東坊城 聡長(ひがしぼうじょう ときなが)は、江戸時代後期の公卿東坊城尚長の養子。官位従二位権大納言開国期に武家伝奏を務め『東坊城聡長日記』などを遺した[1]。子の東坊城夏長の次女・橋本夏子明治天皇典侍

 
東坊城聡長
時代 江戸時代後期
生誕 寛政11年12月26日1800年1月20日
死没 文久元年11月9日1861年12月10日
官位 従二位権大納言
主君 孝明天皇
氏族 五条家東坊城家
父母 父:五条為徳、養父:東坊城尚長
兄弟 五条為貴聡長
夏長任長唐橋在綱
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経歴

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寛政11年(1800年)12月26日、堂上家のひとつで紀伝道を家学とする半家五条家に生まれた[1]五条為徳の三男[1]。五条家の庶流で同じ堂上家、同じく紀伝道を家学とする東坊城家(家格は半家)の東坊城尚長の養子となった。

光格上皇崩御の際に天皇号と諡号の復活があり、間もなく仁孝天皇も崩御されたため、これまでも天皇の追号案を定めてきた菅原氏の公卿は引き続き諡号案を考案することになった。「光格」・「仁孝」は公式には聡長の草案にあった案が採用されたことになっているが、実際には関白鷹司政通が私的に古義堂に依頼して作成させた案を聡長の案に挿入させたと考えられている。当時、聡長は仁孝天皇の近習経験者で、その後も天皇経書の侍講や議奏(光格上皇崩御時は補佐役の議奏加勢)を務めており、政通の信頼が厚い反面、その要望を断れなかったものと考えられている[2]。ただし、公式には聡長の功績とされていたため、嘉永4年(1851年)に権大納言に任じられた際には、学習院設立時の功と共に諡号選定の功が記されている[3]

中納言、権大納言を経て嘉永7年6月30日1854年7月24日)、坊城俊明の後任として武家伝奏に任じられた[1]安政5年(1858年)調印の日米修好通商条約に関わる勅許問題で江戸幕府老中堀田正睦奏請を斡旋したため、孝明天皇周囲の不興を買い、同年3月17日(1858年4月30日)、武家伝奏を辞任した[1]。翌年永蟄居の処分を受けている[1]。なお、三条実万三条実美の父)およびその後任である広橋光成とは、同時期に武家伝奏の職にあった。

聡長の筆になるが、三河国東海道吉田宿愛知県豊橋市)在羽田村の羽田八幡宮文庫に納められている[4]。そこには、「菅公から六世之御末孫にて当時禁中御学校学習院之御学頭」の末、「東ノ坊城従二位中納言藤原聡長卿当 五十三歳」の署名がある[4][注釈 1]

文久元年(1861年)11月9日に死去。享年63。

系譜

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  • 父:五条為徳
  • 母:不詳
  • 養父:東坊城尚長
  • 妻:不詳
    • 男子:東坊城夏長
    • 男子:東坊城任長
    • 男子:唐橋在綱

脚注

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注釈

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  1. ^ この額は、羽田八幡宮文庫の主宰者で羽田八幡宮神職羽田野敬雄女婿鈴木孝本(吉田本町の商人)の生母が「京都地下衆垣内大炊少允大江匡雄ノ妹」だった関係からもたらされたものであるという。田崎(1993)p.306

出典

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  1. ^ a b c d e f コトバンク「東坊城 聡長」
  2. ^ 金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、166-170・212-226頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  3. ^ 金炯辰『近世後期の朝廷運営と朝幕関係-関白鷹司政通と学問のネットワーク-』東京大学出版会、2025年、174頁。ISBN 978-4-13-026615-4 
  4. ^ a b 田崎(1993)pp.304-306

参考文献

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外部リンク

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