深見安博

日本の野球選手 (1919-1972)

深見 安博(ふかみ やすひろ、旧姓・赤石、1919年11月26日 - 1972年4月9日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手外野手)・コーチ監督

深見 安博
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県神戸市
生年月日 (1919-11-26) 1919年11月26日
没年月日 (1972-04-09) 1972年4月9日(52歳没)
身長
体重
173 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1950年
初出場 1950年3月11日
最終出場 1957年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

経歴

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西鉄時代

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福岡県直方市で「明石屋」という旅籠屋を営んでいた赤石家の末子として誕生する[1]。6歳のときに父が急死し、母に女でひとつで育てられた。「明石屋の金太郎」と呼ばれるなど幼少のころよりガキ大将として喧嘩づけの日常を送り、それは直方南尋常小学校に入学しても変わることはなかった[1]。小学校6年生に進級した1931年の3月に、これまでの乱暴行為を見兼ねた母により、長野の母方の叔父に預けられる[2]高島小学校に編入し、そこで野球部に入部したことで初めて野球に触れる。高島小卒業後は松本商業への進学を叔父から勧められたが、これ以上長野に滞在することを拒否したため、神戸の父方の叔父の申し出もあり神戸に移り住む[2]。はじめは第一神港商業を受験するが、本籍地を長野から移さなかったことが理由で、県外人として減点されたため不合格となる[1]。そのため中道高等小学校で1年間の浪人生活を送ったのち、再び神港商業の受験に臨むが失敗し報徳商業に入学した[1]

報徳商業野球部は深見が入学した前年の1932年に創設されたばかりだったため、1年秋からレギュラーの座を掴む。3年夏にはエースで4番を打ち、兵庫県でも名が知られる存在となっていった。なおこの頃神港商から勧誘を受けたが断っている。優勝候補と目された5年夏には加藤正二らの指導を受けるが、県大会2回戦で湯浅芳彰らを擁する滝川中学に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。

報徳商業卒業後は、当時の野球部部長の母校である中央大学に入学。2年春に肩を痛めて野手に転向すると、3年時には主将に選出される。1942年秋季には梶岡忠義から決勝打を放ちチームを優勝に導くとともに、最優秀選手に選出された。

同年に中央大学を卒業後は法学士となり帰郷。その後応召され、太刀洗飛行場に配属される。1年間の訓練を経て、南方に配置され終戦を迎える。パイロットとしては飛行時間350時間を記録している[1]。その後サイゴンで抑留生活を送り、1946年5月に復員。抑留時代には三原脩とも交流経験があった[1]

同年11月に西日本鉄道に入社。それと同時に深見家に婿入りしている。西鉄では中軸として活躍[3]。当時の九州地区大岡虎雄選手兼任監督率いる八幡製鉄荒巻淳を擁する別府星野組、名門・門司鉄道局など強豪揃いで、活況を呈していた[3]1948年5月29日の九州・下関六社会人リーグの八幡-西鉄戦の判定を巡り、大岡が深見のを投げ飛ばし、西鉄側が大岡の暴力を問題視したことで大岡は責任をとり辞任し[4]、八幡は大黒柱を失う[3]。西鉄は7月都市対抗北九州大会で大岡不在の八幡を破り本大会に初出場し、星野組との本大会決勝では深見が決勝点となる逆転打を放ち、優勝の立役者となった[3]。この頃ロビンスからの勧誘があったが断っている[1]

1950年に西鉄が新設したプロチーム・西鉄クリッパースへ入団。1年目の同年から主に4番で活躍し、新人王は毎日に入団した荒巻に譲ったが、打率.279、22本塁打をマーク。

3月16日東急戦(大須)では武末悉昌の代打で保井浩一から3ラン本塁打を放ち、初本塁打を記録[5]。この試合は、深見が打った7回表の攻撃前まで既に16-2とワンサイドゲームで、東急も投手がいないのか4回途中で野手の保井が急遽登板したものの、西鉄は追加点を挙げてゆき7回表には深見の3ランと原田晃の適時打で4点を取り20-2とし、ここから東急も猛反撃をみせたものの21-14で西鉄が大勝[5]。両チーム合計1試合最多得点の試合として現在でも記録として残っている[5]。深見に打たれた保井はこの試合が投手としての唯一の登板であり、唯一の被本塁打でもある[5]

1951年加藤正二を通じて大映からの勧誘があったが西鉄に踏み止まる[1]。しかし好不調の波が激しく、成績は振るわなかった。

東急時代

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1952年の開幕直後に大下弘との交換トレードで、当時西鉄の主力投手であった緒方俊明と共に東急フライヤーズへ移籍。大下が東急との金銭トラブルから大争奪戦へと発展し、開幕後の4月11日に西鉄へのトレードで一件落着したが、その交換要員として井野川利春監督たっての希望で深見が指名された[3]。西鉄では4月10日まで5番で打率.263、2本塁打であったが、東急移籍後は大下の代わりに3番に入り、打率.294、23本塁打と大活躍[3]。同年は25本塁打を放ち、パ・リーグ本塁打王に輝いたが、これは日本プロ野球史上唯一の2球団にまたがる本塁打王であり、未だ深見以外に達成したものは誰一人としていない。MLBでも2球団で本塁打を打ってタイトルを獲得したのは1915年ブラッゴ・ロスホワイトソックスで3本、インディアンスで4本の計7本)だけである。

高橋・南海時代

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その後は1954年高橋ユニオンズ1955年南海ホークスと移籍したが[6]、全盛期の頃のパワーはなく、代打としての出番が多くなった。

10月9日近鉄戦第2試合(大阪)南海は筒井敬三の本塁打などで、近鉄は小玉明利の本塁打などで9回を終了し4-4の延長戦に突入[5]。そして10回裏深見が打席で、リリーフ佐藤良一からサヨナラ2ラン本塁打を放つ[5]。これで南海はシーズン最終試合を勝利で締めくくり通算99勝とし、1950年に松竹が記録した98勝のシーズンチーム最多勝利記録を更新した[5]。この記録も現在まで破られていない[5]。そして、この本塁打が深見の現役最後の本塁打となった。巨人との日本シリーズでは10月22日の第6戦(後楽園)で別所毅彦から本塁打を放っている。

中大の後輩である穴吹義雄の入団の仲介をしたこともあったが[7]1957年限りで現役を引退。

引退後

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引退後は日炭高松監督(1958年 - 1960年)を経て、古巣・西鉄の二軍打撃コーチ(1961年 - 1963年)→一軍打撃コーチ(1964年)→ヘッドコーチ(1965年)、広島の二軍監督(1968年 - 1969年)→一軍打撃コーチ(1970年)を歴任。

日炭高松時代には柿本実龍憲一黒江透修を指導し、1959年にはチームを都市対抗初出場に導く。1回戦では電電東京を相手に柿本がリリーフで好投して初勝利を挙げたが、2回戦は東洋レーヨンを相手に先発の龍が5回まで好投するが、後続が打たれて惜敗[8]

西鉄時代の1965年には中西太選手兼任監督の病気休養により、4月18日から5月11日までの13試合で監督代行を務めた。また報徳商業の後輩である基満男のスカウトも担当。基との結びつきは強く、基の仲人も務めた。

広島時代には1969年オフに南海への移籍が決まり、「広島を出るくらいならやめよう」と思っていた古葉竹識に「他のチームの野球を勉強することはプラスになる」とアドバイスし、古葉が移籍を決めるきっかけを作った[9]。その他、衣笠祥雄山本浩二水谷実雄三村敏之ら若手選手を指導。

1972年4月9日死去。満52歳没。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1950 西鉄 108 466 408 66 114 21 0 22 201 77 12 4 2 -- 53 -- 3 48 9 .279 .366 .493 .859
1951 72 211 188 30 45 8 0 8 77 23 5 6 2 -- 21 -- 0 23 6 .239 .316 .410 .725
1952 12 42 38 5 10 2 0 2 18 6 1 1 0 -- 4 -- 0 8 0 .263 .333 .474 .807
東急 96 412 377 60 111 25 2 23 209 75 11 6 1 -- 33 -- 1 50 7 .294 .353 .554 .907
'52計 108 454 415 65 121 27 2 25 227 81 12 7 1 -- 37 -- 1 58 7 .292 .351 .547 .898
1953 102 356 315 39 63 12 0 19 132 57 2 5 0 -- 40 -- 1 55 10 .200 .292 .419 .711
1954 高橋 90 236 207 25 55 9 2 6 86 27 1 2 0 3 26 -- 0 46 9 .266 .343 .415 .759
1955 南海 111 282 263 25 72 9 1 5 98 40 7 2 2 0 14 0 3 39 10 .274 .318 .373 .690
1956 17 15 13 1 3 3 0 0 6 1 0 0 0 0 2 0 0 5 0 .231 .333 .462 .795
1957 9 9 8 1 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .250 .333 .375 .708
通算:8年 617 2029 1817 252 475 90 5 85 830 306 39 26 7 3 194 0 8 278 51 .261 .335 .457 .792
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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記録

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背番号

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  • 1 (1950年)
  • 5 (1951年 - 1952年途中)
  • 27 (1952年途中 - 1953年)
  • 26 (1954年)
  • 6 (1955年 - 1957年)
  • 70(1961年 - 1965年)
  • 64 (1968年 - 1970年)

脚注

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関連項目

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外部リンク

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