14日、父の死去により跡を継ぐ。丹後宮津城の城番となった[2]後に、元禄14年(1701年)3月、赤穂事件で有名な浅野長矩改易の際、龍野藩脇坂安照と共に赤穂城の受け取り役を務めた[2][3]宝永5年(1708年)5月には仙洞御所と中宮御所[要出典]の普請で功を挙げた[2][4]足守近水園の吟風閣は仙洞御所の残材をもって築造したと伝えられている[5]

漢学和学に精通しており蒙求に倣って藩の子弟のための教訓の資料として日本と中国の忠臣義士の人物伝記を対比した「桑華蒙求」を著した[6][7]。また、延宝7年(1679年)に藩学「追逐館」を興し、家臣教育に務めた[2]。果樹栽培を奨励したことで知られており、領地である福島県伊達郡および信夫郡を、本領である足守ではを奨励した[8]。祖父の利当が開いた淡路流槍術の達人でもあった。

初め、弟の利安を養嫡子とするが、不行状を理由に廃嫡した。代わって同族の豊後国日出藩木下家から木下㒶福(㒶定正室の兄弟)を養子に迎えたが先立たれた。享保14年(1729年)5月2日、最終的に弟の藤栄(内記)の子の利潔に家督を譲って隠居し、享保15年(1730年)12月24日に78歳で死去した。

法号は敬文院殿観翁慧定大居士。墓所は京都市東山区高台寺圓徳院岡山市北区足守の大光寺。

系譜

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補注

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  1. ^ 「㒶」は「八」の下に「白」。一般には「公」が代用されることが多い。
  2. ^ a b c d e 郷土史』岡山県総社高等女学校々友会、1933年、28頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1053982 
  3. ^ 中央義士会 編『赤穂義士史料 上巻』雄山閣、1931年、解題4頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1173495 
  4. ^ 足守藩武家屋敷”. 岡山市. 2024年12月26日閲覧。
  5. ^ 難波仁斎 著、毎日新聞社岡山支局 編『素描おかやま』日本文教出版、1962年、23頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2996797 
  6. ^ 徳田進「『芸林蒙求』の日中比較文学性」『群馬女子短期大学紀要 = Bulletin of Gunma Women's Junior College (13)』群馬女子短期大学、1986年12月、33頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1750042/1/18 
  7. ^ 岡山の博物館 : 美術館・博物館・考古館・民俗館』山陽新聞社、1977年1月、72頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12275475 
  8. ^ 三宅忠一『岡山の果物 果物の百年史』日本文教出版〈岡山文庫20〉、1968年7月1日、24頁。