木曾義元

戦国時代の武将・戦国大名。木曾氏当主。従五位下、伊予守。左京大夫。子に玉林(僧、定勝寺住職)

木曾 義元(きそ よしもと)は、戦国時代武将戦国大名信濃国木曽谷を支配した木曾氏の当主。従五位下、伊豫守。

 
木曾 義元
木曾義元像(定勝寺蔵)
時代 戦国時代
生誕 文明7年(1475年
死没 永正元年(1504年
改名 左京太夫 義清→伊豫守 義元
氏族 木曾氏
父母 木曾家豊
兄弟 義元
黒川義勝
叔雅良演[1]
義在
玉林聖賢[2]
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経歴

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木曾氏の出自は源義仲の子孫と称えた(当初は、秀郷流上野沼田氏であったとされ、義元の父の代までは「家」を通字としており、源氏風の名前である「義」を通字とするようになったのは義元の代からである。しかし、「」の字は、木曾氏の遠祖とされる八幡太郎義家偏諱を代々受け継いだとの見方もある)。

文明7年(1475年)、木曾家豊の子として生まれた。

初めは、左京大夫義清と名乗ったが、後に義元に改名した。

明応年間(1492年~1501年)、洗馬三村氏府中小笠原氏から攻められた。

義元は三村氏を助けて府中小笠原氏と洗馬で戦ったものの利あらずして帰ったが、霊夢によって再び挙兵し、府中小笠原氏に勝利した。その時に峠に鳥居を奉献したため、爾後、鳥居峠と呼ばれるようになった。

明応5年(1496年)、須原定勝寺太鼓を寄進した。この太鼓は胴囲が六尺壱分の大きな物である。

木曾須原 淨戒山 定勝寺之 太鼓也 當住持 東海門派[3] 虎關 以來 六代之 法孫 貴山叟恵珍 大旦那 源朝臣 伊豫守 義清代 寄附 明應五年 辰丙 八月 旼正日 謹 誌 焉

また同年、興禅寺の仏殿の再興があった。

義元は、木曾大炊介入道沙彌啓秀と共に、弟で興禅寺の二世であった叔雅良演を助けて之を完成した。

一 奉 建立 當時 佛殿 明應五載 丙辰 仲春本願 右 春叟 恵芳 木曾大炊介 入道 沙彌啓秀 大工 五郎兵衛重幸 太郎兵衛教久 太郎左衛門弘重 住持一山國師 七世 比丘 叔雅良演 判 十貫者 源朝臣 木曾義元 十貫者 木曾大炊介 入道 啓秀 十貫者 當住持 叔雅良演

この木曾大炊介入道沙彌啓秀は、木曽氏の系図には洩れており不明である。

木曾氏当主として勢力拡大に努め、飛騨姉小路氏三木氏と抗争した。

永正元年(1504年)7月11日、飛騨国司・姉小路済継の命を受けた三木重頼は、配下の大熊玄蕃・白谷左馬介に兵300を率いさせて加子母村から白巣峠を越えて木曾の王滝村に侵攻した。

王滝村上島の上野肥後から、知らせを受けた義元は、領内の各豪士に檄を飛ばし来援を求め、自ら230余人の手兵を卒きつれ大雨の中を進発した。

三木勢は既に上島の砦を放火して攻略しており、上野肥後は討死した。

義元らは崩越の王滝城に辿り着き、一息する間もなく飛騨勢を包囲したが攻撃を受け、斎藤内匠は、飛騨兵20~30人を倒し、吉田傳左衛門は5人を討った。

滝越の三浦八郎兼重が来援して奮戦し12人を討ったところ飛騨兵は漸く退いて走った。

野路里[4]右馬助家益や、三浦八郎兼重は之を追って城を出た。忽ち飛騨兵100余人が城西の険を越えて乱入したため、木曽方の城兵は支えることができず窮地に陥った。

義元は、遂に城を棄てて三岳村の三尾に退却しようとしたが、山中は岩石や朽木が多く、急峻な坂のため馬の脚が進まない。

徒歩で山上に至るときに、飛騨兵が本道から進撃して来て、義元に追いついた。従士の大森庄内荻原源蔵が戦って討死し、

義元は飛騨兵一人を討ち、二人を負傷せしめたが、重傷を負って倒れた。

そこで黒川三郎と斎藤内匠の豪将は、義元を居城の木曽福島城へ運ぼうとしたが、途中の木曽町の川合にて絶命した[5]。享年33。

この報を知った木曽谷の将兵300人は激怒し、報復に黒沢へ侵攻し王滝城を奪還した。

この激戦で、木曾氏は野路里右馬助家益や三浦八郎兼重などの多くの勇士を失った。

当時、木曾氏の家臣であった越畑の村井忠左衛門美濃国恵那郡大井村中關大隅[6]、恵那郡中津川村丸山久左衛門、恵那郡落合村沖田淡路等の豪士は、裏木曽(中津川市川上付知町・加子母)の兵を率いて南方から挟撃したので、王滝村滝越に退いていた三木勢は、木曽谷侵攻の夢も空しく逃げ去った。

7月13日、中谷の諸士が相会し、西光寺の長老や龍源寺の和尚によって義元を御墓島に葬った。戒名は、龍源院殿昭山暾公

大脇自笑が書いた「木曾事蹟考證」には、

墓は御墓島にあり 越畑村 村井忠左衛門の祖父 孫次郎 義元の墓所を縮め 田間に石碑を立てたりと・・・忠左衛門家の申傳に 墓所を發掘し縮むる時 劔械 什器 處々から出たりと 然らば 此處 獨 義元のみの墓に非ず 義康 始め各位の墓 其内にあり 年暦て不分明となりたるか、今に於いて考證すべき無れば 強いて憶度し難けれども 御墓島を祀田と爲したること 一證なり

参考文献

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  • 志村平治『木曽伊予守義昌』歴史研究会出版局、2020年。 
  • 『木曽福島町史 上巻』 第二章 上代より平安朝末迄 第二十節 木曽義元 P99-P102 木曽福島町史編纂委員会 1954年
  • 『付知町史 通史編・史料編』 第ニ章 中世 第一節 中世の裏木曾 七 裏木曾の戦い P86-P87 付知町 昭和49年

脚注

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  1. ^ 興禅寺二世
  2. ^ 定勝寺六世
  3. ^ 妙心寺塔頭の東海庵の悟渓宗頓(佛徳廣通禅師)を祖とする一派で悟渓派とも云う
  4. ^ 大桑村野尻
  5. ^ 西筑摩郡誌 志村『木曽伊予守義昌』歴史研究会出版局、2020年、12-13頁。 
  6. ^ 龜子氏の出自