江南哲夫

日本の書家、銀行家 (1853-1916)

江南 哲夫(えなみ てつお、1853年嘉永6年)[1] - 1916年大正5年)11月21日)は、会津藩士、白虎隊士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等瑞宝章

経歴

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文久元年(1861年)に会津藩の南学館友善社に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校日新館に入る。会津戦争では、数え15歳で白虎隊士(寄合組一番隊)として越後口の防衛戦に出動[2]、戦後は越後高田に謹慎となる。その間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩稲葉正邦公の給費生として同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、鹿児島兵学校、東奥義塾、共慣義塾等を転々とした。[3]

1874年(明治7年)に慶應義塾に入学。卒業後の1877年(明治10年)郵便汽船三菱会社に入り[4]、書記として社長の岩崎弥太郎に随行し神戸・長崎支店に出張、1878年(明治11年)に上海支店勤務。岩崎弥之助の側近として興亜会などに関係した[要出典]1881年(明治14年)農業を志して辞職し、北海道に移住。1884年(明治17年)第二十国立銀行に入り、函館支店支配人を務める。1888年(明治21年)第一銀行に転任して朝鮮へ渡り(仁川支店支配人・京城出張所監理)、1891年(明治24年)辞職して帰国。1897年(明治30年)東京火災保険会社に入社(大阪支店支配人)。1900年(明治33年)南山合資会社を設立。これを売却し、1902年(明治35年)に京釜鉄道に入社し、京城支店長となり重役を代理。1904年(明治37年)9月の速成令のため休職幹事となり、1905年(明治38年)8月免職となる。1906年(明治39年)4月、日露戦争の功により勲六等瑞宝章を受章[5][3]

著作

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  • 北海道開拓論概略(1882年)
  • 當五銭低落管見
  • 朝鮮財政論(慶雲堂、1895年)

脚注

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  1. ^ 『慶応義塾出身名流列伝』には「嘉永六年生」とされているが、江南執筆の「別働白虎隊名譽の軍麾」には、当時数え16・17歳(嘉永5・6年生まれ)で編成された白虎隊に、江南は15歳ながら特に願い出て加わった経緯が記されていることから、山川健次郎井深梶之助高嶺秀夫らと同様に嘉永7年生まれの可能性あり。
  2. ^ 江南生「別働白虎隊名譽の軍麾」『朝鮮公論』1913年5月号所収
  3. ^ a b 『慶応義塾出身名流列伝』
  4. ^ 太田仙一「郵便汽船三菱会社の組織形成:「調役」機能とその要員に着目して」『三菱史料館論集』2016巻17号、三菱経済研究所、2016年
  5. ^ 『官報』1908年6月11日「叙任及辞令」

参考文献

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